あの鐘の音が聞こえるか。あぁ。そうだ。朝の7時に鳴る鬱陶しいやつだ。え?鳴らない?知るか馬鹿が。
鉛白の部屋に差し込む薄い象牙色の光。春風は小刻みに窓を叩き、綿雲を押し流し、鮮やかに芽吹いた花を微かに揺する。世界がうっすらとぼやけた、パッとしない昼下がり。昼食と休憩時間が終わり、夢から醒め、微睡みからも覚める頃合いだろうか。体と心のアイドリングが済んで、ここから頑張るぞい!と帯を締め直す人もたくさんいると思う。でも、私はこの時間が苦手だ。何かをしないといけないような焦燥感に駆られるから。無意識に今の自分のままではいけない、て警鐘を鳴らしているのかな。これぞ正しく胸騒ぎ!なんてね。ふざけてる暇なんて、一秒もないよね。だから聞こえるんだよね。この恐怖が。この不安が。
午後13時58分。木原南奈佳が退室した3分後の保健室。
「彼方ちゃん。もう出てきても大丈夫だよ~。」
西野先生の合図が出た。ここに隠れるのは今日が初めてではないけれど、1時間近くはいた気がする。ほとんど動かなかったけど、そこそこ暑かったからかなりの疲労感がある。立ち上がるのも億劫で、這いつくばってそれを潜った。
「はぁ、涼しい....。」
カーテンを潜って日陰に入ると、世界が変わったみたいに急に涼しくなった。でもまだ疲労感が抜けなくて、水筒が置いてあるベッドを目指してひんやりとした床を這って前進し始めた時だった。
「彼方ちゃん。女の子がそんな格好しちゃだめでしょ。汚れるし。」
まったくその通りです。ごめんなさい。でも、立つのもだるいし...
「さ、最近流行ってるんですよ。あのー、猫の伸びのポーズ、みたいな....。」
何よ。猫の伸びのポーズって。恥ずかしい。
「そんなわけないでしょ。ごまかしちゃダメ。」
やっぱりバレちゃった。仕方ないけど、もう立つしかなさそう。
「最近流行ってるものと言ったら、学校の怪談界隈でしよ!さしずめ例のあれを練習してたってところかしら。わかるわ。私もあれ大好きだから!」
先生が何を言っているのかわからなかった。流行りに疎いとかそういうレベルじゃない。正直に言うと絶対マイナーな界隈だと思った。
「.....そうなんです。あはは....。」
.....。なんでまた誤魔化したの私!そんな世も末な界隈のことなんて、これっぽちも知らないのに!どうしてこうなった....。
「そうよね~。私もあれに憧れる気持ち、少しわかるわ。カッコイイよね!あれ!」
.西野先生の反応はかなりポジティブだった。学校の怪談界隈なんて言うくらいだし、ホラー系の陰湿な物を想像していたけど、実はインフルエンサーとか配信者の間で流行ってるイケイケなコンテンツ、だったりするのかな?ならこのままでもいいかな。
「最近だとスパイダーのYOSHIKOが人気よね~。あれ。見たんでしょ。ブリッジのやつ。」
スパイダーの、ヨシコ?.知らない。聞いたこともない。それにブリッジって、なんだろう。橋の幽霊とか?でも、ここまで来たからには...。
「あぁ、見ました!あれは、その、すごかったですよね...。」
「そう!あれすごかったよね~。まさか60年以上も放置された廃病院で、あんなパフォーマンスをするなんてね。普通怖くて無理よねー。絶対。」
.....今日何度目のなんのこっちゃです。先生....。それに、学校の怪談じゃないです。もうこのまま行きます。ベッドすぐそこなので。
「廃屋に張り込んで噂の霊の出方を伺うYOSHIKO。一時の油断もできないまま3時間が経過し、これ以上の続行は不可能かと思われたとき!噂の悪霊が出現!その姿は巨大なイノシシのような、おぞましい怪物だった!奇襲を仕掛けてきた巨大イノシシ、もとい悪霊の一撃を得意の四足歩行でさらりと躱し、悪霊を迎撃!TVアニメ版のエ〇ァ初号機を思わせる大迫力だったわね!」
あ、ちゃんと出たんだ。絶対幽霊じゃないけど。でも迎撃って何?戦うの。ヨシコが?.....脅かすとか脅かされるとかじゃないんだ...。すみません。エ〇ァは名前しか知らないし、先生の言ってることがどんどんわからなくなっていく。でも、この話が始まったのは私が這いつくばっているせいなんだ。先生の熱量もすごいし、もう少しだけ、聞いてみようかなぁ...。
「そして、数分間の激闘の末に悪霊は逃亡。YOSHIKOもエ〇ァ形態で懸命に食らいつく。しかし、悪霊の速度はそれを軽々と凌駕し、その姿は遥か彼方....。もう悪霊に追いつけないと誰もが思ったわ。」
なんか、一周回って面白いんじゃないかと思い始めた。結末が気になる。その後はどうやって決着がついたの?スパイダーヨシコと悪霊はどっちが勝ったの?
「けどYOSHIKOには切り札が残っていたの。その名も、ハイスピードブリッジ!!」
ここでブリッジが出てくるのね。Bridge.橋かな?高速の橋、ゲートブリッジとか?う~ん、ちょっと違う気もするけど。あ!倒立の振り下ろした踵で攻撃するとか?橋が降りる時みたいに.....。なわけないよね~。
「瞬間、YOSHIKOは全身を翻し、ブリッジの四足歩行形態に移行!幾度の激戦を経て人知を超えたYOSHIKOが生み出した最強形態!」
ブリッジって、そっちかぁ。それは、わからなかったなぁ。
「YOSHIKOは関節の脱臼の痛みをもろともせずに、四肢をフルパワーで高速回転させる。地面をえぐりながら獲物を追う姿はまさに、かの祟り神が如く!あっという間に悪霊は追いつかれ、為す術もなく悪霊は轢き殺された。今思えば、あぁ、なんとあっけないものか。」
死んじゃったかぁ。イノシ...悪霊。一仕事終えて気持ち良くなったのか、先生は汗を拭う仕草をしていた。汗なんて一滴も出ていないのに。
「いやぁ、とんでもない物を見ちゃったよね。うん。」
色々言いたいことはあるし、途中から創作物の類であることは明白だったけれど、疾走感のあるわけわからない雰囲気が結構楽しかった。だから、先生の厚意と熱量を裏切りたくない。今更だけどちゃんと謝ろう。ごめんなさい。学校の怪談界隈もスパイダーヨシコのことも知りませんって。けど、とりあえず水飲ませて。水。
水筒を右手で握る。左手で蓋を-450°くらい回して、外した蓋をサイドテーブルに乗せる。左手を腰に当て、足を肩幅くらい開く。LEDを反射する麦茶の液面を一瞥し、右腕をグイっ!と引き上げ、風呂上がりの一杯を飲み干すように麦茶を喉に流し込んだ。喉から全身に冷気が巡り、頭の中がすっきりする。待ちわびた水分だったことと、気持ちを切り替えることが目的だったこともあって全身にエネルギーが充填されたように感じる。これならいける!
「せ、先生!」
正面から先生の目を見つめる。ここでひるんだら負けだ。逃げちゃだめだ!
「どうしたの?」
「あの、わたし、学校の怪談界隈とか、スパイダーヨシコさんとか、本当は何も知りません。這いつくばってたのも床が冷たくて気持ちよかっただけです!噓ついてごめんなさい!」
先生は目をパチパチさせていた。何を言っとるんやこいつは?みたいな顔だった。
「あ、あぁ。そうだったんだ。ごめんね。つき合わせちゃって。」
先生は少し気まずい雰囲気を醸し出している。言葉は優しいけれど、きっと本心は....。そう考えると途端に怖くなる。このまま先生とギクシャクして、ここに居られなくなったら...。
「けど、全然気にすることはないよ。だって、全部噓だし♪」
「.....へ?」
私は、どうやら騙されたみたいです。
「ごめんね。いやまさか。あんな作り話を信じるなんて思わなくて。」
ハハハ、と先生は乾いた笑みを浮かべている。さっきの話は全て作り話で、学校の怪談界隈もスパイダーヨシコも実在していないらしい。作り話なのは分かっていたのに。どうして界隈とヨシコのことは信じちゃったのかな。はぁ。わかりやすい噓で釣られちゃった。ミスディレクションってやつでしょ。これ。
「だって。あんなに流暢に喋ってたら、そんな界隈があるんだ~。物好きな人がいるんだな~。って思っちゃいますよ。誰だって。」
先生は私の言い訳をきいて楽しげな笑みを浮かべた。さっきは苦笑いだったのに...。
「それは、ありがとう。嬉しいね。養護教諭とはいえ、私も教師の端くれ。お喋りはちょっと得意なのさ!えっへん!」
えっへん!て。それに、可愛いどや顔ですね。うん。すごく可愛い。羨ましいです。楽しそうで。
「詐欺師の教養でも学んできたんですか?ご立派な大学で。何年も。」
おもむろに毒を吐いてしまった。詐欺師という言葉は良くなかったかもしれない。
「彼方ちゃん、言葉遣いが良くないです。それに普通に怖い。あと騙そうと思ってたわけじゃないのよ。
ただ、あんな格好したらだめよって言おうと思っただけなのよ。」
「はい。すみません。でも、それなら最初からそう言ってほしかったです。」
先生のいじわるぅ。ぶーぶー。
「私だって最初はそうしようと思ってたのよ。でも、彼方ちゃんが猫の伸びのポーズが~とか、変に誤魔化すから。ついね。」
あぁ、そういえば私のせいだった。
「あれは!その、つい...。ていうか忘れてください!」
「.....そう。それならお互い様ね。私もつい、だからね。」
「...はーい。」
無視された。忘れてくださいって言ったの、無視された!
「それと。人前であんな格好しないこと。髪が長い人がハイハイしたら完全に貞子だから。」
「はーい。」
それは、確かにそうかも。もしかして、学校の怪談界隈の原因って、私?
「わかればよろしい。それと...。」
先生はマグカップに冷蔵庫から取り出したアイスコーヒーを注いでいる。下を見ているからだろうか。少し険しい表情に見えた。
「いつまで隠れてやり過ごすの。」
これまで何度も同じ質問をしてきてた。毎度適当に流されて、どうにもならない感じに終わるのだけれど。本当は隠れる前に言うべきよね。それに今日は茶番が入っちゃったから、進展はなさそうね。完全に自業自得なのだけれど。
「まぁ、えと、時期じゃないと言いますか。シーズンオフと言いますか。あれ、クーリングオフでしたっけ...。なんて。」
平静を装っているつもりだろうけど、声の節々が震えている。それに、らしくない。
「そう。でも南奈佳ちゃんもずっと来てくれてるじゃない。前みたいに会ってあげたら?喜ぶよ。」
「それは、その。.....。」
彼女は俯いて、視線が泳いでいた。これ以上は無理かな。
「そう。まぁ、あの子もわかってると思うから。そしっかり準備すること。いい?」
「.....はい。」
彼女の反応を見れば、私の言葉が届いていないことくらいはわかる。でも、私はただ見ているだけで何もしていない。どちらの味方もしない。彼女らの問題は、彼女達自身で.....。いや、違うな。めんどくさいんだな。私。本気で正論をぶつけることも、腫物のように扱うこともできないんだ。そうすると、私が苦しくなるから。でも彼女達をサポートしたい気持ちは本当だ。だから出来る範囲でやっていこう。
「ま、気長にね。あなたがここに居たければ、いつまでも居ていいから。」
「.....ほんとですか?じゃぁ、卒業まで居座っちゃおうかな~。なんて。」
彼女は、えへへ、と微笑んだ。清楚で、無垢で。容易く壊れてしまう。儚いガラスのような笑顔だった。
「それはさすがにダメです。」
「え~。噓つき。」
「だったら早く元気になりなさい。」
彼女は何も言わなかった。いや、言っていたのかもしれない。私には聞こえない声で。声にならないところでは、喉が裂けるくらい大声で叫んでいたのかもしれない。