第7話 カルマ・テンキョンの戦い
トゥルバイフ直属の青海ホショト部、オイラト各部の首長家の軍勢、アムド・カムのチベット諸侯などからなる大軍は、1641年に中央チベットに攻め込み、カルマテンキョンの本拠地サムドゥプツェ宮殿に攻めかかった。カルマ・テンキョンは士心をよくつかんでおり、一挙にこれを抜くことは叶わず、激しい攻囲戦が展開されることになる。
「デシー(=カルマテンキョン)様!包囲軍からまた使者が参りました。いかがいたしましょうか?」
「いや、どうせ向こうの要求は変わらぬだろうし、当方の返答にも変更はない。時間の無駄だ。追い返せ!」
「このたびの使者は、ナンチェンの摂政のカルマ・ラプテン猊下です」
「なに!・・・おもしろい。彼には言ってやりたいこともあるでな。よし!通せ!」
しばらくして通されてきたカルマ・ラプテン。チベット高原を西北西から東南東方向にまっぷたつに縦断するタンラ山脈の北麓にあるナンチェン領の摂政である。カルマ派寺院のナンチェン寺の住職で、兄のナンチェン王の死により、住職と兼職で摂政となり、ナンチェンの政治・宗教の全権を握ることになった人物である。
「カルマ・テンキョン殿、お久しゅうございます」
「一別以来ですな。それにしても、カルマ派を信奉なさるナンチェン領の摂政でありながら、モンゴル人に与して当城の攻囲軍に参加なさるとは、どういうことでござる?」
「おやおや。カルマ・テンキョン殿ともあろうお方が、この戦をモンゴルとチベットの親「ゲルク派」派勢力と親「カルマ派」派勢力の決戦のようにおっしゃるとは……」
「違いましたかな?」
「もちろんです。
まず、わたくし自身のことを申しますと、例のペリ王。彼が仏教の全宗派を弾圧して領内の全僧侶を逮捕投獄したのを、何とか助けだそうと、彼と必死の交渉をしておりましたときに、トゥルバイフが進軍してきました。彼の呼びかけは『ペリ王に苦しめられている全ての仏教徒よ、たちあがれ!』というものでしたから、とうぜん私も喜んで彼のペリ攻めに参加したわけです。トゥルバイフ殿とダライラマ殿からは、所領の安堵と加増、ナンチェン寺住職の地位の確認を約束されました。」
「所領の安堵はともかく、他宗のダライラマ殿から住職の地位の確認をうけるとは?ゲルク派に改宗でも強いられでもしたのですかな?」
領主の地位や住職の地位のために信仰を曲げるようなら、思いっきり軽蔑してやろうと眼光するどくにらみつけるカルマ・テンキョンに対し、カルマ・ラプテンはかぶりをふって応えた。
「いや、別に改宗を強要されてはおりません」
「ほう、改宗は求めずに、住職の地位の認定のみ、ダライラマ殿から受け直せと?」
「そのようです。」
「ふぅむ。妙ですな。それに、たしかゲルク派のトップはガンデン寺の座主で、ダライラマではなかったはず。」
「ゲルク派の内部事情はよくわからぬのですが、トゥルバイフ殿とソナムチュンペルは、ゲルク派という宗派を他の諸宗派の上におく、という形ではなく、ダライラマという化身ラマ(活仏)を、ゲルク派を含む諸宗派の上に超然と君臨させて、仏教界における、宗派の枠を越えた、宗教界の最高権威に推し立てようと考えているようです。」
ニャクパ政権は、宗教界を統一して序列化しようという発想はもたなかったので、カルマテンキョンにとっては新鮮な驚きであった。さらにトゥルバイフとソナムチュンペルは、世俗上の権限の緬でもダライラマを頂点に据えようと考えているのであるが、カルマテンキョンは、その内容を直接知ることなく逝く。
「ダライラマ殿からの認定は『ナンチェンの王族カルマ・ラプテンを、ナンチェンにおける宗教の長に任ずる』というものでした。すでにカルマ派管長のギャルワ・カルマパ猊下からいただいていた認証をいったん返上せよ、と求められたりすることもなく、また教義や儀式の面で口出ししてきそうな様子もないので、あえて逆らわず、ありがたく受けることにしました。」
「う〜む。」
「いま私がナンチェン兵を率いてあなたを攻めているのも、一言でいうと、生き残るためですね。カルマ派のわたしたちとか、サキャ派のデルゲとか、ゲルク派の檀家でない領主で、所領の安堵とか加増を約束された連中はたくさんいます。」
「小領主の悲しさですな。中央チベットを掌握していた私ですら本拠地のサムドゥプツェ要塞ひとつにおしつめられてしまうほどの勢いなんですから、貴殿のような方が抵抗を断念されたとしても、責めるつもりはありませんよ。それで、彼らはギャルワ・カルマパ猊下をどう扱うと?」
「トゥルバイフ殿とダライラマ殿から、宗派としてカルマ派を弾圧しないという確約も得ました。ですので、もうしわけないのですが、今回のサムドゥプツェ攻めにはよろこんで参加しています。」
「なるほど。」
「それに、いま、ギャルワ・カルマパ猊下はジャン・サータム王のもとに避難しておられるので、彼らの手が伸びることはありません。」
ジャン・サータム王とは、カム地方の南部半分を支配する大領主で、カルマ派の大檀越である。ジャン王は、中央チベットから脱出してきたギャルワ・カルマパ十世チュインドルジェを保護し、トゥルバイフの服属要求を突っぱねて抵抗する姿勢をみせるが、それまでジャン王の支配に服していた非カルマ派信者の諸侯たちはトゥルバイフからの誘いを受けて浮き足だち、ジャン王の勢力圏は次第に切り崩されていく。トゥルバイフの孫で第三代ダライ・ハンの治世にいたり、ついにジャン・サータム王はチベット・ハンの支配下に組み込まれ、ギャルワ・カルマパ十世チュインドルジェはラサに赴いて、文字通りダライラマに頭をさげ、ようやく大本山のツルプ寺に帰還するに至るが、それは後の話。
「それはともかくとして、カルマ・テンキョン殿がゲルク派に対して妖しげな弾圧を激しく加えている!という話をいろいろと聞くのですが、実際のところは、どうなってるんでしょう?」
「ああ、あれはぜーんぶ、ダライラマ殿のシェゴのソナムチュンペルあたりが流してるデマですな。あんまり稚拙なので、いちいち反論せずに放ってあります。」
「まるっきりデマですかな?あなたがゲルク派滅亡のためペリ王と同盟した……というウワサがあるのですが?」
「はて、なにをほのめかしておられるのかな?わがカルマ派もふくめて仏教の全宗派を弾圧したペリ王なんぞと同盟などとは決してありえませぬ。」
「5年前、逮捕投獄された仏教の僧侶を釈放させるために私がペリ王と交渉していた際、カルマ・テンキョン殿には「援軍をだしていただくと大変ありがたいのだがいかがでしょう?」とお願いした覚えがあるのですが、ご返事もいただけませんでしたな?」
「ちょうどあの時は、アルスラーン殿が一万騎を率いて、ダム草原まで来てましたろう?あのタイジどの、まだ成立してもいないダライラマ政権を滅ぼす!とか、建築もはじまっていないポタラ宮殿を攻略してやる!とか、存在もしていないトゥルバイフの娘を相思相愛の恋人だ!とか、途中からいうことがおかしくなって、最後はいきなりダライラマ殿に弟子入りしましたろう?「ゲルク派を名前すら残さぬまでに徹底的に滅ぼす!」と豪語してたのが、いきなりあれですからな。ビックリ仰天しました。あの人は生まれた時からカルマ派の信者だったはずですが、彼があのあと一万騎をどう動かすのかまったく読めなくなって、動くに動けませんでした。」
「そういう事情でしたか……。あの時は、あなたもアルスラーン軍によるラサ攻めをやめさせようとなさったとうかがってますぞ。」
「そのとおり。ラサも含む中央チベットは、われ等の分国ですからな。ありもしないダライラマ政権の打倒を掲げて、ありもしないポタラ宮殿を包囲攻撃しようという方々には、たとえ同じ宗派の信者とはいえ、お引き取りいただこうというのが、チベットの君主として当然の姿勢と考えたまででござる」
「トゥルナン寺のチョウォ・リンポチェ像をヤルンツァンポ河へ放り込もう、というのは?」
「ペリ王が提案して、私が賛成したそうですが、仏教の信者たる私としてはとんでもない話です。ほんとにソナムチュンペルはいいたい放題ですな……」
「ゲルク派の大僧院のタシルンポ寺にむけて、丘の上から石材や木材を投げ落としたのは?」
「それもぜーんぶ、ソナムチュンペルのデマですろう。そのネタは、私の父もいわれたことがあります。ウー地方の親ゲルク派勢力が、モンゴル人に助けを仰ぐ時の、定番のネタですろう。だいだい、タシルンポ寺はわが本拠のサムドゥプツェ宮殿のすぐ近くにありますからな。本気で弾圧する気なら、寺ごと跡形もなく消滅させるくらいできますよ。そんな生ぬるい嫌がらせなんかしません!」
「いくつかの寺をゲルク派からカルマ派に改宗させた!というのは?」
「それはホントです。ウー地方の諸侯やゲルク派幹部のなかには、モンゴル人だった先代ダライラマの時以来、モンゴル勢力をひきいれてしょっちゅう騒ぎを起こすのがおりましたからな。そういう連中とゆかりのある寺の境内と建物を没収して賠償のかわりにする、というのは父の代にも私の代にも、なんどかやってます。」
「それは、あくまでも「ゲルク派の弾圧」ではない?」
「そうです。私がカルマ派の檀家として、カルマ派を特別に重視に扱うのは当然としても、中央チベットの主として、分国内の各派の全寺院に対しては、それなりに鄭重に扱ってきたという自負があります。タシルンポ寺の比丘たちにきいてごらんなさい。彼らはみんな、私が定期的に寄進してきた茶をのみ、バターを食べ、ゲを受け取っているはず。」
カルマ・テンキョンは、ゲルク派を妖しく弾圧した悪いヤツ!と非難され、それを口実に包囲攻撃をうけていることが、心底納得いかないようであった。
「トゥルバイフにしても、彼の妃はタシルンポ寺の管長のパンチェンラマ殿に長年あいたくて、途中まできたけど、病気で倒れた!と頼んできたから、護衛をつけてパンチェンラマ殿を鄭重に送り出してやったのに。」
1640年、トゥルバイフはペリ王を倒したたのち、軍勢をダム草原に集結させ、単身「ハルハ・オイラト法典」制定のためハルハに赴いたのち、トンボがえりでダム草原に戻ってきた。このあとトゥルバイフが軍勢を青海草原に戻すのか、カルマテンキョンを攻めにいくのか、全チベットが固唾をのんで見守っていたその時、トゥルバイフは、病気で倒れた自分の妃の為と称してカルマテンキョンに使者を送り、サムドゥプツェにいるパンチェンラマ2世をダム草原までよこすよう依頼したのである。
このときすでにトゥルバイフはソナムチュンペルと相談のうえ、ニャクパ政権を打倒することを決定していた。トゥルバイフがカルマテンキョンをせめる時、彼の本拠地サムドゥプツェにパンチェンラマ2世がいては、どのように巻き添えにされるかわからない。妃の病気を口実にパンチェンラマ2世を呼び出したのは、こころおきなくカルマテンキョンを攻めるための偽りであった。一方のカルマテンキョンが、トゥルバイフからの依頼を真実だと思いこんでいたのか、それとも偽りの可能性を考えていたのか、いまとなっては知るすべはない。いずれにせよ、彼は全ての宗派を保護するチベットの君主としての矜持から、パンチェンラマに護衛をつけて、安全無事にトゥルバイフのもとにおくりとどけたのである。
そういうわけで、ソナムチュンペルが流している「ゲルク派を妖しく弾圧するカルマ・テンキョンがいかに悪辣な君主か」というプロパガンダに対し、カルマ・テンキョンは激しく怒りをつのらせるのであった。
カルマ・ラプテンは続けた。
「私が今回うかがいましたのは、降伏・開城して、ニャク氏の家名を存続させることをおすすめするためです。
もはや、私どもナンチェンを初めとして、外様の諸侯はことごとくトゥルバイフ殿に屈しました。ウー地方の若干の砦でご直参がまだ抵抗を続けておられるのをのぞき、このサムドゥプツェ宮殿の城壁の外側は、チベットの全土があまねくトゥルバイフ殿の手に帰しております。
かつてご先代のデシー殿がネゥドン・コンマ(パクモドゥパ政権)を制圧なさった時、ご先代はラン氏のご一族に本領ツェタンを安堵なさったですろう?トゥルバイフ殿も、ご先代にならい、ニャク氏にはご本領のサムドゥプツェとその周囲を安堵されるご意向です。
また、トゥルバイフ殿、ダライラマ殿のお二方とソナムチュンペルからも、カルマ派を宗派として弾圧しない、という点について確約をえております。」
「お話はまことにごもっともで、貴僧のお骨折りも涙がでるほどありがたいことですが、しかしながら私や父が、あんな妖しげな「ゲルク派弾圧」の責任を問われることは、絶対にうけいれられませんぞ!
いまここで屈服しては、ソナムチュンペルのデマが真実として定着しかねません。したがって、いまこの状態で降伏・開城するなど論外ですな」
非常に深く納得したカルマ・ラプテンは去っていき、トゥルバイフとソナムチュンペルは、激しい攻城戦をそれから一年ちかくも続ける羽目になったのである。
カルマ・テンキョンは兵糧と矢玉がつきて降伏した後、ラサ近郊のネゥ砦に収監された。
数ヶ月後、ニャク氏の復権をめざす一斉蜂起が勃発した。各地の蜂起自体は容易に鎮圧できるものであったが、トゥルバイフとソナムチュンペルは、カルマ・テンキョンがいるかぎり、いつまでも反抗を誘発しつづけると判断、カルマ・テンキョンを処刑してしまった。
1747年にかかれた『パクサムジョンサン』という書物には、当初トゥルバイフはカルマ・テンキョンを生かしておくつもりだったが、「丘の上からタシルンポにむけて木石をゴロゴロ」というカルマテンキョンの悪行を、戦いがおわったあとで聞いて激怒し、気が変わってカルマテンキョンを処刑することにしたとあるが、信じがたい。なぜならカルマテンキョンのこの悪行が事実とした場合、グシハンは戦闘がおわってからようやくカルマテンキョンの所行をしるという、情報収集能力の低い無能者のなってしまうからである。
カルマテンキョンの「悪行」をもっとも詳しく記しているのは例の「大海の書」で、この物語では、この書に記載されているカルマ・テンキョンのゲルク派弾圧の事績をすべて「ソナムチュンペルあたりのデマ」ということにしてストーリーを進めた。「トゥルバイフのチベット平定」の当事者の一人ダライラマ五世は筆まめな人で、とくに彼の自伝は年月日順に詳細にできごとを記載した大部なものであるが、「大海の書」に見えるようなカルマテンキョンの「悪行」についてはほとんど記述がない。
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ツォクト・ホンタイジを倒してオイラト・ハーンとなったトゥルバイフは青海草原に本拠地を構えたのち、1639-40年にかけてカム地方を席巻、41年より中央チベットに侵攻、1642年にカルマ・テンキョンの本拠地サムドゥプツェを陥落させたのち、チベットのハーンに即位したことのあらましを前回で紹介した。
ダライラマ五世がトゥルバイフのために執筆したチベット史の概説『ションヌ・ガートン』では、トゥルバイフに先立つ前政権がパクモドゥパ政権とされている。この政権は1352年、サキャ派にかわって中央チベットの覇者となった政権で、100年もたたぬうちに外戚リンプン一族にいいように操られ、形骸化してしまった。カルマテンキョンを最後とするニャク氏の政権は16世紀後半、突然歴史の舞台にあらわれたナゾの勢力である。
ニャク氏政権の初代カルマ・ツェプテンドルジは、ダライラマ五世の『ションヌ・ガートン』では「リンプン氏の1大臣」とある。『パクサム・ジョンサン』ではリンプン一族とされている。ガンデンポタンで大蔵大臣をつとめたシャカッパ=ワンジュンクデデンが亡命後の1967年に出版した『チベット政治史』によれば、「リンプン氏の一召使い」だったとされる。
1565年、カルマ・ツェプテンドルジェとカルマ・テンスン(ペマカルボ)の父子は リンプン氏の本拠地だったサムドゥプツェを奪取、中央チベット西部のツァン地方に自前の政権を立てる。ニャク氏はさらに東方(ウー地方)にむけて勢力を延ばそうとしたが、1575年に、いったん矛をおさめた。
ニャク氏の東方拡大は、1607年に即位した第二代カルマ・プンツォーナムギャルにより再開される。かれのウー地方への出兵は1611年から1613年ごろで、このときパクモドゥパは屈服し、「中央チベットの覇者」の名義を失ったようである(1地方勢力としては存続)。
1618年、アルタンによって青海草原に配置されたホロチの勢力が南下してプンツォーナムギャルと決戦、どっちが勝ったのやら負けたのやらよく分からないのであるが、カルマ派に改宗させられていたウー地方のゲルク派寺院のいくつかがゲルク派に復帰する一方、カルマ・プンツォーナムギャルは、当時14才のカルマ派の管長ギャルワ・カルマパ=チュインドルジェより「チベットの王」たるべき「ルン」を受け、ニャク氏政権による中央チベットの覇権が確立されたようである。
ニャク氏政権の最後の王カルマテンキョンは第3代目。1621年、15才で即位。無能でもボンクラでもなく、それなりに有能であり、よく人心を得ていたようである。トゥルバイフによる中央チベット侵攻に対し、外様勢力があっけなく鞍替えしたのは当然としても、ニャク氏譜代の連中は、ウー地方でも、本拠地のツァン地方でも激しく戦いつづけ、トゥルバイフによるサムドゥプツェの攻囲戦はこれからさらに1年ちかくもかかった。最後はカルマテンキョンが降伏・開城を決断してはじめて抵抗をやめたのである。カルマテンキョンが士心を得ていた証であろう。
モンゴル人のツォクト、チベット人のカルマテンキョンと、モンゴル・チベットにおけるカルマ派の2大施主がトゥルバイフによって滅ぼされたことにより、モンゴルとチベットにおけるゲルク派の覇権が確立され、現代にいたるのである。
17世紀中葉の歴史史料としておおいに重宝されている文献として、この物語でも何度か言及している『大海の書』という本があります。この本ができたのは1865年で、日本では幕末もいいところ。内容面でもなんだか妖しげな記述がたくさんある本ですが、20世紀の間は、この本が17世紀のチベット史研究の重要な史料のひとつとして使用されておりました。しかし最近、中国のほうで、200年以上すぎたダイチン国の公文書をどんどん公開したり、重要なものは景印出版したりしはじめて、この本の資料的価値はあるていど下がってきました。しかしアムド地方にどんな寺々がそんざいし、どんな人々が指導にあたってきたか、を知る上で、他の文献に見られない詳細な記述があり、これからも貴重な情報源としての生命は失われないでしょう。
トゥルバイフがチベットを征服し、チベット=ハンに即位したころダライラマであった第五世ロサンギャムツォはたいへん筆まめなひとで、大部の著作を残しています。彼の著作の分析はまだ部分的にしか行われておらず、これからもこの時期のチベット史で新発見がいくつもなされるでしょう。かれは自身を含む第三世から第五世までの歴代ダライラマの伝記を著しており、同時代史料として、また当事者自身の記録として、非常に貴重な情報源です。この物語でも、おおいに重宝してゆく予定です。
//ナンチェン領の摂政猊下の名前について、中国語の資料にもとづいて「カルマ・ラデ」と表記しておりましたが、チベット語資料にもとづいて「カルマ・ラプテン」と修正しました。(2010.03.14記)
カルマ・ラプテンによる「開城のすすめ」を増補(2010.05.03)