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第5話 トゥルバイフ、カルマテンキョンを倒してチベットを統一!

ハルハ・オイラト同盟の成立により、ハルハはダイチン国と強気の交渉が可能になった。

○ハルハ・オイラト同盟は、南モンゴルのノヨン達に対するダイチン国の支配と、ダイチン国の王が「大ハーン」の地位を継いだことを認める。

○ハルハ・オイラト同盟と、ダイチン国は互いの国境をまもり、友好使節団を送り合って仲良く交際する。

ことが取り決められた。


ハルハに対する軍備が不用となったダイチン国は、全力をあげてダイミン征伐に乗り出していく(ちなみに、ダイミン国とは当時中国を支配していた王朝で、モンゴル帝国のウハガトゥ・ハン陛下を当時の首都・ハーンバリークから追い出した赤頭巾軍団の将軍のひとりが立てた王国である)。


一方、ハルハとの同盟が成立して東方が安定したオイラト本国では、副王(ホンタイジ)を主導とする留守体制(←じつはトゥルバイフは戻る気がないのであるが)が固まりつつあるった。トゥルバイフ自身は、前々回でものべたように、元来兄に属して一時的に預かっていた連中をすべてオイラト本国に戻す一方、自分に所属する連中を全部青海草原に呼び寄せた。そして幼いオチルトゥにあてて、ことあるごとに「自分が持っているオイラト・ハーンの地位も称号も、一時的にお預かりしているだけ。体と心を鍛え、父君(トゥルバイフにとっては兄)に恥ずかしくない君主をめざしなさい」という手紙を送って安心させた。


こうして国際環境も、オイラト国内も安定したため、トゥルバイフはこころおきなくチベット征服の最後の仕上げに乗り出したのであった。まず軍勢をあつめるのにトゥルバイフがまず呼びかけたのは、オイラト各部の首長たち。トゥルバイフはオイラト・ハーンであり、オイラト本国のノヨンたちから征服の成果を独り占めするのでは?と文句をつけられぬためにも、当然の政治的配慮である。オイラト4部のすべてから、首長家の傍系王子に率いられた軍勢が参集してきた。トゥルバイフの庶腹の兄弟たちも来た。征服したばかりのアムド地方やカム地方北部のチベット人諸侯からの出兵もむろんある。


こうして、西暦でいうと1641年、ゲルク派を弾圧するカルマ派勢力の首魁カルマテンキョンを成敗するため、トゥルバイフの軍勢はいよいよ出撃したのである。



「もぅし、ハーン陛下?」

チベット諸侯軍の指揮官のひとりがトゥルバイフに話かけてきた。

「なんでござるか、カルマ・ラプテン猊下。」

「何行か前の地の文に、''ゲルク派を弾圧するカルマ派勢力''とありますが、去年やっつけたペリ王との交渉で、拙僧は、陛下のゲルク派もふくめ、全宗派の僧侶のためにかなり頑張ったと自負しておるのですが。」

「その話はうかがってござる。この一件が済んだら、篤く報いさせていただくつもりでござる。」

「昨年のペリ王攻めに参ったおりには、われらの所領を安堵し、ナンチェン王としての認証と、ナンチェン寺の住職としての認証を合わせておこなって頂けるとおっしゃられましたな?」

「はい。そのとおり。今回の戦でわが陣営に参集してくださった諸侯・諸賢に対しては、ラサで盛大な認証式をおこない、領主諸侯に対してはそれがしから、寺院や宗派を率いる方々に対してはダライラマ五世猊下から、諸氏がもっておられる地位や領地を改めて認証させていただく予定ですぞ?」

「拙僧もカルマ派勢力のはしくれなんですが?」

どうやら、''カルマ派勢力が一丸となってゲルク派を弾圧''なんてしていない!カルマ派を宗派として弾圧するのか?といいたいようであった。

「この遠征、まさかカルマ派の法主であられるギャルワカルマパ十世チュインドルジェ猊下が攻撃対象になったりしないでしょうな?拙僧の大切な師匠であられるので、そういうことでしたらこの軍勢への参加をとりやめて、むしろハーン殿にお手向かいしなければならなくなります……。」

「とんでもござらん。それがしも仏教信者。すぐれた宗教家の方を、他宗だというだけで攻撃しようなどという考えは毛頭ござらん。ゲルク派に仇をなしたカルマテンキョンのみが標的でござる。」

「カルマテンキョン殿も、ほんとに「ゲルク派に仇なした」んでしょうかの?伝えられる話をうかがうと、カルマテンキョン殿がやるにしては、弾圧っぷりがあまりにしみったれてる気が……。」

「それがしの没後200年以上もたってから書かれた本に書いてあることは、よくわかりもうさぬ。」


自分が死んだあとに書かれた本のことなんか、誰だってわかりません。この迷惑な本とは、19世紀になってからかかれた「大海の書」といい、歴史学者が研究材料につかったりする実在の書物である。


とにかく、「大海の書」によれば、ゲルク派に対して怪しげな弾圧を激しく加えたとされるカルマテンキョンの命運はついに、ここにきわまったのである。カルマ派の領主まで参加して雪だるま式にふくれあがったトゥルバイフの軍勢は破竹の勢いで中央チベットを席巻、カルマテンキョンの主城サムドゥプツェを包囲した。


一年の籠城ののち、カルマテンキョンはサムドゥプツェを開城して降伏、トゥルバイフはついにアムド・カム・ウーツァンのチベット3地方を手中にした。


トゥルバイフはオイラト軍に従軍してきた配下のチベット諸侯軍と、いままでカルマテンキョンにしたがってきた諸侯を、開城したばかりのサムトゥプツェ宮殿にあつめ、「チベットのハン」への即位式をにぎにぎしく行った。


チベット諸侯たちは傲慢な顔をうつむけてトゥルバイフの即位式を見守り、トゥルバイフは「法令の白い傘を有頂天にいたるまでかざし、転じた」のである。


ときにチベット歴の水の馬の年の三月十五日(1642年)であった。


トゥルバイフはカルマテンキョンの旧領をそのままダライラマ五世に献上することにし、歴代ダライラマのもとで資産管理とか金勘定などのヨゴレ仕事をつとめるチャンゾーパ職という役職があるのだが、その役職についていたソナムチュンペルという人物にカルマテンキョンの「デシー」位を継承させた。ダライラマ五世の伝記とか、その他のチベットの歴史書に「グシハンがダライラマ五世に''チベット十三万戸''を贈った」とでているのは、このできごとを指す。


トゥルバイフは、自身のチベット・ハン位とほぼ同格の地位としてデシー位をならべ、自身とソナムチュンペルが二人ならんでダライラマ五世ロサンギャムツォを推戴する、という体制を構築した。


この体制は、チベットの大部分を統合した政権としては、古代の吐蕃王朝(7世紀-842)以来ひさびさのものであり、ダイチン国のアムフラン・ハーンの息子(雍正帝)によって1723-24年に転覆されるまでつづいた。

ナンチェン領の摂政猊下の名前について、中国語の資料にもとづいて「カルマ・ラデ」と表記しておりましたが、チベット語資料にもとづいて「カルマ・ラプテン」と修正しました。(2010.03.14記)

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