第4話 カルマテンキョン王による怪しげなゲルク派弾圧にトゥルバイフは怒りを燃やす!
さて、チベットにおいてゲルク派とならび、あるはゲルク派以上に有力な宗派として、カルマ派があった。中央チベットを支配するニャク氏の政権は、そのカルマ派の有力な檀家であった。当代のデシー・カルマテンキョンが1621年に即位したときには、カルマ派の管長から「ハッタイ粉を主食とするチベット人すべての王となれ」というルン(宗教者が授ける特別の言葉)を授かっている。
さて、このカルマテンキョンは、ゲルク派に対して激しい弾圧を加えた。
ニャク氏政権の首都サムドゥプツェには、ゲルク派の大僧院・タシルンポ寺がとある丘の麓にたっていた。カルマテンキョンは丘の上に「タシ・スルノン」というカルマ派寺院を建立することにし、作業員は、丘の上に運び上げる石材や木材の一部をわざと麓にむかって投げ落とし、タシルンポ寺の建物を壊したり、僧侶にケガをさせたりした。
そのほかにも、中小のゲルク派寺院をカルマ派に改宗させたり、ラサ三大寺(セラ寺、デプン寺、ガンデン寺などラサにある大僧院)所属の僧侶のうち、「道に外れた者たち」を僧院から追放するよう強要した。
カルマテンキョンはさらに、ツォクト・ホンタイジや、仏教の全宗派を弾圧するペリ王と同盟し、「トルゥナン寺のチョオ・リンポチェ像を河に投げ込んでしまおう」と陰謀を企んだという。
この「弾圧」で奇妙なのは、親カルマ派政権の首都にゲルク派の大僧院がで〜んと存在して活動しつづけていること、「弾圧」も、弾圧というよりは、なんだかセコい、イヤガラセみたいにみえる点である。
カルマテンキョンは中央チベットの覇者なんだから、反ゲルク派勢力としてゲルク派を弾圧するのであれば、タシルンポ寺に活動停止を命令したり、境内の明け渡しを要求したり、僧院を包囲して武力攻撃したり、タシルンポ所属の僧侶を大量に逮捕・投獄・追放したりとか、もっと覇者にふさわしい弾圧を、堂々とできそうなものである、とオダノブナガやトヨトミヒデヨシを知っている筆者としてはつい思ってしまう。
それに、熱心な仏教信者であるカルマテンキョンが、チベット全宗派の共通の財産であるチョオ・リンポチェ像の破壊をもくろむというのもまったく腑におちないし、仏教の全宗派を弾圧するというペリ王と組むというのもなお不可解である。
しかしまあ、上述の、イヤガラセみたいなセコい弾圧や、ペリ王との同盟、チョウォ・リンポチェ像を河にほおりこんですててしまおうか、という相談は、トゥルバイフによるチベット制覇のあとに書かれたゲルク派の史書に、カルマテンキョンの悪行として、はっきりと書かれているで、筆者にはどうしようもないことである。
この物語では、とりあえず、反ゲルク派勢力たちが以上のような怪しげな弾圧を激しく加えたので、トゥルバイフはこれに激しく怒りを燃やし、チベット遠征に乗り出した、ということにする。
チベットの各地にいる反ゲルク派勢力のなかで最初にトゥルバイフの標的となったのは、既にのべたように、チベット東北・アムド地方の青海草原に本拠地をおき、アムド地方の諸侯を支配していたツォクト・ホンタイジである。彼の運命については既に第2回で触れた。
トゥルバイフは1637年にラサで「オイラトのハーン」の称号をダライラマ五世からもらったあといったん青海草原にもどり、第3回で紹介したような権力基盤の整備にとりくんだのち、1639年の暮、カム地方北部を支配するペリ王トゥンユードルジェを攻撃するため出陣した。
ペリ王はポン教を信仰し、仏教を弾圧する支配者で、カム地方の北部の諸侯を征服し、さらに勢力を拡大すべく、周辺の小領主たちに、屈服か、戦争かを迫っているところであった。トゥルバイフによるペリ王攻めは、これらの領主にとっては天の助け。カム地方のゲルク派勢力のチベット人が大よろこびで参加してきたのは当然として、サキャ派の信者であるデルゲ王や、なんとカルマ派の領主からさえ参加の申し出があった。カム地方最北部のナンチェン王の摂政カルマ・ラプテン猊下である。
カルマ・ラプテン猊下はカルマ派に属するナンチェン寺の住職で、ナンチェン王の地位を継承した兄が早死にしたため住職のまま摂政となり、ナンチェンの宗教のみならず、政治・軍事の全権を掌握していた。ペリ王がしょっちゅうちょっかいをかけてくるので、坊さんの身ながら軍勢を率いていちいち迎えうつという頑張りをみせていた。そのようなわけで、トゥルバイフがペリ王の近隣の諸侯や、ペリ王に服属していた諸侯に対し、ペリ攻めへの参加、ペリ王からの離反を呼びかけながらオイラト軍を進軍させてきたとき、カルマ・ラプテン猊下は大よろこびでこれに応じたのである。
トゥルバイフはかれらの参加を大歓迎でうけいれ、1640年、ペリ王はあっけなく滅亡、カム地方の北部は完全にトゥルバイフの支配下に入った。トゥルバイフはペリ攻めに味方した諸侯に対し、まことに気前よくかれらの所領を安堵し、加増してやった。
この年、ハルハで開催された「ハルハ・オイラト法典」の制定会議に、トゥルバイフが大いばりで参加したことは、いうまでもない。
ナンチェン領の摂政猊下の名前について、中国語の資料にもとづいて「カルマ・ラデ」と表記しておりましたが、チベット語資料にもとづいて「カルマ・ラプテン」と修正しました。(2010.03.14記)
若干の語句を修正(2010.05.03記)