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第2話 トゥルバイフ、ツォクト=ホンタイジを倒してオイラトのハーンとなる!

さて、ここでようやくこの物語のタイトル「兜率宮殿の盾〜チベット・ハン物語」の最初のチベット・ハンとなるトゥルバイフが登場する。トゥルバイフとはなにものなのか、彼のひ孫で最後のチベット・ハンとなるラサンがどのように滅びるか、など、今後の物語の進展とも多いにかかわってくるので、オイラト勢力の内部情勢について、今少しくわしく説明しておこう。


オイラトは、さらにドルベト部、ホショト部、ジュンガル部、トルグート部などの部族から構成され、50年ほどまえ、アルタン・ハーン殿下に征服され、モンゴルの支配下に入った。30年ほどまえ、ドルベト部のダライ・タイシに率いられて独立戦争に決起し、十数年の戦いをへて独立を勝ち取ることに成功した。そのわずか2年のち、ホショト部の相続争いがオイラト全体を巻き込む内乱に発展、各部族の主立った首長は軒並み討ち死に、トルグート部は、内乱なんかで消耗するのはアホらしいと、はるか遠くのカスピ海のほとりに移住していった。このオイラトの内戦ののち、オイラトの指導者として頭角を表してきたのがホショト部のトゥルバイフである。


オイラトの内戦でホショト部の首長だった兄バイバガスも死亡、嫡子のオチルトは幼少だったため、ホショト部、そしてオイラト全体の指導権をトゥルバイフが担うこととなったのである。


トゥルバイフは、ハルハのノヨンたちから講和と同盟の打診をうけると、オイラトの他の部族の首長とも図った上で「受諾」を即答、ダイチン国との外交交渉はハルハに委ね、チベット遠征の準備にとりかかった。


第一回で触れたように、ハルハとオイラトはダライラマという高僧を中心に団結することを決断したのであるが、じつはモンゴル内には、ダライラマが所属するゲルク派とは別の、カルマ派という宗派を信仰する勢力も強かった。モンゴル最後の大ハーン・リンダンなどがその代表勢力で、彼はモンゴル中の親カルマ派勢力をひきいてチベット遠征のために出撃し、その途上で病死したのである。リンダン直属のチャハル部族は嫡子エジェイ殿に率いられてダイチン国に降伏してたが、チベット遠征軍の主要部は、ハルハのツォクト・ホンタイジに率いられ、チベットの東北部の青海草原をおさえていた。


青海草原は、チベット東北部のアムド地方の中央部から北部・西部を占め、モンゴルからチベットに往来しようとする場合の、玄関口となる交通の要である。アルタン殿下がイトコのホロチ殿を配置して以来、ダライラマを奉じる勢力がこの地を押さえていたのだが、3年前、リンダン陛下がチベット遠征を発動した際、ホロチ親子は敗れ、以来ツォクト・ホンタイジの支配下に入った。モンゴルの支持勢力と遮断されたために、中央チベットのゲルク派勢力は窮地におちった。


ダイチン国とむかいあうにあたって、チベットを確保して勢力を拡大しておくことは、非常に有利にはたらく。

それにゲルク派信者として、カルマ派勢力を打倒してダライラマへの圧迫を取り除くことは、ヨロコビである。


ハルハ・オイラトの合同使節団がダイチン国にむけて旅立つのとほぼ同時に、トゥルバイフ率いるホショト部の軍勢、ホトゴイチン率いるジュンガル部の軍勢を中核とするオイラト軍は、南方の青海草原にむけて出撃した。


翌年の正月、氷結した黄河をわたり、1万のオイラト軍は、ツォクト・ホンタイジを奇襲し、彼の3万の軍勢を撃破した。ツォクトは敗戦の後、マーモットの巣穴に隠れていたとろを発見されてとらえられ、処刑された。


トゥルバイフは、ホトゴイチンに「バートル・ホンタイジ」の称号を送るとともに自分の娘を与え、ジュンガル軍をオイラト本国に帰還させるとともに、自らはチベットの都ラサに登り、ダライラマ五世に拝謁を賜り、「教えを支える法の王」(シャジンバリクチ・ノムン・ハーン/テンジン・チューキ・ギャルポ)という称号と、この称号を刻んだ印章をダライラマ五世からさずかった。


従来、「ハーン」の称号は聖チンギスの末裔のみにゆるされるものであり、従来、オイラト族の首長たちはタイシという称号をなのっていた。しかしこの時、ダライラマ五世という宗教的権威の力をかりて、この原則は破られることとなった。


トゥルバイフはオイラトのハーンとなった。


それから二年の後、ハルハのトゥシェート・ハンの招集により、ハルハの地で、ハルハとオイラトの各部のノヨンたちが会盟し、モンゴルとオイラトの積年の争いに終止符をうつための講和と、団結して互いに助け合うための同盟などが、正式に文書にまとめられることとなった。


トゥルバイフが「オイラトのハーン」としてこの会盟に参加してきたことに対し、ハルハのノヨンたちは、「聖チンギスの裔でもないくせにハーン号を犯すとは」と非難の声が上げた。しかし自分たちの中からハルハのノヨンたちと同格の「ハン」号をなのる者が現れたことが嬉しいオイラトのノヨンたちから「森の民(ジュルチド )による「大ハーン位」の僭称をとがめないお前さま方に、それをいう資格がありますろうか」と反論されると、ハルハのノヨンたちには返す言葉もなかった。


この時、ハルハとオイラトの首長の間で取り交わされた取り決めは「ハルハ・オイラト法典」として今日に内容が伝わっている。この会盟がひらかれたのは、西暦でいう1640年のことであった。

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