第8話 ラマ・ジャムヤンサンボの戦い(1)
【ジャン・サータム王とムリ】
トゥルバイフが打倒した「反ゲルク派3悪人」としてチベットの史書に登場するのは、ツォクト・ホンタイジ、ペリ王トゥンユドルジエ、ツァントェ王カルマテンキョンの3名で、それぞれアムド、カム、中央チベットの支配者であったとされる。
しかし細かくみるならば、ペリ王はカム地方の東北部から中央部にかけての諸侯を服属させていたにすぎず、その南方にはカムの南部を押さえるジャン・サータム王、その北方にはカムの北部から西北部にかけてをおさえるナンチェン王の勢力があった。
ナンチェンの摂政カルマ・ラプテンはカルマ派寺院の住職、ジャン・サータム王はカルマ派の大檀越と、いずれもカルマ派を信仰する勢力であったが、トゥルバイフのペリ王攻撃にあたっては対照的な態度をとった。カルマ・ラプテンはトゥルバイフの誘いに積極的に応じてその陣営に参加、ナンチェンの領主の地位と住職の地位をふたつながら安堵された。一方、ジャン・サータム王はトゥルバイフの服属要求を拒み、配下の諸侯を動員し、戦々恐々としてトゥルバイフの軍勢の侵攻をまちうけた。
トゥルバイフは、ジャン・サータム王に大しては直接攻撃を加えないまま、属下の諸侯に対する調略を盛大にしかけ、ジャン王の勢力圏はみるみる切り崩されていく。ムリ地方の領主バーリ氏は、1583年にダライラマ三世がカム地方を廻ってゲルク派を弘法して以来、熱心なゲルク派の檀越となっていたので、中央チベットに強力なゲルク派の政権ができると、大喜びでジャン王の支配から離脱する試みに取り組みだしたのは、ある意味当然のことであった。
【ジャムヤンサンボの誕生とムリの対ジャン蜂起】
先々のダライラマ・第三世ソナムギャムツォはモンゴルの最高実力者アルタン・ハーンと会見してモンゴル人のあいだに再び仏教を広めたのち、チベット東部地方を巡り、ゲルク派の教えをひろめて、まわった。
ソナムギャムツォに命じられてカム地方の布教を担ったのがサンギェギャムツォ。ムリにおいては1584年にラテン・タルギェリン寺を建立し、その座主となったがほどなく没した。彼の没後、2名の座主があいついで就任したのち第四代の座主となるのが、今回の主人公ラマ・ジャムヤンサンボである。彼はムリの領主家バーリ氏に生まれ、サンギェギャムツォの生まれ変わり(化身ラマ、活仏)とされ、将来のラテン寺の座主たるべき運命を背負ってエリート教育をうけた。1604年、中央チベットに登ってゲルク派の諸寺院を巡拝、タシルンポ寺の座主パンチェンラマに師事して学問をふかめたのち、ムリに帰還した。
この時期のムリは、カム南部を支配するカルマ派の大施主ジャン・サータム王の支配下にあった。
トゥルバイフがツォクト・ホンタイジやペリ王を滅ぼして、カルマテンキョンの攻撃にとりかかったという噂をきき、ムリでは名代ツルティムサンボをタシルンポ寺に派遣し、銀の椀に砂金を盛り上げた贈り物を献上して祝意をのべた。
ツルティムサンボはその後ラサにたちより、チベット=ハンのトゥルバイフ、デシのソナムチュンペルを表敬訪問したのち、ダライラマ五世ロサンギャムツォと会見し、ジャン王の圧迫をうったえた。ダライラマからは、「この地方のカルマ派、ジャン王を服属させる使命はそなたたちにある」という命令をうけ、勇躍してムリに帰還、その後、ムリの領主家は、ジャン王のカム南部支配を覆すべく、暗躍を始めるのである。
ちょうどこの時期、ダイチン国が中国の都ピーチンを占領し、その支配圏を南方に拡大しつつある時期であった。ムリにとってまことに都合のよいことに、1647年、中国人ロザーという勢力がジャン王の勢力圏に侵入して本拠地の麗江を攻め落とすという事件が起こった。
ジャムヤンサンボは檄をとばした。
「漢人ロザーがジャンを攻め、カルジャンの命運はいまにも尽きようとし、ジャンの町々とカルマ派の寺院はライェのポン(=領主)と、ラチャ、アテたちのあいだで奪い合いになるであろう。いまこそわれらも、ゲルク派の教えをおしひろめていく時期が到来したのだ!われらは言葉と行いを一致させるべきである。カルジャンが占拠していた土地々々を、すべてとりもどそう!」
ジャン・サータム王の広大な勢力圏は瓦解、ムリをはじめとする外様勢力はその支配を脱したのである。