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この物語の背景(3) チベット地理の現況と歴史的地名およびムリ地方について

チベットの東南部にムリという地方がある。次回の第8回では、ムリの領主家の出身で、ゲルク派の化身ラマとしてムリ地方の宗教界を指導していたジャムヤンサンボが、トゥルバイフによるチベット平定という事態にどのようにむきあったか、という話をとりあつかう。


だだし、読者のみなさまの多くはムリのことをご存じないであろうから、そこから説明いたします。


中国によるチベット分割政策では、チベットの国土をまず西北から東南方向にまっぷたつに線をひき、その西南側を「西蔵」地方とよんでいる。こんにち中国人民政府のもとでは「西蔵自治区(日本名:チベット自治区)」が置かれている領域である。この線の東北側の西部から中央部にかけての範囲をしめるのが「青海」地方である。1928年、中華民国国民政府が、諸民族の雑居地帯「河西回廊」の一部を割いて「青海地方」に移管し、「青海省」を発足させた。この線の東北側より青海を除いた地方はさらに三つに分割され、それぞれ隣接する甘粛省・四川省・雲南省の三省に分属させられている。


 中国によるこのようなチベットの国土に対する分割・分断の起源は、ダイチン国のアムフラン・ハンの息子(=雍正帝)の時代にさかのぼる。


 雍正帝は内輪もめでガタガタになっていた「兜率宮殿の盾」(←トゥルバイフの子孫たち)を最終的に粉砕し、彼らがチベット諸侯に対して有していた支配権を全て接収し、チベットの国土を「西蔵」、「青海」の2地方と、甘粛・四川・雲南に分属する各地とに分割したのである。ちなみに、この分割以降、チベットのうち、「兜率宮殿(ガンデンポタン)」の統治下におかれた地域が中国側では「西蔵」と呼ばれる。

 T大学のH博士は、チベット近代史に関する論文の中で、「兜率宮殿(ガンデンポタン)」の統治下にある部分(「西蔵」の部分)を「政治的チベット」、その他の各地を「民俗的チベット」と区分し、学会でもこの区分は定着していると、指摘したが、そんなことはない。すくなくとも、歴史学の専門家たちが書いたチベット関係の論文で、この用語を自らの用語として使用しているものをみたことがない(政治学の専門家の間ではこのようなな語が「定着」してしまっているのだろうか)。「兜率宮殿(ガンデンポタン)」による「西蔵」の統治が「政治」だとして、ナンチェンやデルゲ、ムリなどの諸侯による領地・領民の統治が「政治」ではなく「民俗」であるという規定はとうてい受け入れられるものではない。

 ダイチン国後期の1865年以降、この行政区画の枠組みはくずれていくが、1949年に中国の天下をとった共産党「中国人民政府」は、五年をかけて行政区画を再編、1955年に、雍正帝による分割時の境界にちかい区分を復活させ、現在に至っている。

 

 さて、話をムリに戻す。

 

 チベット人自身によるチベットの国土の区分は、チベット高原の西部から南部にかけての「ウーツァン」地方、東部および中央部の「カム」地方、東北部の「アムド」地方となっている。


 ムリ地方は、チベットの東南部に位置するので、てっきりカム地方に属するとおもっていたら、あるアムド人の友人から、「いや、ムリ地方はアムドに属する」と断言された。しかし地図をみると、アムド地方の中核地帯とムリ地方の間には、中国とチベットの国境貿易の街タルツェンド(中国名「康定」)がある。この街はカム地方の主邑のひとつである。ムリはアムドの他の地方とは地理的に接続していないのである。そこで友人に、やっぱりここはカム地方なのではないかと指摘すると、「ムリをカムとする説もあることはあるが、それはギャロン(いずれ紹介する)を「カムでもなくアムドでもない」といったりするのと同じ。ガンデンポタン(兜率宮殿)のホームページでも、ムリのことはアムドだといってるよ。」と反論された。ガンデンポタンを持ち出されると、外国人である筆者としては、スゴスゴとひきさがらざるをえない。友人には「私はアムド主義者だからな。諸説ある場合には、アムド地方を可能なかぎり広く設定する説に組みするのだ。わはは。」とトドメを刺された。嗚呼。

 

 ちなみにカルマ・ラプテンのナンチェン領は、地理的にはちょうどチベット高原のど真ん中(青海地方の南部)に位置しているが、てっきりアムド地方に属していると思ったら、くだんの友人は「いや、ここはカム地方」と指摘された。 「アムド地方を可能なかぎり広く設定する説に(くみ)する」友人が、アムドではない、カムだ、というのである。そういえば、ナンチェン地方は、アムドの中枢地帯からはツァイダム草原とかバヤンカラ山脈をはさんで遠く隔たっている一方、カム地方西部の主邑チャムド(西蔵自治区・昌都)のすぐそばだしな。O大学のM教授からも、「ナンチェンはアムドではなくカムでは?すくなくとも方言的には、この地方の人々はアムド方言ではなくカム方言を話すよ」と教えて頂いたことがある。

 この物語でしばしば悪口をいっている『大海の(テプテル・ギャムツォ)』は、「アムド地方における仏教弘法の歴史」の書で、アムド地方各地の寺院の歴史をひとつひとつ詳細に紹介する書物であるが、そういえばナンチェン地方の寺は登場しない。

 とにかく、今回は、チベットの東南部に位置し、アムド地方に属するとしたらアムド地方の飛び地であるムリの領主家のジャムヤンサンボが、トゥルバイフのチベット平定にどう反応したか、という話である。

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