1 貧窮
最後の使用人に給金を渡す。
「今までありがとう」
「ノエルお嬢様。わしは給金などもらわんでも――」
庭師だったジョンは節くれた手で頭をかいて、胸に手を置きため息をついた。
「ううん。もうジョンも年だし、息子さん夫婦とゆっくりするといいわよ」
「寂しくなります」
「元気でね」
白髪の頭を下げて、ジョンは屋敷を出ていった。ふうっと息を吐いて椅子に腰かけると「お茶ですよ」とばあやがやってきた。
「とうとう二人きりになってしまいましたね」
「ばあやはいいの? もうお金ないのよ?」
「身内もいませんし、お金もいりません。ノエルお嬢様のおそばでお世話させて下さいませ」
「ありがと……」
涙が出そうになるのをこらえて、熱いお茶を飲んだ。父がなくなって没落したこの家を何とかしなくてはならない。泣いたって一枚のコインにもならないのだ。
「さて、もう少ししたら葡萄の様子を見てくるわ」
お茶を飲み干してから、ちらりと届いた何通かの封筒に目をやる。ほとんど督促状だ。家財を売り払ってなんとか借金を減らしたが、もう少し残っている。素っ気ない簡素な封筒の中に、一通豪華な封筒が混じっていた。毎年届く、シャローヌ家からの招待状だ。金で縁取られた封筒を見ていると、ふと思い立った。
「今年は行ってみようかしら」
「どちらへです?」
お代わりを入れてくれようとしたばあやの手を止めて「夜会によ」と告げる。
「まあ! まあ! お嬢様! とうとういらっしゃるのですか!」
ばあやはまるで若い娘のように頬を紅潮させ、高い声を出した。嬉しそうなばあやに、罪悪感を覚えつつ私は言葉を発した。
「お父様の衣装を出してくださる?」
「はぇ?」
ぽかんとしたばあやが、正気に戻ったら計画を話そう。
ずっと使っていなかったが、ばあやが清潔に保ってくれている父の寝室に入る。ベッドの上に、上等な衣装を何点か出してもらった。もちろん、プラチナブロンドのウィッグもだ。生前の父の姿を思い浮かべる。
「深いワインのような赤紫のビロードのジャケットに、ほっそりとしたズボン。それにプラチナブロンドの巻き毛……」
となりでばあやが頷いている。
「そりゃあ、旦那様の伊達男っぷりと言ったらっ! このあたりの娘はみんな夢中でしたよ!」
思い出に浸っているばあやを横目に、さっと私はドレスを脱いですかさず父親の衣装を着始める。
「お、お嬢様! どうして着るのですか!?」
「そのために出してもらったのよ」
「はぇ?」
男にしては小柄な父と娘にしては大柄な私に、この衣装のサイズはぴったりだった。
「ウィッグ手伝って」
「え、あ、はあ……」
父は地毛もプラチナブロンドだったが、私は赤毛だ。うまくウィッグに押し込むのは一人では難しかった。
「出来ましたよ」
姿見の前に立つ。
「あら! なかなかじゃない!」
「そうですね。確かに。旦那様によく似ていらっしゃって……」
目じりを押さえながらばあやはまぶしそうに見ている。殿方の洋服ってコルセットがいらなくて楽だ。葡萄畑の作業も男装のほうが良かったと今頃気づいた。
「これで夜会に行ってくるわ」
「どうして男装で行かれるので?」
「私は結婚して安定したいのではないの。結婚すれば、生活は出来るかもしれない。でもね。葡萄畑はどうなってしまうかしら。きっと畑などやめて、社交に出向き、後継ぎを産むだけになると思うわ。せっかく上等なワインができる畑を手放したくないのよ」
「お気持はわかりました。で、その装いは?」
「商談に行くつもり。女だと婿探しだと思われるでしょ? 話もうやむやにされて、お相手するだけになっても嫌だし。まともな商売ができる相手も探してくるつもり!」
納得がいったようないかないような複雑な表情でばあやは私を眺めるが、とにかくやってみよう。日照り続きで壊滅しかけた葡萄畑を元の豊かな状態に戻し、また上等なワインを作る。遠くから水を供給させるために資金が欲しい。葡萄さえ復活すれば、きっと家も盛り返すことが出来るはず。もちろん、出資者に損をさせることはない。今でも数少ないワインで生活はできるのだもの。
「とにかく先細りのこの状況をどうにかしなくちゃね!」
父の衣装を大事に脱いで、私は葡萄畑に向かうことにした。