第74話・勇者の資格
「君は、確かに普通の人間だ。自分が一番かわいくて、自分が認められないのが悔しくて、自分が成せないのが悔しい。あたりまえだよ、そういうものなんだから」
カケル氏の隻眼が穏やかにオレを見つめている。
「相手を気の毒だと思って、自分に何かしてあげられないかと思う。それは普通の人間にだっていくらでもある心だ。ただ、それを実行に移せる人間はそう多くはない。君は電車に乗って座席に座った、君は疲れている。そこに、重い荷物を持ったおばあさん、或いは妊婦が乗って来たとして、君はどうするね?」
ちょっと考えた。けど答えは他になかった。
「そりゃ、譲るでしょ。席を。当然でしょ?」
「それが答えだ。百点満点。だけど実行に移せる人間は多くはない」
深々と抉られた恐ろしい傷跡とは裏腹に、カケル氏は博よりも先生みたいな顔で続けた。
「君も見たはずだ。満員電車で明らかに大変そうな人が乗っているのに、寝たふりをして席を譲らないサラリーマンや学生を。当然のことだと誰もが分かっているはずなのに、実行に移さない。何故だろう」
「そりゃ……譲って断られたら恥ずかしいとか、自分はもっと疲れてるとか……」
「うん、その通り。所詮人間は自分が一番かわいい生き物だ。なのに君は譲った。抜き打ちテストという一日と時間が区切られた状況で、倒せばいいゾンビやスケルトン、或いは死霊に、遺言を伝える時間という席を。倒さなかったと村人に言われたかもしれない、途中でゾンビたちが襲い掛かって来たかも知れない。そういう命にも関わる状況で席を譲るには、大変な勇気が必要だ」
「勇気」
呟いて、いやいやいや、とオレは首を振った。
「そんな、勇気とかじゃないですよ。オレはただ……」
「ただ?」
「生きてる人が心配で成仏できないって言う死霊を、放っておけなかったから……」
「そう、それが、ハルナが持たず、君が持っていた資質……勇気だ」
「……はい?」
「ハルナは、ゾンビやスケルトン、死霊は倒すもの、と思っていた。当然だ、生を終えたのに消えられない存在がどれだけ苦しいか、小さい頃から教え込んできたのだからね。ほとんどの死霊は死霊使いに操られて苦しい偽りの命を持っている。彼らを倒し、死霊使いを倒すのが一番の方法だと思っていた。だけど君は、死霊を放っておかなかった。死霊の願いを叶え、そして成仏させてやった。死者と生者の断たれた絆を結びなおし、そして孤独だった子供の魂までをも救ってやった。ハルナはそれに打ちのめされたと……固定概念にとらわれて、本当に勇者が、いや、人間がやらなければいけないことが何なのかを思い知らされた、と書いていた。そう、心の持ち方は、教え込んでもなかなか教えられない、勇者としての大切な資質だ。君のように、可哀想だからと異質なものに同情し、助けてやる。それは傍から見たら馬鹿馬鹿しいことだよ。一匹の犬を救うのに命を懸けるたくさんの人間。カルガモの引っ越しを警察まで動員して助ける人たち。普通の人から見ればあんまりにも馬鹿馬鹿しくて笑ってしまうようなこと。それが、勇気だ。自分が助からなきゃいけない時に自分以外の誰かを優先する。自己犠牲じゃない。「ただ、黙って見ていられなかったから」。それこそが、君が持っていてハルナにはない勇者の最大の資質……勇気だよ」
正直、よくわからなかった。
……何となく分かったのは、オレがあの村の死霊を成仏させ、オウルを連れ帰ったのを、ハルナさんは考えつかなかった考えってことくらい。
「よく……分からないです」
「そうだね。そういう資質を当たり前に持っている人間は、他人がそう思っていないということに思い至らない。ただ、これだけは覚えておくと言い。君の武器は、武器でも、魔法でもない。リーダーシップですらない。「善性の勇気」だ」
星空を見上げながら、カケル氏は続ける。
「困っている人に、断られるのを覚悟してでも手を差し出さずにはいられな優しさ。それこそが、勇者と呼ばれるものが絶対に必要なものなんだよ。長くなってしまったが、つまり、私が言いたかったのは」
カケル氏は歩いてきて、オレの肩をぽん、と叩いた。
「君は既に勇者としての資質を持っているのだから、持っていないと心配する必要はないということだ。君にとっては呼吸をするより当たり前すぎて、持っていることに気付きもしていないんだろうが」
「よくわからないんですが」
オレは考えをまとめようとしたけど、上手くまとまらなかった。
「くだらないことでくよくよするなってことでしょうか」
「いや、自分が勇者に相応しいかに悩まない人間は、一番勇者に向いていない。そう思い、悩む君の心の在り様こそが勇者に相応しいのだと言いたいだけだ」
「特に特徴がなくても、ですか」
「見た目に見える特徴じゃないからね」
肩に置かれた手が、何だか暖かく思えた。
「君は君の思う通りに進めばいい。悩み、迷い、失敗することだってあるだろう。だけど、それが正解だ。悩み、迷わず、失敗しないなんて、それは既に人間ですらないんだから」
オレの肩に置かれた手が、ポンポン、と叩き、優しく背中を押した。
「さあ、分かったら寝たまえ。君も肉体を酷使し、魔法を使いすぎ、疲れ果てている。悩みに気を取られて気付かないだけだ」
「気付かない、だけ?」
「そう。だから休みなさい。でないと明日はつらいよ」
顔を上げると、隻眼が優しく微笑んでいた。
「大丈夫だ。君なら、勇者になれる」
たった一言。
そのたった一言が、ぐるぐると濁流渦巻く脳天に入って来て、濁流を吹っ飛ばす。
そっか。
オレは誰かに、大丈夫だって言って欲しかったのか。
それでよかったんだよ、と認めてほしかったのか。
励ましでも慰めでもなく、ただ。
――勇者になれる、と。
「ますたー?」
ぱさぱさぱさ、と小さい羽音がした。
「ますたー」
カケル氏の手から離れた肩に、柔らかくて暖かいものが乗った。
「オウル」
「はるなさんが、さがしてきてって」
「ハルナさんが?」
「もうねるじかんなんだから、ぜんいんねないとあしたはつらいって」
「はは。じゃあ、私は失礼するよ」
「娘さんにサヨナラは」
「大丈夫だ。あの子は頑張っているから」
「……そうですね」
カケル氏は少し離れて、何か呪文を唱えて。
パッと、その場から消えた。
「……オウル」
「んー?」
「オウルは、この世に残って、よかったって思ってるか?」
「おもってるよー」
オウルは左羽を上げて答えた。
「ますたーにも、はせひこおじさんにも、なゆたおにーちゃんにも、はるなおねーちゃんにもあえた。しらないひとがいっぱいのしってるひとになった。ぼくはひとりじゃない。だから、ぼく、しあわせなんだっておもう」
「そっか」
オレは右手を伸ばし、オウルの頭を撫でてやる。
猫のように頭を押し付けてくるオウルに笑って、オレは寮への道を歩き出した。
それは、一部始終を見ていた。
歯を食いしばり、拳を震わせて。
二つの気配が完全に消えたのを確認して、大木を蹴飛ばした。
その勢いで、朽ちかけた大木がゆっくりと横倒しになる。
それは、幹を足で踏み砕き、踏みにじった。
何故、あれが。
いつも、そうだ。
何故、あれだけが。
思考回路はそれでいっぱいだった。