今のまりさと過去のまりさと
自宅へと帰り着くまりさ。
其処は何処かといえば、特段に値しない普通の貸家である。
事情を知らぬ人が見れば【ゆっくりがアパートを借りるのか?】と眉を潜めるかも知れない。
だが、その権利をまりさは持っていた。
大家にしても、キチンと家賃を納めるのであれば、それが誰かを咎める事は無い。
そして、これこそが特級鑑札と言われる所以でもあった。
ゆっくりでありながら、人間と同等の権利を保証される。
では、だからといって楽かと言えば、それは違った。
✱
「ただいまぁ」
そんな声を掛けるが、当然の如く返事は無い。
まりさは独ゆ暮らしなのだから、返事がある方がおかしかった。
バッグを放し、先ずはとベッドへと身を横たえる。
そのまま額に腕を当てると、ハァと息を吐いた。
路上で出会った子ゆっくりは、まりさに過去の自ゆんを思い出させる。
まだ野良ゆっくりだった頃。
その生活は、日々過酷を極めていた。
何処へ行こうと爪弾き、野良のゆっくりなどマトモな扱いを期待は出来ない。
それでも、人の目に触れぬ様な影日陰に入り浸り、コソコソとネズミの様に這いずり回る。
その頃に比べると、今の生活は確かに憧れていたモノに違いない。
快適な住まいに、栄養豊富な食事。
雨風に怯える事も無ければ、外敵を恐れて隠れる必要も無い。
とは言え、それら全ては無料ではなく、金が掛かる。
誰かに飼われるゆっくりならば、その心配は無いのだが、逆に言えば全ては飼い主頼りと言えた。
どちらが楽かと言えば、飼いゆっくりの方が余程まりさよりも楽な生活だろう。
日々の世話全ては飼い主が見てくれる。
自分が飼うゆっくりに対して、何かしろという飼い主の方が少なかった。
その代わりに、自由を売り払う。 自由の対価は、贅沢な暮らし。
中には、自由と贅沢を履き違え、飼い主に叩き出されるゆっくりも多い。
自由自体は崇高なモノかも知れないが、身勝手に振る舞える訳ではない。
ましてや、養われている身でそれをするのは単なる我儘でしかない。
対して、まりさには飼い主は居なかった。
その代わりに、全ては自ゆんでやらねば成らない。
大変ではあっても、飼い主に縛られない程度の自由は在った。
「……お腹空いた」
ベッドから起き上がると、夕食の支度を始める。
これが一般的な飼いゆっくりならば、専用のフードを皿に開けてお終いという事も多い。
中にはきっちり調理したモノを出すかも知れないが、下手に舌が肥える事を思えば、割合としては多くは無い。
味の優劣は値段で決まり、美味いモノ程高く、不味いモノほど安い。
無精な飼い主の中には、調理過程から出た生ゴミや、何処かで詰んだであろう雑草を出す場合も無くはない。
対して、まりさの場合はと言えば、何を食べた所で文句を言われる筋合いも無かった。
✱
「……ごちそうさま」
食事を終えて、さあどうするかと言えば、別に決められては居ない。
何をするに置いても、飼いゆっくりならば飼い主にお伺いを立てねば成らぬが、まりさには飼い主は居なかった。
では全ては自由なのかと言えば、そうでもない。
放置したバッグからは、着信音が鳴り響く。
そんな音に、まりさはハァと息を吐いた。
出たくはないのだが、そういう訳にも行かない。
ゆっくりが携帯電話を持って良いのかと言えば、問題は無い。
自分で契約し、使用料金さえ払えば良かった。
「……はい、もしもし?」
『あ、まりささんですか? いま、大丈夫ですかね?』
電話を掛けて来た相手は、所謂【ゆっくり実況】の派遣元であった。
以前は基本的に個人事業、個人の営業による展開が多かったのだが、儲かると解って以来、一時期から企業が名乗りを挙げて参画している。
これ以降、動画を作ろうとする参入者がどっと増えた。
インターネットを用いた動画では、視聴者が多ければ多いほど広告収入なども期待できるからである。
儲かると解かれば、企業がその機会を逃す理由も無い。
それ故に、優秀なゆっくりは引く手数多だった。
そして、当然の如く演技が出来るゆっくりを他社に取られまいと、動き出す者も多い。
今まりさが話しているのは、管理者とも言える人間。
多忙なまりさに代わり、予定を組み、次の仕事を請負も行う。
人間が後ろ盾になる事は、まりさに取っても良い面もあった。
携帯電話の契約や、賃貸しの保証人など、様々な部分を補って貰っている。
最も、その分だけ向こうもゆん材としてまりさを使う事で設けを得る。
ある意味では、持ちつ持たれつの関係でもあった。
次の仕事は何時か、どの様な仕事か、それらが口頭にて説明される。
『……では、この後でメールも入れますから、確認お願いしますね』
「はい、宜しくお願いします」
『いえいえ、頼りにしてますよ! ゆっくりまりさ!』
軽い声と共に、電話も途切れる。
管理者は軽い気持ちでそう言ったのだろう。
なにせ、まりさが演ずる役は【ゆっくりまりさ】であった。
電話を終えて、電気を消すと、何も言わずに床へと着く。
薄暗い部屋では、まりさの顔は誰に見えてはいない。
ゆっくりの多くは、基本的に絵に描いた様にヘラヘラ笑っている。
だが、今のまりさは、見る者が見れば寒気を覚える程に無表情であった。
✱
記憶が何処まで残っているのか、時に曖昧である。
ただ、朧気な視界の中では、まりさは普通のゆっくりの様にはねていた。
小さなボールが、ポヨンと跳ねる様に。
視界は低く、まるで地面を這う様なモノだが、それはそのままにまりさの小ささを示していた。
忘れように忘れられない、過去の自ゆん。
その視界に置いては、何と限らず全てが大きい。
其処で、まりさはあるモノを見た。
見上げる程も大きい、二本足の生き物。
それは、子ゆっくりから見た【にんげんさん】であった。
『ゆ、ゆじぇ……』
余りの大きさに、思わず声が漏れてしまう。
野良の生活に置いては、人間との接触は厳に戒められていた。
それら何故かと言えば、単純に強く、怖いからである。
見た目にも解る通り、体格差と呼べない程の大きさ。
そしてその力は、大きさに見合う以上である。
人間がその気に成れば、ゆっくりなどはあっという間に潰される。
面白半分に、その体を引き千切り、中身をぶち撒けるという事ですら可能である。
だが、まりさはソレを知りながら、敢えて自ゆんを人の目へと晒していた。
震えつつも、ポツンと佇む子ゆっくりを見て、人間が動く。
大きさの割には、ゆっくりよりも遥かに俊敏な動きはそれだけでも恐ろしい。
『おー? なんだこのチビ助?』
マスクにて顔を隠す作業服姿の人間は、ぷるぷると震えるまりさに、軽い笑いを掛けていた。
『おいおい、なんか用かな?』
意外にも、いきなり踏み潰すという事はせず、身を晒すまりさへと声を掛けて来る。
ある意味では、命懸けの賭けであった。
話し掛けもせず、踏み潰す場合も無くはない。
その意味では、まりさは賭けに勝っていたが、まだ終わりではない。
『に、にんげんさん……』
『あ?』
『まりさを……まりさをひろってほしいんだぜ』
そんなまりさの言葉は、一世一代の大博打でもあった。
野良から飼いゆっくりに成れるゆっくりなど、先ず居ない。
拾われる場合は、そのゆっくりが希少種か、価値が無ければ無理であった。
殆どは、ゆっくりなりの【取引】を持ち掛ける事でそうなろうとする。
大概のゆっくりは【かわいいじゆんをかえるなんてしあわせだね?】と言わんばかりの態度を示す。
自ゆんの立場を弁えず、居丈高に。
では、そんな事をしてどうなるのか。
答えは単純で、そんな事を聴く義理など無い。
殆どのゆっくりは踏み潰されるか、或いは何処かへと運ばれて始末されるか。
辿る末路は同じ様なモノである。
但し、この時まりさが声を掛けたのは、単なる通行人ではなかった。
まりさの見ている前で、巨人が動く。
その際、まりさは思わず目を瞑っていた。
だが、衝撃は襲って来ない。
その代わりに、フワリと浮かぶ浮遊感。
恐る恐る目を開ければ、ジッと自ゆんを見る目と目が合った。
『拾って欲しい? そんじゃあさ、お前さんはなんか出せるのか?』
ギブアンドテイクという概念を、この時のまりさは知らないが、出せるモノは多くは無かった。
だが、何も持っていない訳でもない。
『ま、まりさのかぞくが……ちかくにいるんだぜ』
それは、何も持たない子ゆっくりに出せる唯一の財産と言えた。
殆どの人間にすれば、他のゆっくりを紹介された所で取引には成らない。
ただ、まりさの声に、作業服姿の人間はマスクから笑いを漏らす。
『へぇ、そうか……探すの面倒くさかったんだよな。 でもまあ、お前さんが教えてくれるんなら、お前だけは拾ったっていいぜ?』
そう言う人間の腕には、腕章が煌めく。
其処には黒字に白文字にて【加工所】と印されていた。
もしも、この時はまりさがそれを読めたなら、一目散に逃げ出した筈だったが、子ゆっくりに文字は読めない。
『じ、じゃあ……』
『あぁ、お前の家族と引き換えって事になるが……どうする?』
それは、悪魔の契約とも同義の問い掛けだった。
自ゆんを引き上げる代わりに、家族を差し出せという。
頷く代わりに、まりさは一回体を縦に揺らした。
✱
息を吸い込むなり、バッとベッドから身を起こす。
慌てて周りを見れば、其処は見慣れた自ゆんの部屋。
時計を見れば、まだ深夜だと針が示す。
「ゆ、夢……」
ついさっきまで見ていたのが、夢だと解り、まりさはホッと胸を撫で下ろす。
だが、直様やって来たのは、嘔吐感であった。
「……んぶ」
急ぎ口を強く塞ぎ、胴付き特有の手で抑える。
そうしなければ、まりさは吐餡していただろう。
ゆっくりの特性として、嫌な経験や記憶はあまり残されない。
それは、吐瀉物、或いは排泄物として文字通り体外へと排泄されてしまい、記憶としては残らなかった。
だからこそ、多くのゆっくりはお気楽極楽といった風情なのだ。
対して、骨身に染みる様な絶望や、焼き付く様な精神的苦痛は、体内の中枢へと入り込み、消える事が無い。
それを応用するからこそ、時にゆっくりは人間並みの扱いをされる特級鑑札を得る事が出来るのだ。
それは同時に、一生涯消えない悩みと共に生きる事を意味していた。