兄と妹
「非常事態だっ!」
睦己の妹、神久良真希は兄のスマホを凝視しながらプルプルと震えていた。
───お兄ちゃんの携帯に女性の人が登録されているなんて!!!
真希は今もなお目の前の現実を受け入れることが出来ずに固まっている。
妹から見た兄の評価は、
”仕方がない人”
であった。
どちらかと言えば兄はプライベートにおいては引き籠りの人であり、妹の目の前で、
「この国のアニメ文化は世界を救う!」とか、
「仮想ワールド万歳!」とか、
「俺はこの国に生まれることができて、本当に幸せだっ!」とか日々豪語する人であった。
そんな兄であるからにして、兄の色気話など今の今まで聞いたことがなかった。
「非常事態だわ・・・」
真希は壊れたレコーダーのように繰り返し呟く───いや文字通り本当に壊れてそうだった。
兄の周囲に自分以外の女の影があるなど、到底許容できる話ではない。
そう、真希は兄のことが”大好き”なのである。”仕方がない人”とは、そんなダメなところも私なら全部受け止めらあげられるという愛情表現であったのである。
それは最早“ブラコン”の域を遥かに超えており、兄を幸せにできる女性は自分しかいないと信じて疑わない程であった。そしてそこには、実妹が兄と結ばれることはないといった常識的な世間体は完全に排除されている。
何時しかそのような熱い思いを抱くようになったのかは記憶は定かではない。ただ思春期と言われる年頃には、その揺るぎない思いが出来上がっていたことは確かである。
「それなのにっ!それなのにっ!」
真希は地団駄を踏みながら時を少し遡ってみる───
受験という人生の一つの壁を乗り越え、兄と同じ学園に進学できることが決まっていたこの時期、真希は兄と同じ学園に通う日々を夢想しながら浮かれまくっていた。
しかし、そんなある日、彼女は兄の様子が今まで違うことに気付く。
───今まで自室に引き籠るばかりで、体を自主的に動かすことのなかった兄が早朝にランニングを始めた!?
これが”普通”の妹ならば、兄の健康を意識した生活習慣の改善を称賛したであろうが、かの妹はそうではなかった。
───あやしい・・・
今までの兄からでは、想像できない行動。そして、年頃の男子が突然生活習慣を変える理由・・・
───兄に変な虫でもついたのではなかろうか
真希は頑なにまでに兄の交友関係を疑わずにはいられなかった。
そして、時をさほどおかずにして彼女の疑念は確信に変わる。
兄が居間に置き忘れた携帯がショートメールの受信を伝える。その画面に映し出されたのは・・・
「望月 摩耶」という、女性の名前───
真希は自身のこめかみが痙攣しているのがよくわかった。つい一刻前まで浮かれていた自分が嘘であるかのように、天国から一気に地獄へ落とされたような気分であった。
あたかも自分のスマホを操作するが如く、何の躊躇いもなくロック解除のパスコードを打ち込む。
『今日はありがとう。またよろしくねっ!』
というメッセージが、真紀の視界に飛び込んでくる。
───ウガッーーー!よろしくって、ナンダーーーッ!!!
心の中で奇声を上げある真希。精神衛生上、兄に直接問い質す以外の道をないと彼女は悟る。
一度決断してしまえば彼女の行動は早い。
煮えかえる心中とは裏腹に鏡の前で笑顔を作ってみせる。
───大丈夫。いつも自分が兄に見せている笑顔だ。
これなら、普段通りに兄とコミュニケーションが取れるはずだと自身を持つ。
真希は、ここぞという時に自分が仕損じないことをよく知っている。二階の兄の部屋へ向かう足取りに焦りは全くない。
コンコン。
真希はドアを軽くノックするとそのまま兄の部屋に入る。兄妹仲が良く、兄の応答がなくとも兄の部屋に入ることができるのは妹の特権であった。
「お兄ちゃん、ちょっといい?」
「ん、どうかしたか。」
平常運転の兄の声。兄はどうやら宿題の最中だったようだ。
真面目に勉学に取り組む兄の姿を見たとたん彼女の中で後ろめたさが生じるが、ここまで来たら引くことはできない。
───いつもは不真面目な言動が多いのに、お兄ちゃん、こういうタイミングに限って真面目なんだから。
真希は出鼻を挫かれた感じであったが、悪い気は全くしなかった。こういう兄の生真面目な面も大好きであり、その一面をみれた大きなアドバンテージに得意げになったからだ。
「携帯にショートメールが届いていたようだったから。」
さり気なく、そして親切心を強調する形で兄にスマホを手渡し反応を伺う妹。
「お、サンキュー。」
「・・・・・・・・・・」
兄はメッセージ内容を一読するとやれやれといった感じで小さく息を吐く。
「お兄ちゃんに女の人からのメールなんてめずらしいよね。」
「だよなー」
そんな兄の返事はどこか他人事のようで、メールの内容にあまり関心がない様子だ。
それは妹の警戒レベルを下げるのに十分であったが、妹としては事の経緯に確認するまで引き下がるわけにはいかない。
兄は妹にあまいものだ。妹のそんな様子を察してやってか、独り言のように呟いてみせる。
「あーー。今日、宿題を見せてやった。その礼というか、明日もよろしくという催促だな。」
困ったものだと、肩でジェスチャーしてみせる兄。
「ふーーん。宿題みせてあげるくらい仲がいい女の人ができたんだ。文字通りお兄ちゃんにも春が来たんだネ(ニコッ)」
女性は大概において本心とは反対のことを口にしたりする。
「・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・仲が良いというか、なんか一方的にたかられているだけだぞ。」
「でも、まんざらではないと。」
「・・・・・・・・・・まぁな。女気がないよりは、ある方がいいよな。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・サイテー(ボソッ)」
「!!!」
ようやくここに来て、妹の様子が普段とは違うことに気付く兄。
「なんか今日の真希さんコワイです・・・」
「真希はいつもお兄ちゃんの天使ダヨ。」
───いやいや、先っぽが三角形に尖っている尻尾がツイテマスヨ、マキサン
四月から、同じ学園に通う真希は、遅かれ早かれ自身を取り巻く状況と無縁というわけにはいかない。
兄に不信な点があれば、妹は自ら調査に乗り出すだろう。
───であれば予め事態を説明しておいた方が結果として無難に事が運ぶかもしれない。
そう考えた兄は、ここ最近の出来事をかいつまんで真希に話すことにした。
もちろん自分が死にかけたことや、立ち合いで相手を制したことなどは伏せている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「お兄ちゃん、災難だったね・・・」
先程とは改まって兄の身を本気で案じる妹。
「つまり、今回の騒動の原因は望月さんということ?」
「それは本質的な見方ではない─と思う。各々の“偏執”が本人達の意図とは関係なく双方を傷つけたというのが妥当かな。ある意味双方とも被害者である。」
「お兄ちゃん、それって───」
妹が自分が言わんとすることを察したことに、兄は笑顔を作ってみせる。
「お、真希はやっぱり賢いな。俺たち兄妹まで同じ轍を踏む必要はないさ。」
「む──。今日はお兄ちゃんに乗せられてあげる。」
こうして妹はどこか納得がいかないものがあるものの、今回は素直に引き下がることにした。
互いのことを思いやりつつも、引くべき頃合いを知っている───
それが、この兄妹の良さであり、強さでもあったのだ。