婚約破棄棄却につき
彼女は美しい人だった。彼と一緒に笑い、一緒に出掛け、一緒に泣き、一緒に悩んだ。彼女は彼のために在り、彼は彼女のために在った。だからこそ、彼は今、彼女からの婚約破棄状を手に、彼女の枕元にいる。
一命をとりとめた彼女だが、一向に目覚める気配はない。医者が言うには、魔法を織り込んだ一種の自己暗示状態らしい。図った自殺が成功すればそれでよし、失敗した場合は二度と目覚めぬようにと。
彼女は若い連中から強姦の被害を受けた。そのことに衝撃を受けたわけではなく、ただただ彼に対する申し訳なさで、彼女は婚約破棄状を彼の邸宅に郵送し、その間に自らの喉を短刀で掻き切った。
彼の父親が彼に声をかける。大丈夫か。
彼は答える。父上、跡取り息子が馬鹿で申し訳ありません。ですが、私には彼女との婚約を取り消すことはできません。彼女以外に誰かを愛することは、私にはできません。
彼は彼女からの婚約破棄状を破り捨てた。彼の父親は目を伏せ、そうかと一言だけ残すと、彼に反対することもなく静かに病室を出て行った。
彼は、仮死状態の彼女の頬に手を伸ばした。そして僅か、嗚呼と声が漏れる。
素直な子だった。純粋な子だった。一途な子だった。愛おしい子だった。そして、今は。
透き通るように白かった肌は、今やすでに雪のよう。温めてしまえばきっと融けてしまう。艶やかな髪は今もなお瑞々しく、その肌の上でひときわ映える。血の気のない秀麗な顔に、端正な唇だけが目立って赤く、また首に巻かれた包帯が彼女の脆さと強さを引き立てる。
嗚呼、と彼はもう一度息をつく。その顔には、ただひたすらに恍惚が浮かぶ。
私はとんでもないものに出会ってしまった。罪な御人だ、貴女も。他に愛するとするならば、貴女の死体以外にないのでしょう。死にかけている貴女は、今までのどんな貴女よりも美しい。どうかこのまま、起きないでおくれ。そうでなければ、私は貴女を殺してしまう。
「ふふ……」
病室に一つ、笑い声が零れ落ちる。
『不逞の輩はどうなった』
『治安管理部が取り押さえたそうです』
『輩の正体は』
『アルディテーテ高校の生徒だとか』
『それはならぬ。やはり、あの高校は潰さねばならぬ』
『父上……』
『娘よ、止めるな』