第八話 恋の始まり 前編
小学校五年生になったとき先生が「あなた達はもうお兄ちゃん、お姉ちゃんなんだから、一年生から四年生の子達のお手本にならなくちゃいけないんだよ」と言っていたのを思い出す。
では今日小学校六年生という最上級生から中学一年生になり、一番上の学年から一番下の学年になった私は一体何なのだろう。
朝、自分がぶかぶかの制服を着て鏡に立っていた時は、とてもじゃないがお姉さんという感じではなかった。
小学校四年生ぐらいまではおとこの子、おんなの子。小学校五年生からはお兄さん、お姉さん。なら、中学一年生は後輩?でもこれだとなんだか柔らかさがないので『後輩ちゃん』というちょっと背伸びしつつかわいい響きが良いかもしれない。
なんて入学式早々そんな馬鹿なことを考えながら、私は並べられた椅子の一つに座っていた。
どうやら今は校長先生が喋っているようだけど、話の内容よりその頭を見て、そういえば小学校の校長も禿げていたことを思い出す。
その程度には入学式を適当に過ごしていた私は、その後も深い深い思考を浅ましい海に沈めていると、いつの間にか入学式は終わっていた。
入学式が終わって割り振られた教室に向かう中、周りを見回してみる。私が今日から通うこの中学校は二つの小学校から生徒が集まっているので、知らない顔も多い。
私は人見知りなので、人が増える中学生活に期待に胸を膨らませるなんていうよりは、むしろ不安と緊張でいっぱいいっぱいになっていた。
けれどその日は誰とも関わることなく、出席番号順に並べられた机に座り、教室で教科書一式を配られ、担任の先生の話を聞いて終わりだった。
勿論周りの子たちは早速友達作りに励んでいたけれど、小学校の頃から友達のいない私は、当然中学生になってもそう簡単に変われることはなかった。
次の日、この日もまた授業はなく、その代わりに『新入生へのオリエンテーション』と題した二年生、三年生によるちょっとした催しと、部活動紹介が行われた。
この時、周りがどこの部活に入ろうかと騒がしかったため、私もどこか入部する部活を決めなくちゃと思っていたけど、後から思えば帰宅部の子も普通にいたので無理して部活に入る必要はないようだった。
でも果たして、どこにも入らないと決意していたとして、私はあの先輩に目を奪われずにいれただろうか。
体育館に集められた一年生に向けて、
バレー部、バスケ部、野球部、ソフトボール部と順調に部活紹介が終わっていく。けれどこの時運動の苦手な私はもっぱら運動部に入る気は起きなくて、後に紹介される吹奏楽部や美術部に入るつもりだった。
でも、そう思っていたのに……その運命の時はやってきてしまった。
司会を務める生徒の「お次はテニス部の紹介です!」という声と共にラケットを持つテニスウェアを着た二年生、三年生が舞台袖から壇上に現れる。
一方私はというと、今までの部活よりユニフォームがかわいくておしゃれだなぁぐらいの感想を抱きながらボーッと次々に出てくるテニス部員を見ていた。
けれど、そんな思考が吹き飛ぶ出来事が起こった。
最後に出てきた背の高いテニス部員の女の子。
綺麗にまとめられたポニーテールを揺らしながら最後に現れた彼女を認識した瞬間、心の中で自分でも何か分からない感情が蠢き出した。
そして本能で産まれたその得体の知れない感情は、やがて理性へと辿り着き、言語化されると、思考を伴って私の心にとてつもなく大きな衝撃をもたらし、弾けた。
目を奪われるなんてものじゃない。頭の先からつま先まで、細胞の全部が震え上がる。彼女に吸い込まれる。
横顔を見ただけでこの状態なのに、壇上の彼女が満面の笑みでこちらを向いた瞬間、私は確信してしまった。
一目惚れだった。
今まで一度も機能したことのなかった私の恋愛を司る脳の一部が、彼女という外的要因によって焼き切れそうになるほど活性化し始める。理性を置き去りにした人本来の本能が暴れ出す。
この気持ちは運命だなんて言葉では表しきれないけれど、それ以外に適切な言葉なんて思い浮かばなかった。溢れ出る激情を抑えることなんてできなかった。
彼女の顔をもっと近くで見たい。彼女と話してみたい。彼女の存在をこの手で確かめてみたい。
恋に不慣れな私の心で、歪な愛が渦を巻き始める。
その日私は体験入部さえすっ飛ばして、テニス部への入部届を提出した。
この瞬間から、私の小さな世界は先輩を中心に廻りだしたのだった。
─────────────────────────────────
恋という形なきエネルギーはどうやら人間にとって最高級の燃料のようで、私の身体には朝から活力で漲っていた。
何をするにも身体が軽い。小学校の頃より少し伸びた授業時間も、放課後の部活動を考えれば全く苦にならない。
私は一週間の仮入部期間を全てテニス部に注ぐと、その後無事にテニス部への入部を果たしていた。
ただこの1週間の間、私は一目惚れしてしまった名前も知らない先輩を遠目でしか見ることができていなかった。
あの一目惚れした時の激情をそのままに動いていればもっと積極的にあの先輩に話しかけられたかもしれないけれど、一晩寝て冷静になった後、軽く黒歴史と化したあの思考を今更もう一度引っ張り出してくるのは勘弁して欲しい。
けれど全く彼女について情報が得られなかった訳ではなく、分かったこともある。どうやら学年でテニスウェアの柄は違うらしく、先輩の柄は今私達を代わる代わる指導してくれている二年生のもののようだった。
ではどうしてあの先輩がこちらに指導に来てくれないかと思っていたら、少し後に分かったのだけれど、どうやら彼女は春に行われた大会で優勝したらしく、県大会に出場するためあちらの練習で手一杯らしい。
「はぁ……あの先輩の名前だけでも知りたいなぁ……」
ロッカールームで一人着替えながら、ため息を吐く。
せっかくあの先輩に近づくためにテニス部に入ったのに、これじゃまるで意味がない。県大会に敗退すればこちらを見に来てくれるんだろうけど、それを願うのは流石に間違いだろう。
着替え終わったのでグラウンドに出ると、早速テニスコート四面分の外周を三周走るランニングが始まった。
このランニングは全学年合同なので、私が彼女をゆっくりと見られるのはこの時ぐらいしかないのだが、元々運動なんてからっきしな私からすればこれがまたキツくて仕方がない。
先輩を見る余裕もなく、列から取り残されるような形で息を切らしながら走る。どうやら恋愛パワーで体力は増えないらしい。
しかしラスト三周目に入り最早半分魂が出ている状態の私に、奇跡が起きた。
「ねえ、大丈夫?」
なんだか甘い香りと共に横から聞こえた声に釣られて顔を上げると、そこには今まで遠目で見ることしか叶わなかった、あの先輩の顔があった。
「えっ……」
その瞬間疲れなんて全部忘れて、彼女に見惚れてしまう。まさか声をかけてもらえるだなんて思ってもみなかったから。
「しんどかったら歩いても大丈夫だよ?顧問の先生もまだ来てないしさ」
優しく声をかけてくれる先輩の目が見られなくて、視線が下に逸れる。
逸らした視線の先で彼女のユニフォームには『不破』という文字が刺繍されているのを目に入った。
けれどいつまでも先輩の言葉に応えないままではいられないので、さっきからフル活動している肺にいっぱい空気を吸い込む。
「だ、だいじょう……ぶれすっ!!あと……ちょ……すこし……ですかりゃ!」
声は裏返り、舌もろくに回ってない私の言葉に先輩はどこかおかしそうに笑うと「まぁまぁ。あと半周ぐらいだし、私も一緒に歩くからさ」と言って、走る速度を落とし、歩き始めた。
そんなことをされてしまうと私としても走り続けるわけにはいかなくて、先輩の横を歩く。
「えーっと。白壁さん……でいいのかな?」
「は、はい。白壁 椋っていいまふ」
あの憧れの先輩と喋っている!!そんな心の興奮とは反比例するように、私の口から漏れる声は緊張でなんとも弱々しいものになってしまっていた。
「むくちゃん!すっごいいい名前だね!!」
「そ、そうですか?」
家族以外の人間に椋と言われることが初めてだったので、少しドキッとしてしまう。
「うん。私と違って名が体を表してるね!あっ!私は不破 美月っていいます!」
先輩が胸の辺りにある自分の名前が刺繍されているところを掴んで自己紹介してくれる。
「じゃあこれから私は白壁さんのこと椋ちゃんって呼ぶから、椋ちゃんも私のこと美月先輩って呼んでね!」
「えっ……」
家族以外に名前で呼ばれるなんて初めてで、それだけでも嬉しくて口から心臓が出てきそうなのに、私も先輩のことを名前で呼ぶだなんて心臓以外の諸々の内臓まで吐き出してしまいそうだった。今は走った反動で胃の中のものが口から出そうだけど……
「あのっ……いいんですか?」
「いいよいいよー!一年先輩なだけで偉そうにするのもされるのも私嫌いだからね。気にすることないよん。はい!それじゃーりぴーとあふたーみー!美月先輩!」
「み、美月先輩……」
私が先輩の名前を呼ぶと、先輩は満足げに頷いた。
「よろしい!じゃあ練習行こっか!これからよろしくね!」
気がつけばいつの間にか残りコート半周分の距離はゼロになっていて。時間を忘れていたというよりは、美月先輩といる時だけまるで違う世界に飛ばされていたかのような感覚に陥っていた。美月先輩は世界さえも変えてしまうのだろうか。なんて。
美月先輩が私に手を振って他の二年生と合流するために走り去って行く。
私は離れていく美月先輩に小さく頭を下げると「こちらこそよろしくお願いします」と少し熱い顔を自覚しながら呟いた。
「さて、私も行かなきゃ……」
そう思って私もラケットを持って他の一年生と合流する。
一年生の次の練習メニューは素振り百回だったけど、先程の先輩との時間を思い出すと幸せで私の心は満たされてしまって、その度私は自分が何度素振りをしていたのか数え直す羽目になってしまったのだった。




