やまぶきの里
そして、そこ『やまぶきの里』でのカヨの暮らしもすでに三年が経とうとしている。
始めのうちは
「いつ帰れるのか」
と職員に訊ねてばかりいたカヨだったが、信二から言い含められ、だんだんと生気の失せた目で
「早く、楽になりたい」
それしか言わなくなっていた。
いつ見ても、カヨには表情がなかった。
ただ、うつむきがちに自身の足もとに目を落としているのみの老母の様子に、信二は
「寒くない?」
などと声をかけてみては、返事のないつむじを見て、声にならないため息をもらしていたずらに訪問の時を一秒ごと潰していた。
車でやまぶきの里に向かう道すがら、信二はそっと峰子に
「窓、少し開けるよ」
わざわざそう断って、少しだけ窓を開けた。
五月のやや冷たく強い風が細く開けた車窓から中に吹き込んでくる。
薔薇の匂いはやはり、信二には少しばかり強かった。
そしてその香りの中、峰子の横顔は近頃よく見る嫣然たる笑みを浮かべていた。
施設の駐車場に着いた際、峰子は後ろの席から薔薇の花束を取ろうとして身をひねった、がどうしても束に届かない。手を貸そうと信二が手を伸ばした、その時。
「やめてよ」
邪険な言い方で、峰子は信二の手からするりと、身をかわす。そしてそのまま、車から降りた。
「花が散るでしょ、最初からこうすればよかった」
外から後部のドアを開け、峰子は悠々と花束を取った。
信二はただ、「ああ」と言ったきり、峰子を待たず先に立って歩き出した。
カヨは、訪ねてきた峰子に対しても、もう何も文句を言う事がなくなっていた。
その日もただ、
「早く楽になりたいねえ」
そう言うだけのカヨに、信二はすでに苦笑をもらすのみだ。
峰子はと言えば、わざとらしいくらいの優しさでカヨに、お花を持って来ましたよ、窓を少し開けますか? 寒くないですか? としきりに声をかけている。
通りかかった介護スタッフが、部屋をのぞき込んで無邪気に声をかける。
「わあ、可愛いお花!」
そばかすのある若い娘で、まだ二十代になったばかりのようだ。
アンタの方がよっぽど可愛いよ、信二は言おうとしてつい、峰子の顔を盗み見る。
峰子は澄ました顔で、スタッフに曖昧に笑みを返す。カヨはいつものように、床を見つめていた。
三人で小半時ばかり、施設の外に出た。
車椅子を押すのは峰子だった。信二はやや遅れて、その後についていた。
「ほらお義母さん、雀が」
「ああ」
「可愛いですね」
「かわいいね」
「お義母さん、あそこ、まだ藤が残ってる」
「本当だ」
「奇麗ですね」
「キレイだね」
背後から見守る限り、そこにはただ、平和な時が流れるのみだった。
部屋についたと思ったとたん、カヨが激しく咳き込んだ。
「大丈夫ですか」
とっさに、車椅子の後ろについていた峰子がティッシュを取り、それをカヨの口にあてがう。
しばらく口もとを押さえてもらい、だんだんと咳が小さくなった頃、唐突に峰子が言った。
「信二さん、帰りましょう」
ああ、と信二はすぐに椅子から立ち上がった。まだカヨの咳の発作は続きそうで、いつまでも帰れなくなるのでは、という気もあったのは否めない。
帰りがけに、カヨが何か言いかけたようだったが、
「え?」
問いかけた信二の背を、思いがけない強さで峰子が押し、その勢いでふたりはカヨの部屋を後にした。