確執の庭
それから長いこと、表面的には静かな暮らしが続いた。
峰子は間もなく外で働き始めた。結婚前に勤務していた会社からちょうどパートを頼まれたと言っていたが、慣れた職場ということもあってか、すぐに仕事はフルタイムになっていた。
残業もこなし、信二よりも遅く帰宅することもザラだった。
カヨはと言えば、好きな時に好きな場所に出あるき、在宅中はたいがい庭の畑を丹精するか自室の縁側に近所の友人を招いて、いつも家にいない嫁の悪口を言いまくっていたようだった。
町内の集まりの際に、信二はどこかからめぐりめぐってまた戻ってきた、そして更に尾ヒレのついた我が家の噂話をちらりと耳にすることがあった。いわく、妻の峰子が子ども嫌いでそれが高じて子どもは要らないと言い張っている、とか、妻が義母の野菜をこっそり持ち出して地元の産直販売で売りさばき、それを小遣いにしている、とか。
辿ってみればそれは、ほとんどがカヨの放った話から派生したものだった。
「私たちの前から、消えてくれればいいだけなの。完全に」
峰子の静かな声が、そのたびに信二の耳の中で鳴った。
もともと、峰子とはどんな馴れ初めだったのか、信二には明確な記憶がなかった。
もちろん、最初に見かけたのは得意先の応接室だったことや、度々電車が一緒だったこと、半ば強引に信二の方から誘いをかけたのは、断片的には覚えがある。
なぜ、峰子のような、誰からもうらやまれるような美しい女性が、自分のようなぱっとしない男と一緒になろうと思ったのか、後からさんざん友人たちにもひやかされたものだった。
オマエのような、アラレもふやけて冷めきった茶漬けみたいな男の、どこに魅かれたんだろうな。親友にもつくづくそう言われたこともあった。
結婚式も、式場での記憶もあるにはある。しかし、今となっては何もかもがぼやけた刹那の映像くらいにしか残っていない。
ただ、彼女があの白く端正な顔をまっすぐこちらに向けて、こう問いかけてきた時のことは、くっきりとまぶたに浮かぶのだ。
あれは付き合い始めて間もなくくらいだったか。
「素敵なお庭を、作りたいの。ゆくゆくは薔薇園にしたいのだけれども、いい?」
もちろん君みたいな美しい薔薇をいくらでも植えてくれ、僕も楽しみだ、信二はそう答えた。
その時峰子が浮かべた満面の笑み、ぱあっと薄桃色の薔薇が開いたがごとき笑顔が、多分信二が今までに見た、最高の笑みだったように、彼には思えてならなかった。
信二があと数年で定年を迎えようという頃から、カヨは体調を崩し、入退院を繰り返した。
当然といえば、当然のことではあった。元気そうにみえても、カヨはすでに八十を越えていたのだから。
峰子がたまに信二について見舞いに行くと、体調のすぐれないせいもあったのか、その度にカヨは辛らつな口調で峰子にあたり散らした。
「会社ヅトメにかまけているような女が、料理なんぞまともに作るわけがない。だからアタシも調子が悪くなったんだ。インスタントばっか食わされたからね。ああ、じっくり煮込んだゴボウやイモが欲しいもんだ」
信二だけが訪ねていっても、聞かされるのは峰子の悪口ばかり。
「いつもぷんぷん匂いのきつい花ばっかり植えて、あんな嫁、畑だってさぞかし荒らしているだろうよ」
信二はあやふやな笑みを浮かべ、いつも罵詈雑言の嵐を受け流していた。
確かに畑は、荒れ放題だったから。
信二も、庭にはまったく興味はなかったので、草すら取ったことはなかった。
カヨの舌鋒とどまることなく、それもあって、峰子の足はますます病院から、カヨの元から遠のいていった。
カヨが束の間退院している時にも、決して彼女の部屋にまで入ろうとしない。
峰子が用意する食事も、枕元に届けに行くのは日中はヘルパー、夜は信二の役割だった。
くり返された入院生活の果て、カヨは自宅に戻ることなくそのまま介護老人施設に入所した。
認知症という程ではなかったが、体力がなくなり、ひとりで歩くのもままならず、常に車椅子を使うようになっていた。
峰子はと言うと、施設について行くのには決して嫌がる様子がない。
むしろ、積極的に
「次はいついらっしゃるの?」
そう信二に訊ねるくらいだった。
その頃にはすっかり、峰子の作り込んだ薔薇園はかなりの規模になっていた。