甘い香りの床
「ねえ信二さん」
ある晩遅く、ベッドに入った信二はふと呼びかけられた気がして、普段は向かない峰子の方に寝がえりをうった。
峰子の白い顔がこちらを向いている。
峰子は無表情だった。赤い唇が、かすかな音とともにこうことばを発していた。
「あの人、いつまで家にいるつもりなのかしら」
「えっ」
すぐに誰のことか分かった。というか、彼ら二人の他に家にはカヨしかいない。
「早く、出て行ってくれればいいのに。どこでもいいから」
「……さすがにもうひとり暮らしは」
「ちがうの」
峰子の言い方はひたむきな小学生みたいに、真剣みを帯びていた。
「私たちの前から、消えてくれればいいだけなの。完全に」
薄暗がりの中で、信二は彼女の真意を図りかね、まじまじとその赤い唇を見つめているしかなかった。
唇が更に何かを形作る。信二は思わずつばを呑んだ。
もしかしたら、その赤い唇は自分をもとめに来るのだろうか?
そう感じたのは束の間で、すぐに峰子はくるりと寝返りをうって、布団をかぶってしまった。
つややかな黒い髪だけが布団のふちからさらりと流れ、彼の鼻先に届かんばかりだった。濃い花の香りはシャンプーなのだろう。
信二は彼女の毛先をそっと自分の顔から遠ざけ、自身も布団をかぶる。
そう言えば、彼女に近頃、触れたことがなかった。
触れていないのは、いったいいつからなのだろう、そう思いながらいつの間にか信二の意識は遠のいていった。