【序―②】続
「説明、終わったかい?」
桜花の説明が少し口を濁し始めたころに、空澄さんは帰ってきた。
「そういえばヒカリさんはこの心世界で離脱を試しましたか?」
「いいや? 部屋に今しがた入ってからは一度も。なにか問題でも?」
「問題あるんですよ。ちょっと離脱を試してもらってもいいですか?」
言われた通りに空澄さんは離脱とやらを試したのだろう。目を瞑り、しばらく固まっている。しかし彼女がこの場から姿を消す様子は全くなかった。
「うーん。これは……ユウマ君はともかく、桜花ちゃんが現実世界に戻れない訳がわかったよ。接続の強制維持を張っているなんて」
二人とも深刻そうな顔をしている。会話に参じることは出来ないが、どうやら現実世界には帰れないらしい。
「下手をすれば自己崩壊と複数の意識体による融合が発症します。……というか、すでに何名かは消失していますし。もう手遅れかも……」
「そんなに心配することなのか?」
と、合の手をいれたつもりだったが、ものすごくあきれ顔を向けられてしまった。
「まあまあ、桜花ちゃん。ユウマくんは記憶がないんだから仕方がないだろう。簡単に言ってしまうと、他人の心世界に長時間潜っていると、その人の心に寄っていくんだ。主な症状としては記憶があいまいになったり、心世界を夢だと錯覚したり、酷くなると自我を亡くして亡霊みたいになる。肉体は生きてるけど、精神が生きていない。抜け殻になってしまうんだ」
記憶があいまい、夢だと錯覚する、か。まるでさっきまでの自分みたいになるのか。
「しかし、いよいよまともな心世界じゃないなあ」
「どういうことですか?」
「いや、この心世界を軽く調査したんだけれど、現実との精度が異常に高かったんだ。あー、その顔は二人ともよくわかってないみたいだね。数多くの心世界に入ったらわかる事なんだけれどね。
普通の人の記憶って一定の箇所だけ鮮明で、その他は結構曖昧だったり、あるいは欠落していたりするものなんだ。だけどこの心世界は正確すぎるんだ。異常なほどに広域にわたって鮮明で、現実世界の生き写しと断言しても遜色ないほどにね。一人の記憶だけで構成している心世界のクオリティではなかったよ」
「それって、単純にすごい記憶力の人とか、そういう次元の話では片づけられないのか?」
という質問では、どうやら説明がつかないらしい。
「例えば、知らない人の家の中を正確に、全ての部屋の様子がわかったりできないよね。最悪、窓から見える所しか投影できない。でもここの記憶は全ての家の中が正確に再現されてた。人の家の風呂場に置いてあるシャンプーの種類なんか、わかる訳がない」
なんだろう。その説明は凄くわかるんだけれど、一つ、これだけは言いたくなった。
「……いったいあなたは何を調べてたんですか? 真面目な顔して解説してるけれど、人の家を覗き見て、部屋を観察したり風呂場覗いたり、それってなんだか変態っぽいですよ」
「え、いや! これは部屋主を探し出す為に有効な手なんだよ! だってほら、心世界で精密に再現された場所があれば、そこが部屋主を特定する手掛かりにもなるし、そういう下心で私は動いてないって!」
こればっかりは桜花もなんだかなぁ、という顔をしていた。
「まあ、いろいろ弁解したいこともあるけど、一度現実世界に戻ろ?」
『は?』と生意気にも返事をしたくなる発言だった。何を言っているんだこの人、本当に大丈夫だろうか。
「さっきこの心世界から離脱できないって言ってましたよね?」
「うん、言ったよ。通常の離脱方法では不可能だった。けれどさっきの黒いモクモクに使った『強制排除』のアビリティは使用できた。あれは相手を心世界から強制的に現実世界に押し返すためのスキルだし、アレが使えるんならこの『部屋』から出ることは可能なハズだよ」
空澄さんは自信ありげに言ってまた何もない空間に左手をかざした。するとまた奇妙な英文が彼女の腕に輪を創り、再び巨大な石の門が現れた。今度は耳障りな雑音はなく、特に視界が荒れる様な事もなかった。この差は何なのだろうか? まあ、二人は特に気にする様子もないので、どうでもいいことなのだろうと思う事にした。僕だってこんな訳の分からない状況にいい加減ウンザリしているし、早く現実に帰りたかった。
「よし。この扉が開いたら入ってくれ。そうすれば現実に戻れる」
空澄さんは片手で石の扉を押し開けて先に僕と桜花が入るのを待つ。僕達はそれに促されるままに中に入ってしまう。
「それじゃあ現実でまた会おう」
そんな風に空澄さんが言うと、再び彼女はハッとなった顔をして目をうようよとし始めた。そして何かを言おうとしては「やー……」「えー……」と文字を伸ばしては口を紡ぐ。ようやく体の端らへんが、まるで砂塵が風に吹かれて消えていく頃になって言葉を口にした。
「キミ達に一言謝らなくちゃならない事があるんだけど、まあどっちみち覚悟しておかないとここから出れないからさ。いや、入ってからこんなこと言うとだまし討ちみたいで凄く気が引けるんだけれども――」
「長いです。さっさと言ってください」
桜花がズバリ言うと空澄さんは観念したようにもう一度口を閉じ、また話し始めた。
「この『強制排除』のアビリティはパソコンでいう所の作業中にクラッキングして強制終了を実行する攻撃みたいなものだから、その、偶になんだけれどね。現実に戻った時に体に不調が起きるかもしれないから気を付けてね」
「ちょ――ッ⁉」
不穏なカミングアウトと同時に、僕達三人は石の門の中で、ぐしゃぐしゃに押しつぶされる感覚を覚えながら、意識は現実世界へと帰って行った。