【旧―①】
最初に思い出したのは部屋だ。小さな頃の小さい世界、幼い時分。ちいさな記憶。
一生のスタート地点。
「優真。本当の優しさを知っている、そんな子になりますように……」
そんな風に、自分は誰かに愛されていた。そんな気がする。どこか懐かしくて、安らかで、平穏で、永久的で、静かに眠っていたい。そんな記憶だった。
『そうだ。ここ、子供部屋か』
カラフルなマットに、柵のあるベット、積み木が整頓されておいていて、絵本の棚があったりする。僕の面倒をみる女性がいて、たぶんこの人が僕の母なのだろう。
なんだろう。不思議な気分だ。この記憶にあてられていると、酷く心が寒くなる。その理由は、後ほど理解できた。
記憶の景色が移り変わる。
白い部屋。きれいな公園の見える窓。
静かで、何もなくて、他人の臭いに満ち満ちていた。その中に、母は黙って目を閉じて、眠り続けている。白いカーテンが端に寄せられていて、その手前に小さな花びんに一本の白い花が刺さっている。
僕はその場へ何度も来たことがある。
その度に、僕は大きな男の人に手を引かれてやってきた。手をつなぐとき、常に手が上がりっぱなしで肩が痛かったのも覚えている。この人が、僕の父。
何度か、そんな事が続いたと思うが、どうだったか。
「優真がしっかりと、お父さんを支えてやってね。あのひと、凄く弱いんだから。私が死んだら、絶対にあの人、泣くからね。そばに居てやってね。て、5歳の子に何言ってんだろ、私」
なんとなくわかる。この人はもうすぐこの世からいなくなってしまうのだと。子供ながらでも、不思議とその辺はわかってしまっていた。
『あぁ、本当だよ。なんてこと言ってんだよ。そういうのって父親に子供をちゃんと育ててねって言うもんだろ』
不甲斐ない、というのも生意気な発言かもしれないが。
「お父さんと仲良く、協力してね。あと、信じてあげてね」
そして記憶にこびりついて消えない言葉を残した母は、その後間もなく目を覚まさなくなり、場面は変わり、花の入った箱の中に入っていた。
『わかったよ。なんでさっき寒い気持ちになったのか……。このあったかい人がいなくなってしまったから……それを思い出したから、寒く感じてしまったんだ』
人というのはこうもあっさりと人生からリタイアしてしまうのかと、呆気に取られてしまった。後に残ったのは胸の中にぽっかりとした、空虚な何かだった。だからなのか……僕は泣かなかったと思う。泣いたり、喚いたり、そんな事は無かった。考える事ができなかったからだ。
「まだ五つなのに……あの子泣かないのよ、偉いわね」
「逆に不気味な気もするけどな」
「それより問題なのは父親の方じゃないのか?」
「アレ、ずっとあの調子だぞ」
周囲の人間が、僕と父を指差して何か話している。
父は無言で泣いていた。瞬きをせず、ただジッと涙を流し続け、夜も寝ずにただ母の亡骸の前に立っていた。母の死に、父の魂も持っていかれてしまった様に。中身の無いもぬけの殻。そんな風に幼い僕は思っていた。
記憶の場面がまた変わる。親戚の叔母が上っ面だけ優しそうに語り掛けてくる。
「今、お父さんは心の病にかかっているの。正直、あなたをお父さんと一緒に生活させるのはどうかと思うのよ。ゆうま君はどうしたほうがいいと思う?」
何の話だったのかというと、まあ僕の身請け先の話だった。お父さんのそばに居て、お父さんを支える。それが母の遺言みたいなものだったから、当然僕は父と一緒にいる事を選んだはずだが、しかしそれは出来ないと皆困った風に言う。
結局施設に行くか、祖母の家に預けられるかという二択を迫られることになった。
そんな時、誰かが言った。
「だいじょうぶよ、きっとお父さんも元気になったら、ゆうま君を迎えに来るから」
結局、僕は父方の祖母の家に引き取られることを決めた。
そして子供ながらに、心のどこかで彼女の言った迎えに来るという言葉を信じていた。




