九二段 厳しい修行を重ねてきた俺でも酔うわけだ
『――はっ……』
ぐいっと意識を引っ張られるような感覚で俺は我に返った。
『……え、あ……?』
今まで感じてきたことはなんだったんだと唖然とするほどに、レイドも髭面の殺し屋も普通に進んでいた。しかもまだまだやつの表情さえわからないほどの距離がある。一体あれはなんだったんだ……。
『シギル兄さん、大丈夫?』
『……あ、リセス、俺意識を半分くらい失ってたみたいだ……』
『うん。そんな感じかな。いくら呼びかけてもわけのわからないこと呟いてたし……』
『やはり、そうか……。夢でも見てたのかな。もう間近にあいつの姿があったんだよ……』
『……どんな顔してた?』
『……嬉しそうに笑ってたな。それも、凄く……』
『じゃあ、夢じゃないね』
『えっ……?』
『私、目がいいから。あの人、今凄く嬉しそうに笑ってるよ』
『……じゃあ、シンクロしてたってことか……?』
同じ体に二つの意識があっても、感じられることは別々なのは今までの経験でよくわかっている。それは目に見えるものだって同じこと。だから俺には今あいつがどんな表情をしてるのかなんてわからないんだ。
『……多分ね』
『でも俺、酩酊状態になっててまるで夢の中にいるようだったな……』
『一時的に混乱状態になってたんだと思う。普通の人が受けたら気絶するくらいの殺気を放ってるからね。あの人』
『そうなのか……』
『うん。それだけならまだしも、私も加わってるから……』
『なるほど。厳しい修行を重ねてきた俺でも酔うわけだ……』
それでも正常に戻れたのは、彼女が俺を呼んでくれたからでもあるんだろうが、それだけ俺が殺気に揉まれることで慣れてきたってことも大きいんだろうな。
『もう大丈夫みたいだね』
『ああ。おかげさんでな……』
『それじゃ、もう決着がつくまでは喋らないからね』
『ああ……頼んだ、リセス……いや、レイド……』
『……クックックッ、待ってな。俺は殺し屋レイド。やってやるぜ……』
『無理矢理キャラ作らなくていいから……』
『……へへ』
やつが近付いてくる。今度は本物だ。お、急に走ってきた。大きく開かれた口から糸が引く白い歯を覗かせながら……。って、あれ? 目前でやつの姿が見えなくなった。まるで忽然と消えてしまったかのようだ。
――いや、いる。やつは消えたわけじゃなかった。移動しているのだ。それも、軽やかな《ステップ》によって……。
拳闘士のスキルについては色々調べたが、この《ステップ》というスキルは中でもかなり有用だと感じていた。
これを使えば、自身の周りならどこでも自由自在に移動できるのだ。《微小転移》よりは遅いが、動ける幅はこっちのほうが広くて精神力も一切使わない。体力をほんの少し消耗する程度だ。また、その際に体勢を変えることができるので捕えられにくい。熟練度が増せば、手の指先、肘、足の爪先、肩、頭頂部……あらゆるところを利用して移動できるとのこと。
《微小転移》によってレイドがやつのあとを追うが、追いきれないでいる。信じられない……。決してやつのスピードが速いわけじゃないのに。むしろ、表情と同じようにダラダラとした締まりのない緩慢な動き方だ。全身に骨が通ってないんじゃないかと錯覚するほどフニャフニャした気持ち悪い移動を繰り返している。
さらに秀逸なのは、一見ふざけているようで常にこっちの目線を切る的確な動きだった。やつの姿を捕えたかと思ったときにはもう消えていた。《ステップ》によって悉くこっちの死角に入り込んでいるんだ。《微小転移》で常に動いてるのにここまで徹底してそれができるとなると、レイドの動きをある程度予測していないと無理だろう。相当に豊富な実戦経験がなければできないことだ。
俺だったらやつの髪の毛一本さえ飛ばせる自信がない。それくらいまったく隙が無いんだ。というか普通ならこんな動きをされたら少しは焦りそうなもんだが、レイドは違った。ただ黙々と、淡々と《微小転移》を繰り返していたのだ。
かと思えば宙で止まる《浮遊》や残像が出現する《ミラー》を唐突に混ぜ込んで攪乱するし、本当にわけがわからない。相手も警戒してか下手に突っ込んでこないから凄いが……。
この状況をわかりやすくいえば、相手は攻撃されにくいようにこっちの死角に飛び込む動きをひたすら繰り返していて、レイドは追尾しつつもたまに罠を張っているといったところだ。これはもう、冷静すぎて最早見てて怖くなるレベルだ……。
恐ろしいのは、一瞬見えたやつの顔も同じだった。口は大きく開かれて涎が垂れそうなほどだらしないのに、目はまったく対照的で今にも飛び出しそうなくらいに見開いていたのだ。
「……こ、この動きは……信じられん。……じゅるっ。気配で只者ではないと察知はしていたが、やはりレイドなのか。生きていたのかああぁ……」
髭面の殺し屋が、涎をダラダラと垂らしながらにんまりとしたおぞましい笑顔で呟いているのがなんとなく想像できた。




