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第一話 転校生

 伸ばした指が、届かない。

 掴みたかったものは、透明な青に埋め尽くされた底へと沈んでいく。

 大切な笑顔は、この手から喪った瞬間、罪の証へと変わった。

 今でも鮮やかに蘇る、決して忘れることのできない、罪の証。

 優哉。

 あなたの命と引き換えにして、わたしは。

 今でも無様に、生きています。








 その転校生は、異様だった。

 転校生が入ってきた途端、森葉中学2年A組の教室には、波紋が広がった。

 峰村みねむら俊哉しゅんやは転校生に興味はなく、頬杖をついてぼんやりと窓の外に視線を投げていたが、教室の空気があまりにも異様なため、頬杖をといて黒板のほうを見た。

 そして、思わず息を呑む。目を瞠った。

 転校生は、女子生徒だった。だが。

 頭に巻かれた包帯。左目は眼帯に覆われ、漆黒の右目だけが前髪の下からのぞいていた。右腕は骨折しているのかギプスで固定され、幅の広い布で首から吊されている。左腕の肘から手首にかけても包帯が巻かれていた。右の太もも、左足の脛も、それぞれ包帯で覆われている。

 そして転校生本人は、自分に集まっている視線を感じていないかのように、感情が削ぎ落とされた表情をしていた。

 あまりにも異質なため、教室の空気は凍結する。


 その凍結した教室の空気を破ったのは、担任の遠慮がちな咳払いだった。

「えー…浜西館学園から転校してきた、水瀬みなせれいさんだ。この通り大怪我を負っているので、いろいろと助けてあげるように。…水瀬、何か一言…」

 この異質な転校生に何かを命令するのは何故か躊躇われて、担任は言い淀む。

 水瀬黎は顔は動かさずに、右目だけで教室を見回した。片目の視線に、俊哉は一瞬竦む。

 だが、皆俊哉と同じような反応をしている中、水瀬黎は淡々と言葉を紡いだ。

「水瀬黎です。中途半端な時期に転校してきてしまいました。この通り怪我人ですが、自分のことは自分でやります。しばらくの間迷惑をかけるかもしれませんが、よろしくお願いします」

 その間も、右目に感情が浮かぶことはない。

 転校生なら普通あいさつに入れるはずの「仲良く」や「楽しく」などの言葉は出てこなかった。それがこの転校生には当たり前のように思えて、俊哉は右手でつくった拳を軽く頭に当てる。

「…あー、じゃあ、水瀬の席は、そこだ」

 担任は、教室にいくつかある空席のひとつ――一番窓側にある列の、後ろから三番目の席を指さした。

 俊哉はどきりとする。

 俊哉の席の左斜め前。

 水瀬黎は怪我をしているはずの左手で傍らに置いてあったカバンを持ち、平然と歩き出した。そんな怪我人の転校生の一挙一動を、教室中の目が追っていく。

 水瀬黎が席に着いたところで、異様な空気に満たされたHRは終わった。



 さわさわさわ。

 いつもとは質の違う、戸惑いを含んだざわめきが、教室を漂う。

「何であんな大怪我」「事故ったのかな」「無表情な奴」「鉄面皮」「何で怪我治る前に」「なんか怖ぇ」「変な感じ」…。

 五分休み。

 転校生を遠巻きにするように、人の塊ができた。話しかけにいく者は、いない。

 水瀬黎は我関せずの態度だった。自分に与えられた机の上に文芸雑誌を広げ、目を伏せがちにして、誌面に並ぶ文字を追う。

 俊哉は奇妙な転校生の斜め後ろ、という位置が嫌で、人の塊に加わっていた。

「変な奴だよなぁ…」

 俊哉の隣に立っている長身の男子生徒・関谷せきや力斗りきとが呟く。力斗の隣の小柄な男子生徒・神津かみつ慶介けいすけも言った。

「ほんと。何なんだろあの大怪我…」

 俊哉・力斗・慶介の三人は、教室の後ろに据えられたロッカーに寄りかかるようにして立っていた。三人とも小学校からの親友同士で、よく行動を共にしていた。

「とゆーか、あの席疲れる。なんつーか、プレッシャーが…」

 俊哉は思わずぼやいた。

 転校生が何かしているというわけではないのだが、妙なプレッシャーが来るのだ。中学生にあらざる無感情さ。ただそこにいるだけなのに、変な威圧感がある。

「なんかわかるわ。俊哉、お疲れ」

 慶介がぽんぽんと俊哉の背を叩く。俊哉は大きく息を吐いた。

「席替えしたい…」

 そう呟くと共に、チャイムが鳴った。人の塊はもたもたと散ってゆき、各々の席に帰って行く。

 俊哉も重い足を引きずり、自分の席へと戻っていった。

 ちらり、と水瀬黎のほうを見る。黎は黙って、雑誌に目を落としている。

 俊哉は何故か足を止めた。


 自分と外界を切り離したような黎。まるで、世界に自分しかいないかのように。

 そんな黎を見ていると、俊哉も教室の喧騒から切り離されたような錯覚に陥った。

 ガラスか水を通しているように、教室のざわめきが遠くなっていく。視界に鮮やかに映るのは、黎の姿。不思議な感覚。

 俊哉は教室のざわめきを遠くに聞きながら、ただぼんやりと、黎を眺めていた。

 

 ふいに、黎が雑誌から視線をあげた。俊哉はハッと視線を逸らし、足を動かす。席に着いたあとで、もう一度黎のほうを見た。

 斜め後ろの角度から、僅かに黎の表情が伺える。

 俊哉はふと目を瞠った。

 黎の右目に、微かな、抑えきれない感情が滲み出ているように見えたのだ。

 悲しい。

 淋しい。

 苦しい。

 黎の右目がまた、感情を殺して光を反射する漆黒になるまで、俊哉は視線を外せなかった。



                    §



 自分に向かって、好奇の視線が集まっているのがわかる。それでも黎は、特に何を感じるでもなかった。

 文芸雑誌の文字列を目でなぞる。けれど、黎の中に物語は入ってこない。

 頭の傷は滅多に痛まないし、左腕は広範囲にわたるが軽い火傷で、日常のことはできる。右腕は二カ所単純骨折しているが、左腕が使えるため苦にはならない。右の太ももは少し重い火傷だが歩くことはできるし、左の脛はヒビが入っているが手術はすんでいて、体重をかかとにかけるようにすれば痛まなかった。左目も、そろそろ眼帯がとれる。

 だいたい二ヶ月――八月上旬までには、すべての怪我が治るはずだ。

 だから、そんなに急いで学校に来る必要はなかった。黎は前の学校でも成績トップで授業の飲み込みも早かったから、せいぜい右腕が治るまでは、自宅で静養していてもよかったのだ。

 けれど、黎は学校に来た。

 黎は一瞬雑誌から視線をあげ、長く息をつく。

 耳の奥に、体の芯に、記憶の底に、くすぶっている音があった。

 ごぽり。ごぽり。

 不気味にも感じられる水の音。

 こぽぽ。こぽ。

 小気味よく響く、水の音。

 あらゆる水音が、刻みつけられている。

 そしてこの水音と共に、脳裏に浮かぶひとつの笑顔。

 そっと、胸の中で名前を呼ぶ。


 …優哉。


 その途端、黎は、心の奥に沈んでいた感情がこみ上げてくるのに気付いた。息が苦しくなり始める。

 悲しい。

 淋しい。

 苦しい。

 深呼吸することで感情をなだめて鎮めながら、黎は微かに、本当に微かに、顔を歪めた。

 やはり、駄目だ。

 水音に耳を傾けると。笑顔が浮かんでくると。名前を呼ぶと。

 どうしても駄目だ。思い出してしまう。叫び出しそうになる。泣いてしまいたくなる。

 理性で自分を律せなくなる。

 だから、学校に来た。少しでも、水音をまぎらわせるために。

 少しでも、痛みから顔をそらすように。 

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