7 ダイス、初登板決まる
「何だって?」
「ですから」
「聞こえとる聞こえとる」
はああ、とトバリ監督は露骨に顔を歪めると、額に手を当て、大きなため息をついた。
「何だってまあ、お前等は、俺のシワだの白髪だのを増やすような真似をしてくれるんだ…」
「で、今は医務室に居る、と言うことですが…」
「どっちにして、ひねったなら、今日は奴は出せないな。踏ん張りが効かないし…」
ううむ、と監督はうなると、椅子に背を投げ出し目をつぶり、腕を組んだ。
数秒、そのまま考え込む。
そしてぱち、と目を開けると。
「よしダイス。お前出ろ」
「は?」
「お前出ろ、と言ったんだ、ダイス」
は、と彼は少しの間、どう答えていいものか迷った。
無論、「その時」がいつか必ず来るとは思っていた。だが、初登板がこんな形で来るとは。
「俺が、ですか?」
「お前も先発要員だろうに? それに、お前以外、今のローテーションの中で、使える奴がいないだろう」
つまりは、今の所の監督の考えるローテーションから、外れていた、ということなんだが。
「そうと決まったら、もっとちゃんと投げ込んで、肩を暖めておけ!」
「は、はい!」
さすがに彼は、まだいまいち頼りない返事しかできなかった。
だが迷っている暇はなかった。
とにかく再び練習場に戻らないことには仕方ない。ダイスはは足早に、廊下を進んだ。
と、ふとトイレの横を過ぎようとした時、自然の欲求も思い出した。そもそも、彼はトイレに行くはずだったのだ。ずいぶんと回り道になってしまったものだ、と苦笑する。
古典的ビアホールの様な、胸の上くらいからしかない観音扉に彼は手を掛ける。その時。
「―――だったらいいんだよ」
マーティの声が彼の耳に入って来た。
誰と話しているのだろう?
ダイスは扉に掛けた手を離し、耳をそばだてた。
「怒ってますか?」
「いいや」
怒って?
この声は、アプフィールドだ、とダイスは気付く。あの明るい営業社員の声だ。
彼がマーティに何かしたのだろうか?
「誰のせいでも無いんだ。結局いつかは、離ればなれになることは、判ってた。目をつぶってただけだ。俺も奴も、良く知ってた。だから、あの時のことは、きっかけとしては、そう悪くないと思う。―――かなりの荒療治だったがな」
「なら良かった。奴と連絡は、取れるんでしょう? 元気ですか?」
ああそう言えば、友達の友達、と言っていたな。ダイスは思い出す。
「何かね。奴が発つ時に、ずっと気付かなくて本当に悪かった、と言ってたんですよ。無論それは、俺は別に大したことじゃない。あなた同様、仕方ないことだった訳でしょう」
「まあな。あれ以上『仕方ない』ことはそうそうないね」
どういうことだろう。ダイスは、胸の鼓動が激しくなる自分に気付く。
「でももう、過去だ。お互い、それはそれとして、昔も今も未来もちゃんと手に入れなくちゃならないんだよ。そのためには、離れてみるってのはいい方法だ、と俺も思う」
「そうなんですか」
「それでも、何年か、一緒にアルク中でドンパチやらかした仲間だからな」
ドンパチ!? ひっ、と思わずダイスの顔が引きつった。
「口では何とでも言えるんですが、奴は昔から結構強情ですから… だから余計に、俺のとこにはさっぱり知らせもよこさないんですよね。幼なじみとしては、なかなか切ない限りですがね。そういう意味では、一応居場所を知ってるあなたのことが羨ましい」
「だけどなあ、通信はOKでも、まだ会えない、とそのたびに言われるのも、切ないものだぜ?」
「そうなんですか?」
「ああ。一昨日、ここの情報を送ってもらったが… その時もそうだった」
「元気で、やってるといいんですがね」
「全くだ」
ははは、と力の無い笑いが、どちらともなく洩れた。
なるほど、あの時のマーティが持ち出した詳細な球場の見取り図は、その「共通の友達」から送られたものなのか。ダイスは納得する。
彼の中で、急激に、好奇心が膨らんで来た。
彼等の誰にも、ストンウェルにすら、そうそう明かしはしないマーティ・ラビイの過去が、かいま見える。
そう思ったら。
「おい! 誰かそこに居るのか?」
その当事者の、大きな声が飛んだ。
ダイスははっとして、反射的に身体を反らした。観音開きの扉は揺れてしまう。無意識に身体をくっつけていたらしい。
彼は仕方なく、扉を開く。
「あれ、スロウプ君、さっきトイレに行ったんじゃなかったの?」
「だから、あなたのせいで、寄り道する羽目になったんじゃないですか、アプフィールドさん」
少しばかり顔を赤らめて、ダイスはむきになる。立ち聞きがばれた分、ついそんな態度に出てしまうのだった。
「ああ、そうだった。伝言、ありがとうな」
「伝言?」
マーティは何のことだ、という顔で二人を見た。どうやら彼にはその話は回っていないようだった。
「あ、マッシュがケガして、今日の先発ができない、ってことをちょうど会ったスロウプ君に、監督に伝えに行ってもらったんだよ」
うちの選手をこき使うなよ、と彼は苦笑しながらアプフィールドをこづいた。
「…えー… そしたら監督に、今日は俺が投げろ、って言われました」
「お、やったじゃないか!」
つかつかとマーティはダイスに近づいた。
何だ何だ、と思っていると、ぐい、と両肩を持ってマーティはゆさゆさとダイスを揺さぶった。
わわわわわ、と彼が何も言えないでいると、じゃあな、とアプフィールドはその隙に、扉を開けて出て行った。
「あ、い、いいんですか? は、話の途中じゃ」
揺らされているので、上手く口が回らない。それに気付いて、マーティもようやく手を止める。
「ああいいんだよ。たまたま、ここで会ったから。トイレで会うなんて、臭い仲… あ、俺のセンスって古い…」
「友達の話を、していたんですか?」
言いかけた親父ギャグはとりあえず無視し、ダイスは問いかける。肩から手を外すと、苦笑いしながら今度は頭をぽん、と叩いた。
「立ち聞きは、良くないぜ。ダイちゃん」
「立ち聞きって言うか…たまたま聞こえてきたんですよ」
それで、入れなくなってしまったのだ。
「仲のいい友達が、居るんですね。お二人とも」
「ああ」
「お友達、アプフィールドさんの幼なじみなんですね」
ダイスは追求したくなる自分を感じていた。
「何だお前、何処から聞いてた?」
「長くは無いですよ。怒ってるか、ってところから」
「ああ」
マーティはうなづいた。
「ちょっとな。俺と友達が、周囲に思いっきりはめられたことがあってさ」
「はめられた」
「まあ、いい意味での『はめられた』になるのかな。ただ、それがきっかけで、友達としばらく俺は会えなくなったから、それをイリジャの奴は、気にしてるんだよ」
「ああ…」
何が何だかよくは判らないが。ダイスは思う。しかし、マーティがその「はめられた」内容自体についてはそう話したくは無いだろうことは、さすがに彼でも判る。
ただこの時のダイスは、少しばかりいつもと違っていた。
初の先発を命じられた期待と不安。ストンウェルの挑発。聞けるものなら聞いてみろ、と言わんばかりの。
「お友達は、長い付き合いなんですね。ドンパチやってたなんて、結構…」
「お前、今日は色々聞くねえ」
「俺が聞いては困る、ことですか?」
彼は思いきって聞いてみた。
しかしその思い切り、声に現れてしまったかもしれない。狭いトイレの壁に、ダイスの声がやや響いた。
「別に俺のことなんぞ聞いても、仕方ないだろ? 俺が何をやっていようが、今ここでベースボールやってるってことの方が大事だし」
「俺は」
ダイスは詰まった。それを見ると、マーティは困った様な顔で、柔らかそうな明るい髪の毛をかき上げる。
「ああそうか。お前は今年入ったから」
今年入ったから? だから何だと言うのだろう。
「テスト試合の時のことも、知らないんだよな」
「それは無論… 知らない… ですけど。だって…」
「そうだよな。俺達にわざわざ連盟のこと聞いたんだもんな」
それが、どうだと言うのだろう? ダイスは何か、もやもやしたものが胸の中に広がるのが判る。
「俺は」
だから、どう言ったものかよく判らないままに、とにかく彼は口を開いていた。
「だってマーティさんは、いつも自分のことについては、はぐらかすじゃないですか。俺が、ルーキーでペーペーだからって、…」
ダイスは一気に言う。確かにそれは彼の本心だった。
だがマーティはそれを聞いて、首を軽く傾けた。困っていることの方が強そうな苦笑。
だがダイスにしても、言ってしまったからには、引っ込みがつかない。
マーティは軽く目を伏せる。
「違うよ。別にお前がルーキーでペーペーだから、隠してる訳じゃあないさ」
「違うんですか?」
「違う。お前は俺なんかが同じ歳の頃より、ずっと速い球を投げる。キレもいい。いい投手だ。まあ、ただいいプロ投手かといえば、確かにルーキーでペーペーだけどな」
少しだけ、白い歯を見せる。
「だから、そういうことじゃない。そうじゃなくて」
何をどう言えばいいのか、迷っているようだった。誤魔化そうとしている訳ではなさそうなことに、ダイスは少しばかり胸が痛む。自分は良くないことを問いかけているのではないか、と。
その人の持つ、触れてはいけない部分に。
「…でも、ストンウェルさんは知ってるんでしょう?」
そえ言うと、マーティの目が驚いた様に丸くなった。
「何でまた、そこで奴の名が出てくる?」
またあいつ、変なこと言ったのか、とマーティは口の中でぶつぶつとつぶやいた。
「まあ、俺に関して、確かに一番良く知ってるのは、奴だろうな。俺だって忘れている部分に関しては…でもな、ダイス」
ちゃんづけ、ではない。彼は少し緊張する。
「そういう問題じゃあ、ないんだよ」
「…って」
「お前は例の噂のことを気にしてるんだろ? 俺がある選手によく似てる、って奴」
「…はい」
実際、ストンウェルのことを知ろうと、「Photo&Sports」のバックナンバーを漁っていたら、ダイスにもその人物は、容易に見つかった。
コモドドラゴンズ全盛期の、花形投手、「DD」。そのひとが、チームを万年ナンバー2リーグBクラスから、ナンバー1リーグ昇格へと導いたチームの救世主だった。
今のサンライズにも使われている青のユニフォームが、今より若いその姿に、良く似合っていた。
そっくり、じゃない。近くで接している者だったら誰でも判る。これは同一人物だ。
「そうだよ、あれは俺らしいよ」
「らしいって」
「俺はな、ダイス。ちょっとしたことがあって、自分が過去、何をどうやってきたか、がまだよく整理されていないんだよ。だからできるだけ言葉にしない。したくない。それだけなんだよ」
ダイスは数秒、その言葉の意味を考えて、動けなくなった。
どういう意味だ?
ぼうっと立ちつくす。
「じゃあまたな。しっかり出すもの、出して来いよ」
マーティは今度は肩をぽん、と叩くと、半分おどけた口調で言った。
だが言われた方は、言葉の意味が一気になだれ掛かってくるのに気付いた。
だって。
彼は思う。そんな有名選手が、どうしてアルクに居たんだ? 数年間ドンパチやってって、どうして?
確かにそういう土地柄ではあったけれど。
雑誌で見た「DD」と、ダイスの故郷、レーゲンボーゲンの惑星アルクがつながるのは、一瞬しかない。その時、何かがあった、ということだろうか。
だがそれ以上は、結局判らない。
そして本人も、それを「整理できていない」という。
ああやっぱり聞いてはいけないことだったのか。彼は自分の行動を後悔する。せずにはいられない。
やっぱり俺は、ただのベースボール馬鹿で、人の心の一つも判らない奴なんだ。
ここしばらくの考えまでもそこに絡まって、彼は自分の両肩に重いものがのしかかってくる様な気がしていた。
ともかくは、トイレだった。出すものは出していかないと。
そう言えば、と彼は思う。トイレも地方ごとに違うのだろうか、と。
なかなかに、「先生」が言っていた言葉の違い、というのは興味深いものがあったのは確かだった。ミュリエルが自分のところの実業学校の講師だったら、さぞどんな授業でも面白かったのにな、と彼はふと思う。
ふう、とポケットに突っ込んだタオルで手を拭き拭き、彼は再び練習場へと引き返そうとした。
すると、前方から、ジャガー氏がやってくる。女性と二人連れだった。
彼は先日の失態を思い出し、脇に避けると、軽く会釈した。しかし話に夢中になっているのか、彼等はダイスの姿には気付かずに、そのまま歩き去って行った。
だが。
…あれ?
彼は思わず振り返る。自分の耳に手をやる。
やせぎすのワールディ・ジャガー氏の右横には、彼の倍くらいの横幅の女性が居た。サーモンピンクのスーツを着て、肩くらいの濃い色の髪の毛。ほっぺたの肉が、横を向いた時に、丸く感じる。ヒールは低い。
ダイスは慌ててそれだけ記憶する。記憶しなくては、ならなかった。
あの声!