9 嫌がらせに対する最大の攻撃方法とは
ジャガーズの攻撃が始まる。
向こうは白と、淡い赤のストライプのユニフォームのバッターが打席に入るのを見て、ダイスはようやく自分がマウンドに立っているんだ、という実感が湧いた。
…ああ、本当に俺、投げるんだなあ。
同じサイズの球場で、何度も何度も試合はしたことがある。
学生の野球は、継投はそうしない。彼が居た時期の実業学校では、そうそう投手向きの人材はいなかったから、彼はもう、これでもか、とばかりに毎度毎度投げた。
だから、慣れているはずなのに。なのに、心臓が、さっきから飛び跳ねてる。
ロージンバッグを拾い、ぱたぱたとはたく。だが手にかいた汗で、それはすぐに流れてしまう。
どうしよう。俺、緊張してる。
スタンドに、ぎっしりと入っている人・人・人。
そう、この観客にとって、自分達は「敵」なのだ。
思い出さなくてもいいことを、彼は思い出してしまった。ジャガーズを応援する観客の声が、急に、敵意をもったものに感じられてしまう。
背中がぞくりとする。
審判が、投球練習をうながす。彼はあきらめて、ロージンバッグを落とす。
投げ込みはしてある。大丈夫。大丈夫なはずだ。だが。
!
おい! とマスクの向こうで、ヒュ・ホイの目が大きく開いた。
慌てて立ち上がった彼の、伸ばした手の中に、ボールは入っていた。
ヒュ・ホイは軽く手を挙げてひらひらと振ると、球を返した。
プロテクターの前で、一本指を立てる。その指を、彼は自軍のベンチの方へと向けた。
見ろ、ってことか? ダイスは視線をそちらへ向ける。
そこには、マーティの姿があった。ストンウェルの姿もあった。彼等はダイスの視線に気付いたのか、にっこり笑って腰を叩いたり、その場で跳ねたりする。力を抜け、ってことか。
いざとなったら自分達中継ぎ陣が居るから、と。
そう考えると、確かに彼も、少し気が楽になった。
そしてその一方で、彼等の手は借りなくて済むように、と願う自分自身が居るのに気付いた。
よし、と彼はプレイ開始を告げる主審の声に、顔を引き締めた。
ぱん、とキャッチャーミットに響くその音と、その直後、静まった客席を、彼はそうそう忘れられない、と思った。
だがしかし、だ。
回が進むにつれて、当初は速球を見送っていたジャガーズの選手も、次第に彼の球に当ててくる様になった。
確かに物事はそう甘くはない、と彼は思う。
確かにダイスは速球型ではある。それもプロでもそうそうその速度を出せない位の。だからこそ、実業学校時代、「怪物」というあだ名がつけられたこともある。
だが決して、それは「打てない球」ではないらしい。
「打てる球」「打てない球」は速度ではない。
確かにとんでもない速さ、見ることができない速さの球は、そう簡単には打つことができないだろうが、速度がゆっくりでも「打てない球」はある。
彼の球は、確かに速いかもしれないが、速さに目が慣れればなれる程、打たれる可能性は増えてくるのだ。
ヒュ・ホイもそれを考えて、彼には微妙なコースを突くように、とサインを出してくる。
しかしコントロールには、さほどに自信がある訳ではなかった。
そりゃあ、張り切りすぎている時のマーティほどではないけれどさ。
内心彼は、つぶやく。
マーティ・ラビイは、中継ぎエースとして、ここ一発の気合いの剛球で相手を仕留めるタイプの投手なのだが、彼の問題は、一瞬の気を抜いた時のコントロールの滅茶苦茶さにあった。
初戦で負けたのは、ピッチング、というより、外野に打たれたボールをホームに中継する時に、手元が狂ってしまったのである。
しかしそういう場合をのぞけば、そうそうコントロールも狂う訳ではないので、一球一球が大切な役として、彼は「エース」なのである。
しかしまだダイスは一瞬の集中力や精神力が弱かった。それは当然かもしれない。
それはもう、実戦を積んで行くしかない部分だった。気分の乱れが、そのままコントロールに現れる。未熟者だ、と彼自身思っていたのだ。
その点では、同じ先発要員でも、ピンチになればなるほど肝が据わるストンウェルを彼は尊敬せずには居られない。昨年、アルクのサンライズ・ホームグラウンドで、彼が珍しくリリーフに入った試合を見たことがあった。ちょうどその時期、サンライズは投手の故障が相次いだのだ。
十点近い点を取られた先発の継投だった。
七回の表。正直、敗戦処理じゃないか、と思ったくらいだった。だが。
だがその時の彼と来たら。
吠えたのだ。内野席で見てた彼に、鳥肌が立つくらいだった。
しかも恐ろしいことに、その試合は勝ってしまったのである!
彼の気迫勝ちだった。
実際には、取られた分を取り返した打者の働きもあるんだろうが、ストンウェルのその時の気迫が、チームメイトを奮い起こしたのだ、とは翌日のニュースペイパーも書いていた。
それに比べると、さすがにまだ、自分にはそういうものが足りない、とダイスは思わざるを得ない。
何故だろう?
それはずっと考えてきたことでもあった。
しかしその迷いは、やはり球に現れる。セットポジションから投げる。
…しまった!
彼は内心、叫んだ。すっぽ抜けた。ホイがあ、という顔をしている。
狙った様に、相手バッターが思い切りバットを振る。真っ直ぐ、ライナーだった。
彼は思いきり、手を伸ばした。
速い球は芯で打ち返されると、そのまま勢いがついている。球は、ダイスのグラブをかすめて、少し上に伸びた。
ショートのマルヴェルが取ったが、一塁は楽々セーフだった。どっと額から汗が吹き出る。
ふう、と彼はホイから新しく球を受け取ると、ベンチを見る。リラーックス、と大声でマーティが叫んでいる。
ちら、と後ろを見ると、トマソンがにっ、と歯をむいて笑った。
ああそうだ、三点までは、取られてもいいんだっけ。
そう思ったら、少しは彼も気が楽になった。
おかげでその回、二点は取られたものの、その後はお互いスコアボードに0を並べることとなった。
だが彼は次第に回が進むたびに、妙なことに気付いた。
マーティとストンウェルだった。
彼が投げている、裏の時には、ベンチにその姿を見せるのだが、それ以外の時は、何処かに消えている。
初登板の自分を心配してくれるというのなら、それはそれで彼も嬉しい。だが、それでいて、自軍の攻撃の時に全く居ない、というのも妙だ、とダイスは思う。
マーティは中継ぎの投手だから、その間投げ込んでいつでも出られる様にしている、とも考えられる。それが一番考えやすい。
が、ストンウェルは昨日の先発だ。今日は絶対と言っていい程、出番はない。
六回の表、ダイスはちらちら、と彼等の行動をうかがう。確かにそっと抜け出しているのだ。
彼は二人が扉を閉めた瞬間、後を追った。
連盟ルールでは、投手は守備専任のDH制を取っているから、彼が自軍の攻撃時にグラウンドに出ることはない。彼等の動きを追う時間も少しは、あった。
右か、左か。どちらにしても、球場なのだ。廊下は一本しかない。彼は辺りをざっと見渡して、右に駆けだした。
と。
「マーティさん!」
廊下のカーブを少し曲がったあたりで、彼はようやく目標を一つ見つけた。
「…何だ、お前か。驚かせるなよ」
大きな目が、見開かれている。
「何やってるんですか、こんなとこで」
「お前こそ何やってるんだよ。ベンチに居なくちゃならないだろ」
「マーティさんを、追いかけて来たに決まってるじゃないですか! 一体お二人とも、何やってるんですか!?」
ち、とマーティは舌打ちをする。
だがすぐに笑顔に戻った。ダイスはこの貼り付けた様な笑顔は好きではなかった。そしてその笑顔のまま、ぽん、と後輩の肩を叩く。
「心配するなって。お前のマウンドは守ってやるから」
「そういうことじゃないんですよ!」
俺は思わず怒鳴っていた。
最寄りの売店の売り子がびっくりしてこっちを向いた。
「まずいな… ちょっと来い」
ぐい、とマーティはダイスの腕を掴み、そのままトイレまで連れて行った。
「…さて、ここなら大丈夫だな」
「大丈夫、って何ですか」
「一応ここは男子専用だからな… まああいつの神経ならそのあたりは無視しそうだが、さしあたり、ここならまず話も聞かれないだろ」
「だから、何ですか」
「単刀直入に言えば、俺等は、あの女を捜してたの」
「あ、そうなんですか」
だったら、始めからそう言ってくれれば良かったのに、と彼は思う。
しかし、ダイスが「居た」と言ってから、行動がおかしかった訳なので、そのあたりに気付かない彼自身が鈍感と言えば、言える。
「でまあ、ようやくイリジャの奴が、あの女を見つけたから、そろそろやってくるだろ」
「聞きました。何かそのひとが、よく『嫌がらせ』してくるってことですね」
「ま、正確に言えば、『連盟』がな」
「何でですか?」
「そりゃあ、新入りいじめは伝統的なものだろう」
「だけど」
ん? とマーティは後輩の顔をのぞき込む。
「でもウチのチームでは、今のところ無いですよ。だから伝統って訳でも」
「『連盟』は伝統があるから、そういうことするんだよ」
あまりにも、それはとってつけた様な言い訳だ、とダイスは思った。
「あ、お前不服そうな顔しているな」
「してますよ」
ふふん、という顔でマーティは腰に手を当て、ダイスを見た。
「お前、納得しないとてこでも動かない、って奴だもんなあ」
「え」
「ピッチング、見てりゃ判るじゃないの。球は正直よ。俺なんか、ちょっと気ぃ抜くと、すぐに頭の中がとっちらかる。そういう時には、どんだけ真っ直ぐ投げようと思っても、真っ直ぐに行かないんだぜ」
ダイスは何となく、彼の言葉に不安なものを感じて、眉を寄せた。
「ええまあ。俺は、知りたいことは、知りたいですから」
「ほんと、真っ直ぐだからなあ。羨ましい」
「そんなことないですよ。今だって、さっきから、ずーっと頭の中がぐるぐるしてます」
実際そうだった。そしてそれを振り切る様に、球を投げてきた。それが功を奏した場合はいいのだが、上手く行かなかった時には、…ホイが思わずマスクを取ってしまう自体になってしまうのだ。
「…ま、あの女が連れて来られたら、お前ちょっともう一度、声合わせしてくれや」
「判りました。…でもマーティさん」
「何?」
「…マーティさんには、その嫌がらせの本当の対象が、判ってるんじゃないですか?」
出て行こうと踏み出しかけた彼は、その足を止めた。
「何でそう思う」
「勘ですが」
そう、実際それは、ダイスにとって、勘に過ぎなかった。
「勘、ね」
マーティは苦笑する。
「…なるほど。最強の理由だな、それは」
確かにそうだった。何の根拠もそこにはないのだ。ただ自分の中で、そう感じるものが、確かにダイスの中にあったのだ。
無論それは、全くのゼロからではない。ダイスの中の、マーティに関する様々な情報が、その時、そういう形で統合されたのかもしれない。
しかしまあ、本人にしてみれば「勘」の一言で尽きる。だからこそ、「最強の理由」なのだ。
「まあな」
マーティは軽く答える。
一体何に、とダイスが問いかけると、彼はあっさりと言った。
「俺だよ」
さすがに、それにはダイスも数秒黙った。次の言葉を捜した。
「…あなたが? マーティさん個人が、対象なんですか?」
「そうだよ」
彼は重ねて答えた。
「俺は今ではただのサンライズの中継ぎ投手、戸籍はレーゲンボーゲン星系アルクにある、マーティ・ラビイだと思ってるんだがね、いつまでもそう思ってくれない奴等ってのが居るのよ」
「DD」
「有名な選手」の名前をダイスは口にする。
「そう。それ。今でも俺を、それだと思っている奴等が、『連盟』には多すぎるんだよ。下手に歳くっちまった奴ってのは始末が悪い。こっちがすっかり忘れさせられてしまっていることを妙に根に持ってたりするらしいんだよ」
「忘れ…」
「俺はね、ダイス、ある時点から前の記憶が、断片的にしか無いの」
は、と彼は心臓が飛び跳ねるのを感じた。
「自分がそいつだ、というのを思い出したのもつい最近だったからね。それも本当に断片的だから、下手すると、ストンウェルの方が、よっぽど当時の俺に関しては良く知ってる。あの頃あいつは、俺のチームメイトだったからね」
ダイスはふと、ストンウェルの言葉を思い出した。
好きな選手が居て、その選手と一緒にプレイできたら。
「…で、その俺の忘れてる俺らしい奴が、何かやらかしたらしいことに対して、今でも何か覚えていて、根に持ってるお偉いさんが、居るんだよ」
「『連盟』に?」
「そう」
廊下に視線を落として、彼はうなづいた。
「だから奴等にしてみれば、そんな、昔、自分達をコケにしたDDが、何ごとも無かったような顔をして、楽しそうに野球しているのが気にくわないんじゃねえかなあ… 全く、なあ…」
マーティは彼はふい、と明後日の方を向いた。
「俺の望みは、ただ楽しくベースボールをやることだけなんだぜ? 非常にささやかな、望みだと思わないかい? ダイちゃん」
別に有名になろうとは思わない。
別に金持ちになろうとも思わない。
ただもう、皆と一緒に、ベースボールを毎日やっていたいだけなのに。
そんな気持ちが、ダイスには伝わってくる。
マーティは目を伏せた。だがそれは一瞬だった。
再び開いた大きめの目は、後輩に向かって、不敵に笑う。
「だけどな、だからと言って、奴らの言うがままになっているってのはつまらないだろう?」
「…それはそうですけど」
「だろ? だから、俺達は本当に、毎度楽しくゲームをしなくちゃならないんだよ」
「楽しく」
ダイスはその言葉を繰り返す。
「そうさ。連中は俺を――― 俺達を困らせて楽しんでいるのさ。困ってる俺達を見るのが楽しいんだ。だったらこっちが輪をかけて楽しめば、こっちの勝ちだ」
ふっふっふ、と彼は笑う。
は、とダイスは口を開けた。どういう理屈だ。
「あのな、ダイス」
はい、と彼は反射的に答えていた。思わず姿勢を正す。するとマーティはぐい、とその肩を壁に押しつけた。
「相手を不幸にしてやりたい、って思う奴に対する、一番の攻撃方法って何か知ってるか?」
「…何ですか?」
「こっちがシアワセになることさ」




