第五章 意外な強敵で手も足も出ない件(3)
図書室の前に立つ。
奈々美はこの中にいるだろうか?
――なんて疑問を持つまでも無い。
もう、あの、奈々美教の熱気が扉からもくもくとあふれてきている。
熱気と言うよりも、ぶっちゃけ、男の臭いね。
俺にはそういう趣味は無いが、好きな人にはたまらないだろうなあ。
……何を空中をくんかくんかしてるんだメルは。
「……ゲロ以下の臭いがプンプンするね」
ああ、はい、そうですね。
「カズ、とりあえずあんた先に入って、ゲロの掃除たのむわ。私、無理」
「……俺も無理」
「は? あんたは男だろーが。私は何の能力も無いか弱い女の子だよ☆」
「だよ☆ じゃねーよ! 俺とお前しかいないのに」
「うん、だから、消去法であんたしかいないわけよ」
「いや俺も消去済みだから!」
「は? あんたの存在ほんとに消去してやろっか? 社会的に」
「うぜぇ。いいから入るぞ」
俺が言うと、メルはすーっと息を吸い込んで。
「ここにいる四切一之はー! 中学校二年生のときー! わっぶべ」
俺はあわててメルの口を押さえた。
「……時任さん、どうぞこちらでお休みを。俺が中の臭い男どもを散らしてまいります」
なぜか当たり前のように廊下に置かれている高そうなスツールにメルをエスコートする。
「うむ、くるしゅうない」
あの醜態だけは絶対に公言されてはならない。絶対にだ。
いくら重度の中二病だったとはいえ、あればかりは、俺の人生の汚点なのだ。
それを知るメルは、いずれ始末せねばならない相手なのだが、今はそのときではない。この状況で仲間を減らすのは得策ではないだろう。
スツールにふんぞり返るメルを横目に、俺は、ついにその扉に手をかける。
扉が開くと、以前に見たあのおぞましい光景が広がっていた。
壇上に立つ奈々美に、一心不乱に視線を集める男ども。
頭から湯気が出るほどの熱気に、それぞれの口から吐き出すため息がミックスされて、超高湿度粘性気体が図書室を満たしている。
よくも一分以上もこの状況に耐えられるものだ。いや、奈々美が、ね。ある意味で尊敬に値するよ。
さて、その件の奈々美が、説話(?)をやめて俺に視線を刺したものだから、当然ながら、室内のすべての野獣の瞳も俺をねぶりつくすことになるわけで。
「……あら、まだこんなところをうろついているの? ……あの女がいないってことは、あなたも入会希望ってことかしらん♪」
息も詰まるような空気に耐えているとは微塵も感じさせない笑顔で、奈々美は俺に話しかけてきた。
直接声がけされる栄誉を享受する俺に対するねたみの視線が痛い。
「残念ながらそうじゃねえ。話し合いをしたい。だが、いいのか? こいつらがいるところで、俺が美空の話をしても? ――お前の力は洗脳とかじゃねえことは、この学校に入ってすぐに分かってるんだ。都合の悪いことは聞かせないほうがいいんじゃないか?」
俺が言うと、奈々美はほんのわずかに、余裕の笑顔の一部をゆがめて、そばにいたこなとに何か耳打ちをした。
それから二言三言ささやきがやり取りされると、こなとは深くうなずき、
「――皆様。奈々美様は大切な話し合いを持たれる。今日のお言葉の続きは私が代理で伝える。ついてきなさい」
と男たちに向かって宣言し、誰の返事も待たずにすいすいと隙間を縫って歩き、俺の横を通るときに鋭い目で一瞥をくれると、図書室から出て行く。
男たちは、残念そうなため息を漏らすものもあったが、おとなしくぞろぞろとこなとに続いて整然と出て行く。
なんだこの統率。軍隊か。
男たちの行列は一分もあればはけた。
残ったのは、俺と奈々美だけだ。
奈々美は、演壇からぴょんと飛び降りた。
「――で? いやらしい絡め手を覚えたからって、この私に逆らえるとでも思ったのん♪」
奈々美が敵意を振りまきながら俺をさげすむようににらむ。
「そうだとしても、美空さんと同じ目に遭っていただくだけですわ♪」
「違う、聞いてくれ。俺たちは別にお前と敵対したいと思ってるわけじゃない。その美空の件だ。あいつは本当に人手不足で困ってる部活を救いたいって善意で説得をしてただけなんだ、お前の活動を悪者にする気なんて無かったんだ」
「へえ♪ こなとからは、美空さんが勝手にやったこととあなた方がわめいていたと聞きましたが? よく彼女の動機をご存知で♪」
……なんかこいつもめんどくさいな。
なになに、こいつ、ああいえばこういうタイプ?
議論とかしちゃだめなタイプ?
他校の生徒拉致っといて、何様?
ふつふつと怒りが湧いてくる。
「……あのなあ、こっちが話し合いで解決しようって言ってるうちに、話を聞けよ? お前が何の能力持ってるかしらねーけどな、どーせ、役立たずのくだらねー能力なんだろが!」
最後はほとんど怒りのままに怒鳴りつけるように、俺は言葉をたたきつけた。
そして、意外な反応を見せたのは奈々美だ。
俺の言葉に、一瞬たじろいだしぐさを見せたのだ。
……役立たずの能力って、ちょっと当たったか?
確信が深まる。
能力を奪う能力なんていう常識外れの便利能力でなど、断じてない。
何かのトリックなのだ。
「だっ、だからなによ? そのくだらない能力に手も足も出なかったのはどちら様? 本気で不幸になってみる?」
「待てぇぇぇぃ!」
奈々美の言葉を食うように割り込んできた叫び声は、もちろん、図書室の扉を撥ね開けて飛び込んできた時任メルの音声である。
説明不要かもしれないが、この場で一番いらないやつである。
「どうだねここはっ! 三方一両損ってことで!」
わけの分からんことを言うな。話がややこしくなる。
「その寓話のとおりにやるのでしたら、私と四切さんが所有権を争う三人の信者にあなたが一人を加えて四人にし、私と四切さんとで二人ずつ分けるってことでいいのかしら♪」
「え、そんな話なんだ」
どんな話だと思ってたんだ。
ていうか奈々美詳しいな。
「わわわ、分かったっ! では、美空をここに連れてきて、カズとあんたで引っ張り合いをせよ!」
「で、先に手を放したほうが本当の母親です、って?」
「てめっ、先に言うな!」
頭が痛い。
「ってことで、カズ警部、事件は迷宮入りしました!」
メルは誇らしげに、額に手をやって頭痛をこらえる俺に対して宣言した。
「……悪い」
俺はいたたまれなくなって奈々美に謝る。
「四切さんも苦労しますわねん♪」
敵にまで同情されたよ。
何だこの流れ。
「ってことで、ここからは力づくの説得だからね!」
「あらん、力づくで押し切られたのは誰だったかしらん♪」
「いやまだ交渉中……」
「黙ってろ! いまこいつ叩き潰してやるよ」
「いいわよん♪ もっともっと不幸を見せてあげる♪」
「あの勝手に話を進め……」
「よっし、いくぞー!」
勝手に……話を……ぶち壊しにしないで……ください……。
もうやだ。なにこれ。なにこれ。
「こらカズ、あんたが先鋒でしょ!」
俺ですか。
行かなきゃだめですか。
「あら、四切さん、来ないんですの? 彼女さんのお願いですよん♪」
「彼女じゃねー!」
俺が逡巡していると挑発してきた奈々美に、思わず言い返す。
「あら、そうなんですの♪ だったら余計好都合ですわ♪ 私、あなたに興味がわきましたの♪ 力づくで私の下僕にしてみたくなりましたわ♪」
「させるかぁぁぁ!」
続く奈々美の挑発に乗ったのは、メルだ。
奈々美に向けて駆け出す。
あ、先鋒とかもうどうでもいいんすね。
しかし、メルの鈍足ではその距離はいかんともしがたく。
その無限とも思える距離を縮めるまもなく、奈々美の攻撃がメルに決まる。
ポコン。
「へごっ」
……いいんだけどさ。
なぜ頭上から灰皿ですか。
駆け出していたため額に直撃を受けたメルはうずくまって涙目で額を押さえている。
そして俺の頭にもついでに灰皿が落ちてくる。
ポコン、という軽い音の割には案外痛い。
俺が頭をさすっていると、奈々美はにやにやと俺のほうを見ている。
「うふふ、こんな攻撃でよろしければいくらでも差し上げますわよ♪ それこそ、寝ても起きても灰皿が落ちてきたら、さすがに大変な不幸ですわねえ♪」
言いながら、もうひとつ、メルの頭に灰皿を落とす。ひどい。っつーか本当にどこから出してるんだ、あの灰皿。
「ふん、どうせトリックさ。今暴いてやるよ」
俺は奈々美の動揺を誘おうとこんなことを言いながら、メルとは比べ物にならないスタートを切る。
――が。
踏み出した先がべしょっという音を立てる。
あわてて足元を見ると、踏み出した先の床が音を出していたのではない。俺の靴の中がびしょぬれなのだ。それも、両足。
……気持ち悪い。足を振っても振っても水が切れないし。なにこれ。なにこれ。
何かのトリックとは思っていたが、いや、いきなり靴の内側に水をあふれさせるなんて、やっぱり能力じゃないと説明がつかない。
だとするといったい何の能力なんだ?
もしかすると本当に能力を奪う能力なのか? 誰かから『水を操る能力』を奪ったとか。
「……はん! こんなのちょっと痛いだけよ!」
気づくとメルが持ち直して再び奈々美へのアタックを開始しようとしている。
……さて、メルがどんな目に遭うか?
どさっ。
「くさっ!」
メルの顔に向けて落ちかかったのは、なんというか、でかいウ●コのようなもので。
あ、それはさすがにだめじゃないですか、と思いながらよく見ると、それはウ●コではなく、ナマコでした。あーよかった。
「よくないよ!? このナマコめっちゃ臭い! なによこれ、新種のナマコ!? めっちゃ臭い!」
メルは鼻を押さえて転げまわる。
「まま待て、今そのネバネバを拭くから――」
俺がハンカチを取り出してメルに駆け寄ろうとすると、
「勝手な行動は許しませんわよ、それとももっと不幸になる?」
奈々美の鋭い言葉に俺は思わず身をすくめる。
そして自らのその行動にひらめきを感じる。
――そういうことか。
何が起こる分からない意外性と恐怖で、意思の自由を徐々に奪って、信者化していくわけだ。
それが分かったからと言って、打開策が見つかるわけでもないのだが。そもそも、奈々美の能力がいったい何物なのかが、まださっぱりなのだ。
不幸になりたくなかったら奈々美に逆らうのをやめるしかない。
今はその答えしかない。
……不幸?
そう、奈々美は幾度と無く不幸を強調してきた。
彼女に近づこうとすると、確かに、何かの攻撃を受けているようで、どちらかというと、意味不明な不幸に遭っているだけのようではなかったか。
「――お前の能力は、人を不幸にするだけだ」
俺は静かに宣言した。




