おわる
おわります。
どこかから、声が聞こえたような気がした。
それは懐かしい声だった。
とても懐かしい声だった。
ふと気付いたら、幼いわたしは誰かと手をつないで歩いていた。
その手はとても温かくて、大きかった。
わたしはその手が好きだった。
その手の持ち主が大好きだった。
本当に好きだった。
判っていた。
私には、判っていた。
これは夢だ。
なんとなれば、その手の持ち主は、父は、本当はもういないはずだから。
父は逝ってしまったのだから。
夢の中で、父と幼いわたしは長い道を歩いていた。
長い、長い道だ。
父は、高い空を仰いではその蒼さを、野に咲く花を眺めてはその可憐さを、静かに称えていた。
しみじみとした情趣を愛し、もののあわれを尊ぶ。
父はそういう方だった。
その横で幼いわたしはへそを曲げていた。
遊び友だちにからかわれたのだ。
隣町で、幸子という女性が泥棒を働いたらしい。
私と同じ幸子という名前だけれど、もちろん、別人だ。
ありふれた名前だったから、そういうことはよくあった。
そして、幼いわたしはそのことでからかわれたのだ。
わたしのことを泥棒だと、からかわれたのだ。
名前が同じだったから。
子供は、よくそういうくだらないことで、からかったりするものだ。
わたしがそのことで不平を言うと、父は笑った。
優しく笑った。
黙って、大きな手でわたしの頭を撫でてくれた。
そうしたら、ぷりぷりと怒っていたはずのわたしも、なんだか嬉しくなって、心が温かくなって、笑った。
父は朗らかで優しい方だった。
だから、父の傍で頭を撫でられると、なんだか、わたしもそういう気持ちになれたものだった。
私は、そんなことを思い出していた。
「幸子という名前はね」
父は穏やかに話す方だった。
その声は低かったけれど、不思議と染み込むように、聞く者の耳に確かに届いた。
「文字通り、幸せになってほしいという想いを込めて、お前に贈ったのだ。幸せになってほしいと願いながら、贈ったのだよ」
そんなことは知っていた。
本当は、知っていた。
だから、好きではなかったけど、嫌いにはなれなかった。
絶対に嫌いにはなれなかったのだ。
両親から貰った、最初の贈り物なのだから。
大切な贈り物なのだから。
そんなことは知っていたのだ。
「確かに、ありふれた名前かもしれないね。でもね、こう考えたら、どうだろう。それだけこの世界で、親が子供の幸せを願うことがありふれているのだとしたら……」
父はそこで言葉を切って、わたしの顔を覗き込んだ。
父は優しく笑っていた。
いつも、そうだった。
いつだって、父はわたしに向かって優しく微笑んでくれた。
微笑んだ父の白い歯が見えた。
父ご自慢の健康的な白い歯が見えた。
「それも悪くないんじゃないかな」
父がそう言った。
低い声でそう言った。
それは父の口癖だった。
それも悪くない。
「なんだか、誤魔化されたような気がする」
幼いわたしがそんな不平を言うと、父は笑った。
唐突に立ち止まって、父はすぐそこの宙を指差した。
そこには蝶が飛んでいた。
綺麗な蝶がヒラリヒラリと舞っていた。
「ほら、そこに幸せが在る」
父は不思議なことを言うものだと、わたしは思った。
だって、それは、ただの蝶ではないか。
ヒラリヒラリと動く蝶ではないか。
どこに幸せが在るというのか。
次に、父は空に架かる虹を指し示した。
それは綺麗な虹だった。
遠い空に架かるその虹の下には、もしかしたら、見たこともない宝物が埋まっているのかもしれぬ。
「ほら、そこに幸せが在る」
わたしには見えなかった。
わたしにはただの虹にしか見えなかった。
遠い空で動かない虹にしか見えなかった。
だから、判らなかった。
そこに幸せが在るのか、判らなかった。
わたしがそのことで不平を言うと、父はちょっと表情を改めて、ちょっと真剣な顔をした。
「幸せは、幸せな人にしか見えないのだ。大丈夫。幸子もいずれ必ず見えるようになるさ。そうなるように祈りを込めて、幸子という名前を贈ったのだから」
父はそんなことを言ったのだった。
あの頃の父は幸せだったのだろうか。
わたしの傍に居てくれた、温かい父は幸せだったのだろうか。
父は、わたしの頭を撫でながら、私の目を見据えて、夢の終りにそんなことを言ったのだった。
朝も早くから、子犬の啼く声で目が覚めた。
いつの間にか、私の傍に子犬が寄り添っていた。
仕方なく、起き上がって、訊ねた。
腹でも減ったかと、訊ねた。
子犬は威勢よく、わん、と啼いた。
だから、私はすぐに食べ物を与えた。
家族を飢えさせてはならない。
それが私の私なりの約束事であり、美学であり、誓いだった。
後で、一緒に散歩にでも出掛けようかと考えた。
子犬にとって歩くのが辛いようなら、抱えてあげよう。
そんなことを思った。
昨晩の夢の内容を、なぜか、鮮明に覚えていた。
父の言ったことを、なぜか、鮮明に覚えていた。
マッチを売る少女の話がある。
彼女は、死の間際にマッチの灯りの中に幸せを見たらしい。
優しかった祖母を見たらしい。
ならば、彼女は死の間際で幸せだったのだろうか。
父はそういうことを言っていたのだろうか。
私には判らなかった。
判らなかった。
「幸せって、何だろうね」
そう呟いたら、子犬が不思議そうな顔をして私を見上げ、くうんと啼いた。
子犬が私の頬を舐めた。
その時になって、ようやく、己が涙を流していたことに気付いた。
懐かしい思い出はいつだって優しいものだけれど。
昨晩の夢は、私にはちょっと優し過ぎたのかもしれぬ。
「おはよう、幸子」
ぼさぼさの髪を梳かしながら、鏡の中の己に向かってそう呟いた。
まだ、ちょっと、目が赤かった。
朝食には、変わらず、白いご飯とお味噌汁を摂ることにしている。
食事を終えて、とりあえず、鏡に向かって歯磨きをした。
健康的な白い歯は、なんだか幸せに繋がっていそうな気がしていた。
私は歯を磨きながら、待っていた。
「あなたは幸せですか?」
待っていたのを知っていたかのように、鏡が喋った。
私は、鏡の声の正体に気付いた。
その低い声の正体に気付いた。
あるいは、もうとっくの昔から判っていたのかもしれなかった。
その声は、確かに昔に聴き慣れたものだったから。
ゆっくりと歯を磨き終えた。
それから、私は鏡に声を掛けた。
「私には、まだ、幸せは見えないよ、お父さん」
私はそんな不平を言った。
いつだって、私はそうやって不平を言っていたような気がした。
そうやって、私は甘えていたのかもしれぬ。
そして、それに対していつだって、今のように優しく微笑んでもらったのだ。
いや、違う。
鏡は笑わない。
優しく笑ったのは、鏡の中の己だ。
「でも、もう少し、探してみることにする」
そう言ったら、わん、と足元で子犬が元気に啼いた。
驚いた。
いつの間にか、足元に寄り添っていたらしい。
お前も一緒に幸せを探すかと訊ねたら、子犬はやはり元気良く、わん、と啼いた。
それならば、子犬の名前はもう決まった。
私が決めた。
それは一度決めたら、もう、覆らない。
「おい、お前に、幸子二号という名を贈る」
幸子さんはもともと一家に一人いれば充分である。
名前の区別がつかないのは不便だ。
だから、幸子二号。
しかし、幸子二号というのは呼びにくいから、たんに二号と呼ぶことにした。
二号は、世界で一等に元気良く、わん、と啼いた。
その名前も悪くないと、どうやら気に入ってくれたようだった。
二号は、モリモリと食べて、モリモリと大きくなった。
背中がずいぶんと大きくなった。
散歩に出掛けて追いかけっこしても、私は絶対に勝てなかった。
悔しいから、二号に勝つことを夢見て広場で駆けっこの修練をしたが、必死で修練する私の隣で、楽しそうに走っている二号を見る毎に絶望した。
修練している横で、同じ修練をされたら、絶対に追いつけないではないか。
だいたい、二号はずるい。
私と同じようにちゃんと二本の足で走って欲しい。
四本足で走られたら、私に勝ち目なんてあるはずないじゃないか。
しかし、その理屈だと、蛸はもっと足が速そうだ。
やはり、蛸は二号よりもだいぶ速いのだろうか。
一緒に散歩をすると、二号は時々、道の真ん中で立ち止まる。
それはまるで、耳を澄まして、風の詩を聴いているかのようである。
あるいは、高い空を仰いではその蒼さを、野に咲く花を眺めてはその可憐さを、そっと称えているのかもしれなかった。
もしかしたら、幸せを見ているのかもしれなかった。
それは私には判らない、推して知ることができない領域だ。
そして、私には、まだ、幸せが見えないような気がした。
あるいは、見えているのに気がついていないだけなのかもしれなかった。
判らなかった。
ところで、有り余る金を処分することにした。
到底使い切れないし、使うつもりもないからだった。
恵まれているということが、幸せということではないのだ。
私はそのことを悟った。
しみじみと実感した。
私は死ぬまでに必要と考えられる分だけを残して、残った金は世界中の恵まれない人たちのために寄付した。
それはあるいは偽善と呼ばれる行為だったかもしれぬ。
しかし、それをしないよりはした方がまだマシだとも思った。
それでどれほどの人たちが救われるかも判らなかった。
もしかしたら、それで誰かの命が助かる結果に繋がったかもしれないし、そうはならなかったかもしれぬ。
私としてはその金で、腹を空かせた誰かが美味い飯でも食ってくれたなら、それでいいと思ったのだ。
ただ、それだけだった。
口笛を吹きながら、空を見上げたら、綺麗だった。
「恋でもするかな」
と私は呟いた。
乙女というには少々籐がたっていたが、私とてまだまだうら若き女性であるからには、恋をせねばなるまいと思った。
恋愛を成就させて幸福感を得るという風潮が、巷には横行しているようであった。
いつの世にも横行しているようだった。
私は素直な性分である。
だから、今度もそれに倣ってみようかと思った。
やや安直に過ぎるきらいがあるかもしれぬという考えが脳裏を過ぎった己は、あるいはそれ以前よりも素直ではなくなってきたのだろうか。
恋愛は人類開闢から連綿と続く男女間の慣習だから、侮ってはいけない。
それには注意が必要だと、二号が言った。
我々は家族だ。
二号が言いたいことなんて、私にはすぐに判った。
それにしても、二号はちょっと生意気になったものだ。
最近、調子にのると、幸子に幸あれ、なんてほざく二号であった。
私は、よく笑うようになった。
ふと気が付いたら、笑顔を浮かべるようになった。
私は、ちゃんと笑えているだろうか。
父のように笑えているだろうか。
あの頃の父のように私も笑えたなら、その時は。
その時には。
もしかしたら、幸せになれるのではないだろうか。
そう思って。
そう信じて。
私は毎日を過ごしていた。
仕事も、家族を養うのも、今のところ、順調だ。
色々な出来事があって、泣いて笑って。
それでも、私はなんとか生きていた。
死ぬまでに、幸せになれたらいい、と思った。
振り返れば、今までの私はどこか急いでいた。
焦っていた。
幸せを遠くに感じていた。
遥か彼方にあるそれに、一生懸命に手を伸ばすような、そんな感じだった。
砂漠の蜃気楼と知らずに、遥か遠くのに見える水源を目指して走るような、そんな感じだった。
そんな風に生きていた。
でも、もしかしたら、幸せは身近なところに沢山転がっているのかもしれぬ。
それは、蝶のように身近を飛び廻っているものなのかもしれぬし、遠い空から虹に運ばれてやってくるものなのかもしれぬ。
そんなことを思うようになった。
ようやく、そう思えるようになった。
そうしたら、気持ちがとても楽になった。
今でも時々、私は何気ない風を装って、例の鏡の傍でそれを待つことがある。
それが喋るのを待っている。
しかし、もう二度と、生意気な鏡が喋ることはなく。
私は、じっと、鏡を見る。
そこには、ちょっと幸せそうに見える己の姿が映っている。
「それも悪くない、か」
低い声でそう言ってみる。
そして、必ず足元でうずくまって眠っている二号の大きな背中を撫でるのだ。
起こさないように、優しく撫でる。
すると、どこからか、幸せな匂いがするように思える。
ああ、それも悪くない。
幸子さんのものがたりは、これにておしまい。
感想などお待ちしております。