つづく
つづきます。
「おはよう、幸子」
朝起きて、ぼさぼさの髪を梳かしながら、鏡の中の己に向かってそう呟いた。
疲れていた。
身体が重く感じた。
その原因は仕事のし過ぎにあるかもしれぬということは、薄々と勘付いていた。
仕事をし過ぎたおかげで、私はもうその時点で、仕事の面では満足の出来る成果を収めていた。
少なくとも、周囲の人間からはそう見做されていた。
だから、素直な性分の私は、そうか、ついに私も成功したのか、と思った。
しかし、なぜだろうか。
私はあまり幸せではなかった。
おかしいなあ、と不思議に感じていた。
そして、ついに私は、生活にゆとりがないのだ、ということに気がついた。
成功者は余裕があって優雅な生活を送っているような気がした。
誠に勝手ながら、無知な私としてはそういう印象を抱いていた。
そして、その優雅な生活こそは幸せに通じていそうな気がしたのであった。
高級品に囲まれて、ゆったりとした生活習慣を過ごすのだ。
とりあえず、お金が必要だと思った。
身の回りのものにお金をかけることが、優雅な生活の第一歩なのだと思った。
ああ、お金が欲しい。
お金があれば、幸せになれそうだ。
そんなことを思った。
休日の朝は、遅い。
窓の外を覗いて、太陽が空の高い位置にあるのを確認した。
とても、眩しい。
良い天気だった。
外に干した洗濯物がよく乾きそうだった。
朝食には、やはり、白いご飯とお味噌汁を摂ることにしている。
食事を終えて、とりあえず、鏡に向かって歯磨きをした。
健康的な白い歯は、なんだか幸せに繋がっていそうな気がしていた。
はっきり言って、油断していた。
そして、再び私はおおいに驚いて、腰を抜かしそうになった。
「あなたは、お金持ちになりたいのですか?」
久しぶりに鏡が喋ったのを聞いた。
それはまさに二年と五八日ぶりのことだった。
だから、私は完全に油断していた。
不意を突かれた。
本当に驚いた。
私は歯磨きをしている最中だった。
だから、口が利けない。
仕方なく、また、喋る鏡をじろじろと観察した。
他の喋らない鏡と比較して、とくに変わった点は見られなかった。
どうやら完全に喋らない鏡のふりをしていやがる。
それはまるで、応対が面倒なので本当は在宅しているのに居留守を決め込む、休日の私のような姿勢である。
しかし、私は確かに声を聞いたのだ。
鏡が喋ることはもう判っているのだ。ばれているのだ。
それなのに、鏡はあくまで、この私を欺くつもりのようだった。
騙すつもりのようだった。
生意気な鏡である。
歯磨きを終えて、私は鏡に話しかけた。
「私は、お金持ちになりたい」
お金持ちになって、優雅な生活を送ることが、やはり幸せに繋がる気がした。
だから、私は鏡に向かってそう言った。
しかし、鏡は何も言わなかった。
もう何も言わなかった。
喋れと命令しても、くすぐってみても、もう何も言わなかった。
生意気な鏡である。
二度もここまで無視するなんて噴飯ものではないか、とおおいに憤慨した。
休日なので、散歩にでも出掛けることにした。
その年の流行は薄紅色だったので、それを取り入れた服装をしてみた。
化粧も薄く施した。
意識して、ややゆっくりと歩いた。
それ以前はせかせかと歩いているが、やはりそれは優雅ではない。
それではいけないと思った。
ゆっくり歩くと周囲の景色も良く見えるものだ。
そして、ふと気付いた。
私は気付いてしまった。
路傍の草叢に、銀色のトランクが三つ投げ込まれてあった。
投げ込まれてから、時間もあまり経っていないのだろう。
外面は綺麗なままだった。
当然、中身もまだ綺麗だろうと推測できた。
何が入っているのだろうか。
私はそのことが、どうしても気になった。
近づいて、しゃがみ込み、トランクを開いた。
何か恐ろしいものが飛び出してきたらどうしようかと思ってドキドキしながら、それでもトランクを開いた。
閉まっているものを見たら、開けたくなる性分である。
私はそんな好奇心の塊である。
いつか、それで身を滅ぼすかもしれぬ。
ところで、中にはお金が入っていた。
お金に見せかけた宇宙人というようなことはなく、精巧な偽札でもなく、本物のお金であった。
札束が腐るほど、入っていた。
どうしてこんなところに大金があるのだろうか。
私は混乱した。
己の頬を抓ってみた。
痛かった。
どうやら現実のようだった。
とても困った。
誰かが、ここに大金を落としたのかもしれぬ。
そして、落としたことに気がつかなかったのかもしれぬ。
そう考えるのは無理があるような気がしたが、そう信じなければ、納得ができなかった。
とりあえず、警察に届け出ることにした。
もしかしたら、マヌケな落とし主が困っているかもしれぬと思った。
私はかなり頑張って、重たいトランクを全部、最寄りの警察署に運んだ。
警察署が大混乱になった。
なにしろ、大金であった。
己が混乱するのは嫌なものだが、他人が混乱しているのを見るのは面白いということに気付いた。
まるで、いたずらっ子の気分だ。
童心にかえったようだ。思わず笑ってしまった。
そんな私を周囲の警察官たちは、変なものでも見るような眼つきで、じろじろと観察していた。
拾ったお金は、全部で三億円あった。
正確には二億九四三〇万七五〇〇円あった。
結局、落とし主は見つからなかった。
それはまるで、あの三億円事件の犯人のように見つからなかった。
そして、その一部は拾い主である私のものになった。
私はそれを元手に株やら投資やらを始めた。
どうせ拾った金だ。
なくなってしまっても構わないと思っていた。
ところで、私は元々、世界有数の証券会社に幹部候補として入社した人間であった。
その手の資金繰りは、得意であった。
経済学はそれなりに嗜んであったし、経済動向に関する嗅覚に優れていたようだった。
拾った大金の一部で始めた資産運用はとても順調に進み、私は瞬く間に大金持ちになった。
そして、お金をふんだんに使って、優雅な生活を始めてみた。
生活にはゆとりが大切だ。
心には余裕が大切だ。
そんなことを思いながら、私は毎日それなりに優雅に暮らしていた。
「おはよう、幸子」
朝起きて、ぼさぼさの髪を梳かしながら、鏡の中の己に向かってそう呟いた。
むなしかった。
なんだか、むなしかった。
毎日、極めて優雅で、浪費の多い生活をしていた。
金は天下の回りものというが、私は積極的に回していた。
ぐるぐる回していた。
周囲の人間が羨むような生活をしていた。
しかし、それで幸せの感触を得ることはなかった。
ふと、私は寂しいのかもしれぬと思った。
孤独には慣れていたが、もしかしたら孤独では幸せになれないのかもしれぬ。
そんなことを思った。
つまり、ちょっと人恋しい気分だった。
誰かが私の傍で慰めてくれるなら、あるいは幸せを感じることがあるだろうか。
優雅な朝は、遅い。
窓の外を覗いて、太陽が空の高い位置にあるのを確認した。
とても、眩しい。
良い天気だった。
外に干した洗濯物がよく乾きそうだった。
朝食には、変わらず、白いご飯とお味噌汁を摂ることにしている。
食事を終えて、とりあえず、鏡に向かって歯磨きをした。健康的な白い歯は、なんだか幸せに繋がっていそうな気がしていた。
はっきり言って、油断していた。
そして、また、私はおおいに驚いて、腰を抜かしそうになった。
「あなたは、家族が欲しいのですか?」
また、鏡が喋った。
それは一年と二六四日ぶりのことだった。
私が歯を磨いていて喋られない時にばかり、声を掛けやがって。
それはまるで便所に入っているときに鳴り出す電話のような、もどかしいタイミングではないか。
例えば、ぼーっと髪を梳かしている時に話しかけてくれたりしたなら、私だってすぐに声を返せるのに。
高速で歯を磨き終えた私は、すぐに鏡に話しかけた。
「私は、家族が欲しい」
傍に居てくれる家族があったなら、こんな私とて幸せになれるのだろうか。
しかし、家族を得るにはどうすればいいのだろうか。
良い人を見つけて、結婚すればいいのだろうか。
それで子供を授かったりしたなら、それはそれで幸せになれるのだろうか。
とりあえず、こんな私と結婚する物好きから見つけなければならないのだろうか。それはちょっと気を重たくする考えだった。
なにしろ、結婚することで幸せになろうという発想がそもそも私にはなかった。
想定外のことは、あまりしたくない性分である。
成功して、幸せを掴む所存だったのだ。
それに拘っていた。
だいたい、鏡が妙なことを言うからいけないのだ。
鏡のくせに、私を動揺させるなんて、生意気だ。
生意気な鏡である。
だから、私は鏡にそのことで文句を言った。
突然、喋るのも止めてほしい。
ちゃんと私に向かって、これから話しますと、ことわってからにして欲しい。
ちゃんと心の準備をする猶予が欲しいのだ。
私はそのことを、充分に鏡に言って聞かせた。
しかし、鏡は何も言わなかった。
もう何も言わなかった。
喋れと命令しても、くすぐってみても、もう何も言わなかった。
生意気な鏡である。
三度も無視するなんて、もう絶交ものである。
私は怒っているのである。
鏡に向かって「バカ」と悪口を言ってやった。
鏡の中には己の姿が映っていた。
優雅に、散歩にでも出掛けることにした。
その年の流行は緑色だったので、それを取り入れた豪奢な服装をしてみた。
お抱えのスタイリストに化粧を施してもらった。
お抱えの料理人にお弁当を作ってもらって、私は優雅に自宅から出立した。
ゆっくりと優雅に歩くことに努めた。
そういう歩き方をした方が、かえって疲れるということに気付いた。
私は所詮、成り上がりである。
生まれは庶民である。
庶民の歩き方が、本当は最も適している。
だから、すぐに止めた。
せかせかではなく、ゆっくりとでもなく、私は普通に歩いた。
そして、ふと気付いた。
私は気付いてしまった。
前方に薄汚い箱があり、その中に一匹の子犬があるのを。
犬も歩けば棒に当たるというが、私の場合は出歩いて捨て犬に当たってしまったようだった。
この犬もまた、両親がいなくなってしまったのだろうか。
孤独なのだろうか。
そんなことを思った。
未熟者の私とて、情けのかけらぐらいは持ち合わせていた。
情けというものが大切であると両親にしつこく教えられていたし、私は素直な性分だったから、それを信じていた。
両親の教えてくれたことを大事に信じていた。
旅は道連れ、世は情け。
私は最高級の鞄から、最高級の食材で作らせた握り飯を取り出すと、子犬に与えてやった。
どうやら母乳しか飲めない段階は終わっていたらしく、さらにはとても腹を空かせていたらしく、子犬はがつがつと握り飯を食った。
空腹は最高の調味料だと聞く。
子犬は美味そうに私の握り飯を平らげた。
良いことをしたものだと、自己満足した。
このことをお釈迦様がご覧になっていたら、もしも私が死後に地獄に落とされたとしても、極楽から犬の涎の糸でも垂らしてくださるかもしれぬ。
そんな事を思った。
浅ましい人間である。
そのまま優雅に立ち去ろうとしたら、犬が啼いた。
かわいらしく啼いた。
まるで媚を売っているようだった。
どうやら懐かれたようだった。
だから、私の家族になるかと、試みに訊ねてみた。
犬は威勢よく鳴いた。
どうやら私の家族になる気があるように見えた。
汚らしい箱には、どなたか子犬を貰ってくださるようにどうかお願いすると、丁寧な字で書かれていた。
置いて捨てていった人間にも、最低限の情けの心があったのだろうと私は思った。
あるいはそれは好意的にすぎる解釈だったろうか。
子犬を家に連れて帰った。
家族にしようと思った。
子犬は酷く汚らしい様をしていた。
だから、洗ってやった。
私の家族には、せめて清潔でいてもらいたいと思ったからだ。
家族とはいえ、対等な立場ではないので、私は子犬の意見など最初から聞いていなかった。
勝手にごしごしと石鹸で子犬の身体を洗ってやった。
ピカピカに磨いてやった。
子犬は諦めたように啼いていた。
酷く痩せている感のある犬だった。
だから、もっと飯を食えと言って、食べ物をたんまりと与えてやった。
温かいミルクも与えた。
子犬はそれを勢いよく平らげた。
私にだって子犬に飯を奢るぐらいの甲斐性はあったし、家族を養うこともできるはずだった。
それにしても、家族ができると、一気に騒がしくなるものだった。
ちょっとした物音に対しても、鋭敏に反応し、子犬はよく啼いた。
基本的に、臆病な性分のようだった。
独りでは広く感じた家が、ちょっと狭く感じられるようになった。
それは子犬のせいである。
でも、それも悪くないように感じた。
賑やかな生活も悪くないように感じた。
だからなのだろうか、私は子犬に親愛の情を抱いた。
憐れみでも同情でもなく、ただ愛しく思った。
子犬は雌であった。
家畜ではなく家族なので、子犬に名前を付けてやろうと考えたが、良い名前が思いつかなかった。
仕方がないので、そのままにして、寝た。
次が最終話です。