僕と圭介君②
西日が仏様に当たって光が目に痛い。
「「「――――――――」」」
夕方のお勤めの時間だった。
ご住職の後に続いて僕と明新が読む経は、今将に『一糸乱れず』であった。ようやくここまでたどりついた。僧侶修行を始めた最初のほうは滅茶苦茶だった。
明新もきっと『俺頑張った!』とか思っているだろう。
そんな夕方だった。
「お兄ちゃん! 大変! 大変!」
お堂に美緒が駆け込んできた。
僕は手で制しながら読経を続ける。平常心、平常心。
「大変なんだってば!」
(もう少しで終わる、もうちょっとだけ待ってくれ)
と平常心を心がける。
「「「仏説―阿弥陀経―」」」
カーン
「お兄ちゃん! 大変なのよ!」
美緒はすっかり顔を赤くして頭に血が上っている。
「終わったよ。どうしたの?」
ようやく僕が返事を返すと、美緒が泣きそうな顔で講堂の裏まで僕を引きずっていく。
グイグイと有無を言わせない強さだ。
「お父さんが大変なの!」
他人に聞かれたくない話なのか、周囲を気にしながらオロオロと
「お父さん、クビになっちゃった……」
と不安げに言う。
「クビ? 何免職? 整理解雇?」
僕はいたって平気に行って見せる。
景気に左右されず、最近は人件費削るからなあ。
「違うの。何だっけ、そのー免職。何とか免職っていう、退職金も給料も出ないやつ!」
「ああ、懲戒免職」
小声で叫びながら慌てている美緒は、公立高校の二年生だ。一つ下の弟の勇は私立の高校一年生で部活にも入っている。さらに下の妹、真奈美は小学六年生、学費が必要になるのもこれからが本番だ。
「で、本人は何て言っているの?」
「会社に滅茶苦茶文句を言って、上と話してくるって。一回帰ってきたんだけどもう一回出て行ってまだもどってないの。どうしよう」
頭が冷えて涙が滲んできた美緒とは対照的に、親海は冷静だった。
(あー、有野がやったのかなあ? そんな気がする)
家に不幸があることは、聞いていたため慌てはしない。タイミングも含めてある程度は予想通りだ。
「とりあえず深呼吸しようね、吸って、吐いて、ほら」
美緒は程なくして落ち着いた。
(有野の母は過労死だっただろうか? 経済的な困窮もありだな。何しろ取引先の会社辞めさせたらしいから。免職の理由はどうしたんだろう?)
「ごめん、びっくりして慌ててしまって……」
「そりゃびっくりもするだろうね。理由は何か聞いているの?」
僕の関心はそこだ。何しろ僕は冷たい性格だからね。
魂が欠けたのは誰なんだろう?
「……何かね……別の部署の若い人と喧嘩して暴れちゃったみたい。その………殴って怪我させたみたいで…………」
言いにくそうに事情を話す。
「相手は? 怪我は酷いの?」
「……うん、多分。電話で聞いてたから、詳しくわからないけど。全治三ヵ月って、これって酷いんだよね?」
自信なさそうだ。
「うん、酷いだろうね。警察沙汰になるかも。そっちの方が心配だよ」
「えー!…………あ、そっか。そうだよね、傷害罪?」
(『魂欠け』はあの人だけかな? 直接有野に聞いた方がいいだろうな。僕が『魂埋め』しないか様子を見に来るだろうし)
再びオロオロし始めた美緒に
「愛さんはどうした? 勇は? 真奈美は?」
「お母さんはお父さんの事信じているって。でも、電話で呼び出されて出て行った。勇と真奈美はまだ部活から帰ってきてない。私一人で不安になって家出てきちゃったけど……どうしよう、どうしたらいい?」
安心させるように微笑むと、
「とりあえず深呼吸、もう一回、落ち着いて。いいかい? いつも通りにして、余計なことは考えないようにするんだ。今の状況だとどうなるかわからないから、何もできない。
だから、いつも通り、夕飯をつくる、洗濯物を取り込んだり、お風呂を沸かしたり、普通のことをする。いいね?」
「でも…………」
「いつも通りだよ、子どもっていうのは、そういう立場なんだよ」
納得いかない、といった表情をしながらもトボトボと帰って行った。
「親海さん、良かったんですか?」
柴は身をひそめていた反対側の角から出てきた。
「お前、冷たくね?」
「仕方ないだろう。情報も少ないし、一段落しないと手の出しようがない。僕が生活見てやるわけにもいかないし」
「何で? 見てやればいいだろ?」
明新は不思議そうだ。こいつ、水道代も払ったことないだろう。
一人っ子の上に、万年新婚夫婦。しかも雑務は完全に佳代さんが仕切っている。
「お前―、俺の給料知っているよな?知っているよな?だったら高校生二人を含む合計八人(妖怪二匹含む)暮らしができると思うのか? 塾と学費で給料無くなるぞ? 食べ盛りの食費は? 光熱費は? 部活の費用は? どうしろっていうんだ?」
脅すような口調になっていった僕に罪はないと思う。
これには気まずそうな笑いが返ってきた。
「あー悪い、そーだった。安月給しか払えなくて悪かったなー」
「明新より寺に貢献してくれているのに給料少ないからなぁ。いつもすまんな」
ご住職もフォローしてくれる。
「それよりそろそろ通夜の時間だぞ。今日は三人とも出勤だろ?」
「そーだった。明日は一人二回ずつ葬式か。あうー」
そう言って通夜の準備に取り掛かった。
通夜は無事に終わった。
暗闇の中を寺へ帰る。ふと気配に気づいた。
「有野、いるのか?」
「ええ、ここに。圭介で結構ですよ。上手く娘を帰したようですね」
真っ黒の学生服の有野は見えにくかったが、確かに存在していた。
「他に言いようがなかったからな。彼女を家に入れるのは嫌だし」
「彼女、とは上総愛ですか?」
「確認しないでくれる? その辺」
有野は彼女を旧姓で呼んだ。
「失礼、しかし賢明な判断ですよ」
「あの人一人『魂欠け』させた?」
「そうです」
「怪我をさせる人はあらかじめ決まっていた?」
「よくおわかりで」
薄笑いの気配がする。
「なら言うことはないよ。予定通りなのだろう?
ああ、これ以上は困るな。この辺りで止めておいてくれ。僕はあの一家を背負いたくはないんだ」
一応釘を刺すと、有野は笑って
「大丈夫ですよ、また別の絶望を与えますから」
「そう? ならいいけど」
ふと思い出した。
「今まであの人、やたら浮気していたけど、解雇されるほどの事はなかったよね。お金も地位もなくなって、どうなるんだろうね?」
「さあ、確かに見物ですね」
有野はあの家の観察を続けるのだろう。
「彼女はあの人の『ファム・ファタール』になったんだねえ」
「?」
「ファム・ファタールって『運命の女』と言われるけど、『男を破滅させる悪女』って意味もあるんだって。実際に破滅させるのは君だけど、種をまいたのは彼女だ」
「言われてみればそうですが…………」
どうもその言い方は気に入らないらしい。
「ねぇ、約束してくれない? 僕の方に関わる程あの家を壊さないって。じゃないと、困るんだよね。駄目かい?」
これは完全に僕の都合だ。彼が飲む必要のない条件だ。
「では、協定、と言うことで。あなたは必要以上に自分からあの家に関わらない、俺はあの家に何をしてもあなたが巻き込むようなことはしない。それでいいですか?」
「じゃあ、約束。協定成立」
「はい。そのうち協定の内容も増えるでしょうけど、今回はこれだけで」
彼は何故同意してくれたのだろうか? また無意識に『魂埋め』したのだろうか?
多分、違うだろう。彼は自分で自分の魂を満たした状態にできるはずだから。だったら何故同意してくれたのか?
増えていく内容ってなんだろう?『魂欠け』と『魂埋め』、相反することをするから、別の内容で彼が何かを求めることがあるのだろうか?
疑問は深みにはまる前に置いておく。
そして気づいた。真っ黒の学生服。立襟の二本線と袖の金ボタン。
「そういえば、君は至誠高校の生徒なの?その制服」
「ええ、一応高校は出ておかないと不便ですからね」
県内一の進学校に通っているのか。勉強ができる、というより純粋に頭いいのだろうな。県立だから児童施設としては学費も安上がりで助かるのか。
「学校近いの?」
「…………ええ、歩いて行けますよ。俺があなたの住所を知っているのに、あなたが俺の住所を知らないのはフェアじゃないですね。俺は恵司園という施設に住んでいます。時々あなたが園にくるのも知っていますよ」
恵司園は同系列の寺が運営する児童福祉施設だ。子犬姿の柴を連れてアニマルセラピーに似たことをしているし、週一回程度は小学生に勉強を教えることもボランティアでやっている。哀れな明新は毎回からかわれ、イジられている。
どう考えても有野に集団生活は似合わない。どうして出て行かないのだろう? アパートを借りるにしても保証人とかの問題だろうか? ……どうも変な方向に考えが飛んでしまうようだ。
「それはどうも。…………施設はバイトして貯金を進めているらしいけど、君の仕事って何て言って申告してるの?」
「記憶をちょっと改竄しています。貯まれば特に何も言われませんから。こう見えて、結構裕福な生活ですよ」
そりゃあ、命のやり取りを仕事にしていれば金額も高いだろう。記憶を書き換えられるなら尚更だ。
「予測はつくよ。進学は私立の医学部か?」
「まさか、金額としては可能ですが。そんな面倒なところには行きませんよ。あなたも、安月給にプラスαくらいではない力があるのに勿体ないことを」
「僕はこれくらいで調度いいの。決まった仕事をこなして、時々ほんのちょっと魂を埋めてあげて収入を増やす。月給以外はちょっとだけ『僕は誰かの役に立っている』って優越感に浸るために寄付をする。僕って歪んでいるよね? でも、そういう風に育っちゃったんだし、仕方ないよね?」
薄らと笑う僕に有野が笑い返す。
「育ってしまったものは仕方ないですよね。時々気に入らない人間は、破滅する以上に搾り取ってみます。俺も歪んでいますよね」
二人でフフフッと笑っていた。
傍目にはきっとひどく不気味に見えただろう。
「ああ、もうこんな時間に。すみませんが、今日はもう一件ありますので、これで失礼します」
「長話になっちゃったね、バイバーイ」
そういって二人は別れた。
今日、あの家は苦難に満ちた日々への船出をした。けれど、家族になれず取り残された僕には関係のないことだった。
淡々としているようで実は結構歪んだ性格の親海君。




