僕と美緒
「お兄ちゃんが言っていたこと、今ならわかると思うの」
突然やってきた美緒は僕の九つ年下の異母妹だ。高校生に入ったばかり。友人なのだろう、二人の女子高生を連れていた。三人とも心なしか青ざめて一人は目が充血している。
「ええ?何?」
何かショッキングな場面にでも遭遇したのか。
とりあえず客間に通してお茶を入れる。
「お兄ちゃん、昔わたしが犬飼うっていったとき反対したでしょう?」
「ああ」
思い出した。いつだったかな。
「えーっと、そう、4年生くらいだっけね。新築の家に移って、友達が犬を飼うからほしいって言ったのは。それから何度か」
「そうそう、最初はそのくらいだった。何度もお願いしたけど駄目って」
うつむいた美緒の声は震えていた。
「だから行って来たの。…………お兄ちゃんが見てきたら、………飼うのを検討してもいいって言ったから…………動物愛護センターに。何度も念押されて不安だったから……怖かったから友達にもついてきてもらって………」
細かく震える声から恐怖と不安と困惑が聞こえるようだ。みな一様に表情は薄曇り、俯いているようで、唇が紫色になっているのは隠しきれていない。
「見てきたんだ、軽い気持ちで飼った犬や猫の最後を」
僕もそれについて思うところが無い訳ではないが、努めて静かに声をかけた。
「そうか」
「…うん…」
「大丈夫か?」
長い髪の少女が声を絞り出す。
「大丈夫じゃない」
「怖かった、………怖かった……」
セミロングの髪の少女が震えている。
「……苦しんでいるの、すっごく苦しんでいるの! ………でも、だんだん動かなくなって来て、………最後は、最後は、……動かなくなったの、全く」
長い髪の子が美緒の肩を抱く。
セミロングの子はすすり泣いていた。
紫色から青白くなってしまった唇を震わせ、みな一様に涙を見せている。
「そうか、見てきたんだね?」
僕はたっぷり間をおいて話しかけた。
「怖かったんだね? 怖かった。でも、見てきた、それを見てきた。だからこそ、命は尊いものだと、もう解ったね? 理解したね?」
優しく語りかける。
「あれが現実だ。興味本位・その場の可愛さだけで人は動物を飼う。でも、最後まで買い続ける勇気とお金と能力が必要だ。それを放棄した結果が動物たちの死だ。そして、時々見つけた野良猫にえさを与える。これも、きちんと飼っていなければ病気・事故・子どもの遊び道具・周囲の迷惑になって結局は殺される。
いいかい、その怖かったことで命の大切さを学んだんだ。君たちが学んだことを忘れなければ、彼らは君たちの心で歯止めとして生き続ける。
その死は無駄じゃない。身を持って教えられたこと、大事にしなさいね」
「「「はい」」」
三人とも素直に頷いた。
「素直だな。他人や動物を傷つけて平然としていたり、快楽に浸ったりしないところがまともでいいね」
「ありがとうございます」
髪の長い子は気丈のようだ。美緒も肩を抱き慰め、セミロングの子の手を握り励ましてしっかり守ろうとしている。
「私、もう動物飼わない」
セミロングの子がぽつりと言ったのが、部屋の中にやけに響いた。
「お兄ちゃん、もうちょっとここにいていい?」
美緒は力なく上目づかいに僕の顔をうかがう。
「かまわないよ」
「ありがと」
美緒はうずくまるように座り込んで、柴の犬小屋を見つめていた。
「あの、お兄さんは犬を飼っていたんですか?」
「麻美!ちょっと」
焦ったような非難を美緒はセミロングの子に言いかける。
「飼っていたよ。もう何年前になるかな?」
「お兄ちゃん」
甘いレモンティーの香りが部屋いっぱいに広がる。
僕は話が苦手だから女の子に気の利いた言葉一つかけてあげられない。
悔しいなあ。
「ほら、温まるよ」
皆カップを受け取って、その暖かさで一息ついたようだ。
「ああ、あったかい」
長い髪の子が寄って来た。
「あの、もし差支えなければ、お話してもらえませんか?お兄さんの飼っていた犬の事」
「怜美まで……」
美緒は困惑していた。
「僕の犬は『二代目柴』だったよ。赤毛の柴犬。もともとは祖母が飼っていた柴犬が赤毛の柴犬でね、初代が亡くなって気落ちしていたから二代目を飼おうってことになって。
悪質なブリーダーから犬を保護していた近所のおばさんが、マンション住まいでさ、それが原因で追い出されそうになっていたのを六歳の僕がもらってきたのが始まり。
それからずっと僕が世話していた。おばあちゃんは足腰弱くて『膝が痛い』『腰が痛い』って散歩もなかなか辛かったらしくって。両親ともにお金はくれるけど、近寄りたくないのが露骨に見えてね。
僕が大学に入った年に亡くなったよ。
最後の数日、柴は弱って動けなくなったんだ。だから、せめて苦しまないように、動物愛護センターに連れて行って安楽死させてもらったらどうかって思ったんだ。でも、見てきたら、ひどく苦しそうだった。
獣医の神野先生も時間がないから家で看取ることを勧めてくれて。結局、僕が家を出ているときに亡くなったよ」
懐かしかった時間、『柴』がまだただの柴犬だった時間。大切な時間だったよね。
沈黙が空間を支配する。
どれだけ経ったのか。
美緒が話し出した。
「麻美がね、子猫を飼うって言ったの。私も受験とかでイライラして、欲しくなってたの。でもお母さんは世話したくないみたいだったし、お父さんはペットアレルギーでしょ? お兄ちゃんのところならいいよって言われたの。
でもお兄ちゃん、昔から何度お願いしても反対で、あんまりいい顔してくれなくって、……その時ここを見学して覚悟を決めたら飼っていいって、動物愛護センターのパンフレットくれたでしょ?
だから、見に行ったら飼ってもらえると思って、麻美と怜美に事情話して付いてきてもらったの。
あんなところがあってたなんて思わなかったから…………!」
堰切ったように話し出した美緒は泣いて泣いて号泣した。
しばらくして泣き止んだ美緒は目と鼻を真っ赤にして顔を洗いに行った。
その隙に怜美が僕に尋ねる。
「昔は、どうやって説得したんですか?」
「んん? 昔?あの時は何と言って説明したんだっけ?」
遠い昔のことを思い出す。
ああそうだ、美緒のお小遣いを説明に使っていた。
あのころは僕も安直で、物理面・金銭面からしか話さなかった。
全く愚かなものだよ。
「お兄ちゃん、子猫飼いたいのよ。いいでしょ?」
無邪気に甘えた声を出した美緒は、まだ十歳だった。
「ダメだろ? 家の中に動物アレルギーの人がいるのだから」
最初はいたって普通の会話だった。
「だから、お兄ちゃんのところで飼うの!」
僕はその頃三年前に新築した家にはいかず、元々祖母から受け継いだ古い一軒家に一人暮らしをしていた。新家とは電車で十分・バスで約二十分ほどの場所。
確かにアレルギーの問題はクリアできる。しかし、
「僕は世話しないよ? お金も学費だけで精一杯だし」
「大丈夫! 私が頑張るから!」
小さな胸を張るこの子にはわかっていないのだろう。
「お小遣い、いくらもらっている?」
「なんで?」
「猫にはお金かかるだろう?飢え死にさせるつもりじゃないよね?」
アッと気づいたように
「毎月、千円。足りるよね」
ちょっと不安げだ。僕は処置なしと思った。順に話すしかないだろう。
「うん、一番やすいドライフードなら、月に四百円くらいかな? 毎日餌を与えるために電車代が百二十円の三十日分で千六百円だね。これじゃあ、お小遣いでは足りないね」
困った顔をする。
「お兄ちゃん餌だけでも上げてよ。私週末は必ず来るから」
必死になって食って掛かる。
「僕はあちこち外泊が多いからね。毎日ちゃんと世話しに来るんだよ? ピアノの日も塾のある日も雨の日も」
「えーーーーー」
「えーじゃない。僕はバイトで何日も家を空けることが多いんだ。
飼うのは美緒だろう? 僕じゃない。
お世話の事、お金の事、よく考えなさい」
ぷっくり膨れて美緒は言う。
「でもさ、猫は家で飼ったほうが幸せなんだよ? 病気しないし長生きできるし」
どうしても自分に有利な方向にもっていきたいらしい。
「知っているよ」
「じゃあなんで反対するのよぅ」
理解できないとばかりに反論する。
「家の猫が健康で長生きなのは、餌が十分あるからと、予防接種を行っているからだ。猫の販売業者が悪質だと、予防注射もなく毛の抜けたボロボロの猫になるぞ」
あくまで淡々と答えて刺激を減らしてみる。
「でも外に出さなきゃいいでしょ? 予防接種なんていたそうだし」
「しなかったら病気になって苦しんで死んでいくんだぞ! 自分の都合でほかの命を殺す気か!
それに動物病院の治療費は何万円もするんだぞ。
子猫が増えないようにするための避妊手術だってあるし。
猫の生活に必要なものをそろえるのにも金かかるぞ。
結論からして、飼い始めるのに二年分のお小遣いとお年玉を足しただけの金額が必要だな。今の状態ではまず無理だ」
美緒はふくれっ面のまま泣きそうになるのを必死で我慢している。
「お前の心次第だ、誰かに飼ってもらって幸せな猫になるか?
お前に飼われて不幸な飼い猫になるのか?
命を背負う能力と責任ができたら、飼ってもいい」
反応はない
そうだ、ここらへんに………あった、柴の式が迫った時に見に行ったパンフが。
「美緒、自分の一生と猫の一生、よーく考えて、それでも飼いたいと思ったら、ここへ行きなさい。
ここを見学してみて、それでも飼いたいと思ったら。その時は飼ってもいい。
僕もできるだけ手を貸してあげる」
その時渡したパンフレットが動物愛護センターのものだった。
まだ持っているとは思わなかったけど。
美緒が戻ってきた。幾分ましな顔に戻っている。
「あれから六年になるのかな? まだ持っていてくれたんだね」
すぐ捨てたと思っていたのに。
「お金が貯まったら、飼おうと思っていたの。ふさふさの白い猫。
バイトで飼えそうなくらいお金貯まったし、麻美も買うって言ったから一緒にって思って……」
また涙声になっていく。
「お兄ちゃん、私、もう飼いたいって言わない」
「そうか、決めたのか」
「うん」
泣き止んだ美緒は自分の心に何か言っているようだった。
「ああ、いいんだ。栗―! 栗ー!」
僕は隣の仏間で昼寝しているであろう栗を呼んだ。
スーッ
と障子が少し開いて、するり、と栗が部屋に入ってきた。
「これは僕の猫、名前は栗。仕事の時は職場に連れて行っているし、僕が亡くなった時は寺で面倒見てくれるって約束してある……痛っつ」
栗が僕の手をひっかく。多分僕が亡くなった時のことを話したのが気に障ったのだろう。かわいい奴だ。
美緒は目を見開いて栗を凝視した。
「栗は僕の猫で美緒のじゃない。それでもいいのなら、時々触りに来てもいいよ」
栗は手足の先こそ黄色だが、美緒の望んだ真っ白でフサフサの子猫だ。
「抱いてみてもいい?」
「どうぞ」
栗はあくびをしながら大人しく美緒の腕の中に納まっている。
「あったかい…………」
「そう、生きてる。ペットショップだと、その暖かさと手触りで客の判断力と自制心を鈍らせて売るんだ。
その結果が、今日君たちが見てきた結末。毎年二十万匹近くの犬や猫が殺処分されているそうだ。まあ、公式になっている数字であって、引き取りの費用を払いたくない人たちが勝手に殺している分を入れたらどれだけ増えるのか」
彼女たちは一様に身震いする。それぞれに栗を大事そうに抱きしめた。
「大事にする。…………時々会いに来るからよろしくね?」
美緒の改まった挨拶に、栗は片目を開けて見上げただけだった。
彼女たちは可愛いものが欲しいだけなのだろう。
それが物でも生きていても変わらず、可愛ければ欲しいのだろう。
「そういえば、君たちは『猫カフェ』に行ったことがあるかい?」
思い出したように僕は言う。
「ない」
「ないよね」
「うん、聞いたことはあるけど」
それぞれに行ったことはないらしい。
「猫に触れたいから飼いたいっていう、猫が好きなら行ってみるといい。
君たちが今日見てきたような殺される寸前の、野良猫や引き取り手のない子猫を引き取って、猫のシェルターのような役割をしている所なんだ。料金は普通のカフェより割高だけど、猫の餌代や治療費・避妊手術代と色々経費が係るから仕方ないんだけど」
「ええっ、そんなところがあるんですか?」
ペットショップには見に行っても、新聞の広告欄などは見ていないのだろう。よく犬猫の譲渡会のお知らせが載っているのに。
「不幸な猫を助けたいと思うなら、行ってみるのもいいよ。
そこで知り合った猫を諸経費分払えば譲ってくれるところもあるよ?
その後も飼い方に困ったら、行って相談に乗ってもらえるしね。」
互いに顔を見合わせて
「それって、どこにあるんですか?」
「ええっと、この近所には2ヵ所かな? アーケード内で、ここから一番近いケンナッキー知ってる?」
「わかります」
「そこから横道に入って100mくらいかな? 黒い看板の入り口があるから」
女の子ってたくましいよねぇ。
立ち直りが早いっていうのかなぁ。
殺処分見た後だっていうのに、今度は猫カフェに行く話をしている。
「わからないなら、栗に案内させようか?」
あっちが、こっちがと言っている彼女たちに付き添いが必要だろう。
どうせ今日も栗は勝手気ままだ。
気にすることもなく言いつけてやろう。
「え、いいんですか?」
「今から行くの?」
それが当然とでもいうように、きょとんとした顔で僕を振り返る。
さっきまで怯えていたとは思えない。
痛みをすぐ忘れられるのは長所でもあるし、短所でもある。
短所となって心無い大人にはなってくれるなよ?
「そうですけど? 都合悪いなら、自力で探します」
「いや、大丈夫。栗、案内してやってくれ」
みゃーご
ついて来いって言うように、栗は一鳴きして玄関に向かう。
「あ、お邪魔しました」
「ありがとうございました」
礼儀正しく挨拶をしていく。最後に美緒が
「また来るね、お兄ちゃん。栗にも会いに!」
と言って連れ立って出て行った。
猫の里親譲渡はトラブルも多く聞いている。寄付金を強要されたり、病気の猫を押しつけられたり、避妊手術してなくて猫が妊娠していたり。
しかし、あの猫カフェなら管理もしっかりしているし大丈夫だろう。カフェとしての衛生面でも人・猫・物の空間の広さ・気遣いも問題はなさそうだし。
そして現在。
「栗―! 栗―! 会いたかったようーーーーーーーっ」
満面の笑みで、休みの日には必ず栗を抱きしめに来る美緒。
微笑ましげに見ている寺の面々。
完全に腰が引けて、撫でまわされ抱き締められてボロボロになっている栗。
笑い転げている柴を叩きつつ、止めに入らない僕。
毎週見る光景だ。
そして
「誰か助けてくれー!」
栗の鳴き声に近い雄叫びが前日の夜に響くのだ。
滅茶苦茶に撫でまわされて哀れな栗。




