淡く消えゆく雪の如く
私は待ちわびている。
静かに、けれど途切れることなく次々と舞い降りる白い天使たちを。
凛と張り詰めた空気。
その中にほんの少しだけ混じっているのは、世の中の汚いものを全て覆い尽くした、清冽な水の匂い。
しんしん。
さらさら。
音無き音はすべての雑音を吸い取っていく。
なにも聞こえない。
ただ、雛鳥の羽毛が優しく重なり合うように、白銀の景色に微かにその音を響かせるだけだ。
私は小さな子供のように待ちわびている。
あの白い天使たちを。
清冽な匂いを。
子供の頃出会った初雪の精に、また会えることを。
*
「よし。大体終わったかな」
部屋をザッと見回して、濡れた手をエプロンで拭いた。
窓から見える景色は相変わらずの寒空で、雪でも降ってきそうに重たい。今日は朝からそんな天気だったけど、会社に行くのと同じ時間に起き、張り切って大掃除に臨んだ。
来週は3連休だし。
クリスマスのイブイブが絡んでるし。
そこに大掃除をはめ込んでしまったらいくらなんでも悲しすぎる。つい先週、数年続いた彼氏と別れたばかりだけど、クリスマスまではまだ一週間あるんだもの。何がどう転ぶかなんて分からないから、予定だけは空けておかないと。
お茶を飲んでひと息入れようと、テーブルに愛用のカップを用意した。
茶葉はこの間、お気に入りの専門店で量り売りしてもらったもの。来客用にと奮発したちょっといい茶葉だけど、今日くらいは贅沢したい。何と言っても大掃除を一日で完了させたんだから。
アールグレイの豊かな香りに満たされて、心地よい疲れが眠気まで誘った。ふとカーテンの隙間に目をやると、暗くなりかけた空にチラチラと白いものが舞っていた。
やっぱり。
何か音がすると思った。いや、気配か。雨から変わったわけじゃないから音なんてしない。音がするほど大粒でもない。けど、それでも雪だ。まだ12月だというのにこの地域に雪が降るなんて珍しいことだった。
「初雪かあ」
口にしてみて、ふと思い出した。ずっと忘れていたことだけど、長く私の胸に留まっていた特別な記憶。
子どもの頃の話だ。朝目覚めると、やっぱり今みたいに雪の降る気配がして布団に跳ね起きた。
『明日の朝、雪が積もってるかもしれないよ』
寝る前に母に言われていたから、胸を躍らせながらカーテンをめくってみた。すると、曇ったガラスの向こうには見たこともない一面の銀世界が広がっていた。しかも、雪は未だこんこんと降り続いている。
「わあっ、お母さん!雪!雪が降ってる!」
慌てて2階から駆け下りた。母を急かして朝ごはんを作ってもらい、身支度を済ませたらすぐに近所の公園まで走った。走る、というより、もがく。慣れない雪に四苦八苦しながら、やっとのことで公園に辿り着いた。
と、広場の真ん中に何かが見えて、入り口の柵のところで立ち止った。
「誰…?」
日曜の早朝だというのに先客がいる。それも近所では見たことのない男の子だ。降り積もった雪と同じ、真っ白のコートに真っ白なニット帽、長靴から手袋まで、身に着けているものはなにもかも真っ白だった。
「おはよう」
男の子が話し掛けてきた。随分遠く離れているのに、ハッキリと聞こえた。
「…おはよう」
消え入るような声で返すと、男の子はニコリと微笑んだ。
雪は子供の膝近くまであった。私にしてみればやっとの思いでここまで来たのに、彼は公園の入り口まで、まるで土の上を歩くようにスムーズにやって来た。
自分と同じで6歳か7歳くらいに見えるその顔は、今となってはぼんやりとした記憶しかない。けれど、とにかく美しかったように思う。間近で見る素肌はまるでビスクドールのように滑らかだし、人間じゃないみたいに白かった。生きている気配―――ピンクのまあるい頬がなければ、そういう温かさは感じられなかった。
「遊ぼう」
「…うん」
その時の私は、子供心に彼のことを少し変わった子だと思っていた。彼からは、普段自分の周りにいる子供たちのようなお日様の匂いはしない。冬まで残る日焼けした肌もない。彼のいる辺りだけが、異国のお伽噺の世界のように光って見えたから、少しだけ怖くもあった。けれど、そこは子どもだ。何故かすぐに意気投合して、気が付けば一緒に雪の中を駆けまわっていた。
当時の私は引っ込み思案で、知らない子と遊ぶなんて考えられないと思っていたから自分でも驚いた。彼は自分を『ユキ』だと言った。私は『ミユキ』だと名乗った。
「名前、似てるね」
「似てるね」
最後には手を繋いでいた。ちゃんと温かかった。
明日も遊ぼうね、そう言ったときに彼が黙っていたことは覚えている。けれど、きっと近所の子なのだろうからまたすぐに会えると思っていた。
次の日、公園に行ってもユキはいなかった。その年雪が降るたびに公園に行ってみたけれど、それきり彼に会うことはなかった。
翌年、初雪が降った日に公園に行くと彼がいた。初めて見た時と変わらない、お人形みたいに儚い横顔が白く積もった雪の中にあった。
「ユキ!」
「…ミユキ!」
彼は顔を上げて陶器みたいな頬を綻ばせた。重く圧し掛かるような雲間に、一瞬太陽が顔を覗かせたたみたいに感じた。
私はまた驚いた。1年あいだが空いても、彼のことを『ユキ』と呼べたことに。
それからは、初雪の日が年に一度の大切な日になった。幼すぎた私には、恋、という感覚はよく分からなかったけれど、年に一二度会える遠く離れたいとこに持つような、胸に仄かな思いもあった。
当時の私は彼のことを、本当に雪の精か何かだと信じ込んでいた。雪が降れば、毎年会えるものだとも。けれど、やがて徐々に大人に近づき、恋を知り、仕事を持ち。完全に大人になる頃には、初雪の日だけに会えるその人のことはすっかり忘れていた。
2杯目の紅茶をカップに注ぎながら、もう一度窓の外を見た。雪はさっきよりも大粒になり、次々と空から降ってくる。遠くの景色は既に、粉砂糖を振りかけたように薄っすらと覆われかけていた。
今日彼のことを思い出したのはとても素敵なことだった。多分、初雪が降ったのが休みの日でなければこんなにゆっくりと眺めることもなかった。
彼は今頃、どんな姿になっているだろうか。私と同じで、もう立派な大人になっているかもしれない。それとも、雪の精は大人にはならないのだろうか。大人になった私の前にも、彼はまた現れてくれるのだろうか―――。
*
大掃除の疲れか、お茶を飲みながらこたつでうたた寝してしまった。気付いたら夜の8時。とても夕飯を作る気にはなれなくて、コンビニで簡単に済まそうとアパートのドアを開けた。
「うわあ…」
ドアの外は完全に白一色と化していた。廊下も。手すりも。アパートを取り巻く家の屋根にも。電線にまで雪が堆積している。
そうか、やたらと静かだったのはそのせいなのか。雪はすべての雑音を吸収する。世の中の聞きたくないこと、見たくないものをみんな隠して、今日という一日だけは汚れのなかったあの頃に時間を巻き戻してくれるんだもの。
ふかふかの真綿の上に一歩足を下ろしたら、心はもうあの頃へと戻っていた。コンビニへ行くという目的を忘れて、慎重かつ大胆にアパートの階段を下りていく。道路はアパートの廊下よりももっと深く積もっていて、ブーツがすぐに雪に埋まった。
…こんなに!こんなに!
道路を挟んで向かいにある公園へ、私は少女のように駆けだした。雪は今、何センチ積もっているだろう。20センチ?30センチ?まだ12月だというのに、こんな時期にまさかここまで降るだなんて夢にも思わなかった。
公園内は見事なまでに真っ白に覆い尽くされていた。ブランコも、すべり台も、ジャングルジムも、ベンチも。広場の真ん中に高くそびえる杉の木は、街中に設置されたクリスマスツリーのようだ。頼りない街灯に照らされてちらちらとところどころ煌めいている結晶が、まるで星屑を散りばめたみたいにきれいだった。
私は胸一杯に冷たい空気を吸い込んで、ぐっと全身に力を込めた。そして次の瞬間、前方に向かって思い切りダイブした。身体が一瞬宙に浮かび、誰も足を踏み入れていないまっさらな新雪にずしりとめり込んだ。
「アーーーッ、ハハハハ!!!」
雪に突っ伏したまま高らかに笑った。刺すような冷たさが顔だけでなく、コートやパンツの向こうから、袖口から、全身を通してやってくる。それでもしばらくは動けなかった。私だけのためにしつらえたふかふかのベッドがなんとも心地がよかったから。人からすれば怪しいヤツにしか見えないだろうけど、この日ばかりは童心に帰って遊ぶべきだと私には思えたのだ。
ところが、その開き直りも羞恥心の前にはあっさりと敗れ去る。
「遅かったね」
と頭の上で声がした途端、スッと現実に引き戻される自分がいた。
慌てて雪の中から顔を上げた。見ると、仄かな街灯の明かりを背にスラリとした若い男が立っている。真っ白のダッフルコートを着て、髪は肩に着くくらいに長い。舞い散る綿毛の中に浮かび上がったその顔は、高価な美術品を思わせるように美しく、そしてどこか懐かしかった。
…誰だろう?
差しのべられた手に掴まり、雪の中から脱出しながら考えていた。けれど見当もつかない。だって、私の人生の中でこんなにもきれいな人―――
「ミユキ」
声の響きを聞いて胸がどくんと熱くなった。気持ちが一気に子供時代に引き戻される。
「…ユキ?」
「うん」
滑らかな肌に人懐っこい笑みが生まれた。…そうだ、この笑顔には見覚えがある。
立ち上がった私の髪を、彼は丁寧に払ってくれた。けれども私は、つられてほほ笑みそうになった自分を戒めるように頬の筋肉を手で押さえた。夢かもしれない―――そう思ったから。
今の私はもう6歳の頃の私じゃない。こんな夢みたいな偶然を簡単に受け入れるほど素直ではないのだ。
だけど、もし彼が本当にユキだったとして。
会うのはもう十数年振りだけど、今まで姿を現さなかったのはどうしてだろう。会わなかった年月、彼はどこでどうしていたのだろう。どうして今日は私の前に現れたのだろう。やっぱり彼は初雪の精なのか、けれどもそんなものが本当にいるのだろうかと、真顔になってしまったのにも気づかずに考え入った。
彼は私の目を真っ直ぐに見た。そしてこう言った。
「夢じゃないよ。君はきれいな心の持ち主だね。僕のことを信じてくれているもの」
尋ねたいことはたくさんあったのに、彼はもう私の手を引いて駆けだしていた。途中で手を離して先の方へと走り、軽やかな動作で雪玉を作って私に投げてきた。
「わっ」
最初の雪玉は胸のあたりで弾け、四方に飛び散った。次いで、もう一度。
ユキとはよくこうして雪合戦をして遊んだ。彼の作る雪玉は柔らかで、途中でバラバラに崩れないよう表面は硬く握ってあるのに中はふんわりとしている。だから当たっても全然痛くなかった。この人が本当にあのユキかどうか私はまだ疑っているけど、雪玉の作り方は子供の頃の彼とそっくり同じだった。
お返し、とばかりにこちらも雪玉を作って投げる。私のは思いやりなんて皆無のカチカチに固めた重い球だ。しっかり作ってから投げないと肩の力が弱くて途中で力尽きてしまう。それをなんなく避けつつ、彼はまた新たな雪玉を投げてよこした。今度は私も機敏に動き、白い塊は遥か後方へと逸れた。
「君を泣かせたこともあったよね。あんまり立て続けにぶつけ過ぎて」
「あったあった。その時ユキも泣いたよね。あれはどうして泣いたの?」
「さあ…君が泣いたからじゃない?」
昔話はお互いちょっと気恥ずかしい。照れ隠しなのか二人でゲラゲラと笑った。けど、この会話で一気に時は戻った。私たちは子供のように笑い、バカみたいに本気で投げ合った。
「ねえ、ユキっていくつ?」
雪合戦はしばらく続いている。遠く離れた彼に向かって雪玉と一緒に言葉も投げた。すると、とりとめのない返事が返ってきた。
「さあ。大体25くらいじゃないかな」
「大体…?!大体って何よ」
私はまた笑った。雪の中を走るのは疲れる。だから余計にハイテンションを誘うのだ。
ここ最近の私は中堅社員というポジションもあって仕事が忙しく、心に余裕がなかった。こんなに笑うのは久しぶりだし、思い切り身体を動かすのも久しぶり。だから、楽しい。とにかく楽しい。
今日ユキに会えたのはもしかしたら神様のプレゼントなのかもしれない。仕事を頑張っている私に。大掃除を頑張った私に。数年振りに彼氏のいないクリスマスを迎えようとしている私に。
「ちょっと待って、疲れた…!」
まだ踏み固められていない場所に大の字に倒れ込んだ。
激しく息をつきながら天を見上げていると、降ってくる雪が次々と私の目の前で放射状に逃げていった。まるで宇宙空間を旅しているみたい。彼が音もなく近づいてきていることにも気づかず、無数に漂うアステロイドの映像に吸い込まれていた。
「大丈夫?」
映像は途切れて、1メートルほど先に逆さまになったユキの顔があった。
何とはなしに照れてすぐに起きあがった。と同時に、目の前に大きな手が差し出された。
「ミユキ。手、繋ごう」
少し考えてから手袋を外し、彼の手を握った。雪合戦で濡れたままの手袋をしていては彼が冷たいだろうと思ったからだ。
ユキの手は手袋もしていないのに、あの日と同じで温かかった。
私と彼は公園をただ歩いた。それほど大きな公園でもないけれど、ゆっくりと行くから広く感じる。彼が足を前に出すと、周りの雪がざっと道を開けるように見えた。時折彼がヒバの葉に載った雪を摘んで口に運んだ。私の口の中にも入れてくれた。
「ユキ」
「ん?」
「…何でもない」
こうして並んで歩いているとどうしても無邪気な気持ちだけではいられなくなる。せっかく雪が汚いものを全部覆い尽くしてくれてるっていうのに。
私たちは大人になってしまった。ただ手を繋いで走り回っていれば楽しかったあの頃とは、もう違うから。
「ねえ、ユキ」
「なに?」
「…ユキって…ちょっと珍しい名前だよね」
「うん。それ前にも言ってたよね」
彼はクスクスと笑った。
「そう?忘れちゃった」
「大分前の話だ。多分、最初に会った時とその次の時」
「そっか、ごめん。でも素敵な名前だよね」
「ありがとう。ミユキも、いい名前だ」
何度も繰り返される他愛のない会話。そのひとつひとつに、彼は真摯に受け答えてくれる。けれど、本当に聞きたいことは他にたくさんあった。
『ねえ、ユキはどこに住んでるの?』
『あなたは本当は誰なの?』
『あれからどうしてたの?』
『どうして今日は会いに来てくれたの?』
『私のことは何も聞かないの?』
尋ねたいと思ったことは何一つ口から出ては来ない。聞いてはいけないような気がしたし、聞いたら終わってしまうのではないかと恐れた。
何が?
それが何なのかはこの短い時間では分からなかった。
だから。
「ねえ、私の部屋で一緒にご飯食べない?」
思い切って言ってみた。今は少し先を歩く彼は、雪を両手に掬ってはそこいらにばら撒いている。
…聞こえなかった?
「今日大掃除したからピッカピカだよ」
少し大きな声で言ってみた。けど、返事はない。…と、とりとめのない会話は相変わらずだったことを思い出す。彼はしばしば私の問いかけに言葉を返さなかった。夢中なのか上の空なのか、それすらも分からなかった。
ふと、ユキが足を止めた。彼が眺めている夜空を私も見上げると、降り注ぐ雪片は気づけば大分小さくなっている。そして彼はポツリと言った。
「そろそろ終わる」
「えっ」
…何が?
その言葉は、もう子供でない私には怖かった。
『また遊ぼうね』―――そんな挨拶で別れられるのは子供だけだ。大人は『また』がないかもしれないことも知っている。1年という月日が、案外長いことも知っている。
「今夜ミユキと会えてよかった。久しぶりの雪合戦、楽しかったよ」
彼は形のいい目を細めてニコリと笑った。けれど私はうまく笑えなかった。
「もう行っちゃうの?」
もっと一緒にいたい。
「また会える?」
帰らないでほしい。
「…来年の初雪まで待たなきゃいけないの?」
来年また会えるとは限らない。今日までだって、十数年あいだが空いていたのだから。
「ミユキ」
彼は私のそばまで来て指先で頬を拭ってくれた。
「僕はいつでも君と共にいる」
手を握られたかと思うと、優しく身体が抱き寄せられた。そっと触れ合っただけの唇は確かに温かかった。柔らかかった。生きている気配がした。
彼はやっぱり精霊なんかじゃない。本当は生身の人間なのだと白状してくれれば、すぐに許してあげるのに―――。
私を放したのち、ユキは遠くの空を指差した。振り返ると雲がそこだけ切れて、月の明かりがぼうっと淡く光っている。そしてみるみるうちに切れ間はどんどんと広がり、周りに紺碧の空が現れた。
その空を見た瞬間、私は振り返ったことを後悔した。彼は初雪の精。だから雪とは無縁の星空が見えてはいけないのだ。晴れた夜空の下に存在する雪の精なんていないのだから。
「ユキ―――」
頭を巡らせてみると、彼はもうそこにいなかった。
時を戻せるなら戻したい。ほんの数十秒でもいい、彼の指差した方向を見る前の自分に振り返ってはいけないと言ってやりたかった。
月が明るい光を投げかける。
その場に膝を着いてしまった私を、優しい風が慰める。
するとどこからか、最後の天使がひとひら頭の上から落ちてきた。手のひらで受け止めると、それはしばらく見事な結晶を見せてくれていたけれど、やがて私の体温で跡形もなく溶けていった。
(おしまい)