許嫁(いいなずけ)
その衝撃から守ってくれた蘇芳の肩越しに、黒煙の上がる方角を見た。
「蘇芳・・あれは鬼道館の方角ではないのか?」
振り向いた蘇芳の目にも、その方角が生まれ育った場所であることが見て取れた。何が起きているのかわからず、不安となって修理の心を掴み押しつぶそうとする。蘇芳の手を掴みその方角へ走り出そうとした修理の体を蘇芳は抱きとめる。
「とにかく、帝釈天王宮へ帰りましょう。何があるのか・・話はそれからです」
「でも、そんなことしているうちに、鬼道に何かあったら?」
「大丈夫です。帝釈天様がおわします。あのお方が姫の御為にならぬことなぞなされたことはございませぬ」
とは言ったものの、どう見ても異常な事態である。
駆け戻った王宮の二つほど角を曲がったところで、修理は人にぶつかってしまった。お互いがその場に倒れこんで、しばらく動けないでいた。
起き上ったのは修理が早かった。慌ててその人に手を差し出した時だった
「触れてはならぬ!!」
きつい声が飛んだ。倒れこんでいるのは美しく髪を結いあげあでやかな衣装の美しい人。その人を大切に起き上らせたのが今自分に声をかけた老女らしき人。
「鬼の姫ごときが、奥方様に触れてはならぬ!」
その手を引っ込めてしまった修理は、立ちあがった人をまじまじと見てしまった。
「よい、そなた、けがはなかったか?」
優しい声であった。老女がまだ言い足りぬようであったがそれを促してゆっくりと、去って行く人を見送った。
「蘇芳、あのお人・・奥方様と呼ばれていた。どなたの奥方か?」
蘇芳にしてみれば、なぜこんなところであのお方に会ってしまったか、隠してきたことなのに・・・答えを待つ修理の目は真剣であった。答えによってはこの姫の行動は予測がつかなくなる。
「答えよ、蘇芳」
いい加減な返事では済まない顔つきであった。
「仕方がございませぬ・・お答えいたします」
前髪をかき上げながら、蘇芳も覚悟を決める。
「あのお方は、真志保さまと申されます。帝釈天さまの許嫁とお聞きしております」
帝釈天の許嫁?
それがどういう存在なのか修理の頭は思考を止める。
「いいなずけ?・・いいなずけ・・許嫁とは、なんだ?」
首をかしげている修理に答えるのには躊躇する。
「やがては、帝釈天さまの奥方様になられるお人でございます」
それが修理にどれ程の衝撃を与えたのか、蘇芳にはわからなかった。
「そうか・・帝釈天の妻になる人か・・」
ぽつりとつぶやいた声を、蘇芳はこののち忘れることはなかった。
それでも修理はすぐに自分の立場を思い出した。奥で揚羽から聞いたことは信じられないことだった。
修理を痛ましげに見つめた人は、その細い体を抱き髪をなでてくれる。
「修理どの、おつらいかもしれぬが、兄を信じてくださいませ」
母が死んだという・・そのために父が天軍を相手に戦いを挑んだという
抱きしめてくれていた揚羽の胸を静かに押し、少し距離を取ろうとする。
「私は人質なれど、鬼道の子でございます。父が戦うと決めたのであれば、私も共にまいります。たとえ相手が誰であろうと・・」
「なりませぬ。ここにて兄をお待ちなされませ」
「その待つ人が、一族と戦わねばならぬなら、止めるのはこの私しかおりませぬ!!」
その言葉は鬼道の子として、やがては姫長となる者の覚悟であったのだろうか。いつも穏やかな修理の叫びに揚羽は折れた。いや、この子ならばもしかしたら平安に戻せるのではないかと、淡い期待を抱いてしまったからだ。
蘇芳がわらっていた。仕方ないという顔で・・・
「必ず戻れ、蘇芳どの」
王宮の門から出て行った二人が、こののち、この王宮へ戻ることがあるのかどうか・・揚羽にはわからない。もしその日が来るとして、あの兄はどうするのだろうかと思うばかりであった。