弔う人
序
父はコルネリアの柩職人だった。
生まれて物心もつかぬうちから、私は彼が槌をふるう音を聞かない日がなかった。家の中にはいつも皮を剥がれた白い生木の香りがし、あらゆる部屋の隅にまで細かな木屑が入り込んでいた。
私たち兄弟はいつもその木屑まみれの床を分厚い木靴をはいてこわごわと歩いた。母もそうしていた。もしそうしなければ、足の裏はたちまち傷だらけになってしまったから。台所に行くにも、食事をするにも、ベッドで眠るときでさえ、必ずその木靴をはかねばならなかった。柩職人の家に生まれた子供の誰もがそうであるように、そしてその子供たちの誰もがそれを嫌がるように。私たち兄弟も例にもれず、このうっとおしい決まり事が嫌でたまらなかった。あれは折しも隣国から新しい文化が入ってきたばかりのころで、市井では家の中で靴を履かぬのが流行しつつあった。床という床にフランドルの分厚い毛織物を敷いて、その上で寝転がって過ごすのが当節の流行だった――さほど裕福でない家もみな競ってそれをした。いっぽう家の中でさえ無数の木屑にまみれて過ごさねばならないみじめさが、子供心に辛かったのだと思う。それに父のお下がりの木靴はまだ子供だった私たちにはとてつもなく大きかったから、いちいち大仰に引きずらねばならず、なんとも歩きにくく不格好だった。一番下の弟などまだ二つか三つだったから、ほとんど木靴に埋もれていたようなものだ。新しいのを誂えてくれと何度頼んでも、父はそのうちというばかりで、ついにはしてくれず終いだった。このころから父の鑿と槌は、柩をつくるためだけにあるかのようだった。母は何も言わず、いつも手に箒を持って、無限の木屑を玄関先から掃き出していた。私が覚えている母の最もよく見た姿がそれだった。
いつも庭に山ほど転がっているのが死者をいれるための匣だということを知ったのは、六つかそれぐらいの頃だったと思う。その頃私は、偶然にも身近に一つの死を目にし、それがつまるところ父の作る「柩」なるものへのある種の目覚めにもつながったのだった。
死の概念の理解は鮮烈である。人はあるとき、突如として死に触れる。いつも仲良く遊んでいた同い年の友人――きれいな赤巻き毛の少女だった――が何の前触れもなく動かなくなったその日のうちに、母の口から彼女が死んだと知らされた。それはおそろしい体験だった。まったく突然、わけも分からぬうちに平和な昨日から切り離されたような思いがした。確かにこのとき、何か細い糸を断ち切るような幻想を見た。人一倍感じやすい子供だった私は、ただただ陶然とした思いで半日口を利かずにすごした。
翌日の夜になってようやく死とは何かと尋ねた私に、無精ひげで顔の半分も覆った父は黙って真新しい柩を指した。それはつややかな黒塗りで、死そのもののように厳粛だった。あのろくでもない木屑だらけの、足の踏み場もないほど散らかった工房の中にありながら、天井窓から差し込む僅かな光を浴びて横たわるその柩だけはどこか神聖すらもっていた。金糸の刺繍をした絹の聖布が、精霊のようにその表を覆っていた。父は亡くなってから一晩でそれを仕上げたのだった。
そのさらに翌日、彼女はすっかり冷えて固まった小さな躯の首から下をきれいに布にくるまれて、額と両目に金銀それぞれの硬貨を置かれ、バロニアの白い花で埋め尽くされた柩の内側に横たえられた。それが私の知る一番最初の葬儀だった。空はくぐもったような曇天で、風が梢を揺らす合間に、彼女のふた親のひきつるような嗚咽がずっと聞こえていた。やがて柩は墓穴に降ろされた。人足のひとりがいやに逞しい若い男で、穴の底から私たちに向かって手を差し上げたのをどういうわけかとても鮮明に覚えている。この葬儀に異議あらば今ここで唱えるべしということだった。ただのお決まりだ――実際にそうする者など滅多にない。葬儀は滞りなく進行し、私は土をかぶせられ見えなくなっていく黒い柩を眺めながら、毎日のように間近に見ていたあのそばかすだらけの顔をもうこれで二度と見られないのだということをぼんやりと理解した。死者のためになされる幾つもの伝統的なやり取りや儀式といったものよりも、これほど土に深く埋まってしまえばもう上がってこられないに違いないという絶望的な思いのほうが、何よりも彼女の死を私にはっきりと結びつけていた。
父は自分の柩が弔われるところを見たことがなかったという。この当時コルネリアの賤職の最たるものであった柩職人は、身内以外の葬儀に参列することを許されていなかった。そしてそのことを残酷に裏打ちするかのように、柩造りは赤い格子縞の上着を着なければいけない決まりがあった。それは家を出るときは必ずそうしなければならないというもので、ちょっとした外出でさえ忘れることは許されない。格子縞は死者に捧げられる十字架に似て、忌み色である赤は柩造りの証というわけだった。柩職人がそれを脱げるのは家の中だけだ。
柩とは何か? 人の終の家である。それなくして死者の安らかな眠りはない。母親よりも配偶者よりも、人に最も最後まで寄り添うものが柩である。朽ちるときはともに朽ちる。それだから柩が要る。柩を造る人間が要る。柩職人たちは夜、ろうそくの灯りの中で時々ぼんやりと愚痴をこぼす。パイプに詰めた草はいつも秤いくらの安物で、隣には酒の代わりの熱い飲み物を入れた杯があり、彼らの指は長年木槌を握り続けたために曲がっている。これらはいわゆる柩職人の幻想というやつだ。すり切れた劇のように繰り返されるいくつかの光景の一つ……。おなじ死者に対する仕事でも、葬儀を執り行う神仕えの人間たちは容赦なく布施を取っていく。彼らは尊敬され、柩造りはそうでない――彼らの愚痴の種は尽きない。だが歴史と伝統とはそういうものだ。柩職人は柩をつくるためだけに生き、安いパイプの煙で足りぬ腹をふくらまし、やがて自分もそのどれかの柩に入ってひっそりと死ぬ。目立たず、いなくなりもせず、歴史の表舞台に出ることはない。そのくせ父のところにはいつも誰かしら客があって、柩の依頼のない時はなかった。
父はいつも死者に合わせて柩を造った。柩職人とはそうするものだと彼は信じていたし、彼の父もそのまた父もそうしていた。ここでも歴史と伝統というわけだった。柩職人ほど歴史を知る連中はない。国の歴史は表向きには勝利の数で、その反対では死者の数で計られる。人の歴史は死の歴史だ。柩職人たちは、そのすべてを弔ってきた。
人が死んだと聞かされると、父は例の上着を引っかけ、細かな目盛りのついた糸を腕に巻きつけて出かけて行った。そして必ず夜遅く、私たちが寝静まるのを見計らったかのような刻限に帰ってきた。先方で何をしているのか、子供の時分は知る由もなかったが、その頃いくらか物心のついていた私は父の帰ってくる物音を聞いて、弟を起こしてよく階下に降りて行った。出迎えようというのではなかった――そんなことをすればひどく叱られるのは分かっていたからだ。どういうわけか父も母もそれを決して許してくれなかった。だから私たちは階段の隙間から漏れてくる灯りを頼りに両親の姿を覗き見るほかなかったのだ。
母は戻ったばかりの父に貴重な聖油を惜しげもなく浴びせかけ、香りのいいバロニアの花で腕やら顔やらを擦ってやり、それから黙って抱擁した。そんなとき母は、微動だにせぬ父の、その周りに固まりついている動かぬ空気を暖めるように甲斐甲斐しく立ち働いていた。私は弟たちとその光景を影から見ていた。それは何かの儀式のようでさえあった。父は疲れたようにぐったりと母にもたれ掛かり、目を閉じていた。上着が重たくて仕方ないというふうにも見えた。母はそんな父を無言で抱擁し続けた。ただでさえ痩せぎすで顔色の悪かった父は、逞しい母の腕に抱かれているとそれこそ死人のようだった――落ち窪んだ眼窩の奥の目は、ここにないものを見るかのように遠かった。柩職人がみなああいった目を持つようになるのかどうかは、私は知らない。そういった話も聞かない。だが父はそうだった。いつもどこか疲れたように、項垂れて、この世のすべてに絶望したとでもいうように、かぶりを振って歩いていた。
父は生涯、一千を超える柩を造った。
父の仕事は死者があってから葬儀までの一晩か二晩のあいだに集中して行われることが多かった――遺体の傷まぬうちに仕上げなければならないので、夜を徹しての作業となった。あらかじめ型抜きした木の板は工房に山ほど用意されていたが、いざ造る段になればそれをさらに切り出し、削り、曲げ、張り合わせ、磨き、磨き、磨き――膠の刷毛で黒塗りし、また磨く。柩職人はその仕事のすべてを己一人の手でやり遂げる。ほかの多くの職人仕事に根付いている徒弟制度というものは、柩造りにはみられなかった。それだから、たいてい例の上着といっしょに、父から子へ受け継がれることになる。父も例にもれず、私がある程度もののわかる年まで育ったころ――十二歳かそれぐらいだったと記憶している――初めて私の手に鑿を持たせ、槌を握らせた。使い込まれた道具の持つ静かな威厳にどこか気圧されながら、私は黒鉄の表面をうっすらと撫でてみた。金気の匂いが鼻をつき、それから父に言われるがまま、手元の木にそれを想いきり振り下ろした。木屑が飛び散り、鑿は堅い手応えを返してきた。それが最初の記憶だった。
私は柩造りになりたいわけでなかったし、むしろ木屑だらけの家も陰気な父の姿も、子供のころからどちらかといえば好きになれぬものだったから、しだいに嫌になり、ついには一年も経たぬ間にやめたいと言い出してしまった。ようやくむらの出ないように白木を塗るやり方を覚え始めた頃だった。それは傍で見るほど簡単なことではなかった。はじめに下地をきちんと塗らねば、木肌は美しく仕上がらない。それが見極められるようになるまで長くかかると父は言った。何をするにもそのための眼がいる。眼をやしなうことは腕をやしなうことに勝る。私はそれほどいい弟子ではなかったろうが、思えば父は随分と辛抱強く教えてくれたのだ。
柩を塗装するのには数種類の決まった植物から採れる汁を使った。木膚をけずって採らねばならないものもあった。私はまず山に入り、それらの植物を見分け、採ってくることから始めなければならなかった。それができるようになるまで、道具は取り上げられてしまった。やがて私が間違えずに実と花と木の枝とを採ってくるようになると、父はそれをひとつひとつ検分し、グリッジズ鋼の大匙で潰し、何種類かを混ぜ合わせ、煮立て、一晩かけて冷やして、何かどろどろした釉のようなものをつくった。それを幾重にも塗り重ねると、あの独特の輝きになる。父は父だけの特殊な配合を持っていた――柩の見た目に善し悪しがあるかどうかはわからぬが、確かに父の仕上げた柩には顔が映り込むほどの黒々とした艶があった。そして雨の葬儀にも傷まずに、どこか凛とした風情を保っていた。
結局、分け与えられた貴重な知識をすべて放り出してしまった私を父は咎めなかった。ただ次は弟に同じように鑿を持たせた。弟は私よりもいくらか聞き分けのいい性だったのか、素直に父に習い始めた。やがて五年も経つと、家には父と弟がそろって槌と鑿をふるう音が響き始めた。そしてそれから間もなく、戦争が始まった。
2
戦争がひどくなるにつれ、コルネリアの死者は増え続けた。戦火は国土を嘗めるように広がり、昨日安全だった場所が今日は焼け野原というように、安全な場所は日に日に炎に喰われていった。号外は連日、コルネリアの劣勢を伝えた。いずれ負けるのは明らかだった。もはやフランドルの毛織物はどこの家庭からも消えた。優雅な時代は無残に終わり、昼夜降り注ぐ火の粉から誰もが頭を抱えて逃げ惑い、足元に転がる死骸を避けて飛び跳ねまわった。ある号外はそれをこの世で最も絶望的な踊りであると書き、非難をかった。
父は家にとどまって柩を造り続けた。いつものように死者を隅から隅まで採寸することが叶わなくなった代わり、どの大きさの柩にも必ず合う死骸があった。家には布にくるまれた遺体が幾つも幾つも運び込まれ、私は弟たちとともに恐ろしさに身をすくませながら、かすかな罪悪感とともにそれらから目を逸らしているほかなかった。しかし私たちの逃げる視線を追うように、日に日に家は埋め尽くされ、やがてどこへ逸らしてもそれを見ないでいることがなくなった。弟はこのころ毎日泣いていた。空に火、轟音、そして家の中にはその結果としての死が雑多に転がっていた――私だってどれほど泣きたかったか知れない。そうすることができなかったのは、いつも目の前に泣きじゃくる弟の真っ赤な顔があったからだ。その目をぬぐってやらねばならなかったから、自分の涙を始末する手がなかっただけだ。
どこの柩屋も似たような状態だったろうが、とりわけ父のところに運び込まれた遺体の数は多かった。引き取り手などはもとよりあろうはずもなく、誰が誰か判別のつくことさえ稀だった。神仕えどもは片端から国軍に雇いあげられ、軍人のめんどうをみるので手一杯のありさまだったから、もはや葬儀さえなかった。柩におさまった者から運び出され、わずかに残っていた心ある人たちの手によって共同墓地へ葬られた。柩にいれずに埋葬すべきだという案も出た――場所がたりなかったためである。それを蹴ったのは赤格子縞を着た柩職人たちだった。柩とは終の家である。彼らはいよいよというときまでそれを造ると主張した。父の馴染みの柩屋は、ほんとうにぐっすり眠りたいときは誰でも独りでなければならないと言ってパイプ脂に黄ばんだ歯を見せた。柩造りたちのある種の慈悲ともいうべきに仕事よって、死者はそのすべてがかろうじて最後のよりどころを得ていった。
父は休まずに鑿をふるい、槌をふるった。商人たちが逃げていったことで白木の板が手に入らなくなれば、自分で山へ行き、切り出してきた。山が焼けてそれもかなわなくなると、今度は家の壁を片端から剥がして充てた。それでも遺体は次から次へとやってきた。
仕事は苛烈を極めたが、弟は手伝うことを許されなかった。まだ一人で始めから終わりまで仕上げることのできなかった弟は、独り仕事が鉄則の柩造りの流儀でいえばまったく役に立たなかったのだ。父はこんなときでさえすべての工程を独りでこなした。寝ている姿を何日も見なかった。弟は口惜しげに自分の手を見つめていた。その手にある無数の胼胝が彼の五年の修行を物語っていた。
柩職人が死骸に困らないことほど皮肉なことがあろうかと、父が小さくぼやく声を聞いたのは何のときだったろうか。父はいつも独言のように話したが、このときばかりはどこへ向けての声だったのか本人にさえも分かっていなかったに違いない。それをいったいどういう理由で聞いてしまったのかも思い出せない。ただそのぼんやりとした声色は私の耳に長く残った。無言のうちに埋葬を迫るかのような無数の死骸に囲まれて、工房の丸椅子に腰かけながら、項垂れるようにパイプに火を落としていた痩せた背中を覚えている。父はまるでその死者たちの唯一の導き手となったかのように、どこか神々しくさえあった。父はひとつひとつの死を手に取り、ひとつひとつを弔った。
やがてさらに戦況が悪くなると、いよいよ我が家の近くにも火の手が上がり始めた。近所から一つまた一つと家族が消え、店はどこも終日よろい戸を降ろすようになった。とりわけ食糧品店は飢えた人々の奇襲を恐れ、大量の商品とともに真っ先に姿を消した。食べ物を売る店がなくなってしまっては、戦火をかいくぐって流れてくるいわゆる闇商人たちから買わねばならず、練り粉が金貨十五枚という途方もない値段を目の当たりにしてはもはや何の希望も持てはしなかった。
このころついに母は私たちを遠くの街へ逃がす算段を始めた。まだ母恋しい年頃の一番下の弟は泣いて嫌がったが、母はぐずる弟の頬を張り、涙を光らせながら明日にでも発てというばかりだった。私が弟たちを守らねばならなかった。正直を言えば私は家に残りたかった――長男として、自分は父母を守る義務があると漠然と思い込んでいたからだ。だが父母はその役目を弟二人に対してせよと命じた。逆らえようはずはなかった。
やがて出立する前の晩、母はこれが今生の別れになるかもしれぬからと、かろうじて残っていた食糧をみな料理してしまった。久方ぶりのまっとうな食卓に弟は無邪気に喜んでいた。だが私は哀しかった。これでは父母は明日から何を食べて生きていけばよいのかという疑問を、食事とともに閊え閊え飲み込んだ。卓には私の好物も多く載っていたが、どれも砂を噛むような味がした。
短い夕餉が済むと、父はまた工房に向かった。もう明日から聞くことがないかもしれない槌と鑿の音を聞きながら、私たちは最後の苦い茶を飲んでいた。どこへというあてがあるわけではなかった。母はただ逃げろと言うが、逃げた先に何があるのか、安全な地は果たしてあるのか、まったくわからないままだった。もしかしたら明日にはコルネリア全土が焦土と化しているかもしれないという中で、私たちは一瞬一瞬のきわどい積み重ねでかろうじて生きていたのであるから。父母が生き残るかもしれず、私たちが生き残るかもしれず、あるいはどちらも死ぬかもしれず、どちらも生きられるのかもしれない。未来などどうしたって見通せるものではなかったのだから、どうせならば最後のその瞬間まで家族揃って手を取り合っていたかったというのが偽らざる本音ではあった。だが逃げろ逃げろと繰り返す母の気持ちもまた痛いほどわかった。工房の音はやまなかった。憐れな死者は数え切れぬほどここにあった。逃げられぬ父を置いて逃げられぬ母は、文字通り自分の命を分け与えるつもりで最後の晩餐を拵えたのだ。私たちはそれを喰った。往かねばならなかった。
翌日、私たち三人はごく僅かな荷物を手に、夜の明けきらぬうちに家を出た。父の仕事はもう始まっていた。弟は鑿の音が響くたびに家を振り返り振り返り、重たい足を引きずるようにして歩いていた。目に、手に、ちぎれそうなほどねじった首にありありと未練がにじんでいた。下の弟はもっとひどく、真っ赤に腫らした目を伏せて、泣きださないためにずっと自分の手の甲を噛んでいた。今さら泣いたとて叱るつもりはなかったが、その頑なな無言が幼いながらの何か拒絶のようにも思え、やめろと言えないままだった。
そして放浪が始まったのだった。どこへという宛てもなく、ただ戦火の及ばぬ先を目指して異郷の地をさまよい歩く私たちは、亡霊と変わりなかったに違いない。末の弟の足は日に日に遅れ、すぐに私と弟で交代に背負って歩かなければならなくなった。とはいえ私たちとてろくに食べず眠らずだったから、それもどれだけ長くやせ我慢を続けられるかというような、先のない頑張りにすぎなかった。自分の手足が細っていくのを、日々気味悪いような思いで毎日眺めていた。
やがて私たちはお互いにお互いの名前を呼び合うことをどちらからともなく始めた。このころ恐ろしかったのは、互いの顔がわからなくなることだった。十年以上も見慣れ、親しんだはずの家族の顔でさえ、干からびた目ではともすれば他人のように見えた。自分の顔はとうに忘れた。だから私たちはお互いの顔を見つめ合い、その名を呼んでかろうじて記憶を保った。すがるような思いだった。
せめて一口なりと滋養のあるものが欲しかった。だが川の水はどこも汚れ、実のなる木は根こそぎ捥がれて、現地の人間すら飢えているのに、我々異邦人のための食物などどこにも転がっていなかった。家に残ってともに死ねばよかったと何度思ったか知れない。弟たちも同じ思いだったろう。父母が生きているとはもはや思われなかった。戦火は私たちを追うようにして陸地を這い進んだ。はるか後方に残してきた家も家族も、みな火に巻かれたろうと、泣く気力もないままに自然と悟っていた。
だがそれでも生かされたのだから生き延びねばならぬというその一点の思いのみで、私たちは背を掠めようとする死の手をどうにか逃れつづけた。思えば家にいた時分はあれほど身近だった死が、妙なことに、こうして離れたことで却って何かとてつもなくおそろしいものに思われた。死はおのれと己の近しい人に降りかかるときおそろしいのだ。そんな考えも浮んできた。――庭のいたるところに運び込まれていた遺骸、あれをおそろしいと思ったのは、あれはただ何か動かぬものへの畏怖ともいうべきものにすぎなかった。呼吸をせず、話さず、ただそこにあるものへの恐怖だった。死がおそろしいのではなかった。このときから、私の頭にこびりついて離れなくなった死への幻想がはじまった。
私たちはひたすらに歩いた。それから、いったいどういう奇跡の連続でたどりついたのだか定かでないが――コルネリア南端の小さな集落に身を寄せることができたのは、十五日ほど後のことだった。
私たちを保護したのは小さな療養院だった。医者が四人と手伝いが七人、それに一人の責任者がすべてを切り盛りしていた。建物は見慣れぬ形で、開放的で、どこもかしこも開け放してあった。天井は高く、はるか階上まで一続きになっていることが多かった。南の気候は冷え込んだが、空気は乾いて、空は澄んでいた。人々の気性もどこか明け透けなように思われた。廊下のあちこちに温めた石が置いてあり、その傍を通ると暖かかった。その石は例の吹き抜けの真上から籠で釣り下がっていることもあった。決まった時間に大人たちがそれを揺らし、大扇で煽いだ。すると建物の隅々にまで暖かな空気がまわった。
ここでは戦争はまだ遠かった。仮令その静けさがいずれ来る火の手を待っていたのだとしても、ここにはまだその暗い影は落ちきっていなかった。道端まで死者であふれた地から逃げだしてきた私たちの目に、まだ戦禍のさして及ばぬこの地は途方もなく平和に映った。食糧は欠けていたが、それでもいくらかはあったし、私たちはそれほど過酷でない幾つかの仕事をすれば少なくない量を分け与えてもらうことができた。ここに来るまでに通ったどんな町にもなかったものがそこにあった。それは平穏だった。
最初の日、久しぶりにまっとうなベッドで眠ったとき、私はようやく泣くことができた。もはや自分でも何のための涙だか分らなかった。ここまで恐ろしい思いをしてきたことか、やっと安心できたがゆえのか、父母を喪った悲しみだったか、あるいはそのすべてだったか。実のところ居住の場となった大部屋には同じような年頃の子供たちが山ほどいて、恐らくはどこかからか逃げてきた面々も多く、新参者の私たちがベッドを借りられたのも最初の数日だけだった――だがそれでもはじめのうちは私たちは哀れまれ、優遇され、存分に甘やかされた。それがどういうわけか無性に私の胸を締め付けた。ここの責任者は中年を過ぎた大柄な女性で、医者であったかどうかはわからぬが、こういった仕事をする多くの女性がそうであるように、母というものの体現ともいうべき気性と容姿を持っていた。実の母には似ても似つかぬその人の声を、あたかも母の声のように私たちは聴いた。彼女の手は母の手だった。世の中には、すべての人の母となることのできる女性というのがいるものだ。彼女がその一人であったのかもしれない。
夜、私が独り声を殺して泣いていると、一番下の弟が同じベッドに潜ってきて、寂しいのかと思えば小さな手で懸命に私の頭を撫ではじめた。慰めようとしているのだと気が付いて、それでまた泣けてきた。
だが平穏のときは短かった。しばらくすると、そこでも戦禍の音をすぐ近くに聞くようになった。近くの街道からいくらも離れていない町に火の手が上がったという話も聞かれた。食堂では連日、大人たちが声をひそめて話し合っていた。だが何を? ここはコルネリアの最南端にほど近く、もはや逃げよう先もなかったのだ。国境は超えられない。高すぎる山脈と頑丈な網とが隔てている。私たちは焼け残った僅かな平和の幻想のなかで肩を寄せ合っていたにすぎなかった。それがもう終わるということだった。
実際、それから間もなく、私たちは逃れたはずの悪夢と再び見えることとなった。恐ろしい甲冑に身を包んだ兵士たちは、この僅かな集落をも根こそぎ破壊していった。私たちの母は前線に出ていって無抵抗を示し、医療のための道具や薬、それにわずかな食料などを差し出すことを条件に話し合いを試みたが、全身に槍を突き通されて亡くなったとのことだった。逃れたはずの死がまた私の近くに付きまとい始めた。医者の一人は夜中に国境を目指して逃げ、もう一人はとうに焼け野原になったはずの北を目指して逃げていった。母亡き後、大人たちの一部は滑稽なほど利己的に振る舞いはじめ、私たちを憎むかのように扱いはじめたので、彼らが遁走したと聞いたときは正直を言ってほっとしたぐらいだ。
だが残った大人たちは私たちを放棄しなかった。私たちはすでに家族だったからだ。子供は全部で十八人いた。私とすぐ下の弟を勘定にいれなければ十六人で、その代わりに面倒を見る側の人間がふたり増えることになった。だから私たちはその時から大人になることにした。
やがて何度目かの侵攻があった。いよいよと覚悟を決めた私たちは、最小限の食糧だけを袋に詰め、真夜中に建物を捨てた。末の弟は役目の別れた私たちと別行動することが多くなっていたので、ほかの子供たちと一緒によく辛抱し、まとまって裏手の森へ逃れることができた。幼い子たちがみな逃げた後、私たちもその小さな背中を追うようにして暗闇を走った。ただ二つだけ遺されていた武器――粗末な槍だった――を、私ともう一人、名前をよく覚えていない一人の大人が受け持った。しばらく走ると足元は石畳から湿った土の感触に変わり、冴え冴えと冷えた夜気が服の隙間から忍び込んできた。私たちはただ走った。そのすぐ後ろから、おぞましい甲冑の音が迫ってきた。だがそこは森だった。夜の森だ。重たげな鋼を着込んだ兵士どもはさぞ難儀したに違いない。私たちは秒を惜しんではるかはるか先へ逃げた。いつもなら迷うといけないから決して踏み入るなと言われている森の奥は、そのときばかりは私たちを護ってくれうる文字通り最後の砦だった。森はその神秘的な枝葉を揺らし、私たちを奥へ誘うための道を作ってくれた。森が夜のあいだだけ目覚め、呼吸することを、私はこのときに知った。
ふいに静寂が訪れた時、逃げ切ったことを知った。あの金属の擦れる不快な音はいつの間にか聞こえなくなっていた。私たちは夜に蒼む木々の間に立ちつくし、弾む息をこらえながら、じっと周囲を窺った。何の気配もなかった。残してきた建物のほうからさえ、何の音もしなかった。森の奥深くには争いなど影も無く、ただはじめから水晶に似た神秘だけがあった。
その夜、疲れ果てて眠り込んだ子供たち――そのうちの幾人かは二度と目覚めなかった――のまん中で、彼らの髪を切なそうに撫でていた若い女の茫洋とした目つきを、私もいまだに覚えている。たぶん、弟がひそかに思慕していた女性だった。赤い髪をした素朴な女だった。夜明け前、彼女が小さな息を吐いて糸の切れたように項垂れたのを目撃したのは、おそらく私だけだった。
3
戻ることができたのは数日後だった。
私たちは森を戻らずに、そのまま先に進むことにした。皆で甲冑の音に耳を研ぎ澄ましながら静かに進んだ。しばらくした頃、あの夜に袋小路に追い詰められていたはずの私たちは、しかしその後どれほど待っても追手が来ないことを初めていぶかった。一晩たち二晩が過ぎると、それは次第に確信に変わった。もう誰も追ってこない――その突拍子もない考えが浮かんだ。子供たちは疲れ切っていた。せめて沢の水を飲ませ、薄れる意識を呼び戻してやりながら、私たちは聞こえない戦火を聞こうとすることをやめた。
森を抜けたのは数日ののちだった。そこには小さいながら町があり、人が生き残っていた。私たちはそこで初めて、私たちがあの森で過ごした二晩のあいだに何があったのかを知った――戦争が終わったのだった。コルネリアはついに敗北し、あの甲冑を着た兵士たちは引き上げていったのだ。森の先に人の住む町があることを彼らは知らなかった。その間隙に、何も知らぬ私たちは森を這い出したのだった。
町の入り口周辺にはぽつぽつと遺骸が転がっていた。ここを目指してきたのか、ここから逃げていったのか、ともあれみな下生えに四肢を投げ出して、ぐったりと横たわっていた。街道沿いにもいくつもあった。弔う場所も人手も足りぬのだという。とりわけ柩が無いのだという。大人たちは、私たち兄弟が遺骸をほかの子供たちよりも怖がらぬのを不思議に思った。
弟が黙って鑿をとったのはこのときではなかったかと思う。町は私たちを受け入れてはくれたが、めんどうは見てくれなかった。誰もが自分と自分の家族だけをかろうじて守るので精いっぱいだったからだ。冷酷な人は誰も居なかった。みな人間が誰でも持つ慈愛を当たり前に持つ人だった。だが戦争とはそういうものだ。
異邦人たる我々には、町の端の小さな建物が提供された。私たちと同じように森を抜けてきた人や、孤独になった子供たちがまとまって押し込められていた。そういう状況でのことだった。着るものも食べものも何もかも足りぬ中、どこから見つけてきたのだか、ある夜ふらりと姿を消した弟は手のひらほどの小さな鑿を持って戻ってきた。そして以後、決してそれを手放すことはなかった。
弟は柩を造り始めた。無数に転がる遺骸に、かつての家の光景を思い出したのか、それとも柩職人の卵としての何らかの矜持、あるいはその血が弟のなかに目覚めていたものであったのか。弟がまだ修行を終えていなかったことは知っていたが、私は何も言わなかった。ただ弟の鑿が翻り、槌の音が響くたびに下の弟が何かを思い出したように身を震わせるのを、怖いのだと思って、耳をふさいでやるほかなかった。大人たちは私たちが上着に赤錆をとかした水で赤い格子縞の模様をつけたのを見て何かを察した顔をした。私はこのとき、自分がかつて途中で修行をやめた柩造りであることと、弟がまだその道程の途中にあることを説明した。それきり大人たちはその話をしなかった。ただ弟の痩せた体を包む急ごしらえの上着を興味深そうに、あるいはどこか切なそうに眺めていた。それ以来、大人たちは私たちに触れようとはしなかった。
弟の柩は父の造ったそれと比べて甚だしく不格好ではあったが、かろうじて型はたもたれていた。なかには蓋の合わぬのを無理にたたいて釘で留めたような代物もあった。だがそれに文句をつける筋合いのあるものはいなかった。弟自身、気にもしていなかった。弟はただ何かに取り付かれたように柩を造り、造ってはそのなかに死骸を横たえた。弟の手が離れると、死骸はようやく眠り始めたかのように、ふと安らかに眉間を開いたようにさえ見えた。死を閉じ込めるかのような作業は延々と続いた。そうして町の周囲に転がっていた遺骸がすべて柩に収まったのは何日後だったろうか――そのあいだほとんど休まなかった弟は、最後の柩を仕上げるとそのまま眠りに落ち、まる二日寝続けた。私は傍に寄り添った。弟が目覚めたら出てゆかねばならぬと思って、大人たちにもその話をした。彼らは柩造りだからそういうのかと私に訊いたが、私は違うと答えた。ただここにはもう食べ物を分け合う余裕がなかったし、それに戦争が終わったのならば、せめて故郷に戻りたかったからだ。町の大人たちは最後に私たちに礼を言った。それからほんの僅かな焼き菓子を、道中にと言って持たせてくれた。柩職人の流儀を破った自分が仕事の対価を受け取っていいものかと弟は悩んだようだったが、下の弟のために、結局はそうするほかなかった。
焼けただれた街道を私たちは延々と北上した。戦争は終わったとて、その静まり返る爪痕はなんの慰めにもならなかった。きのうまで戦争で、今日からはそうでない、というその線引きは市井の人間には意味をなさない。破壊されたものも、死んだ者も、飢えも、何もかもそれでもとにもどるわけではない。そこここに戦争は残っていた。それはまったく終わっていなかった。来るとき絶望して通った道を、今度は無為に、何も考えずに歩いた。弟は道なりに死骸を見つけるたびに立ち止まり、木切れを集め、釘を打って、柩を造った。弟の手が赤く膨れているのを見かね、私は何度も手伝おうとした。だが弟は要らぬの一点張りだった。私よりもよほど気性の素直な弟の、これほど頑固なのは初めて見る思いだった。もっとも、このおそろしい決死行のなかで弟自身も変わっていったのかもしれない。もともと感じやすくおとなしかった弟は、時々ふっとここにない世界のここにないものを見るような遠い目をするようにもなった。どれほど疲労して見えても、弟はひとりで柩を造った。弟の手になる柩は無限とも思えるほど連なった。ただ出来の悪いのは変わらぬままだったのが、妙に可笑しくさえあった。
故郷に帰りついたのは出発して何日目のことだったろうか。正直を言うとそのあたりの感覚はとうに麻痺していた。朝が来れば起きて歩きはじめ、夜がくれば街道を離れてじっと休んだ。そしてまた朝がくると誰からともなく起きだして、誰からともなく歩き始めた。道中いったい何を糧に生き延びたのかもよく覚えていなかった。どうやって死なずにたどり着いたのか――どれほど詳細に思い返そうとしてみても、何の味も記憶にない。ただ、食べられそうなものを見つけるたびに末の弟の口に競うようにして押し込んだことだけは記憶にある。末の弟は閊え閊え、しかし文句も言わずに何でも飲み込んだ。そうして弟を生かしている間は自分たちも死なないのではないかというような危うい確信が私にも、弟にもあった。守るものを持つ人間は、守られる者よりもたいていの場合において強いのだ。
故郷は崩れ果てていた。焼け野原と化したあちらこちらに、かつてあった暮らしの名残がぽつぽつと取り残されていた。家に帰ろうとして、家がどこかわからなくなっているのに気が付いた。道も街並みも破壊されて、右も左も見知らぬ土地のようだった。それでも苦労してようやくたどり着いたとき、四方の壁が崩れ落ちた真ん中で、丸太にぼんやりと腰掛ける父の姿を見た。
声を掛けると父は振り向いて、無精ひげと乱れた髪のはびこる顔の真ん中で落ちくぼんでいたを驚愕に見開いた。私たちが戻ったことに驚いたというよりも、私たちが生きていたことに驚いたかのようだった。私と弟が赤い格子縞の上着を着ているのを見て、何もかも悟ったような顔をして、私たちを順番に抱擁した。父に抱擁されたのはこれが初めてだった。末の弟はただわけもわからずに目を瞬いていた。
父の目の前には作りかけの柩があった。嫌な予感がした。母か、と尋ねると、父はだまって頷いた。それからぽつりぽつりと、戦争の間は死人が途切れなかったのでずっと後回しにしていたが、ようやく少し手が空いたので、今なら弔ってやれる、と呟いた。父の物言いは相変わらず抑揚に欠けていたが、私にはそれがほんの微かに、どこか嬉しそうな響きすら持っていたように感じた。
母が亡くなったのは私たちがここを発ってすぐのことだったという。それから父は工房の奥を指差した。私たちは導かれるままそこへ行き、白い布にくるまれて、神聖な捧げもののように工房の奥にねむっている母と再会をした。遺骸を長く保存する技術も柩造りだけが持つものだ。それにはある特殊な植物から採れる油と、躰の中のものをみんな抜いたあと、その代わりにバロニエに浸して詰める特別な葉の繊維が要る。父がその作業をみんな独りでしたと思うと無性に悲しく、胸のふさがる感じがした。あの豪気な母がものも言わずそこに居るというのも信じがたかった。不思議なことに、あれほど父母双方生きておらぬだろうと覚悟して長い旅を終えて来たはずだったのに、いざそれを目の当たりにすると改めて悲しみがやってくるのだった。父ひとりだけ生きているのを見てしまってはなおさらだった。
父の背中は痩せ衰えていた。食糧が尽きたのはどこも同じであるらしい。皮ばかりになった手の甲には柔らかそうな管が浮いていた。その手が、己の最後の命のかけらだとでもいうように、鑿を握りしめていた。
その夜、弟は父と何か会話をした。
父は弟が柩を造ったことを咎めなかった。代わりに、同じ道に足を踏み入れた息子を枯れたバロニエの枝で叩いてやった――それが儀式だったからだ。バロニエと柩造りは切り離せぬものだ。かさかさに乾ききった枝からはまだかすかな芳香がのぼり、弟はその香りの中で、柩職人となった。
私と末の弟は同じ部屋には入らず、その様子を盗み見るようにしてうかがっていた。砕け散った家のなかで、まともに残っているのはその部屋だけだった。
夕食のために父が手に入れてきたのは小さな四足の肉が一切れふた切れだったが、長くろくなものを食べていなかった私たちには豪勢な食事だった。食事をしながら、私は年長の子供らしく、はたしてここでやっていけるだろうかというような話をした。父は柩の要り用には困ることは無いと言った。代わりに木も森も焼けてしまったから、しばらくはどこかからか買い付けなければならんと言った。そのあてはどうするのかと訊くと父は難しい顔をして独り言のように何か言った。私との会話はどこか上の空のようでもあった。父はこういった話は私よりもむしろ弟としたいような顔をしていたのだと思うが、私は気づかぬふりをした。弟はどこかぼんやりして、空になった皿を見詰めていた。
*
弟が柩を造ったのは成り行きの為である。
しかし弟はそれ以来、父と同じ道にはっきりと足を踏み入れ、みずからの足でその道行きを歩き始めた。
あるとき、赤い格子縞の上着は父から弟へ渡された。しかし弟は、あの決死行の途中で作った不格好な赤錆の縞模様を選んだ。一人前になるまではこれでいいと言う弟の顔に、見たことのないきらめきがあった。それの一方はおそらく矜持であり、また他方は切なさだった。柩造りは切ないものだ。ほかの多くの仕事のように、父から子へ受け継がれるものではあるが、そこには誇りも喜びもない。赤い格子縞はいつでも彼らの痩せた躰を包む。――思えば、父が常に項垂れて、いつも不満顔をしていた理由を、弟はこのときすでに見ていたのかもしれない。傍に居る私と弟にはそれはまだ見えなかった。
母をいれる柩が完成したのはそれからほどなくの頃だった。私たちは布を取り去られた母の遺骸に改めて花を手向け、接吻した。母は目を閉じてあおむけに横たわっていた。膚には薄化粧がほどこされた。母の躰は空っぽだったが、かわりにバロニエの香水にひたした綿が詰まっているから、芳香さえした。それでもそこにあるのが情け容赦なしに死であることに変わりは無かった。母は死に、弔われるべくして今、柩にはいる。厳然とした事実だけがそこにあった。そして、このために父が磨き上げたのは、これまで見たどの作品よりも美しく立派な黒塗りの柩だった。
作品――このとき私ははじめてその言葉を意識した。弟がそれを見ながら一瞬、憧憬に近い目つきをしたことに気がついたためかもしれない。そうすると不思議なことが起こった。子供のころから幾度となく見続けたその匣が、これまでとまったく違う意味を持つ別のものに見えたのだ。それは死者のためというよりもむしろ生者のためにこそ輝いていた。つややかな黒、戦争中も父が決して手放さなかったわずかな金を惜しげなく使ったふち取り、ふたに施される精緻な細工……。それはどこを見ても見事だった。そして何か、私たちに一種の安らぎをさえ提供するのだった。死者の躰をいれるのと同じくして、そこには遺される者の心が這入りこむのかもしれぬ。斯様に立派な終の棲家を得た故人が、安らかに眠ることを確信して、そうして安心を得るためのものであるのかもしれぬ。だが死というものは私にはまだどこか分からなかった。ただその柩の威厳ともいうべき存在感と、圧倒的な美しさだけが、ずっと頭の隅に残った。奇妙なことを言うようだが、それはまるで、語りかけてくるようであったのだ。
弔いは二日三日後の夜半過ぎ、月光のなかで、ひっそりとすることになった。まだ戦争の爪痕に疲弊しきりの人々は、出産と弔いだけは助け合うという約束事のために集まってはくれたものの、みな無口で、どこかおざなりでさえあった。彼らは死に慣れていた。何ならば死を見飽きていた。来た人は誰も通り一遍の声を掛けてくれたが、私たちのためというよりは、その悔やみ詞が跳ね返って自分に戻ってくるのを聴いているような顔をしていた。持ち寄られた黒い砕き飴は、全部合わせても二つ三つほどしかなかった。それらはみんな小さい子供たちの口に押し込まれた。
だがそれでも、家族だけで母を弔うことにならなくてよかったと私は思った。寂しい葬儀は寂しい結婚式よりも哀しいものだ。焼け野原にぽつぽつと残る家々のなかには、まだ夜になっても灯もはいらぬ家も多かった。そしてその家々のほとんどがまだ弔われぬ死者をかかえていた。余所の家で誰が死んだと聞いたとて、自分の家にも死骸があるのに、それを置いて出かけてゆかねばならぬ様は、もはや悲劇を通り越して滑稽ですらあった。連日どこかの家で弔いがあるということだった。今日はうちだというだけだ。明日はまた別の誰かの家に行ってやらねばならない。そして父は、その死者すべてに容をあてがってやらねばならなかった。戦争が終わってもほとんど寝ずに造りつづけたという柩の数々は、順にそれらの家に運び込まれるのを待っている。我が家は柩造りであるがゆえに、隣近所がこっそりと油を用立ててくれ、父の工房にはいつもなんとか灯りがあったのだと聞いた。
戦争中、誰もが柩を欲していたという。欲しいのは死者のための場所だった。生きているものはいい、どこにでも居ることが出来る。歩いてどこかへ往くことが出来る。だが死者はそうでない。死者はもはや眠るほかに何もない。しかし眠るには、そのための場所と、そのための匣が必要なのだ。あるいはそれは、明日は我が身という極限状態の中、死になんらか一抹の希望を見出したかったがゆえの本能に近しきものだったかもしれない。人々は否が応にも死を身近にせざるを得なかった。かつまた、死を忘れるを得なかった。終いには、死に何らかの希望すら見出さねば生きていられなかったという。死を恐れていたのでは生き延びられなかったに違いないと、誰かが何かの折に言ったことが、妙に忘れがたかった。
共同墓地はとうに埋まっていたということで、急ごしらえの墓場代わりにしているという村の外れの静かな丘で、その中心に置いた母の柩の周りに私たちは輪になった。簡素な弔いではあったが、おおむね式に則って行われた。美しい柩のうちに横たわって睡る母は、着々と現世から切り離され、常世の住人となるべくして透き通っていくようだった。命を喪ったというよりも、それは生々しく脈打つ命を置いてひとり解脱してゆくかのような、奇妙に哀しい、だが美しいひとつの出来事だった。
そのとき、私は何の気なしに父を見遣った。たぶん理由は無かったと思う。ただ隣に居る父の顔を、見ようともせずに見たのだと思う。
父は微笑していた。
私は父が笑うところを初めて見た。
――そしてその直後、弾けるように頭の奥に強くひらめくものがあった。そうだ、そうだ、父は今、この場にいるのだ。その瞬間まで私はその異常に気がつかなかった。
柩造りが弔いの場に出ることは許されていなかった。それが受け継がれる柩造りの宿命だからだ。だが今、父はここにいて、弔われる母を見ている。母の柩がもうすぐ墓穴に埋められ、土を被せられ、見えなくなるという今このとき。
私は諒解した。両目は知らず見開かれ、知らず、躰が硬直した。瞳のなかに風が吹いた。柩造り! ああ、このときこそ私はそれを見たのだ。その名を負った人間たちのただひとつの矜持――幻想――ただひとつの、ただひとつの――
なんということだろう!
私は一種陶然とした思いに打たれて動けなかった。そのあいだにも葬儀が滞りなく済んで、みなばらばらと丘を下り、帰り始めた。その中で、父は深く息を吸い込み、また吐いた。二度目に窺った彼の顔が晴れやかであるのを私はもはや不思議には思わなかった。それは長年の絶望から解き放たれた顔にほかならなかった。
弟もまたそれを諒解していたと思う。彼は私の隣で父の顔を凝視していた。その目には明らかに理解の色があった。だが私よりも歳若で、かつ柩職人として生きることを決めた弟には、それはよりいっそう苦いものであったに違いない。
父はやがて先に帰ると言って、一番下の弟の手を引いて戻って行った。そうしながら、父はおいおいと声をあげて泣いていた。
終
父がその後十年ほどで馬車に轢かれて亡くなったとき、柩を造ったのは弟だった。
久しぶりに会った弟に、私は母の葬儀でのことを尋ねた。赤い格子縞がすっかり身に馴染んだ弟はそのときのことをよくおぼえていた。そして、おそらくは自分も私と同じことを諒解したのだと思うと言った。私ももちろんそのことには疑いがなかった。あれ以来父とその話をすることはついになかった――父はまた無口な柩職人にもどり、黙々と、せっせと、死ぬまで造りつづけたからだ。家の中はまた木屑であふれた。それを掃き出すのは弟の役目になった。ただ死んだとき造りかけだった二つの柩は、柩造りの流儀に従って、そのままにされた。一つは子供用で、一つはその父親のものだったという。
弟は結局家に残り、父と二人暮らしをしながら柩職人となったので、私などよりもよほど多くの話をしたのだろうと思うが、実際のところそうでもなかったと弟は笑った。だがしかし、一つだけ気がついたことがあると言った。それは母の葬儀の日に頭に浮かんだ考えを裏付けるものだったと言った。
弟は分かるような分からぬようなという私を工房に案内し、木屑を払って、造りかけの一つの柩を見せた。それは父のための柩だった。父が母の柩を造ったときと同じように、自分の最高傑作になるだろうと彼は言った。
最高傑作。
私は弟の次の言葉を待った。弟は次に、何かちょっとした手品の種明かしでもするようなふうにして、父が造りかけのままにしていった柩を私に見せた。そしてその一端、ほんとうに隅のほうを指差した。そこに、誰も気づかぬような蓋の隙間に隠すようにして、細い小刀の先で彫りつけたような小さな刻印があった。私は思わずそれを撫でた。弟は、これが父だったのだ、と言った。私にもそれがわかった。
あの人はいつでも絶望していた。私も弟も、末の弟も、いつもそんなふうに暗く沈み切った父の顔を見て育った。記憶にある父は常に疲れていて、時には何日もこもって仕事をするために乱れきった髪を垂らして、何かに不満を溜め込んでいるような顔つきをしていた。溌剌としているところなど一度も見なかった。いつしかそれが柩造りたるものなのかと納得しないではいられなかった。人の死に向き合い続けると、人はやはり疲れてしまうものだろうかと考えたことがあった。だが今、薄霧の晴れるように見えてくるものがあった。
あの人が絶望していたのは、幾多の死者を見なければならないことでもなく、報われぬ柩造りとしての人生でもなかった。ただ自分の傑作が――丹精込めて仕上げた作品が最も値打ちを持つ瞬間を見ることがなかったからなのだ。
柩職人は芸術家だった。私はそのことを初めて知らされる想いがした。思えばどんな職人も、自分の作品に誇りを持つものだ。なぜ柩職人だけがそうでないなどと考えることができたのか? 彫像家、作家、絵描きと同じように、柩職人もまたひとつの芸術家だったのだ。
小さなこの刻印は、父の手になる柩のすべてに遺されているのだと弟は言った。その控えめな主張こそ、柩職人のただひとつの矜持だった。死者とともに土に埋もれ、やがて朽ちてしまう細工の隅に、父は終生誰にも語らなかった名を遺した。
母の弔いの日、父が泣いたのは、母を喪った悲しみに他ならなかったろう。そして微笑したのは、長年の願いがついに叶った歓びを抱かずにいられなかったために他ならなかったろう。ごく近しい身内の葬儀のみ、柩職人は参じることを許される。そして彼らはそのとき初めて、己の丹精した作品が、その命を全うするときを見るのだ。死者を弔うべき柩をまた弔う人――それが柩職人であったのだ。
弟は私に向かって微苦笑を見せ、自分も今は父の気持ちがよく判ると言った。そのことが切なく、また誇らしくもあると言った。父のための柩を造り、これが弔われるそのとき、自分もあのときの父と同じ顔をするのだろう。弟はそう言って最後にまた笑った。父がそうだったようにだ。
父にとって、柩造りにとって、それは一つ一つが作品だった。芸術家が己の傑作をいとおしむように、父は柩の一つ一つを愛しんでいた。柩とは、彼の愛情のただひとつの受け皿だった。私たち家族でさえ、このときまで、あの人を真に理解するには至らなかったのだ。
だがそれは父が冷酷な人であったということにはならない。まったくならない。彼は母のために丹精込めて柩を造った。そしてその二つの死を見届けた。これ以上の愛の形があるだろうか。これ以上に彼を幸福にしたものがあっただろうか。
彼が柩を愛したのは、ただ彼が柩職人であったという、ただそれだけのことなのだ。