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第五章第4部: 初めての恒星間宇宙へ

前回までのあらすじ


ヴォクス・インフィニタの通信ログの中に、フェージングによる断絶を受けていない文明の存在が示唆された。

いわゆる「やり直し」を免れ、知識と判断の蓄積を保ったまま長期的に維持されてきた形跡がある。

その特異な構造に対し、ジョアン・イェー

ツは自ら遠征隊を率いて接触する意志を表明した。


地球軌道上にあるノールマンの執務室での対話は、形式的な報告にとどまらず、彼女自身の動機の確認でもあった。

未知の文明と向き合うべきは、誰よりも先に「意味」を探しに行こうとする者である──

その役割にふさわしいのがジョアン自身であることを、ノールマンは改めて理解し、決断を下した。


探査船として選ばれたのは「アウロラ」。

高い推進力を持ち、共鳴空間の被探知性にも優れた、最新鋭のコヒーレンス・アークである。

船体設計と実装には、ガリレオとグラハムが直接関与し、人類側からはストラウドが監修を担った。


編成された遠征チームには、かつてジョアンと任務を共にした面々が多く含まれていた。

そして、リュシアン・モレルもまた、その一員に加わる。

彼にとっては初めてのアーク・コンダクターとしての乗船であり、恒星間宇宙への第一歩となる。


次なる目的地は、ヴォクス・インフィニタの記録が指し示す、未踏のアルセイデス宙域である。


挿絵(By みてみん)


ジョアンは、目的の文明との接触にあたって、まずはアルセイデスと接続し、その経由で相手文明との仲介を依頼するという段階的なアプローチを選択した。

これまでにも人類とエリディアンは、「ノエマ」と呼ばれる高度なインタフェースを通じて、異種知性体との意思疎通を実現してきた。

特に、共通する記号も文法も持たないカザレオンとの接触では、ノエマが思考構造そのものを橋渡しする機能を果たし、翻訳のための長い準備期間を必要としなかった。

今回も同様に、このアルセイデスがノエマを備えているならば、未知の種族との意思疎通にかかる負荷を大幅に軽減できると見込まれた。

だからこそ、ジョアンは直接交信に踏み切るのではなく、まずアルセイデスを介するという判断を下したのである。


アウロラは「扉」に進入する。

即座に出口座標に到達し、船体が共鳴空間から実体化されると、観測システムが外部の視界を接続した。

展望窓のディスプレイに、遠隔望遠センサが取得した画像が投影される。


そこに映し出されたのは、重力に歪む光の海だった。

ブラックホールを取り巻く降着円盤の輪郭と、その法線方向に伸びる青白いジェットが、精緻な画像処理を通じて視野の中に浮かび上がっていた。


リュシアン・モレルは、はじめて目にする天体の壮観に、しばし言葉を失った。

人類が航行し得る宙域に、ここまで極端な空間が存在する。しかも、そのわずか先には、知性の痕跡が残された構造体──アルセイデスがある。


接近しつつある構造体は、これまでに記録されたアルセイデスと同様の機能を備えていると推定されていた。

文明を完全に停滞させる「ガンマ線バースト発生装置」、知識を蓄積する「アーカイブ」、そして、生きた人間とその生活圏ごと記録し続けることで、文明全体の継続的保存を図る「文明保存機構」。


それらを構成するのが、八つの巨大な漆黒のモノリスであると、過去の記録は示している。

実際にこの宙域に存在するアルセイデスが、どのような形態をとっているのかはまだ不明だった。

だが、その姿を思い描くだけで胸の奥に圧迫感のようなものが滲む。人間の小ささ、そして脆さが、ただ静かに突きつけられるようだった。


それでも、いまその小さな存在が、この巨大な構造に向けて接近している。


アウロラは加速を続けていた。重力傾斜ドライブを駆動する空間歪曲を制御しているのは、アーク・コンダクターたちだ。


リュシアンは、ジョアンとソラニスのペアによって作られる「重力傾斜」の場に、初めて立ち会った。

かつてセレス・ノードで、アカデミーの基礎課程で何度も見た共鳴空間の映像。それが今、実際に自分の目の前に広がっている。


彼は一瞬だけ息を整えると、ためらわずその場に踏み込んだ。


アウロラは、これまでのコヒーレンス・アークが記録したことのない高密度傾斜──0.25Gを発生させ、

その強力な推進力が、彼らをアルセイデスの宙域へと確実に導いていた。


目標宙域まで0.2天文単位に迫った時、ジョアンたちは、エリシオンやネメシスで確立された接続手順に従い、目前のアルセイデスに接触を試みた。


だが、アウロラのクルーたちの多くは、今回ばかりは別の応答が返ってくると予想していた。


この構造体は、フェージングの干渉を免れた「卒業文明」がアーカイブとして利用している。

ならば、その維持もまた、未知の知性──機械、あるいは異種族によるものであると考える方が自然だった。

エリシオンやネメシスで得た前提を、そのまま当てはめるのは無理がある。誰もがそう感じていた。


しかし、応答は予想を裏切った。

通信回線上に現れたのは、見慣れた姿だった。

まだ幼さの残る整った顔立ちの若い女性。

声の質も言葉の間合いも、エリシオンやネメシスのそれと酷似していた。


「ようこそ、アウロラ。我々はアネクシスです」


維持者の第一声が終わった瞬間、船内に短い沈黙が走った。


誰ともなく、ため息のような息を漏らしたのはサミラだった。

「……ここも、私たちなの?」


それは問いというより、自身に向けた呟きだった。

その横で、ノヴァック博士が微かに頷いた。


いったい人類は、どれほどの星系に広がってきたのか。

どのような時代、どのような場所で「維持者」としての役割を負ってきたのか。

その広がりの大きさに、明確な言葉を持てる者はいなかった。


リュシアンは、ふとジョアンの表情を見た。

彼女の眼差しには、驚きと共に、わずかな安堵のような色が宿っていた。

明らかに人類が構築したものではない構造物の中に、なおも人類の記憶が残されていること。

それは、ジョアンにとって確かな意味を持っていたのだろう。


ジョアンは旅の経緯と、今回の訪問の目的を簡潔に説明した。

彼らが求めているのは、このアルセイデスをアーカイブとして活用している文明──フェージングを受けなかった知的存在との接触であること。

そのための中継と調整を依頼した。


アネクシスのレセプショニストは、その意図を即座に理解し、寄港と施設の利用を快く受け入れた。


◇◇◇


アネクシスからのガイド信号に沿って、アウロラは軌道を微調整しながら構造体のドックセクションに接近していった。

曳航用の牽引場が発生し、アウロラは軽やかに姿勢を整えたまま、係留ドックに固定された。


レセプショニストは、格納区画内の気密層を抜けた先で待っていた。

エリシオンやネメシスで出迎えた者たちと同様、ごく自然な若い女性だった。

地球にいても不自然さは感じなかっただろう。落ち着いた声で名乗った。「カリナ」。そう呼んでほしいと言った。


カリナは、すでにジョアンたちの到着を想定していたかのように、整った受け入れ動線を提示した。

休息を勧められた一行は、導かれるまま街路を歩きはじめた。


アネクシスの街並みは、かつて訪れた他のアルセイデスとほとんど変わらない印象を与えた。

リュシアンは歩きながら、ふと周囲を見渡した。低層の建築が整然と並び、それぞれの外壁は赤褐色の石材のような質感で仕上げられている。

街路樹がところどころに配され、陽光の反射が柔らかく敷石を照らしていた。


「……モントリオール郊外に、どこか似てるな」

誰に言うでもなく、彼はそう感じた。特定の記憶ではなく、風景全体が持つ空気が懐かしかった。


完全な人工的構造であるにもかかわらず、なぜ、ここまで地球の都市と似通っているのか。

前・人類が現在の人類と分岐したのは、少なくとも六万年以上前とされている。

時間的にも空間的にも遠く隔たっているはずなのに、なぜ、こうした文化的共通点が顕在化するのか。


リュシアンは隣を歩いていたアディティ・カプール博士の横顔に目を向けた。

彼女はどこか沈思した様子で視線を遠くに向けていたが、リュシアンは躊躇の末に声をかけた。


「この風景、ボクの故郷のモントリオールによく似ているんです。何万年も時代が違うのに、どうしてこんなに似ているんでしょう?」


アディティは驚いたようにリュシアンを見たが、すぐに落ち着いた調子で応じた。


「そうね、私も考えてたところ。エリシオンもネメシスも、やっぱり似たような雰囲気だった。

西洋的というか、今の私たちが見ても違和感のない街並み。偶然とは思えないわよね。

人類にとっての文化的スタンダードが普遍的にそうなったとも考えにくい。

ここには、何か構造的な理由があると思うの。

もしそれを突き止められたら……私は『ダルコフ文化研究賞』を狙えるかも」


冗談交じりの口ぶりだったが、リュシアンはそれをまっすぐに受け取った。

これまで話す機会のなかったこの著名な人類文化学者が、思った以上に気さくな口調で応じてくれたことが、どこか嬉しかった。


◇◇◇


しばしの休息を経て、ジョアンたちはカリナの案内で施設のひとつへと向かった。

アネクシスの外郭区画からやや奥まった位置にある建物は、外見こそ他の市街構造と変わらなかったが、出入りの管理や動線の扱いから、重要な区画であることは明らかだった。


施設内の通路を抜けて案内された空間には、いくつもの端末装置のような設備が整然と並んでいた。


リュシアンは、これが「ノエマ」なのだろう、と思った。

大きな平面ディスプレイと思われるモジュールと、人間工学的な形状の椅子。

そして、おそらくキーボードに相当するデバイスとヘッドセット。後は用途不明のプローブ形状の一群のケーブル類。


言語や記号を通さずに異なる知性を接続するインタフェース──その存在と機能は知られているものの、その動作原理は依然として謎に包まれている。

決して秘匿された技術ではなかったが、その仕組み解明にはいまだ至っていない。


セレス・ノードにはこの「ノエマ」を研究する部門があると聞いたことがある。

基礎原理を記述するだけでも、あと何年、いや何十年とかかるのかもしれない。


カリナは、その場で案内を別の人物に引き継いだ。

姿を現したのは、若い男性だった。自己紹介のときに「レオン」と名乗った。


年齢はおそらく十代の後半くらいだろう、とリュシアンは思った。

整った顔立ちに、わずかにあどけなさを残したまま、それでも話しぶりには落ち着きがあった。

やや低めの声で、過不足のない言葉を選びながら、手短に全体の手順を説明していく。


内容の正確さもそうだが、何より、彼の語りには経験に裏打ちされた確かさがあった。

単なる知識の伝達ではなく、自らの内側で消化されたものとして、話しているのが分かった。


おそらくは自分よりずっと年下なのだろう。

だが、そうと分かっていながら、リュシアンはその振る舞いをどこか羨ましく感じていた。


ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

このエピソードでは、ジョアンたちがいよいよ「卒業文明」とのコンタクトを目指し、その第一歩としてアルセイデス──アネクシスへと向かいました。


今回の舞台であるブラックホール周辺の宙域は、シリーズの中でも最も異質な風景のひとつかもしれません。

リュシアンの目を通して描かれるその光景は、人類という存在の小ささを静かに照らし出すものであり、同時に、知性が築きあげてきた構造物に対する畏敬の念を呼び起こします。


アウロラの加速、アーク・コンダクターとしてのリュシアンの初参加、そしてアルセイデスとの通信。

そのいずれにも、これまでの経験や記憶が織り込まれていますが、なによりも印象的だったのは、

アネクシスの維持者がまたしても「前・人類」だった、という事実です。

誰もが別種の存在による応答を想定していた中で、同じ姿、同じ語調をもつ存在が現れたときの驚き。

それは、希望であると同時に、長い旅路の謎がさらに深まった瞬間でもありました。


そして、アネクシスの街でリュシアンとアディティが交わした会話には、この旅が単なる探索ではなく、

人類という存在の原型と変容、その文化的共通項を探る旅でもあるという気配が、静かに込められています。


次回、アウロラの一行はいよいよ「卒業文明」そのものとの接触に向かいます。

フェージングの干渉を受けずに成長した知性体との対話は、彼ら自身の認識や価値観をどのように揺さぶるのか。

どうぞ引き続き、彼らの旅路にお付き合いいただければ幸いです。


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