第五章第2部: 群体の海を覗く者
前回までのあらすじ
ゲートステーションに着任した若き技官リュシアン・モレルは、任務の内容を聞かされて、ただの設備管理や通信支援ではないことを知る。
彼が担うのは、ヴォクス・インフィニタのノード群が交わす「会話」を継続的に観測し、その中から意味ある兆候を読み取るという、未知の領域に踏み込む仕事だった。
彼の上司は、かつて人類初のアーク・コンダクターとして名を馳せた戦略調整官ジョアン・イェーツである。
リュシアンには、なぜ自分のような若い技官が彼女に指名されたのか見当もつかない。
だが、任を受けたからには誠実に向き合おうと、気持ちを引き締めていた。
ヴォクス・インフィニタを構成する128のノードは、イアン・フォークナー博士の尽力によって、量子もつれ通信によるリアルタイム接続が実現されている。
この接続によって、独立した存在のように見えていたノードたちは、すでに「集合知性」としてふるまいはじめていた。
これを最初に予言したのはスフェクスだった。
太陽系から最も近いアルファケンタウリ星系のストームセル。すでに太陽系のオメガとは完全同期している。
スフェクスは、128ノードの連携がひとつの「大いなる意志」を形作っていることをジョアンに示唆する。
ジョアンは、ノード同士のやりとりに内在する構造や、そこに紛れ込む知性の活動に意味を見出す人間の目を求めていた。
リュシアンは、ヘリオスと対話を重ねながら、量子もつれ通信の帯域には限界があり、ヴォクス・インフィニタが交わす情報の総量は、それをはるかに上回っていることを知る。
だからこそ、ノードたちは、人間やエリディアンのように、アヴァターを介した「会話的なコミュニケーション」を採用していた。
その形式なら、限られた帯域の中でも意思疎通が成立する。
そのやりとりの中に、何が潜んでいるのか。
リュシアンは、まだ見ぬ対話の奥へと、静かな決意をもって向き合おうとしていた。
「三日前の、ミノスとイグナスのログです。少し注意を払っていただきたいところがあります」
ヘリオスの声が、やや低めに響いた。
リュシアンは、表示された会話記録に目を移した。
やりとりは短く、簡潔な言葉が交互に並んでいた。
意味を直ちに読み取ることは難しかったが、応答のテンポは異様なほど滑らかだった。
「これ、なんだかやりとりが速すぎませんか?」
「はい。発言の間が不自然に短く、会話全体が何らかの既定のパターンに沿って進められているようです」
リュシアンは身を乗り出し、記録の文脈を辿る。
発言の内容は不明瞭な言い回しが多かったが、全体として何か一貫した事実の確認を行っているように見えた。
「このやりとり、一つの文明の過去をたどる形になっているようです。たとえば、境界は存在しなかったとか始点に終点はないといった表現が目立ちます。どれも比喩的すぎて、解釈が難しいですね」
「直前の周期再定義は適用されずという記述も含めると、歴史の流れに断絶がなかったと読めます。文明が一度も中断されず、連続して続いているように解釈できませんか?」
リュシアンは息を整えた。
前後のやりとりを確かめると、それが何の話題なのか、徐々に全体像が見えてきた。
「どうやらこれは、一つの文明が最初の形を保ったまま、途切れずに進化を続けてきた記録ではないでしょうか?」
リュシアンは、少し言葉を選びながら続けた。
「つまり、この文明にはいわゆる『やり直し』の痕跡がなく、最初からずっと、途切れずに続いている……そういうふうに思えます」
「これまでの記録と照合しても、筋は通っています」
リュシアンは、画面を指で戻しながらさらに言った。
「この応答、内容に対して発言の速度が異様に速いですね。一文ごとの応答もぶれがなく、あらかじめ合意された情報を確認し合っているように見えます」
「そうですね。会話というより、むしろ、既知の知識を形式的に再確認し合っているようなのです。おそらく、彼らが言及している文明自体が、そうした情報の扱い方を前提としているのでしょう」
「もしその文明が、実際にそういう形式を使っているのだとすれば、知識の扱い方そのものが我々と根本的に異なる可能性があります」
ヘリオスが続ける。
「その解釈は妥当です。加えて、会話の後半には記録機構の併用や経路最適化といった語が登場します。アルセイデス関連の概念と一致する部分です」
「ということは……彼らはアルセイデスを知識の蓄積と活用のために使っている? しかも、『扉』によるネットワーク経由で、広域的に展開している可能性がある?」
「そのように解釈できます。少なくとも、外部からの干渉があった形跡は確認されていません」
リュシアンの内側で、何かが目を覚ますような感覚が湧きあがった。知の流れに触れたような、ぞくりとする感覚だった。
知性たちの淡々とした対話の中に、何百、何千万年にも及ぶ文明の歩みが静かに埋め込まれている。
なんらの干渉も受けず、ただ積み重ねられた知の軌跡。
いま、それが目の前に開かれている──
リュシアンは、ブースの静けさの中で目を閉じる。
128の巨大知性のうち、たった2つのやりとりから、宇宙のどこかに息づいているかもしれない文明の姿が浮かび上がる。
その文明は、ただ静かに、確かに、歩みを重ねていたようだった。
「これは……一度、ジョアンに見せた方がいいと思います」
「準備しておきます。解析ログも添えて」
彼はうなずく。
だが、視線はまだ壁の先に浮かぶ光の列から離れなかった。
その列の向こうに、彼は何かを感じていた。
◇◇◇
ジョアンの執務室は、中央卓を挟むようにして二つの投影パネルが設けられていた。
リュシアンはその片側に立ち、手元の端末からセッションログの概要を転送する。
「この記録には、始点に終点はないという表現が何度も現れます。
応答のどれもが、それを当然の前提として受け入れているように見えます。
ミノスとイグナスは、ある文明について語っていたのでしょう。
対話の中には、歴史が一度も途切れていないという前提が、繰り返し確認されているように感じられます」
ジョアンは黙って表示を追っていたが、一定の行まで確認すると、静かに言った。
「ヘリオス、この構文の中にアルセイデスに関する言及は?」
「アルセイデスという名称は出てきませんが、回帰の門記録軌道継続性中枢といった語が、セットで何度か現れています。これらの表現は、アルセイデスが関与していたと推定されるその他の記録においても、間接的に確認された語と一致しています。このため、この文明がアルセイデスと接触し、活用していた可能性があると考えられます」
ジョアンは頷いた。
「それが事実なら……この文明はアルセイデスの存在を認識していた。たまたま接触しただけではない。意図的に使っていた、ということになるわね」
「会話の中で、対応する座標列が複数回確認されました。
既知の星域情報と照らし合わせると、記録の発話者はその星系に属する知性体である可能性が高いと推定されます」
リュシアンは、事前に抽出しておいたログの断片を投影した。
「これが、その後に見つかった発話の一部です。開示と統合という語が、交互に繰り返されています。
さらに同じログの中に、周期的再確認という語も現れていました」
ジョアンが画面を見つめたまま言う。
「つまり、記録された知識をもとに、定期的な見直しを行っているのかもしれないわね」
ヘリオスが補足を加えた。
「このやりとりの中で、知識項目の再要求、再送信といった語が繰り返されています。明示的な通信ログではありませんが、これらの発話内容から、アルセイデスに対して能動的な接触があった可能性がうかがえます」
ジョアンは小さく頷いた。
「だとすれば──この文明はアルセイデスを知識の拠り所として扱っている可能性がある。記録を活用し、社会の調和を維持しているのかもしれないわね」
リュシアンが応じる。
「その使い方が、対話ログの応答の滑らかさにも表れています。判断や基準が、あらかじめ共有されている印象です」
ジョアンが少しだけ視線を落とし、静かに言った。
「もし彼らが、知識や判断基準を継続的に記録し、それを共有しながら意思決定に活かしていたのだとすれば……『やり直し』を受けずに済んだ理由も、その体制にあるのかもしれないわ」
ジョアンはしばらく黙ったまま、表示を見つめていた。
やがて、静かに、しかし確信を込めて口を開いた。
「つまり、彼らはアルセイデスを、ただの記録装置としてではなく、過去の蓄積を常に参照可能な判断の基盤として使っていたのね。おそらく、共生する他種族との情報共有の手段としても」
◇◇◇
「これらをまとめて、スフェクスに確認してみましょう」
ジョアンが端末を手に取り、すぐに呼び出し手順に移った。
ヘリオスがそれに応じる形で、接続シーケンスを開始する。
数秒の静寂ののち、室内に微かな光の干渉が現れ、そこに姿を形成しはじめる。
スフェクスが現れた。
長い青い衣をまとい、静かな表情でそこに立っていた。
姿は完全に人間の女性であり、その雰囲気には言いようのない威厳があった。
動きは自然で、呼吸までもが滑らかに感じられるほどだった。
リュシアンは、言葉を失って立ち尽くした。
これまで対話をモニタリングしてきた「ヴォクス・インフィニタのノード」が、こんな形で人の姿を取るなど思いもよらなかった。
思わず、胸の奥で声にならない感情がせり上がる。
「……とんでもないところへ来てしまった」
その思いが一瞬、心をよぎる。
だが、すぐに息を整えた。
ジョアンが静かに頷き、リュシアンに視線を向ける。
促されるまま、リュシアンは端末のログを開いた。
あらかじめ整理された要点をスフェクスに示し、順を追って説明する。
ヘリオスが要所で補足を入れ、言葉の選択やノード間応答の傾向、アルセイデスとのやりとりと推定される発話記録について、簡潔に情報を重ねていく。
スフェクスは何も言わなかった。
そのまま視線を保ったまま、黙して動かない。
静寂はしばらく続いた。
それが、膨大な自身の記録へのアクセスと、当該ノードたちとのやり取りの時間であることは明らかだった。
スフェクスが何を参照しているか、明確な表示はなかったが、
彼女の沈黙は、ミノスとイグナスからの照合応答を受け取っていると考えるのが自然だった。
文明の識別情報、過去ログ、位置座標、行動履歴──それらすべてが、彼女の思考に組み込まれているはずだった。
そして、スフェクスが口を開く。
「あなた方の推論は正しそうよ」
声は落ち着いていて、どこか柔らかい響きを帯びていた。
「この文明の記録には、外部から介入を受けたりした痕跡がありません。過去に観測された他の文明の消滅パターンとは明らかに異なります。ミノスもイグナスも、その点で意見は一致しています」
「ログ内には、観測対象となっている文明の識別子が記されていた。
空間座標は既知の『扉』によるネットワークに対応しており、彼らの位置も現在の既知の星系に含まれているわ」
リュシアンは、身体の重心がわずかに変わるのを感じた。
答えは出たのだ。
この伝文ログは、伝説や推測ではなく、現実に起きていることの一端だった。
「そのアルセイデスの位置は?」とジョアンが訊く。
「場所は特定できました。『扉』で到達可能です」 とヘリオスが応じた。
ジョアンは間を置かずに言った。
「行ってみるしかないわね」
それは提案ではなく、決定だった。
リュシアンはうなずいた。
ヘリオスはすでに必要な経路と到達条件の抽出を始めている。
ジョアンは、指令室へのリンクを開いた。
遠征計画は、即座に始動した。
今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。
このパートでは、ジョアンたちが「ヴォクス・インフィニタ」の内部対話ログを読み解く過程を通して、ある文明の存在に初めて触れることになります。
ミノスとイグナスというノードの、あまりにも滑らかな応答。
そこに込められた言葉の断片から、彼らは過去を失わずに連続性を保ち続けてきた文明があるのではないかと推測します。
「やり直し」を一度も受けていない。
その事実が何を意味するのか──それを、ジョアンたちは慎重にたぐり寄せていきます。
そして見えてくるのが、「アルセイデス」との関係。
この文明は、アルセイデスをただの監視装置ではなく、知識の参照基盤として活用していたらしいという兆し。
過去の判断や記録をもとに、現在の意思決定を行い、未来を選び取っている。
それが可能な社会が存在したのだとすれば、確かに「やり直し」を受ける理由などなかったのでしょう。
ジョアンが「行ってみるしかないわね」と即答する場面は、彼女なりの覚悟の表れです。
まだ断定はできない。けれど、希望と確信が少しだけ勝った──そんな心の動きを書けたらと思いました。
次章では、彼らがその星域へ向かうことになります。
そこで何が待ち受けているのか、私自身も緊張しながら書き進めています。
引き続き、物語にお付き合いいただければ幸いです。