第五章第1部: 新しい技官の赴任
この作品は前々作「人類は孤独ではない――タイタン探査が明らかにした新たな知性」と、前作「人遥かなる継承――虚空へ放たれし声」の続編です。
順にストーリーを追っていただくことで、冒険を追いかけていただけます。
とはいえ、本作から読み始めても、まったく問題はありません。
むしろ、ここを起点にして、後から前作を読み直していただくことで、時間軸を遡るように物語を再構成する読み方も可能です。
◇◇◇
前々作では、人類がはじめて異星知性――エリディアンと出会い、そして木星に眠っていた超高度知生体「オメガ」を目覚めさせるまでの過程が描かれています。目覚めたオメガは、何億年も前から繰り返している、「知的文明の失踪」という謎を明かします。失踪とはすなわち滅亡だと解釈した人類とエリディアンに対して、オメガは自らを含む銀河中のストームセル知性体が構成している知的ネットワークであるヴォクス・インフィニタを目覚めさせることで、その謎が解明できるだろうことを示唆します。
かくして人類とエリディアンは一致協力して恒星間宇宙船であるコヒーレンス・アークを開発し、恒星間宇宙へと旅立ちます。
その続編である前作では、知的文明の「失踪」につながる直接的な原因が「フェージング」という現象であり、それがブラックホール周辺に構築された「アルセイデス」と呼ばれる構造体から発射された「ガンマ線バースト」によるものであることを突き止めます。さらに、そのアルセイデスを構築し、数十億年前からいまに至るまで、継続して知的文明を衰退させている「ハダノール」という存在に行き当たります。ハダノールとはどういう存在なのか、その目的は何なのか、謎は謎を呼ぶことになります。
人類とエリディアンたちは、アルセイデスに残された人類のアーカイブ、そして覚醒したヴォクス・インフィニタがその膨大な記録を紐解いて解明した結果から、ハダノールはある条件で文明を衰退させ、再出発させているらしいことを解き明かします。その判断基準は謎のままでしたが、人類とエリディアンは、フェージングを恐れて太陽系にとどまるよりも、銀河中に広がるヴォクス・インフィニタの支援を受けて恒星間宇宙に進出することを決めます。
この物語では、恒星間宇宙に広がることを決めた人類、エリディアン、そしてヴォクス・インフィニタの共生体が、銀河に進出し、あらたな文明を築いていく過程を描きます。あらたな文明との出会い、そして解けないハダノールの謎、期待と不安を孕んだ彼らの活躍を、どうぞ楽しみにしてください。
ゲートステーションは、海王星軌道の遥か外縁にぽっかりと浮かんでいた。
周囲に恒星の明るさはなく、ただ淡く霞んだ星間塵の海に沈んでいるようだった。
そこに静止した構造物が存在すること自体が奇跡のように思えたが、それは確かに存在していた──「扉」のすぐ傍に。
大きな重力井戸が存在しないこの宙域では、構造物を一定の場所に固定することはできない。
だが、その不安定な空間のただ中にあって、この施設は微動だにせず、無音のまま静止しているように見えた。
実際には、無数のスラスターが常時稼働し、四方八方からわずかな推力を与えることで、位置を維持していたはずだった。
それでも、外部から見えるその姿は、あまりに揺るぎない。
リュシアンは、初めてそのステーションを目にした瞬間、言葉を失っていた。設計図では何度も目にしていた。恒星間ゲート付近における構造体維持のために、どのような調整が必要かも知識としては把握していた。それでも、実物の迫力には、どんな説明も及ばなかった。
「巨大宇宙船」──それが、彼が想像していたステーションの姿だった。だが、現実は異なっていた。その外殻は、動くためのものではなく、「とどまる」ために設計されていた。建造物というより、宇宙そのものの一部のような印象すらあった。
ステーションを見上げながら、リュシアンは思わずつぶやいた。
「これを設計したのが……ビョルン・ストラウド、か」
その名は、技術者であれば誰もが一度は聞いたことのある人物だった。だが、その慧眼と構想力が、これほどの構造物を実現させたとは──。
心の底から、敬意が湧き上がってくるのを感じた。
◇
リュシアンが受け取った辞令には、簡潔にこう記されていた。
「戦略調整官の専属技官として、ゲートステーションに赴任せよ」
詳細な業務内容は明示されていなかった。ただ、その文面からは、明確な意図が感じられた。選ばれたというより、何かに組み込まれたような感覚。
戦略調整官──その名は、最近になって初めて公式文書に登場した新たな職務だった。そして、その職に就いたのが、ジョアン・イェーツという人物であることは、すでにステーション内でも話題になっていた。
彼女の名は、リュシアンにも届いていた。人類初の「アーク・コンダクター」。いくつもの未知との接触を成し遂げた伝説的存在。宇宙へ飛び出すことを夢見る少年には、英雄と言ってよいほどの存在だった。
だが、現実に彼女はここにいる──このゲートステーションの中枢に。
そして、自分は彼女の下で働く。
◇
これから長く過ごすことになる居住区内の一室に通されたリュシアンは、身の回りを整理する間もなく、内線通信を通じて一報を受け取った。
――イェーツ戦略調整官が、面会を希望されています――
冷静な機械音声だったが、その背後にある意味の重さを、彼は理解していた。
彼は、手元の端末を握りしめ、ゆっくりと立ち上がった。
その瞬間、宇宙の彼方から、重力でも電磁気力でもない、言葉にならない「囁き」のような感覚が、彼の背中を撫でていった。
まだ何も始まってはいない。
だが、何かが、確かに動き始めていた。
◇◇◇
ゲートステーション、戦略調整官執務室。
ジョアンは光を抑えた室内の中央に立っていた。卓上の操作面が淡く発光し、進行中のノード通信ログが無音のまま流れている。
やがて扉が開き、技官の制服を身にまとった、まだ少年の面影を残す背の高い男性が一歩踏み出す。姿勢は正しく、表情には緊張の色があった。
ジョアンは彼をじっと見た。
「リュシアン・モレルです。ただいま、着任いたしました」
「ようこそ。お待ちしていました、モレル技官」
「お会いできて光栄です。イェーツ戦略調整官の名前は、以前から聞き及んでおりました。
……とはいえ、まだ自分がここにいる理由を正確に理解できていません」
「それは、自然な反応だと思います」
ジョアンはわずかに頷き、パネルを指先で滑らせた。壁面に投影されたのは、128のノードからなる球状のネットワーク図だった。
「ヴォクス・インフィニタに属する全128のノードが、量子もつれ通信によってリアルタイムで接続されました。とはいえ、まだほんの数日前のことです」
リュシアンの眉が動く。
「完全同期ですか?……全ノードで?」
「正確には、通信帯域の限界を見極めたうえでの優先接続。とはいえ、実用上はリアルタイムに等しいと言えるでしょう」
彼女は言葉を継ぐ。
「この接続により、これまで個別の知的存在と見なされていたノード群が、一種の“集合的知性”を形成する可能性が生まれました」
「群体知性……ネットワーク化された意識……ですね?」
ジョアンは視線をノード図から外し、まっすぐに彼を見た。
「最初にそう表現したのは、スフェクスです。彼女はこう言いました──『128ノードが連携するとき、大いなる意志が構成される』と」
リュシアンは目を細めた。
「それは……比喩的な意味ではないのですね?」
「このネットワークは、単に速く情報を交換するだけのものではありません。構造そのものが意味を生む可能性があります」
静かに、だが明確にそう言ったあと、ジョアンは椅子に腰を下ろした。
「私はこの『群体知性』が何を生み出すのか知るために、ノード間で交わされる言語的意思疎通をすべてログとして記録するよう指示しました」
「会話の観測……」
「そう。だが、その“会話”が人間に関係のある話題を話しているのか、人間には理解できない神々の会話なのかは、まだ判別できていません」
「それを判断するのが──私の任務、ということですか?」
ジョアンは口元にわずかな笑みを浮かべた。
――そんなこと、まだ何も言ってない。若者は性急なのだ。
「会話の保存・分類・照合は、ヘリオスが担います。でも、意味の“兆し”は、AIでは感知できない。形式ではなく“含意”を読み取る視点が必要です」
「だから、人間の観測者が要る」
「そのとおり。そして──私は、あなたの過去の経歴と成果物を見ました。想定外の変数に対する反応、複数層の構造に潜む意味を抽出する力。それらは機械にはない領域でした」
リュシアンは少し言葉に詰まった。だが、やがて静かに言った。
「恐れ入ります」
「勝手に調べられて気持ち悪いかもしれません。私は“役割を演じる人”ではなく、“本質を見る人”を探していました。あなたには、それがあると判断しました」
部屋に、しばし沈黙が流れた。
リュシアンは前を向き、目線だけでノードの球体図を見つめる。
「巨大知性の会話……それが本当に成立しているなら、そこには、思考の構造そのものが現れるかもしれませんね」
ジョアンは、満足そうに頷いた。
「私も、そう考えています」
◇◇◇
ゲートステーション第4居住区画──解析支援ブース。
リュシアンはブースに一歩足を踏み入れると、目の前に据えられたインターフェースの立方体に、思わず目をとめた。無人の空間とは思えなかった。むしろ、どこか目に見えない知性がこの場を満たしているような気がした。
「ヘリオス……リュシアン・モレルです。任務開始にあたり、情報収集をしたくて」
言葉を終えないうちに、優しい声が空間を満たした。
「こんにちは、リュシアン。お越しいただいて光栄です。遠路、お疲れだったでしょう? ステーション内の気圧、少し独特ですから、もし不快な点があれば遠慮なく」
「ありがとうございます。今のところ快適です。……こうしてあなたと直接話せるのは、少し不思議な感覚ですね」
「私もよく言われることがあります。『思ったより自然だ』って。でも、あなたがおっしゃっている『不思議な感覚』というのは、そういう意味ではなさそうですね」
リュシアンは、思わず微笑んだ。
「どこか……話しているというより、共鳴しているような感覚があって。不思議というのは、たぶんそのせいです」
「なるほど。とても綺麗な言い方ですね。ジョアンがあなたを選んだ理由が、少しわかったような気がします」
彼は少し頬を赤らめ、話題を戻すように姿勢を正した。
「ジョアン・イェーツ調整官から、ヴォクス・インフィニタの観測任務について伺いました。できれば、現状の通信状況について教えていただけますか?」
「もちろん。いま、128のノードは量子もつれ通信で互いに接続されています。まず、そこに誤解が生じやすいのですが──この通信方式が“無制限の情報伝達”を可能にするわけではありません」
リュシアンは小さく頷いた。
「通信帯域には、限りがある……」
「そうです。そして重要なのは、ノードたちが本来やりとりする情報の量が、桁外れに多いという点です。もしそのまま全体を直接やりとりしようとしたら、現実的な帯域ではとうてい足りません」
「それで……彼らは会話のような形式を?」
「その通りです。オメガやスフェクスが採ったのは、通信として成立する情報量に収めるための方策です。人間やエリディアンが使うような、“意味のまとまり”を順次やりとりする方法──つまり、会話的なコミュニケーションです」
「普通の通信として送れる範囲に、圧縮するような……?」
「厳密には、圧縮というより“選び取る”という方が近いでしょう。彼らは全情報を送ろうとはしていません。推論すればわかるような情報は送らず、自分たちの思考過程を示唆するように、意図や認識を重ね合わせている。私たちが見ているのは、その“表層”なのです」
リュシアンは少し戸惑いながらも、真剣な面持ちで続けた。
「そのノードたちの会話は、今も続いているんですね?」
「ええ。まるで途切れることのない討議のようです。情報の断片が絶え間なく飛び交い、それぞれが反応し、また別の構造を形成する……」
「それを、あなたが常に観測している?」
「そうです。私は通信ログをリアルタイムで記録・分析しています。特に、『ハダノール』や『知的文明の喪失』、そして『フェージング』──この三つには特別な注意を払っています」
リュシアンの顔に、強い関心の色が浮かぶ。
「フェージング……もし、その兆候が現れたら?」
「すぐにジョアンに報告し、解析を始めます。兆候はまだ確定的ではありませんが、再帰構造の強化、特定ノード間の応答加速など、興味深い事象はいくつか出てきています」
彼はしばらく黙って考え、ゆっくりと問いを投げた。
「自分に……その観測に、どう関わることができるのか、まだよくわかりません。ただ──自分なりに誠実に、目の前の現象を見つめたいと思います」
「それで十分です。いや、それが一番、難しいことかもしれません。私は形式を見ることは得意ですが、“意味”は、あなたのような人でないと見抜けない。期待していますよ、リュシアン」
その言葉に、リュシアンは小さく息をのんだ。そして、控えめに、けれど力強くうなずいた。
「ありがとうございます。……あの、ログへのアクセスはすでに許可されているんでしょうか?」
「ええ。すべて準備済みです。特におすすめは……3日前の“ミノス-イグナス間セッション”。少し不可思議な連続応答があります。最初に見るにはちょっとクセがありますけど、興味深いです」
「はい。慎重に見てみます。……教えてくださって、ありがとうございました、ヘリオス」
「こちらこそ。何か気になることがあったら、いつでも声をかけてくださいね。ちなみに……紅茶の温度調整も得意です」
リュシアンは思わず微笑んだ。
その柔らかなやりとりのなかに、自分の役目の意味が、ほんのわずか、輪郭を持ち始めた気がした。
新シリーズにも引き続いて訪れていただき、本当にありがとうございました。
前シリーズでは、銀河規模の沈黙に向き合い続けてきた人類と、そこに交差する異なる知性たちの営みを描いてきました。失踪という謎に翻弄されながらも、「問い続けること」そのものが知性の存在証明であり、希望でもあるというテーマを、ずっと胸に抱えて執筆してきました。
この新シリーズでは、その問いの先に新たな段階が始まりつつあることを描いています。ゲートステーションという、あらゆる重力からも記号的な中心からも離れた場所に、リュシアンという若い観測者が到着する場面。彼の視点を通じて感じてもらいたかったのです。
ジョアンはすでに多くを経験してきた人物ですが、それでも未知に向き合うときには、やはり迷いも覚悟もある。ヘリオスのような人工知性も、全知ではなく、共鳴と対話のなかでかたちを成す存在です。そこにリュシアンのような「何者でもないが、誠実であろうとする人間」が加わることで、この世界がまた動き出していく……そんな予感があります。
ちなみにリシュアンは、別作品である「ジュブナイル1: 光のあとに来るもの-セレス・ノードの少年たち」の主人公そのものです。彼がいったいどんな人物で、いままでどんな経験をしてきたのか、こちらを読んでいただければわかりやすいかと思います。
おそらくこの章が、長編シリーズの締めくくりになると思います。
ハダノールの謎がどのような形で解けるのか、最後まで注目していただけたらと思います。