プロローグ
舞台袖の薄闇に、かすかな吐息が溶けていく。
「……蓮」
神谷翼の声が、俺――桜井蓮の名前を呼ぶ。その声はいつもより低く、かすれていた。
大型ホールの舞台裏。縦横無尽に這うケーブルの間で、俺たちは身を寄せ合う。翼の大きな手が俺の頬を包み込み、親指で頬骨をそっと撫でた。その瞬間、俺の心臓が激しく跳ね上がった。
「翼……」
俺が彼の名前を呟いた途端、翼の唇が俺の唇に重なった。
最初は触れるだけの優しいキス。羽毛のように軽く、確かめるように。でも、それだけでは足りなくて、お互いの唇が少しずつ圧を強めていく。翼の舌先が俺の下唇をそっと舐めると、電流のような痺れが全身を駆け抜けた。
「んっ……」
思わず漏れた俺の声に、翼の瞳が潤む。茶色の瞳の奥で、何かが燃えているのが分かった。 翼の腕が俺の背中を抱き寄せ、体が密着する。鍛え上げられた胸板が、俺の胸に触れる。衣装越しでも伝わる体温が、俺の理性を少しずつ溶かしていく。
翼の舌が俺の口の中に侵入すると、俺も負けじと彼の舌に絡みつく。甘い痺れが全身を駆け巡り、膝に力が入らなくなる。翼の体重に支えられながら、俺は壁に押し付けられた。 コンクリートの壁の冷たさと、翼の体の温かさ。その対比が俺の感覚を研ぎ澄ませる。
「好きだ、蓮」
唇を離した翼が、俺の耳元で囁く。その声は震えていて、俺と同じように興奮しているのが分かった。息が俺の首筋にかかって、鳥肌が立つ。
「俺も……翼のことが」
俺の返事を聞いた翼の瞳が、さらにうるんだように見えた。ステージからの照明が時折射し込み、翼の彫りの深い顔に陰影を作る。長い睫毛が影を落とし、その美しさに俺は息を呑む。
翼の手が俺の髪を撫で、首筋を辿っていく。指先の熱さに、俺の体が震えた。もう少しで、本当に理性を失ってしまいそうだった。
「翼、やめろ……」
俺は翼の手を掴む。このままでは、本当にステージに立てなくなってしまう。
「本番前だぞ」
「分かってる。でも、お前が……」
翼は俺の手を握り返し、額を俺の額に押し付けた。お互いの荒い息が混じり合う。翼の瞳を間近で見つめていると、時が止まったような錯覚に陥る。
「続きは後で、な」
俺の言葉に、翼は苦笑いを浮かべた。
「約束だぞ」
俺は頷く。翼の手が俺の頬をもう一度撫でてから、ゆっくりと離れていく。その指先の感触が、まだ俺の肌に残っていた。
俺たちは慌てて身だしなみを整える。翼の髪が少し乱れているのを、俺が手で直してやる。翼も俺の襟元を整えてくれた。お互いを見つめ合いながら、最後の確認をする。
「大丈夫か?」
「ああ。お前は?」
「問題ない」
でも、心臓の鼓動はまだ激しいままだった。翼の匂いが俺の鼻に残っていて、集中するのが難しい。
「あと五分です! 最終チェックお願いします!」
スタッフの声が舞台袖に響く。薄暗い空間に、緊張感が張り詰めていた。空調の音がかすかに聞こえ、遠くから観客のざわめきが伝わってくる。
俺たちは人気アイドルグループ『PRISM』。今夜は東京ドームでの単独ライブ。五万人の観客が俺たちを待っている。デビューから三年、ついにここまで来た。
「音響、照明、オールクリア!」
別のスタッフの声が続く。舞台監督が慌ただしく行き来し、最終確認のチェックリストを片手に指示を飛ばしている。
「うわぁ、今日のお客さん、マジで多いな……。ペンライトの海がすげぇ」
最年少メンバーの白石海斗が、舞台袖から客席を覗き見ながら呟く。彼にとって、東京ドームは夢の舞台だった。
「緊張してんのか?」
その肩を、森川悠真が軽く叩いた。俺と翼の同級生の悠真は、いつでも冷静沈着だ。
「緊張っつーか、興奮してる! やっと東京ドームだよ?」
海斗の目がキラキラと輝いている。その純粋さが、いつも俺たちの心を軽くしてくれる。 「落ち着けって。いつものステージと変わらない」
悠真の言葉に、海斗は深呼吸をした。
リーダーの高峰陸がセットリストを最終確認しながら、メンバーを見回した。陸は、俺たちの中で最年長。いつも冷静で、面倒見がよい頼れるリーダーだ。
「蓮と翼は?」
陸の鋭い視線が俺たちを探す。そこへ、俺と翼が何事もなかったように合流した。
「悪い。ヘアメイクが気になってさ」
俺は髪を撫で付けながら言った。確かに、翼とのキスで少し乱れていたのは事実だ。でも、それ以上のことは言えない。
陸が俺たちを見つめる。その瞳に、何か疑うような光があったのは気のせいだろうか。でも、陸は何も言わなかった。
「緊張してる?」
陸が俺に問いかける。
「いや、大丈夫」
「翼は?」
「俺も問題ねぇ」
翼がいつものように軽く答える。でも、俺には分かる。翼も緊張しているのが。
「よし。じゃあ、さっそく……」
「さっ、いつものやろうぜ!」
海斗の明るい声が、陸の言葉を遮った。俺たちは自然と円陣を組む。これは、デビュー前からの恒例だった。
五人が肩を寄せ合い、手を重ねる。俺の手の上に翼の手が重なると、さっきの感触が蘇って鼓動が乱れる。
「みんな、今日は最高のステージにしよう!」
陸の力強い掛け声に、俺たちは頷いた。
「今まで応援してくれたファンのみんなに、最高のパフォーマンスを届けよう」
悠真が続ける。
「俺たちの歌とダンスで、みんなを笑顔にするんだ」
翼の声に、いつもの情熱がこもっている。
「PRISMの絆を、今夜、証明しよう」
俺も声を上げた。
「みんな、愛してる!」
海斗の屈託のない笑顔に、俺たちも笑顔になる。
「オッケー!」
五人の手を空に向かって跳ね上げると同時に、ステージの照明が激しく点滅し始めた。客席からの歓声が、会場全体を震わせる。地面が振動しているのが分かるほどの、圧倒的な声援だった。
「PRISM! PRISM! PRISM!」
観客のコールが会場を包む。メンバーの名前を呼ぶ声が、俺の胸を熱くした。
眩いスポットライトが俺たちを照らし出す。その光はあまりにも眩しくて、一瞬、目を細めてしまう。でも、その光の向こうに、俺たちを待つファンがいるのが分かった。
ステージへ向かう階段を上りながら、俺は翼を見つめた。彼の横顔は、いつものように凛々しく美しい。ステージの上では、俺たちはプロのアイドルだ。でも、その前に――。
俺は唇に残る翼の温もりを感じていた。
――どうして君は、いつも俺を惑わせるんだ。
観客の歓声を浴びながら、俺は心の中で呟く。そして、隣で完璧なダンスを踊る準備をする翼を見つめた。
最初は、ただのライバルだった。オーディションで出会ったその日から、俺たちは激しく対立していた。お互いの才能を認めながらも、センターの座を巡って火花を散らしていた。
でも今では――。
ステージの袖で待機しながら、俺は過去を振り返る。翼との出会い、最初の衝突、そして少しずつ変わっていった関係。今、こうして彼とキスを交わすようになるなんて、あの頃は想像もできなかった。
俺の人生は、翼によって大きく変わり始めていた。
それは、三年前の春にさかのぼる。桜が舞い散る季節に、俺たちの運命的な出会いがあった。