【第46話:雅の事情<続>】
「あ……ケーキが……」
犬に噛みつかれたビニール袋の中を確認した雅は、とても悲しい顔になった。
ペットボトルのジュースは無事だったが、柔らかなプラスチックケース入りのケーキは、犬に噛みつかれたせいで見るも無残に潰れていた。
胸が引き裂かれるような気がした。くりっとした大きな瞳に、じわじわと涙がにじんでくる。
泣き出しそうになる雅に男子が言った。
「ちょっと一緒に来て。すぐそこだから」
男子が雅の手を握った。ドキリとして胸が高まる。恥ずかしい。
だけどおかげで、今にも溢れそうだった涙はすっと引いた。
男子に連れられて行ったのは、お洒落な外観のカフェだった。
『café de HINATA』の看板がかかっている。
なんと読むのだろうかと雅は考えた。
「カフェ・で・ひな……?」
「『カフェ・ド・ひなた』だよ。ここ、俺のお父さんとお母さんのお店。ついこの間オープンしたんだ」
「へぇ……素敵」
「ちょっと待ってて」
言い残して男子は店の中に入って行く。そしてしばらくして、小さな紙製の手提げ袋を片手に戻ってきた。
「はい、これ。あげる」
男子が差し出したのは、とてもお洒落で美味しそうな生チョコケーキだった。
「え? いいの? お金は?」
「うん。もしも美味しかったら、また買いに来てくれたらいいって母さんが言ってた。だから今日はお金は要らない」
「ありがとう」
にんまりと笑う彼の顔は、真っ白な歯が眩しかった。
そしてその日──名前も知らないその男子は、雅にとってのヒーローになった。
雅は家に帰って、『カフェ・ド・ひなた』のケーキを食べた。
それは濃厚だけど、とても優しい味だった。
まるで彼みたいだ、と少女は思った。
それから後、中学生になった雅は何度か『カフェ・ド・ひなた』を訪問し、ケーキを買った。
時にはあの時の男子が店内にいるのを見かけることがあったが、そんな時はドキドキして、お店に入ることができなかった。
店の外から彼の姿を見て、胸がきゅっと甘酸っぱくなるのを感じた。
彼がいない時を見計らって店内に入り、ケーキを買って帰った。
──これは恋だ。
犬から助けてもらって以来、一度も話したことがないのに、恋をするなんておかしいかな……
そうは思うけど、彼の姿を見かけるたびにきゅんとするし、普段の生活でも彼のことが時々頭に浮かぶ。そんな時はとても幸せな気分になった。
遠くから姿を眺めるだけだったけど、これはやっぱり恋だ。
雅はそう思った。
中学生の時に何度かお店には行ったが、結局彼とは一度も話すことはなかった。
そして雅は高校生になった。
高校一年生の途中で、突然『カフェドひなた』が閉店した。
店の入り口の張り紙に「諸事情により」としか書かれていなかったから、詳しい理由はわからない。だけどその文面には、一時的な閉店ではなく完全に店を辞めるという趣旨が書かれていた。
大好きなあのお店のケーキを、もう二度と口にすることはできないのだ。
そして時々は見れたヒーローの顔も、二度と見ることができない。
雅が受けたショックは相当なものだった。
しかしそうは言っても日々の生活は続く。
雅はできるだけ落ち込んだ姿を他人に見せることはなく、高校一年生を無事に終えた。
そして二年生のクラス替え。
同じクラスになった一人の男子を目にして、雅は体中に電気が走るように衝撃を受けた。
『カフェ・ド・ひなた』の男子が、そこにいた。
まさか同じ高校に進学してたなんて。
もしかしたら一年生の時にも、顔を合わせていたのかもしれない。
だけど長年遠くから見てただけだったし、成長した彼を見かけても気がつかなかったのだろう。
同じクラスになって間近で見たことと、彼が他の男子と『実家が以前カフェを経営してた』という話をしているのが耳に入ってピンと来た。
──間違いなく彼だ。
でも彼は雅のことを覚えていないようだった。
それでも毎日、近くで、彼を見ることができる。それだけでもとても幸せだ。
雅の恋心は再燃し、あっという間に膨らんでいった。
だけど雅はとても奥手だ。彼を好きだなんてことはもちろん、自分があの時に助けてもらったことすらも、言い出せないまま日が過ぎて行った。
そして数か月前。なんと『カフェ・ド・ひなた』が突然営業再開したのである。
雅の頭に素敵な考えが浮かんだ。
雅は以前からアルバイトをしたいと思っていた。また親友の鈴々や涼香もバイトをしたいと言って、できれば同じところでしたいよねと話をしていたのである。
それならば、『カフェ・ド・ひなた』でアルバイトできないだろうか。そうすれば確実に彼に近づくことができる。
彼の実家だということは、知らなかったフリをすればいい。
そう考えて『カフェ・ド・ひなた』を訪問した。雄飛が店頭にいないことを確認したうえでケーキを買い、ついでを装ってバイト募集をしていないか、彼の父に持ちかけたのである。
雅の思惑通りにことは進んだ。おかげで彼との距離がグッと縮んだ。
間近で見る雄飛は、あの日見たヒーローのままだった。
優しくて、下心なしに身体を張って女の子を守ってくれる。
近くで過ごす時間が増えるほど、益々恋心が膨らむ。
そろそろ気持ちを告白すべきだろうか、などということが頭をよぎる。
「いやいや、そ、そんなの無理ですよ……」
ちょっと考えただけで、恥ずかしくて顔が真っ赤になる。実際の告白なんて、できるはずもない。
──だから雅は、こう思う。
「時間はまだまだあります。焦る必要はありませんよね。じっくり時間をかけて、秋月さんとさらに仲良くなって、いずれはわたしを好きになってもらいたいです」
そう心に秘めたる思いを抱く。
だけど、今日のバイトの時に、すごく気になることがあった。
それは閉店後に更衣室で雄飛と鈴々がしばらく二人きりでいたこと。
いったい二人で何をしていたのだろう。
まさかキスをしていたとか……?
「いえいえ、まさかね」
雄飛も鈴々も、お互いに付き合っている様子は一切ない。
真面目な二人が、付き合ってもいないのにキスするとは思えない。
「大丈夫……だよね?」
そう自分に言い聞かせる雅だった。
【読者の皆様へ】※1か月ほど休載します
諸事情によりしばらく執筆ができないため、約1ヶ月程度更新をお休みします。
雅も鈴々も恋心を自覚して、ちょうどこれから二人がお互いを意識して対抗心を燃やす……というような展開に入る直前でのお休みで申し訳ありませんm(__)m
必ず続きは書きます!! 6月下旬~末には投稿を再開する予定です。
連載を追いかけていただいている読者様にはとても感謝しております。
ご迷惑をおかけしますが、何とぞご理解のほどをよろしくお願いいたします。
(プライベートの事情も含め、しばらく本作の続きを書く時間がほとんど取れない状況が1ヶ月くらい続きそうなのです。ごめんなさい。)