31 もう一つのリハーサル
今回も引き続きコランタン視点です
カンブリーブ公爵邸で騎士訓練に参加した次の日から、俺はピアノに向かう時間を増やした。
難易度の低い曲を提案した教師の言うことを聞かず『ブルーベリーの吐息』を猛練習する。
サビーナは驚いていたが、ヴィクトーは特に何も言わなかった。
カンブリーブ嬢の演奏は上手かった。途切れ途切れにしか聞こえなかったとしてもだ。
物悲しいような、繊細さが滲み出る音。
お披露目で堂々と振る舞った彼女。時折見せる不安そうな瞳。そして、思慮深いピアノの演奏。
印象の変わる彼女の本質を知りたい。
もっと、彼女が知りたい。
もちろん、いくら練習したところで俺があの演奏を超えられるとは思っていない。せめて、近づきたかった。
だから、必死に練習をした。
音楽教師が人前での演奏をどうにか許可するほどになった頃、音楽堂でのリハーサルが行われた。
この俺の気持が高鳴るなどありえないことなのだが、予定より早く着いてしまったことは事実だ。
使用人を急かしたつもりはなかったが、遅れるよりはいいだろうと早めに支度するよう言い渡したのだから。
控え室を案内したのは年嵩の神官で、シュバリエは俺の前にリハーサルをするカンブリーブ嬢についているらしい。彼女は少し遅れてきたとの事で、神殿側も対応に追われているようだった。
だが、彼女が遅れたというのはその場しのぎの言い訳だろう。
俺の早めの行動に何か言える者はここにいない。そのしわ寄せがカンブリーブ嬢に向かうとは。少し申し訳ない気持ちで舞台裏へ足を踏み入れると、丁度彼女が演奏しているところだった。
この旋律。やはりあの日漏れ聞こえたのは彼女のピアノで間違いないだろう。
上手い。
その音は俺に衝撃を与えた。
確かにあの日の音は聞き取りにくく、今では夢だったのではないかと思うこともある。
その音が、鮮明にそしてより洗練されて目の前に降り注ぐ。
案内役の神官も息を呑んで固まった。
「で、殿下。こちらの案内は後にして先に客席へ回りましょう」
俺を棒立ちにさせたままだと気がついた別の神官が、慌てたように動き出す。
彼女の演奏を見せつけられたら、そうなるだろうと理解できたので、どもった事や段取りの悪さを指摘することもせず、俺は黙って頷く。そして舞台裏から廊下を回って客席へと出ることを承諾した。
どれだけ練習すればここまでの演奏ができるのだろう。
確かに、プロのそれよりは劣るし、子供の演奏には違いない。けれど、公爵家といえば俺と同じように勉強や所作を叩き込まれる時間で朝から晩までがあっという間にすぎるはずだ。一日中ピアノの練習をすることは不可能だ。
上手すぎるだろ。
称賛したい気持ちと、実力差にやる気が抜けるげんなりした気持ちの両方を抱えて観客席からホールへ入る。
丁度演奏は終わっていた。
シュバリエはエスコート中か。いつもながらうやうやしい態度が似合うやつだな。
ステージ下には騎士団長閣下。ガタリと音を立てて椅子から立ち上がったのは王族との接触に慌てた為だろう。
あぁ、そうだった。本来なら保護者が付いてくるのか。
ヴィクトーはそれで遠慮したが、俺の親がこの場に来るわけがなかった。
娘の手を引く父親か。羨ましいとは思わない、なぜなら俺の中に親との触れ合いなんぞは想像できないからだ。
公式でもない偶然の鉢合わせ、挨拶よりも直ぐに立ち去ることを選んだのか、会釈ですまそうとする騎士団長閣下と、父親よりは深く頭を下げるカンブリーブ嬢。
あの日、庭に聞こえたピアノはそなたのものだろうか。先ほどのピアノは良かった。練習はどの程度しているものか。
聞きたいことが多くあって見ていると、カンブリーブ嬢と目が合った。
「お待たせいたしました。王太子殿下のお時間を頂いてしまい、大変申し訳ございません」
「いや」
まさか、話しかけられるとは。とっさに俺の口から出たのは素っ気ない一言。
やはり、待たせたと思わせたのか。
「その、こちらも早く着いたようで悪かった」
ピアノがさらに上達したのだな。本当はそんな事を言いたかったのだが、それでは訓練の日に、まるで盗み聞きのような事をしていたことが知れてしまう。
それで俺としては当たり障りない、今の状況を口にしただけなのだが、まわりがざわつき、騎士団長が膝をついた。
しくじった。
「王太子殿下からの御言葉、有り難く……」
ヴィクトーがいれば、全ての対応を丸投げにできたが、ここは自分で乗り切るしかない。
まだ子供の俺が閣下に膝をつかせたが、俺は何も間違っていない。そんな態度で公爵家の人々を見送った。
まったく、今日連れてきた臣下たちは使えないな。予期せぬ事態で俺を守れなくてどうする。
それに引き換え騎士団長のとっさの判断。そして、カンブリーブ嬢のゆったりとした挨拶。
優雅で、可愛らしい少女だ。もう少し会話をしたかったものだが。
さて。
本番と同じピアノに向き合い、一つ二つ音を確かめる。
舞台裏で彼女の演奏を聞いた時は、たくさんの人の前で俺の拙い音と比べられると思った。
焦った。
けれど、今は落ち着いている。騎士団長閣下に会ったからだ。
彼は日々の鍛錬や努力を認めてくれる男だ。目に見えなくとも、積み重ねたものは演奏に表れるだろう。
あの日、オレリアンと剣を交えて負けたとしても、閣下は俺を認めてくれた。ならば、今回も精一杯ピアノに向き合うのみだ。
誰かと比べる音ではなく、女神に捧げるべく自分のベストを披露すればいい。
◇◆◇◆◇
音楽会も終わって二月ばかりが経った頃、俺が主催だという茶会が開かれた。
もの言いが他人事なのは、実際に会を回したのはヴィクトーだからだ。
ごくごく私的な会には俺とサビーナ、ヴィクトー。そしてカンブリーブの子息オレリアン、それだけだ。
なんだ、いつものメンバーに一人加わっただけではないか。
王城は私的な棟と公的な棟が並行して建っており、それを渡り廊下のごとく中心でつなぐ棟がある。Hを横に倒したようなものだ。
更に両脇に別棟がある。そのうちの一つにこの部屋はあった。俺もまだ入ったことのない場所にもかかわらず、デュペ姉弟は勝手知ってる様子。
午前中にわざわざこんなところまで出向いた俺はちょっと不機嫌で。かしこまったオレリアンを下から上へと舐めるように見た。
季節は夏に差しかかったというのに、ヒラヒラのついた長袖のシャツ。ボタンもしっかり留めている。
私的な会でも王族の前に出るため上等な生地で仕立てた服装だ。履いているズボンのプレスの効き具合といったらない。
ま、俺も普段のセーラーではなく、白シャツなので人のことは言えないが、第一ボタンは外させてもらっている。そんな陽気だろ?
もちろん、ヴィクトーが乱れた格好をするはずもなく……そういやあいつのセーラーを、見たことがないな。
家ではどんな恰好なのか、今度サビーナに聞いておこう。
「カンブリーブ卿、今日は領主の付き添いだったか。見習い前にご苦労だな」
貴族は十四になると大人に付いて仕事を経験させられる。
平民の職人のようにみっちり仕込まれるわけではないが、将来に向けての顔見せとコネ作りになっている。
「んー? 見習い始まったら謁見の間手前の控え室で待機かな。今日はこっちでお茶に誘ったから、ついでにお供をした感じ?」
「はっ。その、デュペ侯爵令嬢は本日も快調なご様子……」
あぁ、本来ならサビーナの口調を聞けばコイツのように戸惑うところか。俺は随分慣れてしまったようだ。
サビーナとオレリアンの二人は俺の披露目の会で顔を合わせているはずだが、サビーナはあの時、馴染みのない貴族を前に猫を被っていたからな。
いや、俺の記憶が確かなら別れ際に呼称についてコイツを困らせていたような。それでオレリアンはサビーナと距離をおいた話し方なのか?
「そんなに緊張するな、楽にしろ」
「ホントほんと。そんなにかしこまってないでこっち来なよ。はじめましてじゃないんだし、ね?」
「姉さんは静かにしてくれませんか? 今日集まったのは招待の知らせに書いた通り、親睦を深めるべきだと思ってのこと」
そう、親世代は現王だの先王だの言ってるが、俺までもがいがみ合いたいわけではない。ヴィクトーは続ける。
「これから先、共に王家を支えるべく手を取り合おうじゃないか、と」
「そうそう。なんか同年代の近い地位が少ないしね」
俺が王位を継げば宰相はヴィクトー、騎士団長はオレリアンだろう。父王は近衛騎士を置いたが俺はわざわざ置く必要もないと思っている。先王の時代と同じように騎士団だけで十分だと。
そうなれば俺の側に控えるのはこいつになるだろう。
今はまだ、そこまでの考えを表に出すつもりはないが親しくしておきたいのは本心だ。
「お前はどちらかといえば先生派だろう? ならば俺に敬意を払わなくて済むのだから、楽に話すぐらいが良いのではないか?」
「……わかりました」
オレリアンはそっと壁際に控える使用人の様子を見た。裏の意味を探っているように。さすが公爵家、よく躾けられている。
もちろん、この部屋へ入れるような使用人は立場を厳しく教え込まれている。俺たちが何を言っても外へは漏れない。
父王には報告がいくのだろうが、どうせ俺と顔を合わせることのない親だ。何も言ってこないに決まっている。
むしろ『コソコソと何を企んでいるのか』と呼びつけ叱ってもらいたいものだ。
オレリアンが連れてきた護衛騎士も何も聞こえていないような顔をしている。
この男はカンブリーブ邸での訓練で見た顔だが、音楽会のリハーサルや当日に見たカンブリーブ嬢の護衛騎士は別の者だったな。
「カンブリーブ、妹君はどうしている。元気か」
「あ、私も。一度会ってみたいんだよね」
サビーナは女性だけの茶会で面識があると思っていたが、意外にも会っていないようだ。
すぐに、コレットのヤツが我が儘を言っているのだろうと予測がついた。
「殿下には妹への気遣い勿体ないばかりです」
「言っただろう、そのような言葉では本心がわからぬ。砕けた物言いをしろ。王の息子ではなく、俺自身を見極めるためにもな」
「はっ。では……」
なんならここに妹も呼べばよかったものを、ヴィクトーも気の利かない。
音楽会ですれ違った彼女のドレスはとても似合っていたなと思いを馳せていると、オレリアンは大きなため息をついた。
姿勢も崩れ、項垂れているようだ。
「殿下、何をお話しても良いのですね?」
しつこいな。良いと言っている。俺は威厳のある態度で頷いた。
「殿下には妹姫がいらっしいますし、相談してもよろしいでしょうか」
半歩近づき声をひそめるオレリアンに返事をしたのはヴィクトー。
「さては喧嘩でしょうか。可憐な少女のようにお見受けしていましたが。それとも」
「まさか、あんなに可愛いセレスと喧嘩なんて決してしませんよ」
可愛いセレス?
自分の妹をそのように言うとはオレリアンらしい。喧嘩でないなら相談とは。
「殿下はおわかりでしょうが、セレスの音楽の才能はたいしたものです。けれど音楽会以降、ピアノを弾きたがらないのです」
「なにっ?」
「あぁ、僕は妹に間違った態度でも取ってしまったのでしょうか」
確かにそれは誰かに相談しなければならない案件だ。