9,少しの酔いと期限と決意
ベッドで横になり目を瞑っているのに、いつまでも眠れない。私は何度目かのため息のあと、そっと上体を起こした。横で丸くなっていたシュネーがぴくりと動き、私を眺めると私の太ももに頭を乗せる。
「……ごめんね、シュネー。起こしてしまったのね」
「ふしゅ……」
そっと頭を撫でると、シュネーはそっと息を吐いて目を瞑った。
つい数時間前まで、私はハサン様と夜市に出ていた。知らない食べ物に初めて見る遊び、人々の活気。夜市はとても楽しくて、けれどこの国はやはり私のいるべき場所でないのだとも感じた。皆が当たり前にできることができなくて、知っていることを知らなくて、それが楽しいと感じるのは私が旅行者だからだと気付いたのだ。それを寂しく感じてしまうくらいに、この国を好きになるとは思ってもみなかった。
でも、多分一番の理由はハサン様なのだろう。ハサン様が笑ったり手を引いたりする度に胸が高鳴っていたのを、今までどうにか無視してきた。これはただの憧れからくるもので、恋慕のそれではないのだと無意識に言い聞かせていた。けれど今夜、それらは全て無駄になった。ネックレスを着けてもらった時の熱が、自覚をしろと叫んだから。
けれど、ハサン様はいつだってただ優しいだけだ。祖父母の孫という存在に、優しく接してくれているだけ。きっとあの人のお相手は、夜市の入り口で出会ったジュマナのような人なのだろう。少なくとも私のようにいつまでも子ども扱いをされて、その上で許されているからと傲慢な態度をとるような者はまかり間違っても選ばれることなんてない。そもそも王弟閣下だ、わざわざ外国人を選ぶ必要もない。
「……ふふ」
そんなことは分かり切っているのにと、私は自分を笑ってしまった。けれどそれならと、小さく頷く。
「ねえ、シュネー。わたくしたち、あと二ヶ月はこの国にいられるわ。二ヶ月間、この国をたくさん楽しみましょうね。これから先、どんなに辛いことが起きても思い出せるように」
元々期限が決まっているのだから、もういっそ初めての恋を楽しんでしまおう。ハサン様には申し訳ないが、二ヶ月の間だけ付き合ってもらう。そう、たった二ヶ月だ。遠慮なんてしていたら多分すぐに終わってしまう。
そして二ヶ月後、王子の生誕祭が終わったら、すぐに国に帰ってしっかりと生きていこう。私はハサン様のように能力が高い訳ではないから苦労をするだろうけど、きっとこの国での思い出があれば大丈夫だ。
「……もう寝ないと。明日からも元気にこの国を満喫しなくてはね」
シュネーはぺろりと私の手を舐めると、枕の方に移動してまた目を瞑った。さっきまでどうしても眠れなかったのに、シュネーに話を聞いてもらった途端くらくらするくらいの眠気に襲われる。その睡魔に抗うことなく、私はそのまま眠りについた。
―――
気持ちを自覚したからといって、私の行動は特に変わらなかった。想いを告げる予定などないのだから当然だ。
朝食は祖父母と食べてそのあとの午前中はアウローラ王国について学び、昼食はハサン様と食べる。午後は今まで通り王宮内を散策したり祖母に針仕事を教わったり、マリアム様のお茶会に呼ばれたりした。その延長で王子や王女とも会わせてもらい、グラキエス王国のことについて聞かれたことを話したり、社交ダンスを教えたりもした。アウローラでは社交ダンスは一般的な教養に含まれないので、国王夫妻には喜ばれた。夕食も基本的には祖父母と食べたが、ハサン様が夜市に誘ってくれる時は彼と食べることもあった。
ハサン様にとっては私はいつまでもこの国に慣れないよちよち歩きの観光客らしく、どこに行くにも心配をしてくれた。一度「私が一人で出歩いてよい場所などはありますか?」と聞いたことがあったが、猛反対をされたくらいだ。勿論護衛は付けてもらうからと言ったが、聞いてもくれなかった。マリアム様だって護衛付きだけれど一人で夜市やカフェくらいには行くというから、少しやってみたかっただけなのにまるで取り付く島がない。その時はナーシルも同じ意見だったらしく、私に味方はいなかった。祖母だってたまに一人で外に出ているようだったから、先に祖父母に聞けばよかったとかなり後悔した。
そんなことを言ってしまったからか、ハサン様は休日前には必ず「どこか行きたい所でもあるのか?」と聞いてくれるようになった。毎回なので、マリアム様から教わったカフェや観光地はもう行きつくしたと思う。私は嬉しかったがあんまりにもそれがずっと続いたので「お休みなのですから、ご自宅でゆっくりなさってはいかがですか」と提案してみたが、それはハサン様が答える前にナーシルが「駄目です! この人、一人にしていたら勝手に仕事しだすから!」と叫んだのでもう甘えてしまうことにした。
以前夜市で会ったジュマナには、王宮で何度か声をかけられた。ジュマナは大きな貿易商の跡取りとして働いており、その関係で王宮にも出入りをしているようだった。しかしジュマナが私に気付いて挨拶をしてくれようとすると、何故か必ずハサン様がやってきて間に割り込んでくるので、私は彼女としっかり話をしたことがない。二人は「何なんですか!? 営業妨害にも程があるわ!」「煩い、そんなことを許可した覚えはない! ナディアに必要以上に近寄るな!」「何よ、それ!」と毎回喧嘩をしだすので、私は大体ナーシルと一緒に静かにその場を離れることが多かった。「お二人は仲がよろしいのですね」と言ったら、二人揃って「よくない!」と叫ぶ程には息がぴったりで笑ってしまった。
そんな毎日の中で、シュネーはイグニスと本当に仲がよくなっていた。初対面であれだけ警戒し吠えていたのに、今ではもうお互いを枕にして一緒に昼寝をして気づけば毛づくろいをし合っている。その姿は微笑ましくてほんの少し羨ましくて、それから切なかった。あんなに仲良くしているのに、二頭の使徒は私が帰国することによって離れ離れになってしまうのだ。寝る前に「ごめんね」と謝ると、シュネーはぐりぐりと鼻を押し付けてきて私を慰めてくれた。いつまでも使徒に慰められる情けない自分が嫌になるが、けれどだからこそ強くならねばと決意もできた。私は話者なのだから、シュネーが恥ずかしくないように生きていく必要があるのだ。
楽しい時間はあっという間で、あの夜市から二ヶ月が経った。今夜は末の王子の生誕祭だ。アメナを筆頭に侍女たちがとても張り切って準備をしてくれたおかげで、私はとても美しく整えられている。始めは違和感があったこの国特有の衣装にももう随分と慣れた。けれど一つだけ、駄目なところがあるのだ。
「あの、アメナ? このネックレスなんですけど……」
「はい、とても似合っていらっしゃいますよ」
「いえ、そうではなく、あの、これはさすがに、ちょっと……」
「え、何か不都合でもございますか?」
「不都合というか……」
胸元に着けられたネックレスは、あの夜市でハサン様から貰ったものだ。今夜の衣装にもとても合っており、やはりとても美しい。ただ……。
「あのですね……。わたくしの国では、婚約者や夫でもない方から頂いた装飾品を公式の場に着けていくのは、かなり非常識なことで……」
「え、でも、ナディア様、それが一番のお気に入りじゃないですか」
「そっ、れは、そう、ですけど……」
「今夜の生誕祭には絶対にそのネックレスが一番お似合いです! 絶対です!」
アメナが「ねえ」とほかの侍女たちに聞くと、皆がうんうんと頷いている。確かに似合っているし、これが一番のお気に入りだ。……でも。
「ハサン様のご迷惑にならないかしら……?」
「……申し訳ありません、ナディア様。どうして迷惑になるのかが分からないです。着けてほしくないものをわざわざ贈る人なんていません」
「……そう?」
「そうです」
「……なら、そうね。これを着けていきます。皆、ありがとう」
そう言うと、侍女たちはほっとしたような表情で笑ってくれた。最後までこの国の風習は理解しきれなかったが、彼女たちが言うのなら間違いはない。ハサン様が何の特別な意味もなく贈ってくれたネックレスを誰かに勘違いされてはいけないと思ったが、こちらではそういう誤解などは受けないのだろう。
シュネーも今日は水色のリボンを着けておめかしをしている。リボンにはペンダントも付いていて、とてもおしゃれだ。いつもより丁寧にブラッシングされた毛並みがふわふわとしていてとても可愛い。シュネー自身もリボンが気に入ったのか、しっぽがずっとゆらゆらと揺れていた。
鏡の前に立って最終確認をしていると、扉を叩く音がした。
「ナディア様、王弟閣下がお見えです」
「ええ、今行きます」
会場まではハサン様が迎えに来てくれることになっていた。てっきり祖父母と一緒に行くものだと思っていたのだけれど、祖父は若手話者への指導後そのまま会場に向かうことになっていた。その為、祖母が祖父を迎えに行って一緒に会場入りするからとハサン様が私の世話を買って出てくれたのだ。
会場と言っても王宮内だから、行こうと思えば一人でも行けただろう。もしくは、私も祖母と一緒に祖父を迎えに行ってもよかったのだ。けれどまあ、最後だからとやっぱり甘えることにした。この生誕祭が終われば、私は祖父に頼んで一人ででも帰国をするつもりだ。最後の最後にハサン様の姿をしっかり目に焼き付けておかねばと、私は少し張り切っていた。
「お待たせしまし……。きゃあっ、イグニス可愛い!」
「わっふ」
扉を開けた途端にシュネーがイグニスに挨拶をしに行ったから、視線が自然と下にさがってしまった。イグニスは首元にネックレスのような飾りを着け、洋服のようなものを着ている。見ようによっては凛々しいイグニスにはとてもよく似合っていた。
「……あの、ナディア様? イグニスもいいんですけど、こっちも……。その、ほら、いつもとは違う感じですよ?」
「え、あっあっ」
ナーシルに声をかけられ、私は急いで視線を上げた。ハサン様はいつもより刺繍や飾りの多い衣装を着ており、髪型も少しかっちりとしている。公式の場であるから正装であるのは知っていたけれど、見慣れない姿にどきりとした。
「とてもお似合いですわ、ハサン様。あの、すごく……」
「……とって付けたように言われてもな」
「ほ、本心です!」
「ふっ、分かっている。ナディアもよく似合っている。そのネックレスもいいな」
「もう……。ふふ、ありがとうございます。ナーシルもそれが正装なんですか? 貴方もよく似合っているわ」
「ありがとうございます、かたっ苦しいんですけどね」
そう肩を竦めると、ナーシルは「それでは自分はここで」と先に会場に行ってしまった。王弟の従者は仕事が多岐に渡るらしい。
残された私とハサン様はいつも通り雑談をしながら王宮を歩き、会場に向かった。会場は、王宮内で一番の広間だそうだ。廊下には既に生誕祭に参加するであろう人々も多く歩いている。
本日の生誕祭は、国の有力者向けのもので参加者は限られている。大衆向けのものは王子が一歳になってから盛大なパレードをするらしい。パレードは一日だけだが、前後合わせて三日間は国の祝日となって大々的なお祭りになるそうだ。国に帰る私は見ることはないだろうけれど、お祝いのお手紙を忘れずに書かねばと今から楽しみだった。
会場には、机もなければ椅子もない。とても高価そうな絨毯の上にふわふわのクッションが沢山置かれているだけだった。アウローラ王国では元々床に座るのが主流だったので、椅子や机が流通するようになった今でも大事な場面やお祝いの席などではこのように床に座るらしい。それを聞いて床に座る練習をしたが、慣れれば意外と座りやすかった。床に置いてある食べ物を取るのはまだ少し手間取るが、家庭教師には及第点を貰えたのでよしとしよう。何でも完璧にする必要もないのだからと私は自分で自分を慰めた。
「ハサン様、今回わたくしはどこに座ればいいのですか?」
「ナディアの席は私の隣だ」
「え?」
「私と反対側にはカエルム夫妻が座る」
「……え?」
「ん?」
「いえ、ん、ではなく」
思考が止まりかけたが、私は自身を奮い立たせてハサン様の服の裾を引っ張った。ハサン様も一度は誤魔化そうとしていたものの、さっと顔を背けるあたり確信犯である。
会場の席は一番奥に国王夫妻の席と新しく生まれた王子殿下のゆりかごが置かれてあり、その両側に緩いアーチを描くようにして七人の王子王女が座る席がある。年少の王女たちから順に国王夫妻の傍に座ることになっており、年が上がるごとに外側だ。ハサン様は一番年長の王子の隣で、つまりそこまでが王族の席だった。それに続いて参加者の席が壁に沿うようにある。そこまでは聞いている。しかし、王族方の隣が私であるなんてそんな変な話はない。
「席順がおかしいです」
「何がだ」
「何がって、ぜ、全部おかしいですよ。どうしてわたくしが王族方の隣に座るんですか。百歩譲って祖父母が座るのは分かりますが、そうであればわたくしは祖母の隣の筈です」
「……それは駄目だ」
「何故……!?」
「あらあら、どうしたの、ナディア。もうすぐ生誕祭が始まるというのに」
「お婆様……っ」
私たちが小声で揉めていると、祖父母がやって来たので事情を説明した。祖母はふうとため息を吐き、困ったような表情を作る。……そう、作ったのだ。おそらく祖母は今、困ってはいない。その証拠に祖父の使徒は何故か少し視線を逸らせているが、祖母の使徒はのんびりと欠伸をしているのだ。話者の緊張は使徒に伝わる。つまりそういうことだった。
「未婚で適齢期である貴女だからこういう席では両隣、そうでなくても両側近くに男性を付けておく必要があるのよ、ナディア。この国ではそういうものらしいわ。貴女の交流がある男性でこの場に参加できる方といったら、お爺様と王族方以外いないでしょう。そうなるとハサン様が妥当なの、それでこの席順になったのだわ」
「……聞いていませんわ、そんなこと」
「そうね、その通りだわ。ハサン様が教えていなかったのね?」
「……ハサン様」
「う……」
できるだけ怒っている表情を意識してじとり見上げると、ハサン様は何とも言えない顔で口を閉じた。そしてその様子を祖父が囃し立てる。
「やーいやーい、ハサン様怒られてるー」
「カエルム卿が直前まで言うなと言ったんでしょうが」
「……お爺様、あとでお話があります」
「あ、はい、ごめんなさい……」
わざとらしくしょんぼりとする祖父に、私はため息を吐いた。どうせそういうことだろうと思っていたが、それにしても祖父はおふざが過ぎる。しかしそれでも、である。私は眉間に皺を寄せたままでハサン様に向き直った。
「教えてくださったらよかったのに」
「すまない……」
「もうお爺様の話なんて聞かなくていいんですからね」
「分かった、今後はそうしよう」
「ナ、ナディア、ナディアちゃーん? さすがにそれは酷くないかなーってお爺様は思うよ?」
「お爺様が言われるようなことをするからですわ」
「ふはは、それもそうだ」
きっぱりとそう言うと祖父は愉快そうに笑った。祖父は私が怒っていても笑っていても、コミュニケーションが取れるだけで嬉しいのだそうだ。大抵はちょっとした悪戯が多いのだが、たまにこういった本当に驚くようなこともあるので少し困る。しかし祖父が楽しそうにしているので、あまり邪険にできないのも事実だ。実行犯は祖父であるけれど、祖母も一枚噛んでいるので防ぎようがないというのもある。
「……お婆様も知っていたのなら教えてくださったらよかったのに」
「確かにそうね。でも、お婆様も直前に聞いたのよ」
そう優雅に笑う祖母に、私はまだこれ以上の追及はできなかった。絶対に嘘だと分かっているのにも関わらずだ。経験値というものが圧倒的に足りていなかった。いつか祖母のように美しく微笑みながら、平然と嘘をつけるような人になれるだろうか。……いえ、別に嘘が上手にならなくてもいいのかもしれないのだけれど。
そうこうしている内に国王夫妻と王子、王女が入場し、生誕祭が始まった。王族方の使徒も一緒に入場してきたが皆大きく、堂々とした佇まいだ。特に国王の使徒などとても豪華に飾り立てられていて、いつかの怠惰な雰囲気はない。
この国での祝いの席は自国のパーティーとは違い、国王の挨拶のあとは食事を楽しむのが主な催しだった。参加者の席は壁に沿ってあるので会場の中央は開けており、末の王子の生誕を祝う出し物が次々と披露されていく。出し物は伝統的な演舞から目新しい手品というもの、使徒と話者による火の輪くぐりなんて刺激的なものまで幅広かった。
「ふふ、楽しいですね、ハサン様」
「それはよかった。手間をかけて手配した甲斐がある」
「お忙しくしていらっしゃいましたものね」
「あの子にとっては初めての祝い事だからな、失敗は許されない。残念な祝いだったと評価されることもな。まあ実際考案のほとんどは兄者で、私はそれを実行したというだけだが」
その実行が大変だったことは、私もよく知っている。国王はこの生誕祭に多くの提案をしていた。食事内容から会場の内装変更、催し物や使用人の動きに至るまで事細かく。ちらりと聞いただけでも確かにその提案の一つ一つは素晴らしいものではあったが、それを現実のものにするのは難しいものばかりでもあった。例えば用意するのに本来半年はかかるような絨毯を手配させたり、珍しい大陸外の食べ物を出そうとしてやっぱり途中で止めたり、参加者に配る為の手土産を作らせる為に国中の優秀な職人を王宮に呼び寄せたり。
それ以外にもいろいろなことがあったらしいが準備期間が限られていたので、最後の一週間など王宮全体が慌ただしかった。私もほんの少しだけシュネーと食べ物を冷やす用の氷を作る手伝いをしたが、それだけで涙ぐまれるくらいに喜ばれる程度には皆疲れているようだった。その総指揮を執っていたのがハサン様なのだから、その「実行しただけ」がどれだけ大変だったのかなんて想像に難くない。
「陛下のご要望を実現させることがハサン様からのお祝いですもの。きっと王子殿下も喜ばれるでしょう」
「はは、どうせ覚えてはいないだろうがな」
「……生まれた時に沢山の方から祝福を受けたということを知れば、それはきっと人生の糧になりますわ」
「そうだといいが」
そう言ってハサン様は満足そうに笑った。その横顔に胸が締め付けられるような気がして、私はそっと甘い紅茶を口に含んだ。アルコールの飲めない私の為に用意された冷たい紅茶は、氷が入っていてすっと喉を通っていく。
そういえばシュネーたちは随分と静かだなと後ろを振り向くと、お互いに着けてもらった飾りを噛み合ったり引っ張ったりして遊んでいるようだった。咄嗟に止めようとしたものの、ほかの参加者の使徒もそんな感じで遊んでいたので「ほどほどにね」と言うだけに留めた。
暫くすると、ずっと継ぎ目なくおこなわれていた出し物が一旦中断された。この間に参加者は王族方へ挨拶に行ったり、参加者同士で交流を図るらしい。ハサン様や祖父母にも複数の人が挨拶に来て、その流れで私も挨拶をするはめになったので少し大変だった。……席順をあらかじめ知っていれば、こういったことの練習もしていたのにとやはりハサン様を恨めしく思う。
挨拶をしにくる人が途切れた時、祖父母がおもむろに立ち上がった。
「ナディア、儂たちはちょっとあっちにいる友人たちと話してくるがハサン様がいるから大丈夫だからね」
「はい、お爺様」
祖父母は元々社交が得意な人々だ。こちらにも多くの友人がいるのだろう。よく見れば決められた席に座っている人は少なく、あちこちで小さな人の塊ができていた。国王夫妻や幼い王女たちは動いていないが、年長の王子たちは年の近そうな友人たちと談笑している。
ハサン様は行かなくていいのだろうかと聞こうとしたが、その前に彼に声がかかった。
「閣下、失礼いたします。警備責任者がすぐにお話がしたいと」
「今は無理だ、あとにしてくれ」
「しかし……」
ハサン様に声をかけたのは、会場の使用人の指揮をしている人だった。そんな人が呼びに来ているのにハサン様がすぐに向かえない理由は、言わずもがな私なのだろう。新しい出し物の準備がされている会場中央を横目に、私は苦笑した。
「ハサン様、わたくしは大丈夫ですわ。何かあれば誰か呼びますし、行ってきてくださいな」
「だが……」
「わたくし、子どもではありませんのよ? お歌が始まるようですし、静かに見ていますから」
「……分かった、すぐに戻るから何かあればすぐに人を呼ぶように」
「はい」
ハサン様が席を立つと、中央に歌い手が現れゆったりと歌いだした。会話を邪魔しない程度の柔らかな歌は、知らない歌であるのにどこかで聞いたことのあるような錯覚を覚える。
歌い手を眺めていると、私の隣に誰かが座った。
「こんばんは、ナディア様。とてもよい夜ですね」
「こんばんは、ジュマナ。ええ、本当に」
「よければ少しお話しませんか、いつも邪魔してくる方もいらっしゃらないようですし」
「ふふ、そのように言ってはいけませんよ」
「あら、だってそうではありませんか。まあ、誰とは言いませんけど」
「賢明だわ」
国王夫妻に挨拶をしていたところを見ていたので、ジュマナが参加していたことは知っていた。着飾ったジュマナはとても目立っていたのですぐに分かったのだ。わざわざ話をしに来てくれるなんて思っていなかったので驚いたが、ジュマナの話はどれも興味深くそして楽しいものだった。やはりこの国の人は会話が上手い。帰国しても、彼らを見習って社交を頑張ろうと思えた。
「はーっ、邪魔が入らないからナディア様とたくさんお話ができてとっても嬉しいです。あら、そうだわ。あたしとしたことが、これを忘れるなんて」
「これは?」
「うちの会社が新しく仕入れた商品ですの。海の向こうの職人に生誕祭用に特別に作らせたチョコレート菓子なんです。皆さんに食べていただいていて、ああ、勿論王族の方々にも食べていただく為に毒見の検査も終わっておりますわ。是非、ナディア様にも食べていただきたいのです」
「まあ、綺麗な細工ですね、ありがとう」
ジュマナが差し出してくれたチョコレートは、とても繊細な模様が刻まれていた。一粒取る時に指先がひんやりとしたのは、きっと箱に秘術が使われているからだろう。それだけでも素晴らしい値段がついていることが分かるが、王族にも振る舞うように作らせたのなら当然かもしれなかった。
けれどチョコレートを口に入れてから、私はすぐさま後悔した。いや、チョコレート自体はとても美味しい。しかし、中からとろりとアルコールの匂いが溢れて口いっぱいに広がったのだ。しくじったと、私は表情に出さずに自身を叱咤した。自国の夜会でもこういった酒が仕込まれている菓子は好まれるからいつも注意していたのに、どうして今夜に限って確認を怠ってしまったのだろう。しかし、そんなことはジュマナには関係がない。私はにこりと微笑んで見せた。
「……とても美味しいわ、ジュマナ。素晴らしい職人を見つけたのですね」
「お褒めに預かり光栄です。どうぞ、もう一つ、いえいくらでも」
「ええ、ありがとう。ですが……」
「ジュマナ、何をしている?」
どうにかして断ろうとした時、硬い声が頭上から降ってきた。振り向くと、そこには声同様に硬い表情をしたハサン様が立っている。
「何って、ハサン様が席を外されたから急いでナディア様をお守りに来たんですけど?」
「それは礼を言うが。……待て、何を食べさせた?」
「は? チョコレートですけど?」
「っ、まさか」
ハサン様はジュマナが持っていたチョコレートを見ると、さっと顔色を変えた。
「……そのチョコレートを持ってきていたのはお前だったのか、ジュマナ。今警備から聞いたが、それには酒が入っているんだろう。なんてことをしてくれたんだ、ナディアは酒が飲めない体質なんだぞ……!」
「っ、な、なんてこと……!」
ジュマナは口に手を当てて、青ざめた。この国では、人が食べられないものを無理に勧めるのはご法度だ。しつけの範囲で子どもの好き嫌いを減らすような取り組みは例外だが、それ以外の場、特にこのような祝いの席で苦手なものを出すのは最大級の侮辱にあたる。そう、私も家庭教師に習った。
しかし、とアルコールでふわふわし始めた頭を奮い立たせて、私は微笑んだ
「ハサン様、わたくしが何も聞かずに無理矢理口にしてしまっただけですわ」
「な、何を仰います、あたしが……」
「ジュマナもありがとう、本当に美味しいチョコレートだったわ」
「ナディア、これはそういう問題では」
「お二人とも、少し声が高いようですわ。本日は王子殿下の生誕祭。何の間違いも起こりませんでしたとも、そうでしょう?」
今夜は末の王子の生誕祭なのだ、一つの間違いも許されない。そもそも確認を怠ったのが悪いのだし、この国の人間でない私はこのことを別に怒ってもいない。不注意からなる事故ではあるが、これが多くの人に知られることは誰の得にもならないことだ。そうでしょうと、私はもう一度微笑んでみせた。
「それに、本当にほんの少しですもの。このくらいなら問題ありませんわ、ね?」
「ナ、ナディア様、この度は本当に……」
「ジュマナ、また今度、次はお酒の入っていないものを用意してくださる? 味がとても気に入ったの」
「……っ、はい。はい、是非」
ハサン様は押し黙り、ジュマナは顔を青くしたままで自分の席に戻って行った。悪いことをしてしまったなあと思っていると、祖父母が戻ってきた。ほかの人々も自分の席に戻って行く。歌も終わり、そろそろ生誕祭も終盤であるらしい。
「んー? ナディア、どうした?」
「どうもしませんわ、お爺様」
「そうかそうか、おっ、お爺様のところにお水があるぞ。注いであげようねえ」
「ありがとうございます。でも、お爺様も飲まなくてはいけませんよ?」
「おお、そうしようねえ」
上機嫌な祖父から貰った水をゆっくりと飲み干すと、国王が閉会の挨拶をした。ぼんやりとした頭では上手く聞き取ることができなかったが、醜態を晒す前に生誕祭が終わってよかったとしよう。祖父母はまだ国王夫妻と話があるそうなので、私は先に部屋に下がらせてもらうことになった。
「ナディア、部屋まで送ろう」
「ええ、ふふ、ではお願いしても?」
「……酔っているな」
「ふふふ、少しですよ」
足取りが軽い。いつもと同じ廊下を歩いているのに、何かふわふわとしたものの上を歩いているような気分だ。少しだけ楽しくなってきて、ついでに気も大きくなってきて私はハサン様に我儘を言ってしまうことにした。
「ねえ、ハサン様、夜風に当たりたいのです。付き合っていただけませんか?」
「大丈夫なのか?」
「体がぽかぽかとしているから、冷やしたいの。お願いします」
「……分かった、少しだけだぞ」
「はぁい、ふふ」
私の足元は少しおぼつかなかったが、シュネーがぴったりと付いてくれているので問題はない。シュネーがそんなふうだからか、イグニスまで私をちらちらと気にしてくれている。けれどハサン様はいつかのように私の手を取ってくれた。王宮で誤解を招くような行動をするのはいけないことだけれど、きっと最後であるのだしアルコールのせいで判断力が鈍っているのだから仕方がないと言い訳をしてそのまま歩いた。
王宮の棟と棟を結ぶ渡り廊下には屋根が付いておらず、その分夜空も夜景もよく見えた。いつもなら寒いくらいの風が頬に心地よい。
「……ここから見る王都も綺麗ですね」
「そうだな。……すまない、ナディア。手土産でアルコールを持ってきた者には注意喚起をしていたんだが、あのチョコレートだけが見逃されてしまっていたらしい」
「あら……」
「途中で気付いた者が持ってきた者を探したんだが、名簿に記載漏れがあったようで発見が遅れたんだ。君のほかにもアルコールが合わない者もいたから、チョコレートに注意するよう警備に指示を出していたんだが、その間に食べさせてしまうとは……」
「ふふふ、美味しかったですよ?」
「ナディア……」
「本当に大丈夫ですったら」
そんな訳があったのなら、やはりジュマナは悪くない。警備担当は叱られるだろうが、人間である以上は間違いは起こすものだ。次に活かしてもらいたいなあと、為政者気どりでそんなことを考えた。
そこで私は唐突に、ハサン様に話をしようと思いついた。アルコールというものはすごい。思考が飛び飛びで、それを理解しているのに止められないのだ。
「あのね、ハサン様。わたくしの話を少しだけ聞いてくださいますか?」
「それは今でなければ駄目なのか? もう横になった方が……」
「お願いします、短くまとめますから」
「……少しだぞ」
私は、私のこれまでのことをハサン様に話した。どんなふうに生きて、どんなふうに感じて、そしてどうやってこの国にやって来たのかを端的に話した。聞いてもらいたいと思って、我慢ができなかったのだ。こんなことを言われてもハサン様が困るだろうから、何も話さずに帰国するつもりだったのに、やはりアルコールは怖い。苦笑しながら話し終わると、ハサン様はとても怖い顔をしていた。怒っているのと悲しんでいるの、両方の感情が混ざったような表情だった。
「何だ、それは。そんなことが許されるのか」
「いいえ、許されません。……楽しい時間が壊れそうで今まで聞けなかったけれど、義母はあの国で公爵家から相応の報復を受けている筈です。きっと父や妹、あと元婚約者も。カエルム公爵家はあの国でそれだけの権力を持つ家ですので」
そう、カエルム公爵家は王家の次席と言わしめる程の大家だ。初代国王の宰相の血筋で、歴代の宰相は勿論、王妃や王配も何度も輩出している。私には、その血を引いている自覚がなかった。母や権力に恨みを持っていた義母は、だからこそ思い上がってしまったのだろう。私がもっと早くに自覚を持つことができていれば、義母はあそこまで悪し様にならなかったのではと最近ではよく考える。
「……よく耐えた、頑張ったな」
「ふふ、まさか。わたくしは泣きついただけですわ。もう無理だと祖父母に泣きついて、助けてもらっただけ。助けを求めることですら、お膳立てをしてもらってやっとでした。わたくし自身は何も頑張ってはいません。子どもの頃は、妹にとってよいお姉様になろうと思っていたのにそれも中途半端で。……貴方を見ていると、そんな自分が情けなくて恥ずかしくてどうしようもなくなる」
話しながらハサン様を見ると、何故か彼はとてもびっくりした表情をしていた。珍しいなあと笑ってしまう。
「貴方のようになりたかったんです。困難に立ち向かって打開できる力が欲しかった。……何も持たないわたくしには、せめて逃げない意思が必要だったのかもしれません。だからもう、逃げ回るのを止めようと思うんです」
「……それは、どういう?」
「帰国して、目を背けていた問題に向き合おうと思います。義母や父、妹のこともどうなったか気になりますし、その上で今後彼らとどう付き合っていくのかも考えなければ。それからわたくし自身の身の振り方も早く決めて、自立をしたいのです。もう誰かに縋るだけの子どもでいたくないから」
「帰国は、いつを考えている……?」
「できるだけ早く。明日にでも祖父母に帰国のお願いするつもりですわ。ああ、わたくし一人で帰るつもりですので、祖父の指導は継続するように言っておきますからご安心くださいな」
アウローラ王国王都の美しい夜景を前に、不安などどこかに飛び去ってしまったようだ。酔っていて気が大きくなっているのもあるだろうが、私はどこまでも楽観的に未来を語った。だって、本当にやれると思うのだ。それだけの勇気を、この国で貰った気がする。
ほんの僅かな沈黙のあと、ハサン様はいつも通りの優しい顔で口を開いた。その前に一瞬だけ、表情が曇ったように見えたのは私の願望なのだろう。
「寂しくなる」
「ふふ、ありがとうございます。わたくしもこの国は居心地がいいから寂しいですわ」
「……なら、まだここに留まってはどうだ」
「……そのお誘いは魅力的過ぎて、ずっと居座ってしまいそうになるからご遠慮します。この国はわたくしに優しすぎますから」
この国では、私はいつまで経っても外国から来た観光客だ。だから優しくしてもらえるし、多少の無礼も許される。けれど、これに慣れてはいけない。これが当たり前だと錯覚してしまったら、もう動けなくなってしまう。
「ハサン様、貴方に会えたことは、わたくしの人生最良の出来事でした。貴方のような人がいて、そんな生き方があると知れて、貴方のように強くありたいと思えたんです。……貴方の妹分として恥じないように頑張りますから、応援してくださいますか?」
「……勿論、何があっても君を応援をしている」
「まあ、ふふっ。そのお言葉があればどんなに大変なことがあっても、今度こそめげないでいられそうですわ」
ああ、きっと私はこの日を忘れない。この先誰かと結婚をして子どもを産むようなことがあっても、ずっと独り身で仕事に生きたとしても、この美しい人を忘れない。好きになってはいけない人だったけれど、それでもその人がこんな私のことを一瞬でも気にかけてくれたことをずっと覚えているだろう。