8,夜市のゲームとこの国と王弟の過去
そんなふうに夜市の入り口でこそこそと話をしていた私たちの背後から、凛とした綺麗な声がかけられた。
「あらっ、ハサン様? 夜市に来るなんて珍しいじゃないですか、ナーシルは一緒じゃないんです?」
振り返ると、そこには笑顔の美女が立っていた。意志の強そうな瞳に、女性にしては高めの身長が迫力を出している。王妃であるマリアム様と似たような美しさだと、思わず見とれてしまった。
「……ジュマナか」
「ジュマナかって、相変わらず失礼な人ですね。っとと、お連れがいらっしゃったの? まあ、隣国の方? どうしたの、大丈夫? いじめられてるの?」
「おい」
「あたしはジュマナといいます、どうぞジュマナと敬称は付けないで呼んでくださいねっ。父が貿易関係の仕事をしているから、そちらにもそれなりに詳しいの。貴女のお名前を伺っても?」
「え、ええと……」
ジュマナと名乗った美女は、どうやらハサン様の知り合いらしい。この国の人は皆おおらかで友好的だが、ジュマナはその中でも距離の詰め方が早く少し戸惑ってしまった。返事をしなければと口が開くのに、焦りからか上手く声が出ない。この状況に更に焦っていると、いきなり視界が塞がれた。ハサン様が私とジュマナの間に割り込んでくれたらしい。
「何よ」
「何よじゃない。困っているだろうが、君は少し落ち着きというものを身につけろ」
「じゃあ、ハサン様が紹介してくださいな」
「はあ……。こちらはカエルム夫妻の孫で、ナディアという。ナディア、彼女は我が国一番のウェスペル貿易商の跡取りでジュマナだ。まあ、悪い人間ではない」
「ため息と紹介の仕方がひどいわ。今に始まったことじゃないからいいですけど。でもあのカエルム夫妻のお孫さんってことはつまり――」
「おい、呼ばれているぞ」
「あっ、もう、本当だわ、残念。ナディア様、また今度そこのお邪魔虫がいない時にお話ししましょうねー」
ジュマナは家の者に呼ばれて素早く去っていった。何とも、何と言うか強烈な人である。……しかしハサン様がいない時に彼女と二人でお話するのは、まだ私には荷が重そうだがどうしよう。それにしても……。
「……綺麗な方でしたね」
「見てくれだけだ。この国の女性陣は皆強かだが、あれは昔から群を抜いている。さすがに王宮に押しかけてくるようなことはないだろうが、彼女関連で困ったことがあればすぐに私に言いなさい。仕事中でも気にしなくていい」
「は、はあ……」
「出鼻をくじかれたな、行こう」
「ええ」
二人が昔からの知り合いであることは、さっきの僅かなやり取りでも感じ取れるくらいだった。二人とも迫力のある美形で身長差もそうなく、並び立っている時は完璧な対で作られた人形のような雰囲気もあった。そう、とてもお似合いだったのだ。
「ナディア、どうした?」
「え、ああ、いえ何でもありませんわ」
「……それならいいが、ここではぐれると面倒だ。しっかりついてきなさい」
「はい」
考え事をして歩くのが遅れそうになった私の手を、ハサン様が取る。それはエスコートというよりもオアシスの時と同様に、保護者が子どもの手を引くような意味のものだった。……私は、しくしく痛む胸を無視して笑顔で歩き出した。取り繕うのは得意だし、そもそもこの痛みは気付いてはいけないものなのだ。
夜市はどこもかしこも活気があって、小さな屋台という簡易な建物には様々なものが売られている。食べ物はどれも食欲をそそる匂いがして、まだ夕食を食べていない私には少し酷な場所だった。
シュネーも夜市を歩くのはやはり落ち着かないのかきょろきょろとしていて、けれどはぐれそうになる前にはイグニスが連れ帰ってきてくれた。いつもとは随分違う二人の様子は何だか微笑ましい。
「ハサン様、あれは何ですか?」
「串焼きだな。そうか、ああいった類のものはさすがに王宮では出ないな。説明を聞くより実物を食べるのが早い」
目に入った屋台の食べ物は串焼きというらしい。棒に刺した肉や野菜が火で焼かれて、香辛料がかけられているのか素晴らしくいい匂いがする。ハサン様は店主から串焼きを二本受け取り、その一本を私にくれた。
「熱いから気をつけるんだぞ」
「……えっと、これはどうやって食べるんですか?」
「……かぶりつけ」
「か……」
「屋台で売っているような串焼きにフォークやナイフは使わない。つまり、そうだ、君の国でも骨付き肉なら手で持って食べてよかった筈だろう。その要領だ」
「ああ、そういう……」
ちらりと周りを見ると、確かに皆立ったままで特に道具を使わずに串焼きを食べている。自国でも立食をすることはあったが、それはそういうパーティーなどの整えられた場での話だ。骨付き肉は手で食べてもいいが、ナイフとフォークを使って食べてもいいし、手を洗う用の水も用意されている。しかし、ここにはそれらの全てがない。けれど、そういうものなのだろう。
一瞬の躊躇いのあと、私は串焼きにかぶりついた。思ったより肉は柔らかく、すっと噛み切れる。
「! 美味しいです」
「……君、口小さいな」
言われて自身の串焼きを見るが、しっかりと齧りついたあとがあり自分ではそうは思わなかった。しかしハサン様が手本を見せるかのように、刺さっている肉をまるまる一枚豪快に口に入れるので納得せざるを得ない。刺さっている肉も野菜も大振りなのだから、それは私には無理だ。けれど、と私は眉間に皺を寄せた。
「……今それ言わなきゃ駄目でしたか?」
「わ、悪口ではないぞ」
「ふっ、もうっ、ふふ、分かっていますよ」
「……君なぁ」
「人のことを子ども扱いするからですわ」
くすくすと笑いながら、私は串焼きを頬張った。食べ歩きといって食べながら移動する人もいるのだそうだが、私にはまだ難易度が高そうなので止まって食べさせて貰う。夜市に慣れているハサン様からすれば面倒だったかもしれないが、私をここに連れてきたのは彼自身だ。さっきショールをぐるぐる巻きにされたことをナーシルに言うのは止めておく代わりに、申し訳ないがここはもう甘えてしまおうと決意した。
串焼きを食べたあとも王宮では見たことのなかった食べ物や飲み物を口にしたり、小物を売っている露店を覗いたりした。ランプ市ほどの規模ではなかったがランプも売っていたし、絨毯や伝統的な銀の腕輪などの工芸品も売っている。いきなり店主が歌いだしたと思えば楽器を取り扱っている店であったり、子どもたちが輪っかを投げて遊ぶ娯楽店もあったりした。
「ふふふ、珍しいものがいっぱいあって楽しいです」
「よかったな」
機嫌よさげに話すハサン様の手には、木製のカップが握られている。そこにはお酒がなみなみと入っていた。それからそのカップの中身が空になる度に別の出店でお酒を注いでもらうのだ。私も似たようなカップを持っているが、ハサン様のそれとは色が違う。私のカップの中身はほんのり林檎味のする温かいお茶なのだが、きっとアルコールが入っているものとそうでないものを色分けしているのだろう。
「……ハサン様、それ何杯目ですか?」
「まだ五杯目だ」
「お酒お強いんですね……」
「そうかもな、気分はよくなるが泥酔したためしはない」
「……美味しいです?」
「駄目だぞ」
「一口だけ」
「駄目だ」
「ええ……っ」
珍しく頑ななハサン様に驚くが、そこまで駄目と言われると途端に魅力的に感じてしまうのは何故だろう。場の雰囲気に呑まれている自覚はあるが、どうにも止められなかった。
「ええ、とは何だ。ナディアが自分で苦手だと言っていたんだろうが」
「そうなんですけど、こう、空気に当てられたと言いますか。皆さん飲んでいますしハサン様がジュースみたいに飲むので、美味しそうに見えて……」
「……まず、匂いを嗅いでみろ」
仕方がないと言わんばかりの対応に少しだけ不満を覚えてしまうが、私の態度がそういうものであるので抗議はできない。とりあず傾けられたカップを嗅いでみるが、つんと鼻の奥に苦手なアルコールの匂いが染みてぱっと顔を離した。
「……やっぱり止めておきます」
「そうしなさい」
柔らかく笑うハサン様にどきりとして、けれどすぐにその子ども扱いに苦笑する。むきになって言い返すのも子どもっぽいし、そもそも私の言動が原因なのだからここは飲み込むのが正解だろう。
何か話題を変える術はないかと辺りを見回すと、ふと出店の店員と目が合った。
「お嬢様お嬢様! 隣の国の方ですか? でしたら、うちのゲームを一度はお試しあれ! 絶対に楽しいですよ!」
「えっと……」
「やってみればいい。ああいうのも、したことがないんだろう?」
「……はい、是非」
元気のよい掛け声に驚いてしまったものの、ハサン様が背中を押してくれたので出店に近寄る。この出店はほかの店よりも少しだけ大きく、五つの細工のされた台といくつかのボールが並んでいた。これが何なのかはまったく見当はつかないが、ゲームというからにはこの台で何かをするのだろう。
「あれ、閣下? こんな所に珍しい……って、え、そういうことです!?」
「止めろ、国賓だぞ」
「これはこれは、それはそれは、失礼をば……。ではお嬢様、こちらのゲームは初めてで?」
「ええ、どのようなものなのですか?」
店員はにんまりと笑ってゲームの説明をしてくれた。何だか舞台俳優を見ているような身振り手振りで楽しくなってくる。
「これは我が国の古典的な遊びの一つで、玉落としといいます。そこにレバーがあるでしょう、それを引っ張って放すとバネが玉をはじきます。昔は指ではじいたもんですけどね。はじかれた玉は通路を通りこちらの台にやってきて下に落ちていく訳ですが、下に落ちる前に台に空いている三つの穴に落とせば勝ちというゲームとなっております。しかしそれだけでは単純なので、台には見ての通り釘が打ち込まれており玉が穴に入らないよう邪魔をするのです」
「……難しそうですね」
「そうでもない、感覚的なゲームだ」
「閣下の仰る通り! 感覚と直感のゲームです、運がよければ子どもでも三つ全て入れてしまいますよ。一つでも入れれば景品をお渡ししますし、二つ、三つと景品はどんどん豪華になっていきます。一ゲーム五球、では張り切って参りましょう!」
店員がボールをセットしてくれたので、私は言われるがままにぽんとレバーを引いた。ボールは台に繋がっている通路を通らずに戻ってくる。
「……」
「……」
「お嬢様、もっと強く! レバーをもっと強く引くんです!」
「は、はい……!」
店員に励まされもう一度レバーを引くと、今度はちゃんとボールは台の方に行った。けれどそのまま下に落ちる。
「あー……」
「ああーっ惜しいっ! さあ第二球目!」
私はやはり言われるがままにレバーを引いた。二球目も三球目も下に落ちてしまったけれど、店員の励ましは逆に熱を帯びていく。客を飽きさせたり落胆させ過ぎない接客は素晴らしいが、ちょっと声が大きくて何だか楽しくなってきた。結局四球目も五球目も下に落ちてしまったが、こういう体験をするのは初めてだったのでとても面白かった。
「ふふ、駄目でしたね。でも楽しかったです、ありがとう」
「え、お……うん? ちょ、ちょっと待っていただけませんか、お嬢様。……あれー?」
さっきまで陽気だった店員が、何やら台の確認をし始めた。もしかして何か壊してしまったのだろうかと不安になってハサン様を見上げると、こそりと耳打ちをされる。
「こういった店では、必ず一つは入るように細工をしているから焦っているんだろう。……むしろどうやって外した?」
「し、知りませんわ、そんなこと……」
「うーん……。お嬢様!」
「ひゃっ、はい?」
「この台、ちょっと調子が悪いようでして、隣の台でもう一回やりましょう!」
「え、いえ、結構で……」
「お代は頂戴いたしませんから、是非! こちらなら絶対入りますから!」
「は、はあ……」
店員があんまりにも必死だったので台を移り、もう一度ゲームをすることになった。ハサン様もうんうんと頷いていたので、やった方がいいようだ。何だか恥ずかしいが仕方ない。
「では今度こそ! 張り切って参りましょうー!」
店員の掛け声と共に、レバーを引いた。きっと今度こそ一球は入るのだと思って。……そして結局、今回も一球も穴に入れることはできなかった。
「……っすー、ちょ、ちょっと、お待ちを。あの、すぐ戻りますので」
「いえあの、もう結構ですので……」
「お願いします! すぐ戻りますので!」
言うが早いか店員は裏に走って行って、複数の別の店員を連れて戻ってきた。今の内に逃げては駄目だろうかと思ったものの、本当にすぐだったので足を動かすこともできなかった。そして大人数で台を確認し始めるのだ。何か工具を持っている人もいる。困ってまたハサン様を見るが、彼も難しそうな顔で首を傾げている。
「……ハサン様、これって、できないとそんなにまずいことですか?」
「まずいというか、どうして一つも入らないのかが分からない……」
「そんなに……?」
「そんなだ」
二人でこそこそと話していると、また始めの店員が大袈裟に手を広げて大声を上げる。
「お嬢様、重ね重ね大変失礼いたしました! 今度こそ大丈夫ですとも、さあ!」
「え、ええ……」
嫌な予感がしつつも、私は台の前に立った。台には釘が追加されていて、ゲームの難易度がかなり低くされているように思う。
けれど……。
「……えっと」
「……」
「……」
「た、楽しかったですよ……?」
やっぱり私が弾いた玉は、穴に入ることなく全て下に落ちてしまった。もうやる前から何となくそんな気がしていたのだ。私はこれがとても下手なのだろう。でも、楽しかったのは本当だ。だから皆してそんな怪訝そうな顔をしないでほしい。シュネーが慰めるみたいに私の手を舐めてくれるが、何だか今はそれも辛い。
「あの、ハサン様、そろそろ行きましょう。お店にも迷惑ですから」
「……ナディア、ここまでくるともう逆に才能だぞ」
「仕方ないじゃないですか、得手不得手というのもがあります」
「君、何が得意なんだ」
「竪琴やダンスは、まあ、人並みに……」
「あんなにどんくさいのに、ダンスが踊れるのか……!?」
「ど……って、もう! 社交ダンスはあちらでは必須科目ですし、学院でも成績は上位でしたし講師の方にも褒められていたんですからね!」
「そうなのか、なら今度是非見せてくれ」
「……お断りします。さすがにそんなふうに言われて見せたいとは思えません」
そんなつもりはなかったのだが、私の言葉は自分でもひどく不機嫌に聞こえた。なんて無礼なことをしているのかと、お腹の底が冷えていくような気がする。しかし同時に、あんな言われようをしたのだからこの程度は許されるべきだ、などと傲慢な思いが湧き上がっているのも自覚して小さく身震いした。
「そ、そう怒ってくれるな、機嫌を直してほしい。詫びに何かを贈るから」
「別に怒っている訳ではございません。ですが、そのように見える態度をとってしまったのなら申し訳なく思います。それに贈り物はもうたくさん頂いておりますので、これ以上は受け取れませんわ」
「だが」
この失態をどう挽回をすればいいのか分からなくて、声は固いままだった。せっかくハサン様が話しかけてくれているのに、会話が頭に入って来ない。
ああ、こんな時、ナーシルがいてくれたら。けれど、ナーシルはハサン様の従者だ。無礼者だと言われてしまうかもしれない。叱られるくらいならいいが、不敬だと糾弾されてしまったら祖父母に迷惑がかかってしまう。……いや、違う。私は自身の保身を考える前に、まずハサン様に不愉快な思いをさせてしまったことを謝罪しなければならなくて……。
目の前がぐるぐるとする感覚に耐えながら考えていると、すぐそばでいきなりバン! と大きな音が鳴った。びっくりして音の鳴った方を向くと、そこには少し目の据わった店員がいる。おそらく彼が台を叩いたのだ。
「よし、分かりました。閣下、やりましょう!」
「……大丈夫なのか?」
「ケチがつくより上司に叱られた方が何百倍もましです。ただし、ボールは小さいの三つでお願いします」
「分かった。ナディア、少し待っていてくれ」
「え、は、はい。それは勿論……」
二人の話はよく分からなかったが、とりあずこれからハサン様もゲームをするようだ。その間にどうすべきかを考えようと呼吸を整える。シュネーがそっと足元に寄りかかってくれたからか、少しだけ気分はよくなった。
ハサン様が台の前に立つと、それにつられたのかイグニスも台に前脚をかけて立ち上がる。私も後ろから台を覗いた。ハサン様は慣れているらしく、特に迷うこともなくぽんぽんぽんと連続で玉を弾く。私がやった時と違って玉は綺麗に飛び出していき、そのままするりと穴に吸い込まれていった。
「わ、わぁ……っ」
「はいはい、全埋め! 知ってましたとも、おめでとうございまーす!」
店員が大きなベルを振ると、がらんがらんと大きな音が鳴った。全ての穴にボールが入った時の演出のようだ。同じ店内にいた人や通りを歩いている人からの視線が刺さる。
「すごいです、ハサン様。お得意なんですね」
「そうです、閣下は夜市のゲームで負けなしなんです。だからほとんどの出店で出禁になっておりまして。今回も一番難易度の高い台にお連れしたのに、危なげなく全部入れちゃうんですから。では、お好きな景品をどれでも一つどうぞ!」
「ナディア、その、景品でも駄目か?」
「え?」
「ここは経営母体が宝飾店だから、それなりのアクセサリーが置いてある。何か気に入ったものがあれば……」
「そうですよ、お嬢様。うちのアクセサリーたちだって、お嬢様みたいな愛らしい女性に着けてもらいたいに決まってるんですから、ね!?」
何故かしおらしいハサン様と店員の勢いの両方に呆気にとられる。しかし、と私は小さく頷いた。
「……では、ありがたくお言葉に甘えますね」
「ああ、そうしてくれ」
ハサン様がほっとしたように笑うので、私はまた少し胸が痛んだ。私のような者の機嫌取りなどすべきではない人に、こんなことをさせてしまった自分が嫌になる。けれどどうにか切り替えて、並んでいる景品を眺めた。
「そこにある、赤いネックレスを見せてくださる?」
「畏まりました、どれになさいます?」
「右から二番目の、それです」
「どうぞ」
差し出されたネックレスはとてもシンプルなデザインだったが、赤く丸い宝石がキラキラと輝いて美しかった。
「こちらになさいますか?」
「ええ、そうします」
「……おっ、大当たりー!」
「わ」
店員は興奮したように叫びながらまたベルを振った。ほかの店員たちも何故かぱちぱちと手を叩いている。困ってハサン様を振り向くと、彼も驚いたような顔でこちらを見ていた。
「さすがですね、お嬢様。素晴らしい審美眼を持っていらっしゃる。ほかのネックレスもちゃんとした宝石ですけれど、これだけは別格です。そもそもこれは古い秘石なんです。けれど光にかざすと複雑で美しい光の乱反射をするものですから秘石として消費されることなく、過去様々な権力者が手にしてきたという由緒正しい逸品なのです。お値段換算いたしますと、ざっとお屋敷が三軒建つくらいですかね。あ、ネックレス自体のデザインは流行りのものに変えちゃいました」
「そ、そんなものが何故、ゲームの景品に?」
「うちはそういう店なんです。景品の中にはいくつかの当たりと大当たりがあって、皆さんそれを目当てにゲームに参加されるんですよ。ここ数年大当たり出てなかったから本当にあるのか、なんて言われてましたけど証明ができてむしろよかったってもんです」
「はあ……」
何かとんでもないものを当ててしまったらしい。これはやはりハサン様に返すべきではないだろうか。
「あの、ハサン様……」
「せっかくだから、今着けるといい」
「え」
「そうですね、是非是非うちの宣伝をお願いします。そのネックレスは一点ものですが、デザインは同じものがいくつかございますので。ではまた、今度は宝飾店でお待ちしておりますね」
反論をする暇もなく、ネックレスはハサン様によって私の首に着けられた。シンプルなデザインだが、その分赤い秘石が映えている。
「ああ、よく似合っている」
ハサン様の声がひどく近くで聞こえて、頬が燃えるようだった。風は冷たいくらいなのに、顔が上げられないくらいには熱くて仕方がない。
「……ありがとうございます、ハサン様」
「いや、行こう」
「はい」
そのあともいくつかの出店を覗いて、私たちは夜市の一番奥までやってきた。少し開けた場所なので、シュネーたちは近くでちょこちょこと駆け回っている。
この夜市は高台に作られているので、奥には街並みが展望できるように手すりがかけられていた。夜だというのに街にはたくさんの明かりが灯っており、とても賑わっているようだった。
「綺麗……」
「ここからは王都が一望できるからな。あっち側にはこことはまた別の夜市があるが、ここよりも店も人も多い」
「ここよりもですか? ……アウローラ王国は、とても栄えているのですね」
「まあ、それもここ十年程の話だがな」
「え?」
「あ」
どういう意味だろうと振り向くと、ハサン様はどうしてだか口に手を当ててわざとらしく視線を外してきた。
「……あの、ハサン様?」
「いや、何でもない」
「何でもないって、何ですか? 話の続きが気になるのですが……」
「……つまらない話になるから、別の話題にしたい。よく言われるんだ、私の話は授業でも聞いているようだと」
「……聞いていけない話でないのなら、聞きたいです。駄目ですか?」
「駄目ではないが……。君も物好きだな」
ハサン様はそう言って困ったように笑った。私は、彼がたまに見せてくれるこの表情が好きだった。何かを許されているような気分になれるから。危険な勘違いだとは理解しているが、それでも好きなのだ。
「君は、この国の国王選出方法が兄の代で変わったことを知っているか?」
「いえ……」
「そうだろうな。公然の秘密とはいえ、秘密は秘密だ。……では、兄が国王になる以前には殺人や暴行が罪にならなかった、というのは?」
「い、いいえ……」
物騒な話題にも関わらず、ハサン様はやはり笑ったままだった。むしろ優しげにも見えるくらいだ。
「以前までのこの国では、王族という概念は存在しなかった。王か、それ以外。それだけだったんだ。王になれるのは、王の子どもの中で生き残ったたった一人だけだったからな」
「生き残った、とは?」
「言葉の通りだ。王は複数の伴侶を得ることができ、複数の子をもうける。そしてその子どもたちに殺し合いをさせ、生き残った一番に優秀な子どもが国王となる。前国王まではそうして王を選出していた。実際、我々の世代でも生存と王位をかけた争いは起こっていた。私と兄者の間には少なくとも八人の兄弟がいた筈だが、私たち以外は全員死んだ」
私は、一瞬だけ息を吸うのを止めてしまった。けれど、すぐにゆっくりと意識をして呼吸をする。この話は過去のことであるし、それを語るハサン様はとても穏やかだ。何よりこれは、この国の歴史だ。
「少なくともというのは、正式な妃でなかった人の子どもが数に入っていないからだ。記録も残っていないが、兄者いわく二人以上はいたそうだ。彼らも戦いに参加していたがやはり死んだ。……どこか他人事なのは、私が当時赤ん坊だったからだ。私はほかの兄弟とかなり年が離れていたから、兄者が選出方法を変えなければ普通に死んでいただろうな」
「……本当に他人事のようですね」
「ふっ、視界すらまだはっきり見えていない頃の話なんて覚えている筈がないからな。まあ、それでなんやかんやあって兄者は前国王を排し、ついでに反対する臣下たちも排し、国王になって私も生き残っている訳だが」
「ぜ、絶対そのなんやかんやにいろいろ詰まってますよね!?」
「詰まっているが、長くなるからなんやかんやで許せ。そして国王になった兄者は法律も多く変えた。殺人罪や暴行罪の新設、今まで有志や民間が担っていた安全や防犯の為の警備を国営にし、賄賂や詐欺などの罪を重くした。しかしそれらと福祉の拡充も同時におこなったことで金が飛ぶように消えていってな、反発も多かった。私の子ども時代など、王宮ですらぼろぼろでみすぼらしいものだった」
「今のアウローラからは想像もできません……」
「ああ、兄者は頑なに諦めなかったからな。私も八歳頃から王族なんだからと方々に使いに出された。……当時は皆走り回っていた、その結果がこれだ。課題も問題もまだ多いが、見られるようにはなっただろう」
ハサン様は満足げに街並みを眺めた。きっと、私では想像もできないような苦労をいくつも乗り越えてきたのだろう。
「そんな訳で、国民の生活がここまで完全に整ったのはここ十年程だろうな。特に夜市なんかは十年前くらいからぽんぽんできていって、視察が間に合わないくらいだったからよく覚えている」
「ふふ、大変だったんですね」
「まあそうだな、大変だった。夜市の視察が必要になる頃よりずっと前だが、何度も投げ出してやろうと思ったな」
「……そうなんですか?」
「そもそもこの国には、王族という概念が根付いていなかったからな。私の存在自体を否定されることも多かった。それで本当に計画を立てて逃げ出しかけたこともある」
「え……!?」
「ははっ、結局止めた。……止めてよかったと、心から思っている。あの時逃げ出さずにいたから、きっと私は私として生きていられる」
ハサン様の横顔を見ながら、私は理解した。この人は、私がなりたかったものそのものなのだ。どんな困難があっても逃げ出さず、兄弟と支え合って、その結果人から評価をされて。……私も、こうなりたかったのだ。逃げ出さずに苦難に立ち向かって、そして報われたかった。
「ああ、そういえばこれは知っているかもしれないが、兄者の母君も亡くなっているし私の母も死んでいる。兄者の方は十年前まで元気だったが、私の母は私を産んだ翌日に自ら身を投げた」
「……あ、あの、それはそんなに軽々しく言っていいことではないのでは?」
「そうか? ……そうだな、寿命や病気と自殺では意味合いが違ってくるしな」
「そ、そうではなく、まあ、そうかもしれませんが」
「ただまあ、当時は珍しいことではなかった。私の母は王の子を産んだ重責に耐え切れなかったらしい。王位を奪い合う戦いには親の力もかなり重要になってくる上に、子が殺されればその親も大体殺されるからな」
「でも、先にお母様が亡くなったのなら、ではその子は」
「親の生家が後ろ盾になれるが、まあそれで生き残れた者はいないな」
「そんな……」
「だが、私が母を責めたところでどうにもならんだろう。健康な体は与えられ、しかも運は私の味方だった。それをこれからどう使うかは、私次第ということだ」
「……素晴らしいお考えですわ」
何でもないようにハサン様は笑った。私よりもずっと壮絶な生い立ちを、けれどもう懐かしんでいるかのように。
……私とハサン様の違いは、何なのだろう。能力の差だろうか、意気地のなさだろうか、それ以外のたくさんの違いもあるけれど、決定的なものはどれだろう。そんなどうしようもないことを考えながら、私はゆるく手を握った。