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7/11

7,大量の贈り物と夜遊びへの誘い

 あの火事から一ヶ月が経ち、けれど私はまだアウローラ王国の王宮に滞在していた。そして――



「ハサン様、今更ですが、ナーシルに言われないと食事を摂らないというのはどうかと思うんです」

「本っ当、それなんですよ。ナディア様、もっと言ってやってください」

「今更だろう」



 私は未だにハサン様と昼食を食べていた。本日のメニューは香辛料たっぷりのカレーだ。甘めのナンがとても美味しい。自国にもカレーはあるがライスで食べるのが一般的だし、味付けも随分と違う。


 昼食は今日のようにナーシルが一緒の時もあるが、彼は彼で従者仲間と食べたり仕事で時間が合わなかったりとするので二人で食べることもしばしばだった。祖母はまだ王妃についており王宮にはおらず、祖父は教え子たちと昼食を摂るので私としても昼食を一緒に食べることに問題はない。それでも一応、一度は言っておこうと思ったのだ。


 ちなみにシュネーとイグニスは部屋の隅で丸くなって眠っていた。今は離れているが最近ではシュネーがイグニスを枕にしたり、布を引っ張り合って遊んだり追いかけっこをする程度にはいつの間にか仲良しになったらしい。



「この国で、食事は大切な時間ではないですか?」

「人と食べるのはな」

「ほら、聞きました、ナディア様? あの人、このなりで寂しがりなんですよ? 一人でご飯食べるの苦手なんです」

「ああ……」

「おい、聞こえてるぞ」

「聞こえるように言ってんですから、そりゃそうでしょうよ」

「お前な……」

「あっ顔こわっ」



 ナーシルは笑いながら自分の食器を手早く片付けると「自分、ちょっと仕事があるんで、ついでに休憩もしてくるんで」と出て行ってしまった。ハサン様はそれを苦い顔をして見送る。この二人のやりとりは祖父母の次に面白くてつい笑ってしまう。



「ん、ふふ」

「ナディア?」

「まあ、ごめんなさい」

「はあ……。まあいいが」

「ふふ、いじけないでくださいな」

「いじけている訳じゃない」

「では、怒っていらっしゃる?」

「そういうことでは……」

「ハサン様が心配だという話ですわ」

「昼食を抜いたくらいで死にはしないんだがな」

「もう、そういうことではないって分かっているくせに」



 わざとらしくむくれた顔を作ると、ハサン様は小さく笑って私のグラスにラッシーを注いでくれた。



「ナディアこそ、そう怒ってくれるな。どうせ暫くはまだこちらにいるんだ、もう少し私の昼食に付き合ってくれ」



 まだ暫く、というのは二ヶ月後に決まった王子の生誕祭までの間のことだ。祖父母と私は生誕祭に招待されたので、少なくともそれが終わるまでは王宮でお世話になることになっている。



「わたくしも一人で昼食を食べないで済むのでいいのですけれど、わたくしが帰国したあとはどうなさるおつもりですか?」

「それはまあ、その時に考えるさ」

「ふふ、ナーシルは苦労しますね」

「奴はわざと苦労するのが好きだから丁度いいんだ」



 あっけらかんとそう言いながら、ハサン様は食事を続けた。きっと二人にしか分からない絆のようなものがあるのだろう。しかしあんまりにもな言い様に、私はまた笑ってしまった。



「ふふっ、もうハサン様ったら、ナーシルが大変じゃないですか」

「君、よく笑うようになったな」

「え?」

「初めは可哀想なくらいに緊張をしていてどうしたものかと思ったが、今は楽しそうでなによりだ」

「ええ、ありがとうございます。この国の皆さんが親切にしてくださるからですわ」

「……」

「ハサン様?」

「その、なんだ……。君の言う親切な人の中に、私は入っているだろうか?」



 ハサン様が珍しく言いづらそうにしていたので、何かと思って身構えていた私はまた笑いを堪えることができなくなった。しかしこれはハサン様が悪いと思う。



「んっふふふ、勿論、ハサン様が筆頭ですわ」

「……そうか、ならいい」



 そう呟くハサン様がどうしてだか面白くて、私はそのあともずっとくすくすと笑っていた。しかしハサン様はそんな私に文句をつけるでもなく、話を続ける。……あの伯爵家ではあり得なかったことだなあとふいに思い出して、そういえば最近はあの家のことを考える時間が減ったことに気づいた。けれどそれもすぐにどうでもよくなるくらいには、ハサン様との昼食は楽しいものだった。


―――


 ハサン様との昼食を終えると、私はシュネーと運動場に行ったり書庫で本を読んだり室内庭園でお茶をしたりする。仕事も勉強もしていない現状が心苦しかったが、国王直々に「前に火事を消すのを手伝ってくれたんだろう? それにあのハサンに昼食を食べさせてくれているなら、それはもう立派な仕事だぞ。あとそういえば、うちの文化に興味があると言っていただろう。なら午前中は家庭教師をつけような」と配慮までさせてしまった分、そんなことはもう言えなかった。


 ……どちらにしろ、これは旅行だ。非日常的で特別な体験をしているだけにすぎない。ならば祖父たちを見習って、ありがたく楽しんでしまおうと決めた。終わりはいずれやってくる、だからこそこの楽しさをしっかり覚えておきたかった。


 夕食はいつも祖父と食べておりそろそろその時間の筈だが、今日は何故か侍女たちが慌ただしく大きな箱を何個も私の部屋に運び込んでいる。



「……あの、アメナ? それは一体、何なのですか?」

「え? ナディア様のお衣装と靴と装飾品じゃないですか」

「え?」

「えってなんです?」

「……そんなにたくさん?」

「ええ、これ全部ですよ。というか、まだあります」

「え?」

「え?」



 私とアメナは暫く見つめ合って固まった。けれどその間もぞくぞくと運び込まれる箱に、私は誕生日の朝を思い出す。あの時も、めいっぱいの箱が部屋を埋め尽くしていた。


 おそらくこれらは、王宮に来る前に祖母が作らせると言ったフルオーダーの衣装なのだろう。一度採寸をしてしまえば、そのサイズでいくつもの衣装を作るのは可能だ。それに付属する靴や装飾品も合わせればこの程度にはなってしまうのだろう。



「お爺様たちね……」

「ああ、違いますよ。ええっと、国王陛下と王妃殿下と王弟閣下からの分もありますね」

「ど、どうして?」

「さあ、あたしに聞かれましても……」

「……何か、よく分からないですけど。本当に、何故か面白がられている気配を感じます」

「それは絶対にそうですね!」

「アメナ!」



 楽しそうにそう言うアメナに反射的に大声を上げてしまったけれど、彼女は何も気にしていないようにくすくすと笑う。



「いいじゃないですか、ナディア様の衣装部屋が貧相だったのは事実です!」

「ひ、貧相って……」

「貧相でした。確かに作りはいいものばかりでしたけど既製品ですし、何より衣装も装飾品も靴も全部少ない。とても上流階級のお嬢様の衣装部屋とは思えません。あたしたちも仕事が少なくてつまらなかったです」

「そう、なの……?」

「そうです」



 衣装部屋が貧相などとは初めて言われたが、しかしそんなことにショックを受けている場合でもなかった。



「アメナ、こちらではこのような贈り物をされた時はどうしたらいいのかしら。わたくしの国ではお礼の手紙を書いたり、領地の特産物を贈ったりするのだけれど。特に王妃殿下にはお会いしたこともなくて……」

「ええ……? 次お会いした時に、ありがとうございますって言えばいいと思いますよ。あ、笑顔は絶対で、贈られたものは身に着けていてくださいね」

「え?」

「むしろ送り主が王族なので、この程度で畏まっちゃ駄目です。びっくりされますよ?」

「王族なのに!?」

「王族だからです!」



 アメナは困ったように眉をひそめて、腰に手を当てた。



「贈られたリストを見るに全っ部ちゃんと超高級品ですけど、我が国の王族方からすれば些末な金額です。土地とかもらった訳じゃないんですからね。それを『こんなに大変いいものを……』みたいに言ったり丁寧に手紙を書いたりするのは逆に嫌味っぽいです。まあナディア様の場合は、お爺様であるカエルム卿と一緒にお礼を言いにいってもいいかもしれませんね?」

「そうします……。あ、ですが、王妃殿下はどうしましょう……?」

「ああ、それはさすがにお手紙でいいと思いますが、こう、フランクな感じで」

「お会いしたこともないのに……っ」

「あたしでよければ添削しますから……。あ、あと明日の朝に家庭教師に見てもらえばいいじゃないですか」

「……そうね、そうしましょう。ありがとう、アメナ。少し落ち着きました」

「いいんですよ。ナディア様は最近こちらにとても慣れてきていらっしゃるから、文化や常識が違うことがあるってあたしも忘れてしまっていました。分からないことはこれからもどんどん聞いてくださいね」

「ええ、ありがとう」



 ぱっと笑うアメナは本当に頼もしく、気がよく利く素晴らしい侍女だった。ここが自国であれば、きっと駄目元であっても自家の侍女として働いてくれないかと聞いたことだろう。しかし彼女はこの国の人だ。彼女が隣国まで行かなければならない義理はないだろうし、もし来てくれたとしても私自身、生国から離れる彼女の人生に責任が持てる程の器ではない。小さな願望や我儘は、理性で隠して美しく微笑むのが貴族の嗜みなのである。


 そうこうしている間に荷物は全て運び込まれたようだった。どれから開けようかと侍女たちと話していると、こんこんと扉が叩かれる。



「こんな時間にどなたでしょう? ナディア様、少々お待ちくださいね」

「ええ」



 夕食前の時間に私の部屋を訪ねてくる人なんて今までいなかった。少し不審に思いながらもアメナが代表して扉を開けて対応してくれることになり、部屋の中に僅かな緊迫感が漂う。しかし、彼女の「きゃあ!」という小さな悲鳴で侍女たちが一斉に使徒を呼ぶ。彼女たちは侍女であると同時に話者であり護衛も兼ねていると国王に言われてはいたが、こういうことだったのかと驚いた。


 けれど何故か私は驚いただけで、恐怖は感じなかった。侍女たちを信頼しているのもあるが、シュネーがのんびりと欠伸をしながらベッドから降りて来たからかもしれない。



「ナ、ナディア様っ、王妃殿下とカエルム夫人がお見えです!」

「……え?」

「初めまして、ナディア。驚かせてしまったかしら。あら、シャーロットの言う通り可愛らしい子ね」

「ほほほ、そうでしょう、光栄ですわ。ねえナディア、お久しぶりね。今、こちらに戻ったのよ。ああ、こちらはマリアム・アウローラ王妃殿下ですよ」



 そう言って入室してきたのは、祖母と王妃だった。王妃に直接会ったことはなかったが、彼女の肖像画は王宮内にいくつか飾られているので知っている。


 理解が追い付かず、一瞬だけぼんやりしてしまったものの急いで姿勢を正し礼をとる。自国とこの国の礼の仕方が同じで助かった。



「お会いできて光栄でございます、王妃殿下。ナディア・カエルムと申します。この度は王子殿下のご生誕、心よりお祝い申し上げます」

「まああっ、噂に違わず本当に礼儀正しいのね。小動物みたいっ」

「おほほほ」

「……シャーロットは嬉しそうね」

「ええ、当然ですわ。マリアム様も孫ができれば分かりますよ」

「まず子育てを終えないといけないわよ」



 あまりにも気安く会話をする二人にひやりとしたものを覚えるけれど、この国では普通のことなのだろう。そもそも祖父と国王だってこんな感じだ。……私とハサン様だってはたから見ればこうなのかもしれない。



「あら、この贈り物たち今届いたの? まだ開けてない? じゃあ今から開けましょう、ファッションショーよ!」

「ファ、え?」

「ファッションショー、ナディアは知らない? たくさんの人が衣装を着ている姿を見せてその衣装やデザインを売りつける手法よ。分かっているのだけれどお財布の紐がつい緩んじゃうのよね。でも今日は貴女が一人でここでやるの。つまりね?」

「は、はあ……」



 ぐいぐいと近づいてくる美貌の王妃に、いけないと思いつつ後ずさってしまう。だって何故か、王妃の目が血走っているように見えるのだ。



「今から貴女は、私とシャーロットの着せ替え人形さんってこと」

「頑張ったらお婆様が美味しいチョコレート細工をあげますからね」

「私からはいろんなアイスをケースであげるわ。暫く食べきれないくらいのやつ。ああ、侍女たちと一緒に食べたらいいのよ。女同士できっと楽しいお茶会になるわ。ねえ、だからナディア、頑張ってね」

「はわ……」



 王妃だけでなく祖母にまでがしりと肩を掴まれた私の口からは、意味のない変な音が漏れただけだった。


―――


 何時間経ったのだろう、それとも数十分程だったのだろうか、けれどようやく私は解放されたらしい。もうあまりにも疲れて無作法であることに気を回していられず、自身の両手を握ってソファに座り込んでしまった。王妃の御前であるのに、こんな無礼が許されるこの国の懐の深さには感動するしかない。



「まあ、ナディア。疲れたかしら、ごめんなさいね。でもとっても楽しかったわ、私の娘たちはこういうことやらせてくれないのよ」

「い、いえ、お役に立てて、幸いです……?」

「お婆様も楽しかったわ、ナディア。やっぱり仕立てのものが一番ですよ。本当によく似合っているわ」

「はい、ありがとうございます、お婆様……」



 何着もの衣装を着替え、その度に装飾品と靴を替え、しかし一度では決まらずに更には髪型や化粧の雰囲気まで変えて、もう私は疲れ切ってしまっていた。シュネーが足元でふんふんと興味深そうに靴の匂いを嗅いでいるのが、僅かな癒しだ。



「あら、もうこんな時間、あの子の所に戻らないと。あの人の所にも行かないと煩いでしょうし、まったく面倒な人なんだから」

「ほほ、愛されていると時にそういうこともありますわ」

「ふふ、経験者の意見は貴重ね。では、もう行くわ。ナディア、今日は本当にありがとう。出産前後で溜まっていた買い物欲が発散できて楽しかったわ。それから、私のことはマリアムと呼んで頂戴ね」

「はい、マリアム様。素敵な衣装をありがとうございました」

「あら、ふふ、いいのよ。でもいっぱい着て、たくさん私に見せてね。これから仲良くしてくれたら嬉しいわ」

「ええ、是非」



 疲れ切ってはいたものの、どうにか立ち上がり笑顔でマリアム様を見送ることはできた。そしてその扉が閉まったと同時に、私はまたゆっくりとソファに座り込む。



「はあぁぁぁ……」

「あらあら、ナディア、疲れてしまったの? でも一ヶ月前の採寸の時よりもずっとしっかり立てていたわ。少し体力がついたみたいね」

「……お婆様、どうしてお戻りを教えてくださらなかったのですか?」

「あら駄目よ、そんなの。驚かせることができなくなるじゃないの」

「もう、お婆様ったら……」



 くすりと笑いが込み上げてくる。そういえばそうだ。祖父があんまりにも愉快な人だから忘れがちになってしまうが、祖母だってこういうお茶目なところのある人だった。



「ナディア、貴女……」

「はい、何でしょうお婆様?」

「……いえ、そんなに柔らかく笑えるようになったのだと、少し驚いてしまったの。この一ヶ月は楽しかった? 手紙は何度かもらいましたが、貴女からも直接聞きたいわ」

「ええ、勿論。わたくしもお婆様のお話が聞きたいです」

「それはお爺様も交ざっていいかなあ!?」



 いきなりに響く聞きなれた声に、部屋にいる皆が扉を振り返った。祖母だけだ「あら」と少しだけ煩わしそうに言ったけれど、表情は穏やかだ。それに対し、扉を少しだけ開けて顔を覗かせている祖父の顔は萎れている。



「何です、貴方。さすがに非常識ですわよ」

「儂ずっと待ってたのに、ずっと待ってたのに、誰も呼んでくれないんだもん!」

「当たり前ではなくて? 男子禁制です。ねえ、ナディア」

「そうですね。着替えの時間などもありますし、さすがにちょっと」

「酷い! 妻と孫が儂に冷たい! それにしてもナディアはその服似合ってるね!」

「ふふっ、ありがとうございます」

「はいはい、お夕食にしましょうね」



 久しぶりに三人で食べた夕食はやはり賑やかで、私は笑うのを止められなかった。祖父母はそんな私を止めなかったが、自国では口を開けてたくさん笑うことはあまりよい印象でないので帰る前には直さなければならないだろう。……でも、今はまだ。今だけだから。


―――


 大量の贈り物が届いた翌日の昼食時、私はハサン様にこう切り出した。



「贈り物は嬉しかったんですけど、さすがにハサン様くらいは先に教えてくれていてもよかったと思うんです」



 食事自体はほとんど終わっていて、あとはデザートのプディングを残すのみだ。ナーシルはどこかに行ってしまって、シュネーたちはやっぱりのんびりと昼寝をしている。


 大量の贈り物は確かに嬉しかった。けれど同時にどう対応すべきなのか分からず、とても困ったのも事実だ。今朝は国王に時間を取ってもらい、祖父と一緒にお礼を言いにいったが「律儀だな」と笑われてしまった。せめてハサン様が先にこっそり教えてくれていれば、もっと事前に準備ができたのにと私は彼を少し恨んでいた。


 そんな私の理不尽な言葉に、ハサン様は困ったように笑った。



「馬鹿を言え、話せば全てが明るみになって私が詰られるだろう」

「それはそうかもしれないですけど、驚いたんですからね。こういう時のお礼の作法とかはまだ習っていなかったんですから」

「実践できてよかったじゃないか」

「……ハサン様、ああ言えばこう言うとか屁理屈ばかりとかって言われません?」

「……そうだな、たまに」



 私たちは少しだけ見つめ合って、同じくらいのタイミングで小さく吹き出した。軽口を言い合いながら食べるプディングは、自国のものより随分甘い。



「だが、さすがは義姉上と夫人の見立てだな。女性の装いには詳しくないがよく似合っているのは分かる。……そうだ、せっかくだから夜市にでも行くか」

「夜市、ですか? この前連れて行ってくださった、ランプ市のような?」



 ハサン様が以前観光で連れて行ってくれたランプ市は、その場所自体がとても美しかった。色とりどりの硝子で作られたランプはどれも同じものがなく、しかも光源が秘石なのだ。この国には火を操る使徒が多く、火の秘石も安価で取引されているからできることなのだと思う。


 あの時は結局選びきれなくて、何も買わずに帰ってきてしまったのだ。経済を動かすという観点からはよくなかったが、買わなくて正解だったのだろうとも思っている。あんなに繊細にできた美しいランプを壊さずに自国へ持ち帰ることは難しく、またもし壊れてしまったらきっと私はすごく落ち込んだだろうから。



「いや、ランプ市は暗くした室内でただランプ屋が並んでいるだけだろう。夜市はその名の通り、夜にやる市だ。食べ物や娯楽の屋台が出店している」

「お祭り、のような?」

「祭り……。まあ、賑やかは賑やかだな。行ってみれば分かる」

「はあ……」



 そもそも食べ物や娯楽の屋台というものが分からない。自国でもそういった催しがあることは知っているが、それらは平民たちの楽しむ場であって貴族がそこに割って入るのはよくないことだとされている。自領の祭事であっても平民のものであれば、領主は出資だけするのが作法だった。


 行けば分かるというのは確かにそうなのだろうけど、あまりにも未知のものすぎて不安を覚えるのが正しいことなのかすら判断できない。ハサン様はそんな私の目を覗き込んできた。



「何だ、気乗りしないのか?」

「そういう訳ではありません。ただ想像があまりできなくて、夜に外出するのもあまりしたことがないですし……」

「君、この国に来て何をしていたんだ」

「え」



 突然の厳しい言葉に顔を上げると、ハサン様は不思議そうな表情を隠しもせずに顎に手を当てた。怒ってはいないようだけれど、ハサン様はたまに言葉選びが壊滅的に下手な時がある。ナーシルも似たようなことを言っていたから、自国での常識ではなくこちらでもそうなのだ。


 ハサン様の独特な言葉選びにはどきりとさせられることも多いが、最近では慣れて来てもいる。今回もただ本当に疑問に思っただけなのだろう。



「王宮に来る前にカエルム夫妻と観光していたと聞いていたから夜遊びくらいはしているものだとばかり思っていたが、まさかまったくしていないのか?」

「よ、夜遊びですか?」

「ん、ああ、そちらでは確かあまりいい言葉じゃないのだったか? まあ、いい。アウローラでの夜遊びというものを教えてやろう。今夜行くぞ」

「今夜!?」

「何でもそうだが、こうと決めたのなら実行は早い方がいい。カエルム卿には私から言っておく」

「はあ……」



 やっぱりよく分からないが、ハサン様は何やらやる気になったらしい。こうなったハサン様は止められないことが多いので、私は大人しく頷いて残りのプディングを飲み込んだ。まあ、どこに連れて行かれるにせよ、ハサン様がいるなら問題はないのだろう。夜遊びという単語が気になりはするし、決行が今夜だというのも驚いたが別に拒否するようなことでもなかった。


―――


 陽が落ちて夜と呼べる時間になる頃、私はハサン様と夜市の入り口に立っていた。この国では陽が落ちた途端に冷えるが、厚手のショールをぐるぐる巻きにされたので寒くはない。しかし私をぐるぐる巻きにした張本人のハサン様は自分でそうしたにも関わらず、その姿に吹き出すという失礼極まりないことをしでかしてくれたので、これは絶対に明日ナーシルに言いつけてやろうと決意した。怒られればいいと思う。全然気にしていないように見えるが、ハサン様は実はナーシルに叱られるのはあまり好きではないようなので一定の効果はある。


 ちなみにナーシルは今はいない。何でも今日は親戚が一堂に会する日だったそうで、実家に帰っているらしい。ナーシルの実家は王都からかなり遠いらしいが、秘術で転移することが当たり前のこの国では夕食だけ食べて帰ってくることも可能だ。


 ハサン様の従者であるナーシルはいないが、勿論護衛はついているらしい。護衛たちも当然のように話者であるので、すぐ傍についている訳ではなく一定の距離を保つことが可能だそうだ。行動がしやすくて助かっている。


 仕方がないのでショールを自分で直しながら夜市を覗くと、そこは夜の屋外であるというのに煌々と明かりが灯っおり何とも賑やかな雰囲気だった。木製の簡素な小さな建物がいくつも並んでおり、おそらくその中で食べ物などを売っているようだ。そしてそれを見ている人や実際に買っている人などもいて、とても賑わっている。



「……お祭り、ですね?」

「まあ空気感は似ているな。だが、夜市は毎日やっているものだぞ」

「毎日これを?」



 祭りというものは、準備期間や資金がかなり必要になってくる。夜市が祭りではないとしても、この規模の人が毎日集まっているというのなら、どちらにしろかなり大きな経済活動だろう。どういう運営をしているのか気になりつつも、私は素直に驚いた。


 シュネーも人の多さに落ち着かないのか、私の足元でうろうろとしている。イグニスはさすがに慣れているのかいつも通りだったが、そわそわしているシュネーの後ろについてやっぱり行ったり来たりしていた。



「こういった夜市は全国的にあって、ここで夕食を済ませる国民も多い。友人や家族と来る者も多いが“席隣り合わせれば友”と言って、こういった場で交友関係を広げるんだ。やり手の物売りが夜市で営業をかけて一財産築いたなんて昔話もある」

「アウローラ王国では、昔から根付いているものなのですね」

「そうだな。現在は秘術の発展が著しく日中でも外を出歩けるようになったが、昔は陽が上っている時間は人が活動できるような環境ではなかった。日中は日陰で物を作り夜に売るというのはこの国では合理的だったんだ」



 そこまで聞けばやっと納得ができた。自国ではほとんどの商店が日中に開き、そして夜が深まれば閉じる。夜に開いているのは酒場くらいだ。しかしどちらにしろ貴族である私自身は商店そのものを利用したことがないので、すぐにこの国独自の商店の在り方に考えが及ばなかった。環境が変われば在り方も変わる、これはとてもよい勉強になったと小さな感動を覚える。



「あまり歴史の話ばかりしていると、ナーシルあたりが煩いだろうからもう行こう。食べたいものや見たい店があれば言ってくれ」

「はい。あ、でもハサン様、ああいったお店でのし――っぷ」



 支払いはどうなっているのですか、と聞こうとした私の口を何か大きなものが塞いだ。痛くはないが、いきなりに顔半分を覆われてぎゅうと眉を顰める。けれどそれをやった張本人が、今度はとても焦った表情をしていたので抵抗するのはやめておいた。



「……分かった、伝えていなかった私が悪い。今から説明する。だが、こういった場所で金の話は野暮だ。絶対に口にするな、頼むから」



 ハサン様があんまりにも必死に言うので、私は静かにこくこくと首を縦に振った。そっと顔から外れていく手の大きさに改めて体格差を感じるが、今はそんなことを考えている場合ではなさそうだ。


 ハサン様は神妙な顔で話を続けた。



「夜市は本来幅広い者に開けており、都度払いが基本だ。しかしここは兄が自分も好きな時に来れるようにと作らせた夜市でな、出店者も来場者もかなり厳選されている。来場者はいちいち財布を持たない層の者も多いから、あとから請求が家に来るようになっている。ちなみに我が国には夜市に限らず明らかな身分や貧富の差がある者たちが一緒に食事などをする場合、必ず目上の者が支払うという風習がある。……家庭教師がついたと聞いていたが、このあたりはまだ習っていないのか?」

「はい、どちらかというと世俗よりも歴史や芸術文化の方が主でして……。お金の話は基本的にあまりよくない話題ということですか?」

「場合によるが、こういった場ではよくないな」

「分かりました、気をつけます」



 ハサン様の様子にかなり深刻なマナー違反であることを察するが、何にせよやってしまったあとでなくて助かった。ここにいる人がいくら厳選されていようとも、人の口に戸は立てられない。どこで誰が何を聞いていて、いつかどこかで会った際の笑い話にされてはたまらないのだ。少し慣れてきたと思ったらこんな調子で困る。明日からは家庭教師にこの国の世俗のことや、子どもでも知っているようなマナーを教えてもらえるように頼もうと私は小さく頷いた。


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