6,観光の最終日とハプニング
「ナディア、君、どんくさいな」
「ど……っ」
湖以上に大きなオアシスに浮かべた小さな木船から降りようとしてふらつき、それをハサン様が受け止めてくれた。しかし次の瞬間放たれた言葉に、私はひどく衝撃を受けた。先に降りていたナーシルが慌てたように口を開く。
「ハサン様、そういうことはずけずけと言うもんじゃないんですよ」
「しかしな……」
「どん……ど、どんく……っ」
「ほらぁ、さすがのナディア様もショックで固まっちゃったじゃないですか。ハサン様のせいですよ」
「いやだが事実だぞ、ナディア。自覚すべきだ」
「……はぃ」
「いや、言い返していいですからね、ナディア様。その……たとえ事実であっても失礼だって怒る権利はありますよ?」
「ぃぇ……」
私はもう半分以上泣きながら、小さく頷いた。どんくさいなんて、初めて言われてしまった。けれどそれは事実らしい。
国王が王妃の実家から王宮に戻った次の日から、私とハサン様の本格的な観光が始まった。今までも観光だったと思うのだけれど、国王が「ちゃんとした、本格的な」と繰り返し言うのでそうらしい。沢山の灯りをともしたランプ市や雨乞いの祭り、ラクダに乗って街の名所の説明を聞いたり国内各地の名物料理を食べたり古典的な歌舞演劇を見たりと、忙しさに目が回るくらいには楽しい時間だった。
そして今日は、ハサン様が私の観光に付き合ってくれる最終日だ。最後はできればゆったりと過ごしたいと言ってみたところ、大きなオアシスのほとりで涼みながら音楽鑑賞をすることになった。この大きなオアシスは周辺にいくつか小さなオアシスが点在しており、ここを含め各オアシスにはロッジが併設していた。食事や宿泊に使えるそうで、小舟に乗ったあとはそこで音楽を聴く予定だ。
「気をつけます……」
「気をつけるのはいいが、ああほら、この辺りは砂に足を取られるから掴まりなさい」
「だっ、大丈夫ですよ。さっきも歩いてきましたし……」
「いいから」
「あ、もうっ」
「もうじゃないっ」
大丈夫だと言ったのに、ハサン様は私の手を取った。確かにサラサラの砂の上は歩きづらいが、船に乗る前にだってゆっくりではあったけれどちゃんと一人で歩いたというのにまるで子ども扱いだ。さすがに抗議をしようとすると、後ろから笑い声が聞こえてきた。
「っく、くくく……」
「ナーシル、何を笑っている」
「くっくく、いや、いいえ、とんでもない。ただそうですね、ご兄妹のようだなあって」
「……兄妹ですか?」
「ええ、心配性の兄君とそれを鬱陶しがる妹君って感じですね!」
言い終わるとナーシルは耐えられないとばかりに笑い出す。どう返すべきなのか分からず困惑したままハサン様の方を向くと、彼も困ったような表情でこちらを向いていた。
「ひぃひぃ、はー、もうすっかり打ち解けていらっしゃいますね。ついこの前会ったばかりとは思えません」
「それはそんなに笑えることなのか?」
「いや、めちゃくちゃ面白いですよ。これは陛下に報告書出さないといけないレベルです」
「止めろ。だが、まあ……」
ハサン様はまたこちらを見て、ふっと笑った。優しげな雰囲気にどきりとするが、それも仕方のないことだ。我が国でもアウローラ王国の王弟閣下は美丈夫なのだと有名だった。普段は意識しないようにしているが、ふとした時にそれを思い出してしまう。しかし、次の言葉で全てが台無しになった。
「確かにナディアは手のかかるどんくさい妹という感じがするな」
「ど……っ!」
私はもう一度絶句して、きっとハサン様を睨みつけた。王族を睨みつけるなんてそんなことを自身がするなんて、そんなことこの国に来るまでは想像したこともない。けれど、この国では許されるのだ。私が睨んだところで当たり前のようにハサン様は動じていないし、むしろにやにやと笑っているがそれも少し腹立たしかった。こういったことを感じて、それを表に出すことも許されている。この国は、ある一定の関係値を持った相手に寛容だった。
「おっ、いいですよ、ナディア様。ほら、言い返していいんですよ!」
「わ……ぅ……」
「何だ、言わないと分からないぞ」
二人がかりで囃し立てられ、そこにも子ども扱いを感じ羞恥を覚えたが負けずに口を開く。この国は寛容だが、黙っていてはいけない。それを教えられっぱなしの一週間だった。
「……な」
「な?」
「何度も、どんくさいって言わないでください……っ」
「よし、よく言った!」
「できたじゃないですか、素晴らしい!」
こうやって大袈裟に褒められるのも恥ずかしいのだが、彼らなりのこれは気遣いだ。実際、彼らからすれば私は意思表示のできない子どもにでも見えているのだろうと思えば諦めもつく。そもそもハサン様があんなことを言わなければこんなことにはならなかったのにと恨めしさを込めて見つめると、何も分かっていないであろう彼は一つだけうんと頷いた。
「だが、ここは危ないから掴まっておきなさい」
「……はい」
「あははっ、不満そうー。ま、じゃあ自分は先にロッジに行っていろいろ準備してきますね。転ばないように気をつけて来てくださいねー」
ナーシルはそれだけ言って、足を取られる砂の上をさくさくと走っていってしまった。さすがは地元民だ。私ももう少し長く住めば、できるようになるのだろうか。ハサン様に掴まってやっとまともに歩けている私では、いつになるか分からないけれど。
「でも、兄妹ということは、ハサン様がわたくしのお兄様ということなのでしょうか?」
「君、自分が私より年上だという錯覚でも起こしているのか?」
「そんなことはありません。ただわたくし、妹はいたのですが、上に兄姉はいなかったので新鮮で」
「……妹? カエルム卿からは聞いていなかったがいるのか」
「ああえっと、腹違いの妹でして祖父母とは血の繋がりがないのです。訳あって、わたくしは祖父母の籍に移りましたので、それで……」
「私も兄とは腹違いだし、弟妹はいなかった。甥姪はいるが、甥姪は甥姪だからな。妹分というのも初めてだ」
「……ふふ、一緒ですね」
ハサン様は、私が言い淀むといつもすぐに話題を変えてくれる。話したくないことは話さなくていい、そう言えばいいと言われているのに、いつまでもそうできない私を気遣ってくれているのだ。……気を遣われている。以前の私ならばその事実に狼狽えただろうけれど、今はひどくこの空気が心地よかった。甘え続けることがいけないことなのは理解している。それでも今だけはと気が緩んでしまうのは、ここが異国の地だからなのかもしれない。
ゆっくりとだけれど砂の上を進めば、すぐにロッジに着いた。さすがは王室御用達のロッジで、調度品はどれも美しく働く人々の動きにも無駄がない。通された一室には低めのソファとテーブルが置かれ、たくさんの食べ物や飲み物が並んでいた。広い一室の奥側には既に楽器が用意されているので、きっとあそこで楽師たちが演奏をしてくれるのだろう。
「オアシスと言えど、さすがに日中は暑いな。ナディア、大丈夫だったか?」
「ええ、こちらの気温にも随分慣れましたので」
アウローラ王国に入国してすぐはこの国の暑さに耐え切れず日中は室内にばかりいたけれど、最近では日除けの布を頭から被っていれば多少は耐えられるようになってきた。オアシスの傍には木陰も多く小舟の上も風が吹いて気持ちがいいくらいだったが、それでも自国では考えられない暑さだ。少しはこの国に慣れてきたと言っても過言ではないだろう。
「そうか、ならいい。……それにしても」
私に飲み物を渡しながら、ハサン様がちらりと部屋のすみに呆れたような目を向けた。つられてそちらを見ると、そこには仰向けで寝転がっているイグニスと少し離れて丸まっているシュネーがいる。私たちの使徒はロッジに荷物を置きに来たあと、そのままここで昼寝をすることにしたらしく小舟遊びには参加しなかったのだ。ここからオアシスはあまり離れていないので、この程度なら使徒と話者が離れていても問題はない。
最近、シュネーはイグニスに対して吠えなくなっていた。シュネーはまだたまにイグニスに対して牙を見せて唸ることがあるので仲がいいとは言えないかもしれないが、それでも初日より関係が改善されているのは事実だろう。
「あいつら喧嘩をしなくなったのはいいが、それはそうとだらけ過ぎじゃないか?」
「ふふ、お昼寝がしたい日だったのかもしれませんね」
「君は寛容だな。ほら、レモンアイスもあったぞ」
「わ、ありがとうございます」
ハサン様から受け取ったひんやりとした銀色の器の中には、小さくて薄い黄色のアイスがちょんと乗っている。普通に置いておけばいかに涼しくしている室内でも溶けそうなものだが、この器自体に秘術がかけられているらしくその心配は必要ない。レモンとハチミツのアイスはさっぱりしていて、その上外の暑さを忘れさせてくれるのでこちらに来てからの好物だった。
「ふふ、美味しい。……何ですか、そのお顔は?」
「いや? アイス一つで喜べるのならよかったと思っているだけだ」
「別にいいじゃありませんか。お酒なんて飲めなくても生きていけます」
「そうだな、君はそれでいい」
柔らかく笑うハサン様に、言葉が詰まる。この返しでは、本当に子どものようだ。私はアルコール全般が苦手で、以前にそれを伝えた時にはハサン様にとても驚かれた。そして「まるで子どもだな」と言われてしまった。さすがに「成人は過ぎております」と言うとハサン様は「それはそうだろう」と頷いて、それから私の食事にアルコールを入れないよう配慮をしてくれたのだ。慌てて多少なら大丈夫だと伝えたけれど、何かあってからでは遅いと方々に伝達をしてくれた。
子ども扱いされているのは多少の不満はあるが、基本的にはとても優しい人だ。でももうこの観光もこれで終わり、これからはこうやって会うことは少なくなっていく。ハサン様は気安くしてくれているが、本来は雲の上の人で同時に隣国の人だ。帰国をすればもしかすると、もう今後ずっと会うこともないかもしれない。分かっていた筈なのに、急に寂しさが押し寄せるのはこの一週間がそれだけ濃密だったからだろう。私はそれを誤魔化すように急いで口を開いた。
「……本当は、飲めた方がいいんですけどね」
「何故だ、体質的なものなのだろう?」
「社交というものがございます。今まではあまり夜会にも出席してきませんでしたが、帰国すれば公爵家の者として恥ずかしくないように振る舞わなければいけませんから」
「だが飲めないのだろう。主催者にアルコールの入っていない飲み物を用意させればいい」
「え、ええと……。そういう話はあまり聞いたことがなくて。飲み慣れれば飲めるようになるというのが、通例ですので……」
「この国の人間も酒はよく飲むが、ナディアのように飲めない者もいる。そういう者がいる場合でも全員が楽しめるようにするのが主催者の仕事だ。……文化が違うのは仕方がないとしても、君は健康を害しそうだ。打開策というか妥協案というか、とりあえず何か考えた方がいい」
「……そうですね、お爺様たちに相談をしてみます」
「ああ、そうしなさい。必要のない無理はするものじゃない」
「はい」
話が途切れるのと同時に、外から揉めているような声が聞こえてきた。扉の向こうではあるが、焦ったような声色だ。その声で起きたのか、シュネーは立ち上がり私の傍にやってきた。イグニスも一緒にハサン様の隣に座る。
「何の騒ぎでしょう、ナーシルも戻っていませんし……」
「そうだな。確認してくるから、ナディアはシュネーとここで――」
「お二人とも避難してください!」
ハサン様が立ち上がろうとした時、ナーシルが部屋に飛び込んできた。いつも飄々としたナーシルにしては珍しく、かなり焦っているようだ。
「ナーシル、説明しろ」
「はい、隣のオアシスに併設してあるロッジからの出火です。調理中の火の粉が天井に引火したらしいのですが、防火設備が上手く作動しなかったようで燃え広がっています。既に内部の人間は全て避難しておりますので、お二人もすぐに避難を」
「分かった、私が行こう。ナディアはナーシルと避難していなさい」
「え」
「駄目ですよ! ハサン様も避難するんです!」
「イグニスより力のある使徒がこの場にいるのか?」
「いませんよ! でもイグニスだって、火をつけたり操ったりすることはできても火を消せる訳じゃないでしょう! それにイグニスより劣るとはいえほかにも火を操る使徒持ちの話者はいます! ハサン様が行かれる必要はありません!」
「効率というものがある」
「アンタなあ!」
「あ、あの!」
気付いた時には二人の間に割って入り大声を上げていた。自分自身でもこんな行動をしたことに驚いているが、今はそれどころではない。
「落ち着いてください、言い争っている場合ではないでしょう?」
「確かにそうだ。ナーシル、落ち着け」
「……ハサン様が落ち着かなくさせているんですけど?」
「あと、あの、火事ならお役に立てると思います」
そう言った私を、目を見開いた二人が一斉に見る。その視線に息が詰まったけれど、今はそんなことを気にしている場合ではなかった。
「……シュネーか」
「待ってください、ナディア様までそんな……!」
「グラキエス王国では火事が起これば、水を操る使徒に選ばれた者は専業の話者でなくとも消火努力の義務があります。わたくしも講習を受けていますし、シュネーと二回程やったことがあるので大丈夫です」
「ですがっ」
「分かった、頼む。だが、この国にも水の秘石はあるし時間はかかるが呼べば水の使徒を持つ話者も来る。幸い人は避難済みのようだから、君が無理をする必要はない。駄目そうだったらすぐに避難するんだ、約束できるな?」
「はい……!」
振り返るとシュネーは任せておけと言うかのように、尻尾をぽふんと一つだけ振った。火事に遭遇したのは久しぶりだがやる気は十分のようだ。
「ハサン様!」
「ナーシル、お前は避難してきた者たちを安全な場所まで連れて行って必要なら治療してやれ。……問題はない、心配をするな」
「……承知いたしました。火傷なんてしてきたら殴ってやりますからね」
苦々しい表情で、ナーシルは走っていってしまった。彼の立場からすれば、我々の避難は優先事項だろう。申し訳ないが、けれど私が役に立てるのならそうしたい。私はぎゅうと手を握った。
「ナディア、行くぞ」
「え、きゃあ!?」
行くぞと言われた瞬間、私の視界が思い切り揺れた。いや、揺れたのではない、上がったのだ。私は、ハサン様の肩に担ぎ上げられていた。
「悪いがこの方が早い、我慢してくれ」
「そっ、そんな!」
「舌を噛むぞ、黙っていろ」
「~~~」
がくんがくんと揺れる肩の上では、本当に舌を噛んでしまいそうでそれ以上は何も言えなかった。言えなかったがさすがにこれはない、しかし緊急事態でもある。私はいろいろなものを飲み込んで、ハサン様にしがみついた。
外に出ると同時に喧騒が耳に刺さる。叫んでいる人、逃げている人、使徒に指示を出している話者、さっきまでの静けさが嘘のようだ。焦げ臭い匂いと煙で、火の手が上がっているロッジはすぐに分かった。もう建物のほとんど全てが炎に包まれているので、あれでは手作業での消火はもう無理だ。
「イグニス、火の勢いを止めろ!」
「がぁああうっ!」
ハサン様から指示を受けたイグニスは、出火しているロッジに向かって大きく吠える。びりびりと皮膚に響くような音が炎を押さえつけているようだった。自国では見たことのない秘術に驚くが、それに感心をしている場合でもない。
「ハサン様、降ろしてください」
「ああ、だがどうするつもりだ。オアシスの水を操るつもりか?」
「いえ、雨を降らせます」
「雨を……?」
「その方が早いので。……シュネー」
やっと降ろしてもらえた私の傍に、シュネーはぴたりとくっついてくれた。顔を撫でると嬉しそうに口を開くシュネーは、本物の犬のようにも見える。けれどシュネーは特別な力を持つ使徒だ。
「ゆっくり雨雲を呼んでください。急いでは駄目ですよ、雪や雹の雲でも駄目。雨雲です」
膝をついてシュネーと目を合わせそう伝えると、シュネーは空を見上げて高く細い声で遠吠えをした。じわりと空に雲がかかりだすが、ここで気を抜いてはいけない。シュネーは雪や雹も呼べるので、それになってしまってはいけなかった。空と地面の気温差が激しすぎると、別の気象災害を起こす可能性がある。シュネーに指示を出すのは子どもの頃以来なので本当に久しぶりだけれど、自分で言いだしたのだからやり遂げなければならない。大丈夫、問題なんてない、できることなのだから。
シュネーの前足をそっと握りながら、私は雲がかかっていくのを注意深く見つめた。じわじわと広がる雲はもう出火しているロッジを覆いつくそうとしている。
「そう、シュネー、そのまま。……もういいです、降らせてください」
「わっふ」
シュネーが軽く吠えると、さあぁ、と細かい雨が降り出した。緊張で最初の内は少なく降らせてと伝え忘れていたが、シュネーは私の意図を汲み取ってゆっくりと雨を降らせてくれたらしい。私たちにも雨がかかっているが、気にしてはいられなかった。イグニスが威力を抑えてくれていたから、目に見える炎はどんどん小さくなっていく。
「雨が……」
「シュネー、このまま火が消えるまでゆっくり降らせてください。あっ、室内も消しに行かないと」
「馬鹿を言うな、そんな危険なことさせられる訳がない!」
「え、で、ですが……」
「そうそう、それは危ないから駄目だぞ、ナディア」
いきなり聞こえた見知った声に驚いて、耳を疑いながらも振り向いた。
「来ちゃった」
「き、来ちゃったって、お爺様……」
そういつもの調子で笑っている祖父の後ろには、使徒を連れた若い話者が複数立っている。それを見たハサン様は、ほうと息を吐いた。
「カエルム卿、来るのが遅いのでは?」
「酷いですな。知らせを受けて滅茶苦茶急いだんですぞ、これでも。まあ、あとはお任せください。ナディアももう大丈夫だからな。ああ、雨はもう少しこのままで頼む」
「はい、お爺様」
祖父が来てくれ、肩の力が抜けていくのを感じる。私が子どもの頃に消火を手伝った時には、その二度とも祖父が一緒にいてくれた。自国では水を操る使徒は珍しくないので、祖父だけでなくすぐにほかの話者も集まってきてくれた。だから、一人での対応はこれが初めてだったのだ。
「はいはい、皆、実践だぞー。怪我のないように注意して突入じゃー!」
「カ、カエルム卿!」
「卿、待ってください! 走って突入しないで! 中はまだ燃えているんですよ!?」
「火事は迅速な対応が肝心だと教えただろうー!」
「卿ー!」
祖父と祖父の使徒であるグロリアが走っていくのを、おそらく祖父の教え子であろう話者たちが追いかけていく。祖父は昔にも火事があるとああやって走って行っていたが、今でもああであるらしい。あんまりにもな変わっていなさに、私は少し笑ってしまった。
「……ナディア、まさかあれをやろうとしていたんじゃないだろうな」
「まさか、さすがにあれは、ちょっと」
「今後も絶対にやろうとするんじゃないぞ」
「ふふふ、はい。……あら?」
「どうした?」
「た」
「た?」
「立てません……」
シュネーと視線を合わせようと膝を突いたままだったので、そろそろ立ち上がろうとしたのに足に力が入らない。これはいわゆる、腰が抜けた状態なのだろう。何と言うか、情けない。グラキエス王国民の話者として火事対応は学んでいたのに、この様である。やはり座学と実践は違うらしい。じわじわと服に染みてくる雨もあまり気持ちのいいものでなくて、余計に惨めさを感じてしまう。
「……く」
「……」
「ふ、あっはは! ナディア、君、豪胆なんだか何なんだか分からないな!」
「……」
「ははは……っ。ああ、そんな顔をするな、ほら」
「……ありがとうございます」
ほらと差し出された手に掴まると、ひょいと簡単に引き上げられた。そのまま大きな手で腰を抱きかかえられてどきりとするが、それをしている本人はきっと子どもを支えたくらいのつもりでいるのだろう。それもそれでモヤモヤとしてしまうが、そちらの方はぐっと堪えた。
「……いつまで笑っていらっしゃるんですか」
「ふっく、す、すまない。だが、まだ燃えている室内に入って行こうとしたくせに……っ」
「祖父が来て、いろいろと気が抜けてしまったんです……」
「ははっ、そうだな。それでいいと思うぞ」
むっとした表情をそのままに顔を上げる。ナーシルいわく、態度で示すのも大事なのだそうだ。けれど、雨が笑うハサン様の髪から滴ってきらきらとしていて、何故か言葉を失う。ふいに頬が熱くなったが、まだ雨は降るからきっとすぐに冷めるだろう。