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5/11

5,二人きりの昼食

 王宮を案内された次の日から、私はハサン様に連れられてアウローラ王国中を見てまわった。まず王都では国最大の博物館と図書館、それから役所と裁判所。次の日には王都を出ていくつかの大きなオアシスとその研究所。更に次の日にはいくつかの都市を巡り、衣服と絨毯の制作現場や機織り工場などの見学をさせてもらった。どの施設も興味深く、この国についてよく学べてとても楽しかった。



「それでですね、お爺様。工場にはとても大きな機織り機があって、それには秘術が使われているんですが、それとは別に手縫いしている人もいて皆さん素晴らしい技術で……」



 朝食を摂りながら、昨日見てきたものを祖父に話す。仕事で忙しい筈の祖父だが、朝食と夕食は必ず一緒に食べてくれていた。食事を一人ですませることに抵抗はないが、それでも気にかけてくれているという事実が嬉しい。



「うんうん、ナディアが楽しそうで何よりだと思うー。で、今日はどこに行くんだい?」

「ええと今日は、果物の加工工場に連れて行ってくださるそうです」

「……社会見学か!」

「えっ」

「博物館と図書館はまあ分かるよ? あそこはこの国でも有数の建築物でもあるし、美術品もいっぱいあるし、蔵書もすごいよね? でもさ、何でその次が役所とか裁判所とか研究所とか工場なの? それもう観光じゃなくない? お勉強じゃない!?」



 祖父は食べていたパンを握りしめながらそう叫んだ。私も驚いたけれど、絨毯の上で一緒にくつろいでいたシュネーと祖父の使徒であるグロリアが飛び起きて、何事かという目で祖父を見ている。



「で、でも、とても楽しいですよ?」

「そうであっても! 観光地めぐりが一切ないのは違うと思う!」

「そうでしょうか……」

「そうだよう……。そんなことならやっぱり仕事なんて受けるんじゃなかったなぁ。この国って面白い場所がいっぱいあるんだよ? ……ううーん、儂の方がひと段落ついたらシャーロットもこっちに戻ってくるだろうし、観光はまた三人で行こうか」

「はい、楽しみにしております。……ですがあの、お爺様。本国へはいつ帰る予定なのですか?」



 ハサン様に連れて行ってもらえる場所は勉強になって面白いが、祖父母と行った観光地も楽しかった。単純に祖父母と出かけられるというのも、それだけで嬉しい。けれど、私は前々から気になっていたことを聞いてみた。突然始まったこの旅行だが、そういえばいつ帰るのかを聞いていなかったのだ。


 自国に帰れば、きっと現実を見なければいけない。公爵家の一員として迎え入れてもらったはいいが、この歳で婚約者もいないのはあの国では少し特殊だ。公爵家に養子縁組したというのも特殊だが、貴族令嬢が結婚を後回しにしているのはそれ以上に悪目立ちするだろう。私には元々婚約者がいたということを知っている人も多いし、そのあたりを詮索されるだろうことは目に見えている。


 今後の身の振り方を考えなければいけないが、この旅行を楽しんでいる間はできれば忘れていたい。けれど、帰る前には心の準備もしたい。もういっそのこと帰りたくないが、そうはできないのだからせめて楽しい時間の終わりを知っておきたいとは思う。


 そんな私の気持ちを知ってか知らずか、祖父はあっけらかんと笑う。



「うん、決めてない」

「え」

「ナディア、旅行とはそういうことを事細かに決めてはいけないんだ」

「……はあ」

「その時々で予定されている催し物も違うし、その季節にしか売り出さない食べ物もある。勿論その土地自体も時期によって表情を変える。それらを十分に満喫して、そろそろ帰るかと思えた時が旅の終わりだ」

「……」

「ま、儂もうあっちで仕事する気ないし、ぜーんぜん大丈夫。現役時代一生懸命働いたからお金もあるし、ナディアはなーんにも心配せんでいいんだ。お爺様が全部いいようにしてあげるからね」

「ええ……?」

「まあ、まだまだ当分帰らんぞっ。ほらほらそんなことよりも、今日もハサン様と出かけるんだからもっとちゃんと食べなさい。いっぱい食べなさい」

「は、はあ……。そういうものなんですか?」

「そうそう、そういうものなんだ」



 祖父に取り分けてもらった甘いパンを口に含みながら、私は少し困惑した。祖父の言う通りにこの国でゆっくりできるならどんなにいいだろうかと思ったけれど、それでいいとは思えない。あの状況から助けてもらえただけでもありがたかったのに、これ以上甘えっぱなしで迷惑をかけるのも気が引けた。


 やはり職業婦人として働きに出るか、後妻でもいいから誰かと結婚してしまって早く自立した方がいいかもしれない。祖父母だってもう現役を退いているのに、いきなり成人済みの孫の面倒を見なければならなくなって大変だろう。祖父はこんな調子であるから祖母が帰ってきたら相談をしてみようと考えていると、ノックもなく扉が開いた。



「邪魔をするぞ!」

「……っ!」

「おや、陛下。どうされましたかな、さすがに無作法ですぞ」

「それは認めるが、今は許せ!」



 朝食の場に乱入してきたのはなんと国王だ。祖父が素早く対応してくれたので、私は国王相手に悲鳴を上げるという暴挙をせずにすんだ。てっきり祖父に用事があるのだと思ったけれど、何故か国王は眉間に皺を寄せながらずんずんとこちらに歩いてくる。よく分からないがとにかくすぐに立ち上がって礼をとるべきであったのに、驚きで体が固まってしまい動けなかった。



「ナディア、すまんかった!」

「え」

「俺の弟があそこまで朴念仁だとは思いもしていなかったんだ! あんな社会学習みたいな案内しかしていなかっただなどと!」



 何を言われたのかが理解できなくて咄嗟に返せないでいると、祖父が立ち上がり大声を上げる。



「やっぱりそうですよね、おかしいですよね!?」

「アーチーも知っていたならもっと早く言わんか! 俺は今朝聞いて驚きのあまり茶を吹いたぞ!」

「儂だってさすがに三日連続で産業視察するとは思っていなかったんですよ!」

「はあ、まったくだ……。何を考えているんだ、奴は……」

「……朴念仁で悪かったな」

「何をぶすくれている、ハサン! 事実だろうが!」



 国王を追ってきたのか遅れてハサン様も入室してきたが、国王は彼を叱りつけるように怒鳴った。やはり状況が読めない。けれど、さすがに黙っている訳にもいかないだろう。



「あ、あの、ですが陛下。わたくしはハサン様のおかげでとても楽しく観光をさせていただいておりまして……」

「ナディア!」

「はっ、はい」

「我が国の技術や産業は確かに素晴らしいものだと俺も自負をしている。だが文芸や観光業だって盛んなんだ。むしろ力を入れている……!」

「ええ、存じ上げております」

「観光って言ったら! まず! そっちがメインなんだ!」



 国王が頭を抱えながら絶叫する後ろで、国王の使徒とハサン様の使徒であるイグニスがゆったりと部屋に入ってきた。二人の使徒が若干呆れたような顔をしているように見えるのは気のせいだろうか。



「まったく、お前は昔から遊びとか色気とかそういうものがない。勉強と仕事以外に趣味か生きがいはないのか。だからこんなことになるんだろう」

「余計なお世話だ。そもそも観光地巡りは王都に来る前にいくらか済ませたと聞いていたからだな……」

「だとしても三日連続社会見学はない。しかも今日も工場に行く予定だったんだろう。どうなってるんだ、お前の頭は。研修に来たおっさん相手じゃないんだぞ。若い女性が喜ぶような場所を探そうという、当たり前のことを何故考えられな――」



 王族の兄弟喧嘩に圧倒され祖父を見るが、祖父は祖父でにやにやとそのやり取りを楽しそうに眺めているだけだった。おそらく、祖父は本当に楽しんでいるのだと思う。我が祖父ながら経験豊富な人であるから滅多なことでは動じないし、何かが起きても鷹揚に構えていることが多かった。つまり祖父にこの喧嘩を止める気はない。祖母がいればとどんなにか願っても、いないものはいないのだ。


 私が不安を感じているのを察してシュネーがそっと足元に来てくれたが、けれどこれはどうしたらいいのだろう。そんなふうにおろおろしていると、また誰かが部屋の中に入ってきた。



「ご歓談中失礼申し上げます」

「ゼフラじゃないか、どうしたんだ?」

「はい、陛下。マリアム様が先程お産を終えられ、王子殿下がお生まれになったことをお伝えに参りました」



 新たに入室し来た女性はにこりと微笑みながらそう言った。あれだけ騒がしかった室内に静寂が訪れる。



「……今生まれたってことは、え、いつから産気づいていた?」

「明け方少し前くらいでしょうか」

「何でその時に知らせが来なかった?」

「マリアム様が『あの人煩いから生まれてからでいいわ』と仰いまして」

「あいつは俺のことを何だと思ってるんだ!?」



 話の流れからすると、ゼフラと呼ばれた女性はマリアム王妃の侍女なのだろう。そして里帰りをしている王妃が無事に出産を終えたことを伝えに来たらしい。侍女の話を聞いて国王はまた頭を抱えたが、すぐにばっと顔を上げた。



「え、生まれた……。生まれた!?」

「まあまあ、無事に生まれたのならよかったではないですか。おめでとうございます、陛下」

「まったくだぞ、兄者。何はともあれ、おめでとう」

「それそうだが……。はっ、とにかくこうはしてられん! ハサン、この話はあとだ。俺はマリアムと赤ん坊を見に行ってくる。ああ、チビたちも連れて行かんと……。おい、転移の秘術持ちとチビたちを急いで連れて来てくれ。ハサン、城を頼む。今日は別に厄介な仕事はなかった筈だ」

「分かったから落ち着いてくれ、兄者」



 国王は文字通り右往左往しながら従者やハサン様に指示を出し、皆が慌ただしく動き出した。ハサン様が呆れたようにそれを見ているが、そんなことなど気にしていないように見える。しかし国王はいきなりにこちらを振り返った。



「あっ、ナディア!」

「は、はい」

「観光の件は俺がちゃんと責任を持つからな。さすがにお前の祖父母を奪っておいて放り投げはしない。ただ今日は一日待ってくれ」

「……お気遣いいただき、ありがとうございます。ですがそれよりも陛下、王子殿下のご誕生、心よりお慶び申し上げます」



 何にせよ、王子が無事に生まれたのだ。新しい命の誕生はそれだけでも喜ばしいが、王族が増えるということは国にとっても重要な祭事でもある。国王ともあろう人が、そんな時に私のことを構っている暇などあるはずがない。本当ならお気になさらずと言いたいところだが、それは止めた。こちらでは気遣い自体を不要だと言っているのと同義で、失礼にあたると丁度昨日教えてもらっていたのだ。



「……ナディア、お前いい子だなあ。心配になる」

「え」

「はっはっ、儂がついておりますので大丈夫ですぞ」

「いや、それはそれでちょっと……」

「おや、陛下。どういう意味ですかな?」

「アーチーや夫人に似すぎるのもちょっとな。まあよし、じゃあ俺はもう行くから、ハサンあとは頼んだぞ」

「ああ、任せてほしい。生誕祭の準備も進めておこう。土産は酒でいい」

「おーう、楽しみにしとけー?」



 気になることを言われたが、特に何の説明もないまま国王は出て行ってしまった。おそらくこれから王妃の下へ行くのだろう。国王の使徒もさすがに小走りでそのあとをついて行った。



「まったく慌ただしいことだ。だが、めでたい。お祝い申し上げますぞ、ハサン様。家族が増えるのはいつの世もいいことですな」

「おめでとうございます、ハサン様」

「ああ、感謝する。……それでだ、ナディア。今日の案内はできなくなった」

「はい、承知いたしました」



 それこそ当たり前のことだ。国王に仕事を頼まれたところを目の前で見ていたのだから、そのくらいは分かっている。しかし返事をするとハサン様は一度口を閉じて、複雑そうな顔をした。この数日間で何度か見たことのある表情だが、それがどういう感情からくるものなのかがいまいち理解できない。



「……君の案内をほかの者に頼むのも難しいんだ。相応しい者の選別ができていない。そしてカエルム卿には本日も我が国の話者の指導についてもらいたい」

「王宮に一人で大丈夫か? 何ならお爺様と一緒に行くか?」

「……お二人とも、わたくしは小さな子どもではありませんので」

「それはそうなんだが……」

「ううーん、まあ、何かあったらお爺様の所に来なさいよ?」

「困ったことがあれば私を呼んでもいい。ああ、お前たちナディアの世話をしっかり頼むぞ」

「お、お二人とも……」



 そのあとも二人は使用人たちといくらか話して、それから仕事に向かった。まさに子どもを預ける保護者のようだ。心配をしてくれるのはありがたかったが、私は何とも言えない気持ちで静かに与えられた部屋に戻った。


 部屋に戻ると、以前書庫から借りていた本を読むことにした。自国とこの国では言語も文字も共通のものを使っているのに、ニュアンスや表現の違いが所々にあって面白い。この数日はハサン様に案内をしてもらっていたので夜に少しずつ読み進めていたが、こちらに来て日中にゆっくりと本を読むは初めてでついつい集中してしまう。



「――ディア様、ナーディーアーさーまっ!」

「……どうかしましたか、アメナ」

「どうかしましたか、じゃありません! もう、さっきから呼んでるのに!」



 呼ばれたと思って顔を上げると、そこには侍女のアメナが眉間に皺を寄せて立っていた。彼女は王宮付きの侍女で公爵家から連れてきた人ではない。公爵家から連れてきた使用人は多くなく祖母が王妃の実家に行ったことによって更に数が減ったため、国王がわざわざ私用に複数の侍女や使用人をつけてくれたのだ。皆丁寧で親切だが、その中でも年が近くよい意味で遠慮のないアメナは特に話しやすかった。



「ごめんなさい、本に集中してたみたいで」

「集中力があるのはいいことですけどね? 王弟閣下のところの従者様がいらっしゃってますよ」

「ナーシルが?」



 立ち上がり扉の方を見ると、ナーシルがこちらに向かって小さく手を振っていた。



「何かご用ですか、ナーシル?」

「いえ、ただのご機嫌伺いですよ。ところでナディア様、ご昼食は済まされましたか?」

「もう少しもう少しと仰って、まだ食べていらっしゃいません」

「ア、アメナ……」

「本当のことですわ」



 ナーシルの問いに答えたのはアメナだった。きりのいいところまで待ってと言ったのは事実だが、言いつけられるような口調で伝えられるのは少し居心地が悪い。けれどそれを聞いたナーシルは、何故かにこりと笑った。



「やっぱり、丁度よかった!」

「え?」

「はい?」


―――


 私はナーシルに持たされたバスケットを両手で持ち、ハサン様の執務室に連れて来られていた。前には執務中であろうハサン様、後ろには目が笑っていないナーシル。更に何故か二人は私を挟んで睨み合っているが、どうしてこんなことに。シュネーだけが私の傍でのんびりと尻尾を振っているが、場違い感がすごかった。ちなみにイグニスは奥の方ですやすやと眠っている。



「ナーシル、お前は客人に何を持たせている?」

「嫌だなあ、持たせているなんて。ナディア様もご昼食がまだとのことだったので、お二人分のお食事を運ぶのを手伝ってもらっただけですよ」

「……ナディア、君もだ。どう唆されたかは知らないが、こういったことは断りなさい」

「は、はあ……」



 唆されたというか、いつの間にか部屋から連れ出されてハサン様の執務室の前でバスケットを渡されたという状況だ。そこで初めてナーシルに「ハサン様と昼食をご一緒に」と言われたが、断るも何もそのまま背を押されて気づけば執務室の中だった。どう返したらよいのかと狼狽えていると、後ろのナーシルが大袈裟な声を上げる。



「あー、酷いんだあー。女の子虐めてー」

「ナーシル、元はと言えばお前が……!」

「はいはい、じゃあ、ご準備しますからお二人ともこちらへー」



 ナーシルは歌うようにそう言うと、私からバスケットを取り上げ執務室内にあるローテブルに昼食のセッティングをし始める。バスケットからはサンドイッチのように中に具材の入ったピタパンや瓶入りの飲み物、カットされたフルーツなどが出てきて、このままピクニックにでも行けそうな雰囲気だった。



「本当は運動場か庭園にお連れする予定だったんですが、ハサン様が梃子でも動かなさそうなので妥協案です。こんな書類まみれの執務室なんかで申し訳ございません、ナディア様」

「おい」

「いえ、わたくしは構わないのですが……」



 ちらりとハサン様を見る。忙しいということは、彼の机に山積みにされている書類が分かりやすく教えてくれていた。そもそも本日は国王の代理を務めているのだし、そんな中で私などと食事をする時間はないだろう。ナーシルがハサン様に食事を摂らせたいのは理解できたが、この食事内容なら一人の方がさっと済ませられる筈だ。どうすれば角を立てずに断れるのかと考えていると、ハサン様がもう一度ため息を吐いて立ち上がった。



「ナーシル、次はないぞ」

「次があるようなことをハサン様がなさらなければないと思いますよ?」

「……お前」

「あ、あの! お食事が冷めてしまいますし、食べてしまいませんか? お邪魔にならないよう急ぎますので」

「そんなことしなくていい!」

「そんなことしなくていいんです!」

「え」



 一触即発の雰囲気だった二人は、仲良く私の方に振り返って同じ言葉を叫んだ。驚いたが、とりあえず不穏な空気がなくなってほっとする。



「あのねえ、ナディア様。人の食事を、しかも女性相手に野郎が急かすなんてそんな下品なことさすがのハサン様でもしませんよ」

「さすがのってどういう意味だ」

「堂々巡りなんでさっさと席に着いてください。ほらほら、冷めちゃいますよ!」



 ハサン様はもう一度ため息を吐いて、ローテーブルの前に座った。ナーシルに促され、私もハサン様の正面に座る。シュネーだけは落ち着いたままで、私の脚元でくるんと体を丸めて目を閉じた。



「ナディア、本当に急ぐ必要はないからな」

「そうですよ。しっかり味わってゆっくり召し上がってください」

「は、はあ……」



 いいのだろうかと不安になるが、おそらくこれもこちらの文化なのだろうと小さく頷く。あとでアメナに聞いておこう。



「では自分は今の内に各所に書類届けたり連絡に行ったりしますので、ごゆっくり」

「ナーシルは食べないんですか?」

「自分はもうとっくに済ませてます。お二人が遅いですよ」



 案内の最中はナーシルも一緒に昼食を摂っていたが、今回はそうではないらしくさっさと出て行ってしまった。そんな何とも言えない空気感の中で始まった昼食は、けれどやはり美味しかった。王弟閣下が召し上がるのだから一流の職人が高価な食材を使っているのは当たり前なのだが、それ以前にこちらの料理は思っていた以上に私の舌に合っていた。自国ではあまり使われない香辛料が多く、初めて食べた時にはその刺激に驚いたが食べなれた今ではまったく問題はない。ただ会話が、思いつかなかった。


 いつもの昼食時はナーシルが話題を振ってくれることが多く、更にその時々に行った場所の感想や疑問を聞いたり話したりすればよかったが今はそうではない。急がないでいいとは言われたものの、無駄な話をして食事時間を伸ばしてしまうのも気が引ける。けれどあんまりにも静かすぎてそれはそれで緊張するので「お忙しそうですね」と言ってみたが「多少な」で終わってしまった。


 もう私にはピタパンを齧るくらいしかすることがなさそうだ。ハサン様に昼食を摂らせるというナーシルの目的は達成できているのだし、ピタパンは美味しいのでいいとしよう。開き直っている自覚はあるが、無駄にあくせくと気を回しても結局全てが無駄で状況が更に悪くなる場合だってあるのだから。そう思った矢先に、ハサン様が口を開いた。



「……君は」

「はい?」

「君はこんなにいいように使われて、何も感じないのか?」

「……いいように、ですか?」

「君は本来この国に観光に来ている筈だ。それも祖父母と共に」

「そうですね」

「祖父母はいきなりに仕事を言いつけられ、君は一人。しかも王の思い付きで私の強制休暇に付き合わされている。しまいには従者にまで連れ回されて、こんな所で食事をするはめになって」

「はあ……」

「はあ、じゃない。私が君なら抗議するし、少なくとも見返りを求める」



 確かにこの数日流されるままでいたが、ハサン様の言いようであるととてつもなく酷い扱いを受けているかのようだ。しかし実際は別に酷い目には遭っていないし、少なくとも王弟自らの案内はむしろ贅沢だと思う。王弟の執務室で昼食なのは気を遣うが、抗議をするようなことではなかった。



「君が何を考えているのかが分からない」



 その言葉に血の気が引くのを感じるが、急いで息を吸い込み自身を落ち着かせる。曲がりなりにも貴族として、このような場面で分かりやすく取り乱す訳にはいかなかった。



「わたくしの態度がご不快であったのでしたら……」

「違う、そうじゃない。心配だと言っている」

「え?」

「この数日何度か思ったことだが、今日だってそうだ。本当なら私は君を観光に連れていくという先約が入っていた。それを反故にされたのだから、君は私と兄を詰ったり何かを要求する権利があった」

「そのようなこと……。王子殿下がご誕生されたのですし、謝罪もしていただきました。それ以上を求めるなど」

「そうだ、そういうところだ。聞き分けがよすぎる。朝、兄も言っていただろう、心配になると。そんなふうで今までどうやって生きていたんだ。周りにいいように扱われていたんじゃないのか、それとも君の意見を代弁する人間を常に傍に置いてでもいたのか?」



 淡々と話すハサン様は、おそらく怒っている訳ではない。本当に困惑をしているだけなのだ。たった数日だけれど一緒にすごした時間が長かったからか、そのくらいは分かってしまう。それなのにこんなに胸が締め付けられているように苦しいのは、図星を突かれたからだ。


 ……でも、では、義母があんなふうだったのは、私自身のせいだったのだろうか。もう少し自分の考えを言えていたら、あのように扱われなかったのだろうか。ハサン様が目の前にいて、返事を返さなければいけないのに思考が散らかって纏まらない。動揺を表に出すなんてそんなみっともないこと一番にしてはいけないことなのに、何か言わないといけないと口を開くもそれは音にもならなかった。取り乱してはいけないと知っているのに、けれどもう打開策が見つからない。



「……ナディア、別に君に怒っている訳ではない。ただ疑問に思っただけだ」

「そ、それは、はい、存じ上げております。あの……」

「私は、顔が怖いらしい」

「は……、え?」

「ついでに口下手で朴念仁でもあるらしい」

「は、はあ……」



 いきなりの話題転換に驚いて顔を上げると、ハサン様は眉間に皺を寄せて難しそうな顔をしていた。けれど何故か、その表情は拗ねているようにも見えしまってなんだか不思議だった。



「それでもこの国の人間は話好きで勝手にずっと喋っているから、今まで意思疎通に問題が生じることはなかった。口下手だと揶揄されても事実だからいい。だが、君は放っていたらずっと黙っている」

「そ」

「謝ろうとしているならやめてくれ」

「……はい」

「気持ちは分かる。私も人がわいわいとやっている場にいるのは好きだが、自分から話す必要がない時は黙ってそれを眺めていたい。……おそらく我々は少し似ている」



 私は今度こそ本当に言葉を失った。母が公爵令嬢だったというだけで特別な才能など何一つ持たない私と国王を支える王弟閣下が似ているなんて、そんなことある訳がない。しかしハサン様は真剣な表情で話を続けた。



「しかしこの場には我々しかいない。ナーシルがいないだけでこうも話が続かないのかと私も情けなさを実感しているが、それでも食事は会話を楽しむ時間だ。二人以上で食事をしているのに無言というのはあり得ない」

「……お急ぎでいらっしゃるのに、ですか?」

「まさか、まだそこを気にしていたのか。本当に忙しくてどうにもならないような時なら、ナーシルも君を連れてきたりはしない。兄に仕事は頼まれたが、兄にしかできない仕事も多いんだ。私が肩代わりできるようなものはもうほとんど終わらせている」

「え、では何故、昼食も摂らずにお仕事を……?」

「……後回しにされていた自分の仕事を片付けていた。けれどそれらの仕事も急ぎではない。いっそ一ヶ月先でも問題のないものばかりだ。だが、きりがいい所までと思うと止まらなくてな」



 徐々に小さくなっていく声が、今度こそ叱られている子どものようだ。きっとナーシルや国王に注意されても、仕事を止められないのだろうことを安易に想像できしまう。だからこそ、ナーシルも私を呼んだのだろう。


 その様子に、私は耐え切れず笑ってしまった。



「ふふふ、ナーシルも苦労をしますね」

「……待て、君だってこの時間まで食べてなかったんだろう。もう昼食と言うには遅いぞ。ナディアこそ何をしていたんだ」

「わたくしは……。……わたくしも本を読んでいて、きりのいい所まで読んでしまおうと思って遅くなっていたんです」



 ハサン様は私をじっと見て、一呼吸後に吹き出した。笑われたのに、何故かつられてしまう。不思議なことに、さっきまで感じていた気まずさはもうどこにもいなかった。



「ふはっ、君もか。一緒じゃないか」

「ふふ、ええ。そうみたいです」



 二人で暫く笑ったあと、ハサン様はこほんと少しわざとらしく咳払いをした。



「まあ、話を戻すが食事中に会話がないということはあってはならない。私も努力をするから、ナディアも協力してほしい」

「はい、頑張ります」

「あと以前も言ったと思うが、話したくないことは無理をしないでいい。君はこちらの文化を学ぼうとしてくれるが、そもそもの常識が違う場合もあるだろう。私も君を悪戯に傷つけたい訳じゃない。嫌なんだったらそう言ってくれればいい」

「……はい、ありがとうございます、ハサン様」



 そのまま私たちはナーシルが戻ってくるまで緩やかに会話を続けた。緊張も気負いもなく何でもないようなことをゆっくりと話す時間は、とんでもなく贅沢に思えた。



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