4,緊張と歩み寄り、異文化交流の難しさ
「え、お仕事ですか?」
祖父に「これからしばらく仕事をするはめになった……」と言われたのは、朝食の席でのことだった。昨夜急遽連れて来られた王宮に一泊した翌日、王宮の使用人たちに世話をされ案内されるままに連れて行かれた一室には既に祖父母が待っていた。当たり前のように使徒たちは姿を現したままで各々の話者の足元にいるが、この国ではこれが普通のようで誰も何も言わない。私のシュネーも足元でころりと寝転がっている。
ちなみに高貴で多忙であろう国王と王弟はさすがにその部屋にはおらず、ほんの少しほっとしてしまったのはきっと隠し通さなければならないだろう。それにしても王宮に滞在することになるのであろうことは何となく想像ができていたものの、既に公爵位を譲った祖父が仕事とは何なのだろうと首を傾げる。
「陛下がな、こんな老いぼれに無茶を言ってきてなあ……」
「何を仰っているんです、貴方。お酒の席で安請け合いをしただけでしょうに」
「そんなふうに言わなくたっていいじゃないか」
「あら、だって事実ですもの。頼られて満更でもない癖に」
「ううーん……」
祖父は腕を組み、目を瞑ったままで上を向いた。これは都合が悪くなった時に祖父がよくする癖で、それを見て祖母も笑っている。
「ナディア、こちらの国に水や氷を操る使徒を持つ話者が少ないのは知っていますね?」
「はい、お婆様」
「けれど、全くいない訳でもないのです。ただやはり少なく貴重で、そういった話者はとても忙しいわ。だから若者の教育まで手が回らないらしくて、お爺様はその話者たちの指導計画作りを国王陛下にお願いされたの」
「そうだったのですか」
「それとあたくしもお願いをされてね?」
「お願いを?」
「そうなの」
祖母はにこりと微笑みながら、膝の上の使徒を撫でた。白く長毛種の小型犬のような祖母の使徒はアンムートという名前で「ねえ、アンちゃん?」と撫でられながら気持ちよさそうに目を細めている。
「マリアム王妃殿下が出産予定日を一週間は過ぎたのだそうなのだけれど、今回は中々生まれていらっしゃらないみたいでね。マリアム様はもう七人も出産されているのだけれど、こんなことは初めてだから不安だとお呼ばれしたのよ。里帰りをされていらっしゃるけれど、マリアム様のお母様はもう亡くなっているからせめて話し相手になってほしいと」
「そうですか、それはご不安でしょうね」
「それで、あたくしはナディアもそちらに連れて行こうかと思っていたのだけれど……」
祖母が、ちらりと祖父に視線を移す。けれど祖父はまだ上を向いたままだ。
「何でもお爺様はお酒の席で、ハサン様にナディアを任せる約束をしてしまったらしくて」
「……え?」
ハサン様とは、誰のことだっただろう。思い出したくはないけれど、もしかすると王弟の名前だったような気がする……。
「いや、ナディア。儂じゃない、儂じゃないんだよ? この提案は陛下からでね? 話の流れというか、そういうあれそれこれがあってだね……」
「ナディアのいない席でナディアに関する話を決めたのは事実でしょう」
「そんなふうに言わないでおくれよ、シャーロットぉ」
……よく分からない。さっきまでとても美味しいと感じていたもったりとした甘いヨーグルトが、何だか急に味がしなくなったように感じた。泣きまねをしている祖父を見る祖母の目が、若干笑っていないのは気のせいだと信じたい。
「あの、任せるとは……?」
泣きまねをしたまま話す祖父の話を要約すると、こうだった。
私と祖母が退出したあとも、酒宴はそのまま続いていた。仕事の話をされた祖父は私にたくさんの旅行の思い出を作ってやりたいのだと言って、一度は国王からの仕事の依頼を断ろうとしたらしい。そこまで聞いただけで不敬ではと血の気が引いてしまったが、国王はそんな祖父を怒りもせず「じゃあそれは弟にさせよう」と言い放ったらしい。既に酔っていた祖父は地元民の案内の方が楽しめるのではと考え、その提案を承諾してしまったのだそうだ。
……なるほど、やっぱり分からない。どうしてそうなるのだろう。旅行慣れしている使用人や護衛の中から観光に詳しい者を選出してくれるというのなら、まだ分かる。それが何故、王弟でなければならないか。私にはそんな高貴な方に案内されるような価値はない。確かに今の私は、カエルム公爵家の人間として自国で正式に認められている。けれどそれだけだ。戸籍上は現公爵の妹になるが、特にコネクションもなく秀でているところもない。わざわざ王族が相手をするような相手でないことは明確だった。
「だってね、陛下がハサン様は休みも取らずに働きづめで、部下たちも休みにくいと困ってるって言っていてね。そんなこと言われたら大変だなって思ってさあ」
「ハサン様は真面目でお仕事がお好きですからね。陛下もそれには助かっているのでしょうが、ものには限度というものがあります。それでナディアの案内をするついでに一緒に休息もとらせよう、という話になったようですよ? あたくしたちに相談もせずに」
「悪かったと思っているよぉ……」
私はぎゅっと膝の上で手を握り、できる限り口角を上げながら口を開いた。
「あの、お爺様。お気持ちは嬉しいのですが休息であればお一人でなさった方がよいと思いますし、あまりにも畏れ多いのでお断り申し上げるということは……」
ほとんど震えていた声の問いに答えたのは、祖父ではなく祖母だった。
「できません」
申し訳なさそうにこちらを見る祖母に対して、私は心の中で悲鳴を上げながら乾いた笑みを返すことしかできなかった。
―――
朝食後祖母は王妃の生家へ旅立ち、「やっぱり仕事なんてしたくない」とごねていた祖父も複数の話者たちに連れて行かれてしまった。そして残された私は、珍しいガラス張りの部屋に通されて華やかな香りのするお茶を出されている。ここで待っていれば、王弟が迎えに来てくれるらしい。
王宮の庭に位置するその場所は、部屋というよりは小屋というか小さな何かの施設のようで、全面が分厚いガラスで覆われておりとても不思議で綺麗だった。朝だけれど太陽が昇っているこの時間帯にはもう暑くてしかたがないこの国であるのに、天井までもガラスのこの空間で特に暑さは感じず快適だった。おそらく何かしらの秘術が使われている。
私の世話をする為に複数の使用人が控えてくれているが、彼らの使徒が秘術を使っている様子はないので秘石を使っているのだろう。自国との技術力や秘術の使い方の差を感じながら周りを見回す。室内にはソファやテーブルなどの調度品や美術品のほかにも植物が多く飾られており、シュネーはその中のとげとげしい植物に咲いた花の匂いを興味深そうに嗅いでいる。
初めての異国の地で一人にされ、どうにか自分を保っていられるのはいつもと変わらないシュネーのおかげだ。無邪気に室内を探索する姿に勇気を貰いながら、私は自分自身を奮い立たせていた。もう成人もしているのに情けないけれど、心細いのは事実であるから仕方がない。けれど何にせよ頑張らなければ。昨日と違い、祖父母はいない。失礼をして祖父母の評判を落とすようなことはあってはならないのだ。私は自身を落ち着ける為にお茶を一口含みながら、礼儀作法の手順を頭の中で何度もおさらいした。
暫くそうやって待っていると、出入口から声が聞こえてきた。慌てないよう気をつけながら、私は静かに立ち上がり膝を折った。
「すまない、待たせたな」
「いいえ、本日は貴重なお時間をいただき誠にありがとうございます」
昨日より装飾が少ない服装の王弟は、使徒を伴って現れた。シュネーが唸りそうになったのを視線で止めながら、頭の中で何回も諳んじた挨拶を述べる。大丈夫、詰まりはしなかったし文言も間違えなかった、だから大丈夫。そう自分自身に言い聞かせながらゆっくり顔を上げると、王弟は難しい顔をして私を見下ろしていた。
「……ふむ」
眉間に皺を寄せたままで腕を組む王弟の様子に、血の気が引く。何か無礼があっただろうか。この国でタブーとされている親指で首を触るというジェスチャーは勿論していない。ほかにも何かしてはいけないことがあっただろうか、もしかすると顔を上げるのが早かったのかもしれない。
どうしようとそればかりが頭の中で回っていて、それなのにどうしようもできなくて私は子どものように足元を見つめて途方に暮れた。不興を買ってしまったのなら、その挽回をしなければいけないのに何も考えられない。
「ナディア、君は本当にあのカエルム夫妻の孫か?」
「あ……っ、はい、さようにございます」
「とても信じられん。いや似てはいるが、まったく似ていない」
申し訳ございませんと言いかけて、けれどそれは謝ったところでどうにもならないことだと口を噤んだ。謝罪は過ぎれば、それも苛立ちを買う。私はぎゅうと手を握りしめ次の言葉を待ちながら、どうすれば今回の件を穏便に辞退できるのかを考えた。これ以上王弟の怒りに触れるのは恐ろしく、また何より祖父母に迷惑がかかる。どんな言葉ならこの場を切り抜けられるのか考えなければいけないのに、私の頭はまだ真っ白なままだった。
「? おい、どうし――」
「わっふ!」
「きゃ」
何かにどんとぶつかられて、私はそのまま後ろに倒れた。倒れたと言っても、すぐ後ろにさっきまで座っていたソファがあったのでそこに尻餅をついた程度で痛くはなかった。痛くはないけれど何かが乗ってて重たいし、何が何だか分からない。けれど「きゃいん!」という高い悲鳴とともにすぐその重みはなくなった。
「イグニス、お前何をしている!」
「ぎゃるるる! がうぎゃう!」
「きゃんきゃんっ、きゅーうん、きゅううん……」
一気に騒がしくなった空間に呆然としながら状況を確認すると、王弟が自身の使徒の首を掴んで怒鳴っていてシュネーもそれに向かって吠えていた。王弟の使徒は大きな体を縮こませて憐れっぽく鳴いている。多分私は、王弟の使徒に押し倒されたのだ。そして王弟とシュネーはそれに怒っていて、ああ、混沌とはこのことだ。
「や……」
やめてください、わたくしは大丈夫ですから。そう言ったつもりだった。でも声は掠れてしまっていたし、何故か涙が零れて一言も言葉になっていない。しかしそんなちょっとの声に反応したのか、王弟がぐりんとこちらを振り返った。
「どうした。まさか、どこか怪我でもしたのか?」
「え、いえ」
「ナーシル、ちょっと来い。診てやってくれ」
「えっ、いや、自分はいいですけど、大丈夫ですかね……?」
「仕方がないだろう」
「えええ……」
大丈夫ですと返したかったが、どんどん話が進んでいくので口が挟めない。王弟が呼んだ従者も難しそうな顔をして近寄ってくる。失態に失態を上塗りしているのに、打開策が一向に見えなくて本格的に泣きたくなってきた。
「あああ、不安そうな顔をなさらないでください。後ろの怖い人は顔が怖いだけで本当は全然怖くないですから、大丈夫ですよー」
「ナーシル、余計なことを言うな」
「いや、あんた怖いんですって。怯えられているんですよ、自覚してください」
「な」
「そ、そのようなことは……っ」
従者は従者であるのに王弟にずけずけとものを言い、けれどそれを王弟も許しているようだった。やはりこの国の人との距離感は我が国のそれとは違うようだ。怯えていることも言い当てられて慌てて否定しても、従者は動じずに私の前に膝をついた。
「はいはいはいはい、大丈夫大丈夫。俺はナーシル・オルドと申します。あの怖い人の従者をしておりまして、ちょっとした怪我なら治せる秘術持ちの使徒が相棒なんですが、つきましてはお嬢様にご質問が」
「あ、ええと、はい……」
「お嬢様、トカゲ大丈夫ですか?」
「……トカゲ?」
「はい、トカゲです」
「爬虫類ですよね。トカゲは見たことがありませんが、蛇なら大丈夫なので大丈夫かと思います」
「蛇、大丈夫なんですか!?」
「え、ええ、友人に蛇の使徒様を持つ者がおりまして。それにグラキエス王国では蛇は知性を司っているとされて、身近で縁起のよいものですから」
「ははあ、じゃあ、まあよかった。では手を出していただけますか? 両方の手のひらをこう、上にして」
「はい」
ナーシルの言葉は不思議と柔らかく、本当はこんな会話をしている場合などではないのにぽんぽんと話が進んでいった。心のどこかで早く王弟に謝罪しなければと思っているのに、変に落ち着いてしまってそれができない。さっきまで唸っていたシュネーも同じように落ち着いたのか私の隣に座り、一緒にナーシルの話を聞いていた。そうこうしている内に私の手のひらの上に、ぽんと小さい何かが乗る。
「……使徒様、ですか?」
「ええ、自分の使徒のマグナです。マグナ、ちょっと頼むよ」
ナーシルの使徒は彼にちょんと頭を突かれてぽうっと鈍い光を放った。短い蛇に手足がついたようなその形がトカゲのそれなのだろう。初めて見たが、友人の蛇の使徒よりも小さくてちょっと可愛い。
光が収まると、ナーシルは使徒を自身の胸ポケットにしまった。
「……うーん、よし、もう大丈夫。何ともありませんね?」
「は、はい、ありがとうございました」
「よかったよかった。あのですね、お嬢様。あの人、顔が怖いだけでちゃんと優しいですから大丈夫ですよ。実は結構繊細で、怖がられると気にしちゃったりするくらいなんです。もの言いがあれですけど、本当に他意はないので」
こそりと小声でそう言ってナーシルは立ち上がり、王弟に振り向いた。
「はい、お嬢様はもう大丈夫ですよ。ほら、ハサン様ちゃんと謝って。使徒の不始末は話者の責任!」
「分かっている。……すまなかった、ナディア。おいイグニス、お前も謝れ!」
「きゅぅん……」
ソファに座ったままの私の前に、何故か王弟が膝を突く。この国では膝を突く行為はそこまで大事でないらしいが、それでも王族が異国人に膝を突くなどあっていいのだろうか。それに王弟に小突かれた彼の使徒も大きな体を縮こませ尻尾も丸めて泣きそうになっている。何故か隣にいるシュネーがまた小さく唸りだしているが、それはとりあえず置いておくとしてもこの状況はやはりいけない。
私は素早く深呼吸をして、ぐっとお腹に力を込めた。
「どうぞそのようなことはお止めください、閣下。わたくしは何ともありません。お騒がせいたしまして、大変申し訳なく――」
「それだ」
「えっ」
「何故、君はそんなにへりくだっているんだ」
「そ、それは、閣下は貴い身分の方でいらっしゃいますから、当然のことかと」
「当然……」
王弟はやはり難しい顔をしてはいたが立ち上がり、私の前のソファに座りなおしてくれた。けれど先程のような緊張はない。王弟の表情は怒っているというよりは、困っているそれに見えたからだ。それはそれで問題なのだけれど、怒りの感情でないのならあちらの出方を待つこともできる。対処を考えるのはそのあとだ。
王弟の使徒も彼について離れて行ったからか、シュネーが唸るのを止め私の膝の上に頭を乗せてふすんと息を吐く。……本当に、シュネーは彼の使徒が苦手らしい。
暫く難しい顔のままで何かを考えていた王弟は、一つ頷いてから口を開いた。
「昨日も言った通り文化の違いがあるのだからそれを否定するのもどうかと思うが、この国に暫く滞在をするのなら知っておいた方がいいことがある」
「は、はい」
「その前に君はこの国の文化……いや、身分制度はどの程度理解でしているんだ?」
「国王陛下を筆頭に王族の方々がいらっしゃって、しかし貴族制度はないと習いました」
「そうだ。この国では王族以外はなべて等しい身分であり、違いはない。……と言いたいが、まあ半分は建前だな。昔から金や土地を多く持っている家門もあれば、権力を持っている一族もいる。ただし法律の前では平等としている」
「はい」
「そしてここからが重要なんだが」
私はまたぎゅっと手を握った。けれどさっきよりも随分落ち着いていられる。それはおそらく私がこちらの文化にそぐわぬ言動をとったことを、王弟が教えてくれようとしているのだとやっと理解できたからだ。頭ごなしに叱りつけず言葉を選んでくれているあたり、ナーシルの言う通りとても優しい人らしい。
「こちらの人間は、公の場でない場所では基本的に畏まった態度はとらない。商売や目上の者への接し方はまた例外だが、基本はそうだ。私に対するナーシルの態度など酷いものだが、不敬罪などという大袈裟な罪状はよっぽどでなければつかない」
「いきなり流れ弾当てないでくれませんか、ついでにそれだと語弊があるでしょう。自分とハサン様の関係値があってこそですからね? ほかの奴がこれやってたら罪に問われる前にぼこぼこですからね?」
「まあそういうことだ。一応は王族とはいえ兄は子沢山で、私はもう王になる確率はかなり低い。つまりほかの少しばかり権力を持っている者たちとほとんど似たような立場にある。そして君は兄の恩人の孫であり隣国の貴族令嬢で、我が国の正式な賓客だ。そんな君にいつまでもそのような態度を取られていると……」
「ハサン様が笑われますよね、国王陛下に」
「……ナーシル」
「『拒否されてやんの!』と爆笑される様が見えるようです」
王弟は唇を引き結んで苦々しい顔をして押し黙ってしまった。ナーシルは王弟の後ろに控えながらにやにやと笑っているが、別にそれに対して文句を言うでもない。不思議な主従関係だ。主従というより、友人同士のように見える。生国ではありえない光景だけれども、きっとこれがこの国の普通なのだろう。
恩人という言葉がひっかかりはしたものの、今は聞けるタイミングでない。それよりも、では私はどうすればいいのか、それを考えなければならなかった。考え込んで何も言えないでいる私に気を遣ってか、ナーシルが口を開く。
「お嬢様、この国でも礼儀に煩い人はいて、初めましてのあともそうやって態度を崩さない人もいます。けれど同じ食卓を囲めば、そのあとは大体こんな感じでざっくばらんになるもんなんです。食事っていうのが結構我が国では肝でしてね」
「そうだったのですか」
「で、一緒に食事をしたのにそれでも貴女のようにずっと礼儀正しい態度を崩さないということは、つまり『お前とはこれ以上のコミュニケーションをとることはない』っていう拒否だとされているんです」
「そ、そのようなつもりはございません。不勉強でご無礼を……」
「だから、それを止めてくれと言っているんだが」
「も、申し訳――」
「分かった、分かったから謝らないでくれ!」
謝罪を強い口調で遮られしまい口を噤むが、次の言葉が出てこない。こちらの文化を学んで頑張りますとでも言えばいいのだろうか、けれど王弟に馴れ馴れしい態度をとるなど考えるだけで背筋がヒヤリとする。
俯いてしまった王弟とまた黙り込んでしまった私の間には、非常に重々しい空気が漂っていた。どうにかしないといけないのに、どうすることもできなくてお互いに困り果てているような雰囲気だ。王弟が怒っていないことだけは分かるが、この場に相応しい言葉が思いつかない。もっと社交とこの国の文化について学んでおけばよかったと後悔してもあとの祭りだ。
そしてそんな私たちを見かねてかそれとも苛立ったのか、ナーシルが間に割り込んでくれた。
「あーね! 異文化コミュニケーションということで! お嬢様もこれからはもう少しフレンドリーな感じで接してくださるんですよね!? 別にハサン様が怖いとかじゃないですもんね!?」
「えっあっ、は、はい、勿論……」
「ほら、ハサン様! ですって! お嬢様も頑張ってくれるみたいですから落ち込まないの!」
「落ち込んでいる訳じゃない。どうすべきかと考えていただけだ」
「それならそれでそう言ってくださいよ! お嬢様が萎縮しちゃうでしょ!?」
「うぐ……」
「はい、この変な時間おしまい! で、今日はどこに行くんですか!? お嬢様の観光案内をするんでしょ!?」
ナーシルが子どもの喧嘩の仲裁をする保育者よろしく手を叩くので、私は少し呆気に取られてしまった。王弟を見ると彼も私と同じような顔をしていて、何故かその様子に安心してしまい笑みがこぼれた。一瞬失礼だったかもと焦ったが、多少の気安さを求められているのならこのくらいで丁度いいのかもしれないと思い直して、謝罪はぐっと堪えた。
「……そうだな、いつまでもここにいたとて仕方がない。ナディア」
「はい」
「今日は王宮内の施設を一通り案内する。本格的な観光は明日以降を予定しているが問題はないか?」
「はい、問題ございません。よろしくお願いいたします」
返事をしたあとに王弟とナーシルがまた複雑そうな表情をしていたことに気づき、こういった態度がよくないのだと理解できたがそれももう遅い。しかし王弟は何も言わずにすぐに「では行こう」と立ち上がって歩き出したので、私もそれについて行った。
王弟に連れられ、私は王宮を歩き回った。巨大な王宮には書庫が五つあり、宝物庫は三つ、大きな噴水を眺める室外庭園が二つと室内植物庭園が三つもあった。この国では植物庭園と噴水が富と権力の象徴であるらしく、植物は世界各地から様々な種類を集め噴水は非常に凝った装飾がされていた。私が王弟を待っていたガラス張りの施設も室内庭園の一つだったそうだ。
王宮内にはほかにも多くの施設があるが、それは政治の場であったり王族のプライベートエリアであったりとむやみに立ち入ることはできない。そういったことも教えてもらいながら、私は道順を覚えることに集中した。案内をされた場所であれば滞在中はいつでも使用してよいとお許しをもらったのだ。祖父母の不在がいつまで続くか分からないが、一人部屋で閉じこもっているわけにもいかない。勉強ができる書庫やこの国の美術品を鑑賞できる宝物庫の存在はありがたかった。
広大な土地を歩き回っているが、都度休憩を挟んでくれるおかげで然程疲れもしなかった。昼食もご一緒したが、昼食後は微睡むくらいにのんびりとするのがこちらの文化であるので、本当にゆったりとすごした。さすがにあの場で眠ってしまわないように必死に目を開けていたのだけれど、それに気付いたナーシルにはこそりと笑われてしまった。
目新しいものばかりで楽しくて、疲れを感じる暇もないのかもしれない。王弟に気を遣わせているのかと思うと心苦しかったが、思ったよりも親切に接してくれる彼に緊張がほどけていくのを感じているのも事実だった。ぴったりと付いて来ているシュネーも楽しそうにしている。王弟の使徒が近づくたびにあからさまに避けているが、喧嘩をしないだけましだと思わなければいけないだろう。
「――そして、ここが運動場だ」
「運動場、ですか……?」
最後だと連れて来られたのは、ただただ広い空間だった。王宮の中の一室であるのに、部屋というにも広間という憚られる広さだ。しかも芝生が生えている。運動場という言葉にも馴染みがないが、その名の通り運動をする為の場所なのだろうか。
「ああ、ただし、使徒の為に作らせたんだが」
「使徒様の為ですか?」
「兄の使徒を見ただろう。あの巨体だ、ちょっと遊ばせるだけでもそれなりの土地がいる。が、通常であれば使徒は話者とそう長く離れられない。兄を炎天下に放り出す訳にもいかんし、夜は夜でこの国は冷える。ならば室内に運動のできる場所を作ってしまえ、ということでできたのがここだ」
私はもう一度、運動場を眺めた。やはりただただ広い。国王の使徒の為に作らせたというのなら確かにこの程度の広さが必要なのだろうけれど、スケールの違いに眩暈がしそうだ。
「とはいえ、兄の使徒は怠惰で有名だ。実際かなりの怠け者でな」
「え?」
「この運動場も作ったはいいが、ほとんど使っていない」
「……ええっ?」
「さすがにもったいないからな、もう王宮に出入りできる者なら自由に使わせている」
はああ、と深くため息を吐く王弟は随分と苦労人の顔をしていた。半日程一緒に行動しただけだが、案内の最中にも何度か「ここは本当はもう少しシンプルになる予定だったのを兄がいきなり趣向を変えて……」「兄の気まぐれで経費が倍になって……」などと愚痴のようなことを言っていた。彼はもしかすると兄である国王にかなり振り回されている人なのかもしれない。
「今日は君を案内するからと貸し切っているが、普段は話者が使徒を遊ばせるのによく使っている。話者でなくとも昼休憩にここを使う者もいるらしい。……使用用途がある分、ここはまだ納得ができる」
そう苦々しげに言う王弟には、きっと納得のいっていない施設があるのだろうと推測ができた。親族に振り回されているその姿に何となく親近感がわいてしまうが、それでも相手は王族だ。失礼のないように、けれど硬くなり過ぎないように。……難しいが、早く距離感を掴まなければと私はそっと手を握った。
「そういう場所なので、ナディアもシュネーと使うといい。必要なものがあれば使用人に言ってくれればこちらで用意する」
「こちらを利用するのに、必要なものがあるのですか?」
「あるだろう、ボールとか」
「ボール……?」
「……シュネーとは普段どうやって遊んでいるんだ。犬型の使徒でそんなに体格がいいならそれなりに走り回るだろう?」
「ええと……」
咄嗟に返事ができなくて、足元にいるシュネーを見下ろす。分かっているのか分かっていないのかが曖昧なシュネーは、可愛らしくこてんと首を傾げた。遊んだことがないとは言わない。けれど子どもの頃に部屋でこっそりかくれんぼに付き合ってもらったくらいで、ボールを使ったり走り回ったりしたことはなかった。シュネーは犬の形をしてはいるものの、犬ではなく使徒だ。膝の上でブラッシングをすることはあっても、犬のように扱うことはなかった。
どう答えようかと決めあぐねていると、さっきまで黙って控えていたナーシルが急に声を上げる。
「ああ、自分聞いたことがあります。隣国の話者は専業の者以外、使徒を連れ歩いたり遊んだりしないんだとか」
「……そうなのか?」
「は、はい。我が国では使徒様は尊ぶべき存在ですので、不必要に呼び出したり傍に控えさせるようなことはあまりいたしません。毛並みを整えるなどのお世話をすることはあっても、遊ぶというのはあまり聞いたことがありませんでした」
「ははあ、異文化ですな」
ナーシルは興味深そうに頷いていたが、王弟はまた難しそうな顔をすると遠くに控えていた使用人の一人を呼んで何かを持って来させた。急いで帰ってきた使用人から王弟が受け取ったのは、ボールだ。子どもが使うような小ぶりのそれを受け取ると、王弟は使徒を呼ぶ。
「イグニス」
「わふ!」
王弟はそれ以上は何も言わずに、思い切りボールを投げた。広い運動場をどこまでも飛んでいきそうな速さのボールを、彼の使徒が追う。どちらも早く、けれどボールが一度落ちたあたりで王弟の使徒が追い付きそれを咥えた。そしてまたとんでもない速さで戻ってくる。
「よし」
「っぅふ」
ばたばたとしっぽを振りながら王弟に撫でられている使徒は、とても楽しそうだった。特別な力を持つ使徒が、まるで普通の犬のようだ。もう一回投げてと言わんばかりに目をキラキラとさせている。
「また投げてやるから、ちょっと待て。シュネー、お前もやるか?」
王弟に呼ばれたシュネーは私の顔をちらりと見て、けれど私の言葉を待たずに彼のもとへ向かった。王弟の使徒が近くにいるが唸ったりすることもなく、彼の前で礼儀正しく座っている。
「イグニス、お前は待てだ。よし、シュネー行け!」
「わっふ」
王弟の掛け声と共に走り出したシュネーは、驚く程に早かった。あんなシュネーを見たのは初めてだった。白く長い毛並みが風に乗って綺麗になびいて、楽しそうに走っている。そして王弟の使徒と同様にボールを咥えると、また素早く戻ってきた。けれど王弟の方には行かず、私の所にやってきてボールを押し付けてくる。
「え、ええと、シュネー……?」
「投げてやればいい。少なくとも君の使徒は、それを望んでいるようだぞ」
「……はい、やってみます」
少しだけ悪戯な表情で、王弟はそう言った。戸惑いはあるけれど、彼の言っていることが正しいのだと分かる。シュネーはボールを投げて、遊んでほしいのだ。
私はボールを受け取って、一生懸命に投げた。つもりだった。
「わふ!」
私の投げたボールは、ぽんと上がったもののそのまますぐ近くに落ちてきた。シュネーはそのボールの落ちてくる場所に少しだけずれると、それをぱくりと口で受けたのだ。そしてまた私の所に持ってくる。僅か数歩の距離だった。
「……」
「……」
「……ぶはっ!」
「ナーシル……!」
沈黙に耐え切れなくなったあたりでナーシルが噴き出してしまったが、無理もない。私も少し笑いを堪えている。王弟が咎めるようにナーシルを呼ぶが、彼はきっと悪くない。
「ふくっ、いや、ちが、違います! お嬢様を笑った訳ではございません! これはそう、微笑ましいなあって!」
「ナーシル、もう黙れ……!」
「あ、あの、あのっ、大丈夫ですわ。本当に……ふ、ふふふっ」
私の為に叱責されるのはおかしなことだと止めようとしたのに、どうにも笑いが堪えきれなかった。今までボールを投げたことなんてなかったけれど、もう少し上手くいくと思っていたのにあんなふうになるなんて。あれをナーシルが笑うのは当然だ。私が笑ってしまったからか、王弟も少し口角を上げて「くっ」と笑った。何でもないことなのに、しかも自分の下手な投げ方を笑われているのに、何だか楽しくて仕方がなかった。
「あっはは、それにしても力が入り過ぎですよ、お嬢様。まだ緊張してます?」
「え、いいえ、そうではなくボールを投げるのなんて初めてだったので。ふふ、難しいものなんですね」
「え」
「え」
「え?」
問いに答えただけだったのに、何故か王弟もナーシルも固まってしまった。また何かこちらの国の常識とは違うことを言ってしまったのだろうけれど、もう初めの頃のようには焦らない。この二人は戸惑いこそすれ怒ってはこないのだ。
「待て、ナディア。ボール遊びをしたことがないのか?」
「え、え、ボールを触ったことくらいはありますよね?」
「ええと、触ったのももしかしたら初めてかもしれません。ああいえ、もしかすると覚えていないくらい小さい頃にはあるかもしれませんが……」
「君の国では子どもがボールで遊ぶのは一般的ではないのか?」
「いえ、ですが男の子の遊びですね」
「え、女の子はやらないってことですか? でも自分、あちらの女性話者数名と連絡を取り合う仲なんですが、結構普通に使徒とボールで遊んでいるような人もいましたよ?」
「おそらくその方は平民階級なのではないでしょうか。平民の方々は男女関係なく学んだり遊んだりすると聞きますので」
「貴族の女子はしないということか、何故?」
「な、何故……? そうですね、貴族の娘がボールを追いかけたり走り回ったりするのは、はしたないとされているからでしょうか。こちらの女性はボールで遊ぶのが普通なのですか?」
「まあ、子どもの内は誰でも一度はやるだろうな」
二人は顔を見合わせたが、私はいろんな違いがあるのだなあと納得をした。こちらに来てから使用人を含め既に複数の女性と会っているが、皆一様に快活だった。ただただお国柄だと思っていたが、幼い頃からそうやって活発に遊んでいるのも要因の一つなのかもしれない。自国では女性はおしとやかでいることがよいとされているから、価値観の違いなのだろう。
「……ナディア、知らなかったとはいえ強要をしてすまなかった。だが、嫌であればそう言ってくれていいんだぞ」
「えっ、とんでもないですわ。シュネーが喜んでいるみたいでわたくしも嬉しいです。それに多分、祖父母はこういったことでは怒らないと思うので問題ありません」
「本当か、無理はしていないだろうな?」
「ええ、ご配慮に感謝いたします。それでその、よければ投げ方を教えていただきたいのですが……」
雰囲気にのまれたのか、普段なら図々しくて考えもしないことが口から飛び出してしまった。けれど座ったままのシュネーが、ボールをずっと見て鼻をひくひくとさせているのだ。きっと早く投げてほしいに違いない。王弟の使徒も同じようにボールを見ている。シュネーにボールを譲るように言われて王弟の使徒もうずうずとしているようだった。早く代わってあげないと可哀想だ。
「……そうだな、なら下から投げた方がいいんじゃないか?」
「下から」
「いや、お手本が必要でしょう。はい、ハサン様。もう一個ボール」
「ああ」
不敬だと怒ることもなく、王弟はナーシルが手渡した新しいボールを持って今度は腕を下げたままでそれを放った。すかさず王弟の使徒がそれを追いかけている。なるほど確かにその投げ方ならできそうな気がした。
「シュネー、いきますよ」
「わふ」
心の中でえいやと言いながら、私はボールを投げた。さすがに王弟のように遠くにはいかなかったけれど、さっきよりは随分と飛んでいる。シュネーも楽しそうにボールを追いかけて……。
「あ」
「あっ!」
「イグニス!」
私の投げたボールを王弟の使徒が取ってしまった。シュネーは驚いて、そしてまた王弟の使徒に向かってぎゃんぎゃんと吠える。王弟の使徒は、はっとしたようにボールを放して逃げ出していった。そしてそれを吠えながらシュネーが追いかけている。
何なのだろう、これは。使徒とは、こんなふうに賑やかに戯れるものなのか。私は知らない世界を見たような気分で、また笑いが込み上げてくる。
「ふふふ、シュネー。また投げてあげますからボールを持ってきてください」
私が呼ぶと、シュネーは王弟の使徒を追いかけるのを止めてすぐにボールを持ってきてくれた。よしよしと撫でると、さっきまで怒っていたのにいつも通りに穏やかな顔で目を細めている。子どもの頃から知っている自身の使徒であるのに、昨日と今日で新しい一面を何度も見ることができて嬉しかった。
「シュネーはあんなに賢いというのに、イグニスお前という奴は……」
「きゅうん、きゅうきゅううん……!」
「高い声を上げれば許してもらえるなどと思うな! 大体お前はいつも――!」
横を見れば王弟に叱られて、彼の使徒が尻尾を丸めている。使徒を叱る話者というのも自国ではあまり見ないが、これもこちらでは普通のことなのだろうか。迫力はあるが、暴力的ではない。それでもこれは止めるべきなのだろうかとおろおろしていると、ナーシルが王弟の肩を叩いた。
「はいはい、その辺で。お嬢様の前ですよ」
「しかしだな」
「しかしじゃなくて――」
「ナディアー! 虐められておらんかー!?」
「え、お爺様?」
仕事を任されている筈の祖父の声がして振り返ると、運動場の入り口から走ってくる人影が見える。それはやはり祖父で、我々の所まで走ってくると私の手をがしりと掴んだ。もうお年だというのに本当に元気な祖父だと思う。
「大丈夫か!? 意地悪されておらんか!?」
「カエルム卿、さすがに人聞きが悪いですって。うちのハサン様がそんなことする筈ないでしょ」
「そうですわ、お爺様。とてもよくしていただいております」
「うっうっ、儂は虐められとる!」
「え?」
「こっちの人間はいい意味でいい加減な奴が多いのに、もっとあれを教えてくれこれを教えてくれとしつこい! 真面目か!? いい人材だな!」
祖父はよく分からないことを叫びながら腕で顔を覆った。祖父は昔から泣きまねを多用する人で祖母にも呆れられているが、今回は特に意味が分からない。この旅で暫く一緒にすごしているが、祖母からは「あの人が訳の分からないことを言っている時にはあまり親身にならなくていいわ」と言われているくらいだ。多分これも、きちんと話を聞かなくていい分類のことなのだと確信できた。
「そういう人間を選抜しました。どうぞ、よくよくご指導ください」
「儂のこと虐めてるのはハサン様だった!?」
「何のことやら。ほら、グロリアが迎えに来てますよ」
運動場の入り口から、大きな犬が走ってきている。シュネーによく似ているあれは、祖父の使徒だ。子どもの頃、公爵家に出入りしていた時にはよく構ってもらった記憶がある。当時の記憶が正しければあの使徒はかなり真面目で、祖父が家の仕事をちょっとでもさぼるととても怒っていた気がする。そして猛スピードで近づいてくる祖父の使徒の顔は、とても怖い。
「ぎゃー! グロリアちゃん、落ち着いて! ちょっと休憩しているだけだから!」
「ぐるるるるるぅ!」
「わか、分かったから! ちゃんと戻るから、服噛まないで! トイレ休憩のついでにちょっと孫の顔見にきただけじゃん! あー、ナディアー! 晩御飯はお爺様と一緒に食べようねえー!」
「お、お仕事頑張ってください、お爺様……!」
祖父は使徒に連れられて、あっという間にいなくなってしまった。
「ええと、祖父がお騒がせしまして申し訳ございません」
「いや、ナディアが謝ることじゃない。だが君はやはり彼らには似ていないな」
「……そうでしょうか」
「しかしまあそれでよかったんじゃないか。彼らはこちらに馴染むのは早かったが、何というか強烈すぎる」
「ふふ、そうかもしれません」
朝に似ていないと言われた時にはひどく動揺したけれど、今はそこまで悲しいとも思わなかった。王弟に悪意や蔑みがないのがちゃんと理解できたからだ。容姿はともかく性格などが似ていないのも事実であるし、彼はただそれを言っているだけに過ぎない。
「ナディア、今日はそろそろ案内を終わろうと思うが、その前に言っておかなければならないことがある」
「はい、何でしょう?」
「前振りが大袈裟ですよー」
「ナーシル、煩いぞ」
「はーい、邪魔者は向こうで控えてまーす」
茶化してきたナーシルが離れて行く。今朝までであれば王族と二人きりなんてどんなにか緊張していただろうけれど、今は何故かそれをあまり感じない。この半日程で少しは慣れたのかもしれないと素直にそう喜べた。不敬かもしれないと怯える心は、どこかに隠れてくれているようだ。
「実は君の観光の件なんだが、これは完全に兄が仕組んだものだったんだ」
「え?」
「兄は以前からカエルム卿に我が国の話者の指導を頼んでいてな、しかしあちらでの仕事が忙しいだの隣国の元公爵が出張る訳にはいかないだのと、理由をつけてのらりくらりと躱されていた。とはいえカエルム卿の断りの理由はもっともだし、長期滞在を願うにも難しい」
「そんなことが……」
「そんななか、卿は君を連れて現れた。機嫌よさそうに酒を飲む卿が『暫くはいるつもりです』と話した時の兄の悪そうな顔は忘れられん」
「ええと……」
「……カエルム卿は、君と夫人と旅行に来られたことをとても喜んでいた。念願叶ったのだと。兄はそんな卿に次々と酒を盛った上で、この話を持ちかけたんだ。王妃から夫人への願いはまた別の話だったが、それも上手く使っていた」
そういうことだったのかと、私は慎重に頷いた。何かしらの陰謀でもありそうな口調だが、結局祖父が酒に酔って話を決めてしまったことに変わりはなさそうだった。それに国王からの願いであるのなら、通常断ることなどできないだろう。
「一応止めようとはしたんだが『ついでにお前も仕事を休め』と命じられて止めきれなかった。私も休め休めと言われているのを随分と無視していたからと詰られて、言い返せなかったんだ。せっかくの家族旅行に水をさすようなことをして悪いと思っている」
「いえ、王弟閣下に謝っていただくようなことではございません。……それよりも、わたくしが閣下の休息のお邪魔になっていないかが気がかりです」
「……私は、ゆっくりと寛ぐということが苦手でな。時間があるなら仕事か鍛練か勉強でもしていたいし、地方視察にも行きたくなる。しかしそうなるとそれは休息ではなくなり、私はまた兄に詰られる。ので、重ね重ね悪いんだが、できればこのまま一週間程付き合ってもらいたい」
何故かそう申し訳なさそうに言う王弟の心情が、私にはよく分からなかった。いくらこの国の身分制度が曖昧だからと言って、王族の頼みを断る人なんている筈がない。……いや、もしかすると、この国にはいるのだろうか。では私が断ったところで、それは不敬にはならないのかもしれない。けれど、と私は少し顔を上げて王弟の目を見た。
「わたくしでお役に立てるのでしたら、是非。光栄なことでございます」
「……そうか、礼を言う」
「ただ閣下、一つお願いがございまして」
「何だ?」
「わたくしはやはりこちらの文化に不勉強で、知らずまた無作法をするかもしれません。その時はどうか、本日のように教えていたたきだいのです」
「ああ、分かった。ただし君も、無理をしないと約束してくれ。嫌なことや難しいことは、そうだと言ってほしい」
「はい」
返事をしながら私は少しだけ微笑んでしまった。祖父母が王弟のことを何度も真面目だと言っていた意味がよく分かったからだ。この人は、とても真面目で誠実なのだ。それだけの地位を持っていながら、私と対等に接してくれようとしている。純粋に素晴らしい人だと尊敬ができた。
「それと私からももう一ついいだろうか」
「はい?」
「できれば私のことは、ハサンと名で呼んでほしいんだがどうだろうか」
「……王弟閣下のお名前を、わたくしがですか?」
「この国では、食事を共にする仲なら名前で呼び合うのが普通だ。国王だけは例外だが、国王以外の王族はその例外に含まれない。ナーシルだって私のことは名前で呼ぶ。勿論不敬ではない。さすがに敬語まで止めろとは言わないが、難しいか?」
それはさすがにと言いかけて、私はぎゅっと手を握った。
「いいえ、ではハサン様。これからよろしくお願いします」
「ああ、こちらこそよろしく頼む」
そう言うと、ハサン様は安心したような表情を浮かべた。