3,初めての隣国と久しぶりの使徒、そして真面目そうな王弟閣下
祖父の「これから旅行に行く」というのは、本当に「これから」だった。それは「すぐに」という意味だった。
「あ、っつい……っ!」
旅行の話をした数時間後には、私は祖父母と一緒に遠乗り用の馬車に乗り込み王都を飛び出していたのだから。そして国内を一週間かけて移動し、国境を越え更に五日。やっと本日隣国アルドル王国の王都の隣町に到着したのだ。
さすがは砂漠と火の国と称されるアルドル王国だ。日差しがあんまりにも強く、暑い。自国の衣装で動くのは暑すぎて、すぐにこちらのものに着替えたくらいだ。祖母はまた既製品になってしまったと不満顔だったけれど、十分に高価な生地で作られた衣装は軽やかで動きやすい。複雑な刺繍も施されていてとても美しかった。
「そうだな、暑い! むしろ熱いな!」
「ほら、二人とも何をしているんです。早く傘の中にお入りなさいな」
「はい、お婆様」
祖母に言われるままに大きな傘の下に入り、そこに置かれた椅子に座るとすぐに冷たい飲み物が出された。これらは公爵家が用意したものではなく、この街の施設の一つだ。休憩をする為の施設はいくつもあるらしく、ここは観光客用に三階にあるテラスから外の様子が見られるようになっている。屋内には氷の秘石が置かれており涼しく過ごしやすいようになっているが、祖父母は外が見たいと言った私の我儘に付き合ってくれていた。
「この暑さも久しぶりだなあ。まだ日中に動ける気温ではあるけれど、やはり暑い!」
「ふふ、グラキエス王国は寒い地域が多いですからね。ここまで暖かいのは、ナディアは初めてでなくて?」
「はい、夏でもここまで暑くはありませんから新鮮です」
生国であるグラキエス王国は春と夏の期間が少なく、僅かな秋が過ぎ去ると一瞬で雪に覆われる。氷や水の使徒と意思疎通のできる話者が雪の量を調節したり、絶え間なく水を流し続けることで雪を溶かし積もらせないようにしてやっと生活が成り立つ地域もあった。
「楽しいのは分かるが、儂みたいに倒れるまで外にいないようにな。この国の人でも夏の日中は外を出歩かないらしい」
「まったくですわ、あの時は本当に大変だったのですから」
「まあまあ、昔のことじゃないか」
「あたくしにとってはつい最近のことでしてよ」
「ふふっ」
「あ、ナディア、笑ったな!?」
「ごめんなさい、お爺様」
「貴方が笑われるようなことをなさるからですわ」
「ええーそうかなあー……?」
「ふふふ」
祖父母のやり取りを見ていると、自然と笑みがこぼれる。何だか即興の喜劇でも見ている気分だ。再会してすぐの旅行で驚いたけれど、この数日で二人にも随分と慣れた。二人はいつも優しく、それでいて押し付けることもせずに今だって私に付き合ってテラスで一緒にジュースを飲んでくれている。それがどんなに有難くて幸せなことなのか、それはきちんと理解しているつもりだ。……いつか、この恩に報いたいと思うけれど私にそれはできるのだろうか。そもそも残してきてしまった問題も多すぎて考えるだけで頭が痛い。それに――。
「――ナディア、聞いとるか?」
「あ、すみません、お爺様。ぼんやりして……」
「あら、いけないわ。暑さにあてられたのかも、中に入って休みましょう。外はまた見られるから」
「はい、お婆様」
言われた通りに席を立ち中に入ると、冷気がふわりと頬を掠めた。やはり暑かったようで、その冷たい風にほっとする。すぐに施設の使用人たちがハンカチを用意してくれ、それで額や首を拭うとしっかりと汗をかいていたのだと理解できた。
「ナディア、ここまでくれば明日にはアルドル王国の王都に着くぞ。ここももう随分賑やかだが、王都は更に栄えているから楽しみにしておいで」
「ええ、お爺様。楽しみですわ」
「うんうん……。あ、しかしナディアの服ももう少し買っておかないとな」
「え」
既に複数の衣装を買ってもらっているし、これ以上は荷物になる。砂漠地域の多いこの国では、馬車を引いていくのは現実的ではなかった。舗装されている道もあったが、そうでない砂漠を行かなければならない箇所もある。そこはラクダという動物に乗ったり、風の使徒を使用して移動した。
驚くべきことにアルドル王国には話者が多く、平民でも使徒を商売に使うことが伝統的にあるらしい。そのおかげで移動は快適だったが、グラキエス王国では使徒とは尊ぶべき特別なもの。祖父母は慣れているようだったが、あまりにも気安い話者と使徒との関係に文化の違いを見て、私は少しばかりひやりとした。
話は戻るが既にこの国の衣装は複数持っている。どのくらい滞在するつもりなのかは知らないが、この動きやすく素晴らしい衣装は、けれど自国で着るにはあまりにも特殊だ。どう断るべきかと困っていると、祖母が私に向かってにこりと微笑んでくれた。
「ご心配なく、お針子と商人をホテルに呼んでもらいましたわ。とりあえずの既製品はもうありますし、仕立てをしなければ。王都に出店している店の方ですので、出来上がりは王都の店に運んでくださるそうですよ」
「おお、さすがはシャーロット。抜かりがないな」
「ほほ、伊達に貴方の妻を何十年としておりませんわ」
……私の思っている方向性ではないフォローだったが、もう話は纏まってしまったらしい。
「どんなのになるか楽しみだな、ナディア」
「とっても素敵で気品あふれるものにしてもらいましょうね、ナディア?」
「え、ええ、楽しみですわ……」
まあ、前公爵夫妻の金銭感覚にものを言うのも無粋だろう。それに、単純に私の為だけに仕立てられる衣装が楽しみなのも本当だ。以前の私の衣装は全てオリビアに合わせたものか、逆に彼女が選ばなかったようなデザインのものばかりで、つまりは妹の都合に合わせて作られていた。しかしもうそうではないのだ。
「ということなので、ここで少し休んだらもうホテルに戻りますよ」
「ええ、そうなの? この街も楽しいからナディアを案内したかったんだが……」
「あら、貴方。今回こそはぎりぎりまで気付かれたくないのだと仰っていたじゃないですか」
「気付かれたくはないが、ちょっと出歩くくらいならそんなすぐには――」
たまに祖父母は私には分からない話を始めることがある。何の話をしているのか分からないがこういう時は黙っていてもいいらしく、これはこれで楽なので私は渡されたスパイス入りの甘い紅茶をこくりと飲んだ。外は暑かったので冷たいジュースが美味しかったが、中は涼しいので温かい紅茶が体に優しい。
そんなふうに二人が話していると、この施設の使用人の一人がすっと近寄ってきた。
「ご歓談中、失礼いたします。お客様がいらっしゃっております」
「何だと!?」
「あら」
「……ううむ、まったく仕方がないなあ。お通ししてくれ」
「畏まりました」
「……お爺様たちのお知り合いですか?」
「おそらく儂の友人の弟君だな。明日はその友人と会う予定だったんだが、サプライズのつもりだったのになあ」
先程までの会話と総合すると、祖父はその友人に黙ってこの国に入り驚かせるつもりだったのがバレてしまったらしい。まあ、祖父は爵位を譲ったとはいえ公爵だった人だ。そんな祖父の友人なのだから、きっと情報を仕入れるのも早かったのだろう。……むしろよくよく考えれば、前公爵がお忍びで隣国に遊びにくるのもどうかと思う。まあ、祖父のこの茶目っ気は隣国でも許されているということだろうか。
しかし入室してきた人物の声は、少し硬く低かった。
「それは困ると以前にお伝えしたはずだが?」
がっちりとした長身にこちらの国には多い健康的な褐色の肌の身なりのよい男性は、ため息まじりにそう言いながら入室してきた。目鼻立ちがはっきりとしていてどこか野性的な美しさを感じるその人は、眉間に皺を寄せながら祖父をじとりと睨みつけている。
「おおー! 相変わらず真面目そうな顔をして! また男前になったか!?」
「カエルム卿、我が国に来られる際は一報をくださらないと困るとあれほど……」
「まあまあまあまあ! ほら、ナディア! こちら、ハサン・アウローラ閣下だ。噂に違わぬ男前だろう?」
一拍を置いて、私は立ち上がった。ハサン・アウローラといえば、この国の王弟閣下だ。緊張よりも驚きが先だったけれど、どうにか礼儀通りに膝を折る。
「こ、これはご無礼を……!」
「まあまあ、そう畏まらないでいいぞ」
「それを貴方が言うんですか、卿。……いや、頭は上げてもらって構わないが、そちらは?」
「儂の初孫、一番上の孫娘でナディアと申します。いやあ、もう目の中に入れても痛くないくらいには可愛くてね」
「そうですか……」
王弟は呆れ顔で、またため息を吐いた。状況の把握ができない。これは一体どういうことなのだろう。祖父はただの旅行だと言っていたのに、そこにどうして隣国の王弟が現れるのか。困惑する私を他所に祖父と王弟閣下は話を続けているが、けれど身の置き場もないような不安を覚えて祖母を見る。すると祖母は私に向かってにこりと微笑んだ。
「では、ハサン様、貴方も。お二人は積もる話がおありのようですし、あたくしたちはホテルに下がらせていただきますわ」
「え!? 儂だけ置いて行くつもり!?」
「困ります、夫人。すぐに王都に来ていただかなければ」
「あら、でしたら夫だけ先にお連れくださいな。あたくしとナディアは明日お伺いいたしますわ」
「そういう訳には……」
「ホテルにお針子が来る予定ですの、急がないといけませんわ。……まさか、女の装いの準備を邪魔なさるおつもり? 貴方の国の産業でもあるのに?」
言いつのる祖母に王弟は押し黙り、ぐうと眉間に皺を寄せた。何故か祖父は楽しそうだけれど、私は気が気でない。正直なところ私は衣装などもうどうでもよかったから、どうして祖母がそこまで拘るのかも分からなかった。
「ハサン様、悪いことは申しません。儂の妻に逆らってもいいことは一つもありませんぞ」
「……夫人、それはどれくらいで終わるのですか?」
「分かりませんわ、お針子次第でしょう。あたくしが勝手に切り上げられるものではありませんもの」
「王都にそのお針子を呼ぶ訳にはいかないのですか?」
「あたくしは構いませんが、お針子は構うでしょうね。彼女らも王弟閣下のご命令とあれば断ることはしないでしょうが、彼女らには彼女らの事情と商売があるでしょうから、こんな何の緊急性もない上流階級の気まぐれ一つで仕事や予定が狂うのは哀れで仕方がありませんわね」
祖母は高慢そうにそう言い切った。言っていることは間違っていないかもしれないけれど、それでも隣国の王弟閣下に対してあまりにも不敬だ。私はたまらず祖母に近寄った。
「お、お婆様、あの……」
「ナディア?」
「は、はい……」
「しーっ」
「……はい」
祖母をどうにか止めたかったのだけれど、私にそんな力はなかった。にこりと微笑む祖母からは、義母とは明らかに違うが何かしらの圧を感じる。助けを求めて祖父を見ても、やはり楽しそうにしているだけだ。とてもこの状況をどうにかしてくれそうにはない。王弟も祖母の迫力にどうするのかを決めあぐねているようで、私は私で成り行きを見守ることしかできなかった。
そんな混沌とした空気の中、祖母は笑ったままで視線を祖父にやった。
「あたくしはね、ずうっと不満でしたの。あたくしの孫娘が既製品を着ていることが。ねえ、分かってらっしゃるの、貴方?」
「あっあっ、怒りの矛先は儂だった……?」
「確かに観光はよかったですわ、ナディアも楽しんでいたようですし。でも、あたくしは既製品を購入した時に言いましたよね。腕のいいお針子のいる都市まで急いでくださいって」
「う、うん、そうだったね……」
「それを、わざとかのようにお針子がいるような都市を避けて」
「ワザトジャナインダヨ……カンコウチガネ……」
「ええ、それで怒るようなあたくしではありませんわ。だからこの都市に入った時にすぐにお針子を呼んだんです、分かりますね?」
「ハイ……」
「ということですので、ハサン様。あたくしは絶対に本日決まった時間にお針子と会い、ナディアの服を仕立てさせなければ納得がいきませんの。悪いのは全て夫ですので、煮るなり焼くなり好きにしていただいて構いませんわ」
すっかり小さくなってしまった祖父を横目に、祖母はまたにこりと笑った。
「あと、余計なお世話は重々承知ですが、女の支度を急がせたり邪魔をするような男性はモテませんのよ。肝に銘じてらして」
「……お待ちしますので、終わり次第教えてください」
「そうですか? ありがとうございます、さすがは賢良方正と名高い王弟閣下ですわ」
王弟はやれやれといった体で小さく首を振った。その返事に満足したのか、祖母は機嫌よくホテルに戻る手配をして私を呼ぶとさっと部屋から出て行く。王弟には申し訳ないが、けれどどうすることもできなくて、私はもう一度小さく膝を折ってから祖母のあとに続いた。祖父はついて来ないので、おそらくそのまま王弟のお相手をするのだろう。
「あ、あんなことを言ってよかったのですか、お婆様……?」
「よいのです。あちらの言い分も分からないでもないですが、緊急性がないのも本当ですもの。それにあたくしの我慢も限界だわ」
「この服もよいものだと思うのですが」
「けれど、それはナディアの為のものではないわ。貴女の為に選んだけれど、貴女の為の唯一ではありません。旅先だけれど、せめて一着は唯一を持っておくものですよ」
優しく微笑む祖母に、私はもう何も言えない。どちらでもいいという気持ちと、やっぱり仕立てたものが欲しいという気持ちが心の中でせめぎ合っているようだった。……でもどちらにしろ、ホテルに戻ってお針子に会うのは決まったことなのだ。ならもう、楽しんでしまってもいいのかもしれない。
「……どんな風なものができあがるのか、楽しみです」
「ふふ、そうでしょう? 素敵なものにしてもらいましょうね」
「はい」
ホテルに戻ると、五人のお針子と三人の商人が既に私たちを待っていた。祖母が急いでいることを伝えると、お針子たちは素晴らしい手際で私の体を採寸していく。五人がかりの採寸は思ったよりも早く終わったが、そのあとの刺繡の形や装飾品、生地を選ぶのに時間がかかった。やっとそれが終わる頃には、もう外はすっかり暗くなっていた。
「あらナディアったら、若いのにだらしがないわね。このくらいで疲れてどうします?」
「も、申し訳ございません、お婆様……」
「謝らないのでいいのよ。まあ、こういうのは確かに疲れるものです。でも慣れですからね、頑張りなさいね」
「はい……」
お針子や商人たちとたくさん話し、考え疲れた私はもうへとへとになってホテルのソファで項垂れていた。それなのに一緒に考えてくれていた筈の祖母の背は美しくしゃんと伸びていて、その上機嫌よさげににこにことしていてとても元気そうだ。これが慣れの差だというのなら頑張らねば、私はぎゅっと小さく拳を握った。
「ふふ、もう連絡はしているからお迎えはすぐに来ると思うけど、少しの間だけでも休んでいなさいな」
「お言葉に甘えます……」
「あらあら、もう、うふふ」
祖母は楽しそうに笑って、子どもにするように私の頭を撫でてくれた。再会してから何度か祖母はこうやって私の頭を撫でてくれる。本当ならもう大人なのにと断るべきなのだろうけれど、あまりにも心地がよくてずっと言い出せないでいる。
暫くすると何とも言えない顔の王弟閣下と楽しそうな祖父が、私たちを迎えに来てくれた。
「では夫人、もうよろしいですね?」
「ええ、結構ですわ。お待ちいただきありがとうございます」
「では転移を」
王弟がそう声をかけると、後ろに控えていた複数の従者の一人が鷹のように大きな使徒を腕に乗せて一歩前に踏み出してきた。あれはおそらく風を司る使徒だろう。このアウローラ王国に来てから何度かああいう使徒を見たことがある。
「転移の秘術を使用いたします。皆様、中央に集まって目を閉じお待ちください。使用人の方々や荷物は後程お送りいたします」
驚いたことに、従者はこの全員を一度に転移させることができるようだった。私が以前使った秘石の秘術は一人が限界だったし、むしろ転移の秘術が使える使徒も少ない。つまり、この従者の使徒はかなり力が強いらしいことが分かる。
指示に従い祖父母と共に中央に集まって目を閉じる。風が足元をふわりと通りすぎる感覚があって、その次に何故かがくんと膝が崩れた。
「きゃ……っ」
「おい!」
体が倒れかける寸前に支えられて床に手をつかずに済み、ほっとする。しかし、この肩に回された腕は誰のものだろう……?
「……大丈夫か?」
「えあっ、だ、大丈夫です!」
あんまりにも近い位置から聞こえる声に驚いて飛びのく。私は、王弟閣下に助けられたらしい。
「お手数をおかけしまして、大変申し訳なく……」
「手数という程ではない。怪我は?」
「あ、ありません、ありがとうございます」
「そうか。では皆、こちらへ」
王弟はそれだけ言ってさっと歩いていくので、私も祖父母と共にそれについて行った。……あの程度のことに過剰反応してしまったことが、あんまりにも恥ずかしい。成人してもう二年で一応はついこの間まで婚約者がいた身であるのに、男性に慣れていないにも程があるだろうと私は私自身にため息を吐いた。祖母が気付いて「どうしたの?」と聞いてくれたが、よろめいた所を助けてもらったことは言えても、ため息の原因までは伝えられなかった。
それにしても、ここはどこなのだろうか。王弟が王都に行くと言っていたから王都のどこかだろうけれど、そういえば目的地は聞いていなかった。どうやら室内のようだが、豪華絢爛という表現がよく似合う素晴らしい内装だ。
「お婆様、これからどちらに行くのでしょう?」
「あら、言っていなかったかしら。お爺様のお友だちの所よ」
「お爺様のお友だちですか?」
「ええ、この国の国王陛下」
「っ!?」
驚きのあまり、声も出ない。しかし、少し考えれば分かることだ。国王陛下が呼んでいたからこそ、王弟が迎えに来たのだろう。こんな簡単なことが、どうしてすぐに分からないのか。
「あ、シャーロット。バラしちゃったのか? せっかく吃驚させようと思ってたのに」
「何を仰るんです、貴方。ナディアが可哀想でしょう、ねえ?」
「え、ええと、では、もしかしてここは……」
「そう、王宮よ」
「どこもかしこもきんきらきんだろう。儂も初めは驚いたが、これはこれで趣きがあっていい」
「は、はあ……」
私の目から見て異国情緒があふれる廊下を歩きながらそんな話を続けていると、王弟閣下がひと際大きな扉の前で止まった。
「兄者、カエルム卿夫妻とそのご令孫をお連れしたぞ」
「おう、入れ!」
開かれた扉の中で、王弟とよく似たしかし一回り以上は年上であろう男性がにやりと笑いながらこちらを見ていた。
―――
本格的な宴会になる前に退出を許された私は、アウローラ王国王宮の一室で一人カウチに座り込み深く深くため息を吐いた。
「まさか王宮に滞在することになるなんて……」
それならそうと、せめて教えておいてほしかった。しかしもう終わった話だ。どうすることもできないし、聞いていたからといってどうにかなった事柄でもない。ただそれでも僅かばかりの心の準備はできただろうと少し祖父を恨めしく感じながら、私は先程までの賑やかさを思い出した。
王弟に案内され通されたのは、なんと国王の私室だった。私室といっても客人を迎える為だけの部屋らしいが、それでも国王のプライベートゾーンに変わりはない。異常に手触りのよいソファに、複雑でいて繊細な刺繍の施された絨毯。テーブルに置かれた料理や酒自体は勿論のこと、それらが入った磁器の器は素晴らしく美しく、一つ一つのものが当たり前に最高級品だった。
サイード・アウローラ国王陛下は祖父母との再会を喜び、私のことも大変に歓迎してくれた。何でも昔、祖父母は国王を助けたことがあったらしい。それから交流を続けており、年は離れているが本当に友人関係であるそうだ。
国王の友人であり、隣国の元公爵夫妻である祖父母は勿論最重要人物だ。けれど祖父の性格上、今回のようにまっすぐ王宮に来ることなどなく、その度に王弟は彼らを迎えに来ているらしかった。検問で分かりそうなものだけれど、祖父の意向を尊重している国王がその辺は調べさせていないのだそうだ。
であれば最後まで待っていてくれればいいものを結局迎えに行かせるのだから、王弟は仕事が増えて仕方がないと愚痴を言っていた。そしてそんな王弟を国王と祖父が笑うものだから、私は無意味に居心地の悪さを感じながら曖昧に相槌を打つことしかできなかった。
そんな私に気を配ってくれたのか、国王はわざわざ話題を振ってくれた。
『いやあ、それにしてもアーチーの孫の中にこんな妙齢で美しい女性がいたとはな』
『はっはっはっ、可愛いでしょう、そうでしょう』
『だがすまんな、うちの女性陣は今夜は皆都合がつかなかったんだ。妻は臨月で実家に戻っているし、一番上とすぐ下の娘は寄宿学校でそれより下はまだほんの子どもでな、こういう席で客人を楽しませるのはまだ難しい。ちゃんと楽しめているか?』
『はい、陛下、勿論でございます。聞いたことのないお話ばかりでとても楽しく思っております。そのお心遣いに感謝いたします』
隣国の国王に失礼がないよう細心の注意を払って話したつもりだったが、国王は目を見開いて祖父を見た。何か不手際があったのだろうかと焦ったけれど、国王は愉快そうに口を開く。
『……本当にアーチーの孫か? とんでもなく、礼儀正しいじゃないか』
『まあ、陛下、当たり前ですわ。あたくしの血筋ですもの』
『ああまあ、確かにそうだな……。シャーロットは素晴らしい淑女であるから、その血を引くなら当然のことだ』
『陛下、どうして目をそむけるのです? 陛下?』
『あああー! そうだ、二人の孫というのならばナディアも話者なのだろう?』
祖母の厳しい視線から逃れるように、また話題が戻ってきてどきりとする。祖父母は勿論、カエルム公爵家に連なる人々のほとんどは話者だ。その血を引く私も確かに話者ではあるが、この数年使徒を呼んだことがない。そんなことを説明する訳にもいかず、私は曖昧に微笑むことしかできなかった。
せっかく話を振ってもらったというのに、何ていう体たらくなのだろう。そんな自身に絶望しても何の解決にもならないが、国王は特に気にせず話を続けてくれた。
『君の使徒はどんなふうで、どんな秘術を使う? ちょっと見せてはくれないか?』
『あ、ええと……』
『ちなみに俺の使徒は獅子だ。ほら、あそこで悠々と寝ていやがる。いざという時以外はてんで怠け者でいかん』
国王が指さした場所には、どうして今まで気付かなかったのか分からないくらいに大きな使徒が横たわっていた。使徒は丁度国王の後ろにいたものの、それでも緊張で周りがよく見えていなかったことがよく分かる。獅子の形をした美しい使徒は、本当の生き物のように気持ちよさそうに眠っていた。使徒というものが眠っているのを見るのは初めてかもしれない。
……けれど、使徒が眠っていることに感動を覚えている場合ではなかった。私の使徒は、今でも私の呼びかけに応えてくれるのだろうか。しかし、国王の前でできませんなどとも言えない。私だけならまだしも、祖父母に恥をかかせる訳にはいけない。無意識の内に膝の上でぎゅうと握った手の上に、祖母がそっと手を重ねてくれた。
『大丈夫よ、ナディア。貴女の使徒は呼べばすぐに来てくれますよ』
そう言った祖母の膝の上には、いつの間に呼んだのか彼女の使徒がくつろいでいた。祖母の使徒は真っ白で毛の長い小さな犬のような形をしていて、とても愛らしい。祖母の使徒は、彼女と同じように優しい目をして尻尾を緩く振りこちらを見ていた。
『……はい、お婆様』
使徒に呼びかける時、私は心の中でそっとその姿を思い描く。そして傍に来てくださいとお願いをするのだ。……本当に来てくれるのだろうか。出てこないでくれと頼んだのに、ムシがよすぎるのではないか。でも、どうか。あの時はごめんなさい、お願いしますと一生懸命に使徒を思い浮かべた。
すると、
『わん!』
『わっ』
私の使徒は、昔と変わらない姿で現れてくれた。そして昔と同じように私に飛びかかって、嬉しそうに尻尾をぶんぶんと振っている。大きくて真っ白でふわふわの犬のような私の使徒は、まるで子どもがはしゃぐように飛び跳ねて喜んでいるようだった。
その姿に、胸が痛む。私に会えただけで、こんなにも喜んでくれる存在なんてそう多くはない。それなのに私は義母が怖くて、自分が可愛くて現れないでくれと頼んだのだ。私はぎゅうと使徒を抱きしめて、小さく『ごめんなさい』と呟いた。
『おお、大きな犬の形か。アーチーと一緒だな』
『ええ……。この子の親も、このような使徒を連れておりました』
二人の声にはっとして、ここが国王の私室であることを思い出した。国王の命で使徒を呼んだのに、そのことを一瞬でも忘れるなんてどうかしている。
慌てて体裁を整えようと使徒から離れると、視界に赤と白の毛並みがちらついた。
『わふっ!』
顔を上げると、そこには狼のような大きな使徒が座っていた。赤と白の毛並みは美しく、ともすれば凛々しい顔つきをしている使徒のようだけれど、口を開けているからかにこにこと笑っているように見える。
祖父の使徒は私の使徒とよく似ており、祖母の使徒は小型犬の形をしている。そして国王の使徒はあそこで眠っている獅子なのだから、つまりこの使徒は王弟のものなのだろう。そんなことをぼんやりと考えていると、私の使徒がその赤と白の毛並みを持つ使徒の前に立ちふさがった。
『ぐるるるるうっ!』
『えっ』
私の使徒が、歯をむき出して王弟の使徒を威嚇した。そんな姿を見たのは初めてで、ひどく戸惑う。私の使徒はとても温厚で、唸り声を上げたことだってなかったのに。
その状況に驚いて咄嗟に何もできないでいると、王弟の使徒はくるりとひっくり返ってお腹を出し『くうんきゅうん』と甘えた声を出した。まるで、降参するから仲良くしようとでも言っているような雰囲気だが、それでも私の使徒は唸ることを止めずぎゃんぎゃんと吠える。
『ど、どうしたんですか……?』
ここまで下手に出られているのに、私の使徒は興奮が収まらない様子だった。こんなことは初めてで、どうしたらいいのかも分からない。会わない間に性格が変わってしまったのだろうかと不安に思ったけれど、私が声をかけると私の足元に戻ってきてぺろりと手を舐める。しかしやはりまだ王弟の使徒を睨みつけていて、近寄ったら吠えてやるぞと言わんばかりだった。
いくら使徒同士のこととはいえ、相手は王弟の使徒だ。不敬だと断罪されてもおかしくはない。私はまた血の気が引く思いをしながら、祖父母を振り返った。けれど祖父母に助けを求めるより早く、国王が盛大に笑い出す。
『……ふっ、く、あっははは! 嫌われてやんの!』
『……兄者』
『お前、使徒しか愛想よくないのにな!』
豪快に笑いながら、国王は王弟の背をばんばんと叩き涙まで浮かべている。どうやら不興を買った訳ではなさそうで、私はそっと胸をなでおろした。
『も、申し訳ございません。いつもはこのようなことはないのですか……』
『ひぃひぃ……っ。いい、いい、謝る必要はない。こういうのは相性だからな。それで、名は?』
『え?』
何を聞かれたのか分からずそのまま聞き返していまうと、その問いには祖母と祖父が答えてくれた。
『使徒の名前です。アウローラ王国で話者は、使徒に名前を付けて唯一無二の友としてすごすものなのだそうですよ』
『使徒様に、名前を? 話者が付けるのですか?』
『そう、考え方の違いね。我が国では使徒は高貴で尊ぶべき存在ですが、こちらでは対等な友人という考えが強いわ。だから敬称もつけないことが一般的ね』
『儂も初めて来た時は驚いたがな、グラキエス王国でも専業の話者を中心に広まっている考え方らしい』
不思議であるし、あまりにも馴染みのない考え方だ。やはり自国であるグラキエス王国とアウローラ王国では、隣国であっても随分と使徒との付き合い方が違うらしい。しかし使徒が友人だというのは、少し身に覚えがある感覚でもあった。
そしてやっと笑いが収まったらしい国王が、更に補足をしてくれる。
『友人というか、そうだな。感覚なら双子とかそういうものに近いかもしれない。名付けがまだなら、今するといい』
『い、今ですか?』
『そうだ、名前がないと不便だし可哀想だろう?』
『可哀想……』
使徒が可哀想などと、考えたことなど一度もなかった。不躾で不誠実なことをしてしまったことを後ろめたく思ったことはあれど使徒とははるか雲の上の存在であり、私程度の一挙手一投足程度でどうこうなるような存在ではないと思っていたからだ。
けれど私の膝に頭を乗せて満足そうに撫でられている使徒は、可哀想だったのだろうか。出てこないでほしいと頼まれて名前も付けられないで、それでずっと可哀想だったというのなら、私はもうどう償えばいいのかも思いつかない。
またどうしようとそればかりを考えて、黙り込みそうになった私を救ってくれたのは王弟だった。
『兄者、文化の違いがあるのだから強要をするものではない』
『ええー……』
『君も、嫌ならそう言いなさい。ここは公の場ではないから、兄も今は王ではなく私人としてここにいる。それにこの程度の雑談中の出来事で王の命を破ったことにはならない』
『は、はい……』
言い方こそほんの少しぶっきらぼうに聞こえたが、その言葉で随分と気が楽になった。そもそも国王は祖父母の友人であるのだから、滅多なことをしなければ不興を買う心配などしないでよいのかもしれない。
私が落ち着きを取り戻したところで、祖父は自身の使徒を撫でながら話しだした。
『儂たちも縁あってこちらに来てから名前を付けたのだよ。使徒は人語を操らないが、気に入ってくれていることは分かる』
いつの間にか、この場には多くの使徒が出現していた。国王や王弟、祖父母や私だけでなく、使用人たちの足元や肩にも小型の使徒がぽつぽつと見える。本当に、使徒に対する考え方が自国とは違うようだ。自国では特に意味もなく使徒を呼び出すことはご法度とされていたし、使用人の中に話者がいることだって少なかった。
そんな不思議な雰囲気の中、私は自身の使徒を見下ろした。昔から変わらずに真っ白でふわふわの毛並みは美しく、きらきらと輝いている藍色の瞳が愛らしい。名前を付けるなんて思いもしなかったけれど、もし付けるとするならば……。
『……シュネーというのは、どうでしょう?』
『わっふ』
私の使徒は、いやシュネーはピンと耳を立ててぽふぽふと尻尾を振った。喜んでくれている。話者である私には、それが分かった。態度は勿論であるが、心からそう思ってくれていることが分かるのだ。話者とはそういう存在だから。じわりと何とも言えない気持ちが胸に広がる。けれどどうにか涙は堪えることができた。少なくともこの場で涙を見せるなんて、あまりにも場違いだから。
名付けが上手くいったからかそれとも元々そういう気質なのか、国王はまた明るく話しだした。
『おお、よかったよかった。で、シュネーはどんな秘術を使う?』
『水と氷を操ることができます』
『……ほう、アーチーと同じか』
『はっはっ、儂の孫ですからな』
そのあとも雑談は続いたが、夜が更けるからと祖母が新しい飲み物を断った。
『では、あたくしとナディアはそろそろ下がらせていただきますわ。男性同士だけでなさりたいお話もありますでしょうし』
『そのようなことはないが、麗しい女性たちに夜更かしをさせるのも忍びない。ゆっくり休んでくれ』
『ありがとうございます、失礼しますわ』
『失礼いたします』
祖母に続き国王の私室を出て暫らく歩いて、やっと私はゆっくりと息を吐いた。ぴったりと付いて来ているシュネーがそんな私を不思議そうに見ている。
『あらあら、緊張してしまったの?』
『はい、とても……』
『そう、でも慣れなさいね。こういうものも全て慣れです。カエルム公爵家の者となった以上は、高貴な方々との交流は今後も増えていくばかりですからね』
『はい、お婆様。頑張ります』
『ええ、その意気です。大丈夫、ナディアは礼儀作法も気使いも完璧だわ。こちらの国独自の作法もあるけれど、それは都度覚えていきなさい。幸いにもアウローラの人々はおおらかで、異国人に目を吊り上げて怒るような人はいませんからね』
『はい』
そして祖母とも別れ、王宮内に用意された部屋に通されて今に至る。王宮の使用人たちに寝る支度を手伝ってもらったからもういつだって眠れるのだけれど、疲れているのに興奮しているのか眠たくなくて困っている。
「それにしても、本当に緊張したわ……」
「わっふ」
「シュネー」
部屋の中を探索し終えたシュネーが、機嫌よさそうに尻尾を振りながら近寄ってくる。子どもの頃は夜は、いつもこうやって自室でシュネーと一緒にすごしたものだ。妹に拗ねられ、義母に叱られる前はずっとこうしていた。……すごく懐かしくて、それと同時にどうしてあの時間まで手放してしまったのだろうと後悔をする。
「くうん?」
シュネーは私の膝の上に前足を置いて、首を傾げるような動作をした。使徒は人語は操れないが動物とは違い皆知性が高く、人のような仕草をすることがある。シュネーもそうで、まるで「どうしたの?」とでも言っているようだった。
「いいえ、何でも……。そう、何でもないわ。心配してくれてありがとう、シュネー」
敬語を使おうとして、やはり止めた。使徒に敬語を使わないなど、自国では眉をひそめられるような行為だ。けれど、二人きりの時はいいだろう。これも昔からのことだった。人前では敬語を使うけれど、自室では友人と会話するように話していたのだ。シュネーも特に気にしている様子はなく、満足そうに尻尾を振った。
「久しぶりに会えて、とても嬉しいわ。……あんなことを言ってしまったわたくしの呼びかけに応えてくれて、本当にありがとう」
言いながら頭を撫でると、シュネーは気持ちがよさそうに目を閉じた。手触りのよい毛並みも昔と変わっていない。
「でも、あのね。どうして王弟閣下の使徒様にあんなに吠えたの? 怖かった?」
「きゅうん?」
シュネーは途端に首を傾げ、また逆方向にも傾げてそのままで私を見た。……これは、もしかして誤魔化そうとしているのだろうか。
「シュネー?」
シュネーは口をぱかりと開けて舌を出した。笑っているように見えるけれど、本当に誤魔化そうしているらしい。そのことだけが何となく読み取れて、けれどシュネーが何故そんなことをするのかが分からない。
「……言いたくないの?」
シュネーがぺろりと手を舐めるので、私はこの話を止めることにした。きっとどんなに聞いても理由は教えてくれないのだろう。話者は使徒に願いを伝えることはできても、それを強制することはできない。
「でも、あんなふうに吠えると吃驚するから、あの使徒様が嫌なのだったらわたくしの後ろに隠れてくれる?」
「わふっ」
「……それも嫌なの?」
「わっふ」
「そう……」
シュネーは、不満げな雰囲気も可否の返事も完璧だ。何とも分かりやすい使徒だとつくづく思う。妹の使徒は分かりにくかったが、シュネーは昔からその表情や仕草で何を伝えたいのかが分かりやすかった。話者である私が幼かったから、そうしてくれているのかと思っていたが、どうやらこれはシュネーの性格らしい。
シュネーと王弟の使徒との不仲の原因を探っておきたかったのだけれど、こうなってはもうどうすることもできなかった。
「……この話はとりあえずおしまいにして、今夜はもう寝ましょうか。一緒に寝る?」
「わん!」
「ふふ、子どもの頃以来ね」
シュネーと一緒に潜り込んだベッドは、昔に二人で一緒に眠ったベッドとは違う異国の匂いがした。けれど柔らかなその香りは嗅ぎなれないのに不思議と安心ができて、私は驚く程滑らかに眠りに落ちた。