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2,久しぶりの休息と祖父母の決定

 いきなりカエルム公爵家の屋敷に現れた私に対して、祖父母は驚きながらも温かく迎えてくれた。



「まあ、ナディア、ナディアではないの。少し見ない間にまた美しくなって……!」

「秘石を使ってまで会いに来てくれたのか、お爺様は嬉しいぞ!」

「あ……」



 祖父母の笑顔を見た瞬間に、私はあの家を抜け出せたことを理解して安心からか子どものように泣いてしまった。説明をしなければならないことが山ほどあったのに、焦るばかりで嗚咽が漏れてどうしようもなかった。でも、やはり子どもをあやすように祖父母が慰めてくれたのが嬉しかった。結局この日は何も話せず、私は泣き疲れて寝るという暴挙を働いた。


 翌日、私の二十歳の誕生日に目を覚ますと、私は見慣れない部屋で寝かされていた。それもその筈で、私は自分の意思でフェレス伯爵家を飛び出し祖父母の元へやってきていたのだから。



「……え?」



 頭の奥がじんと重たいのは、泣き過ぎたからだろう。泣き疲れて寝るだなんてはしたない真似をした事実をどうにか受け止めながら起き上がると、何故かベッドの周りには大量の箱が置かれていた。何なら周りだけではなく、ベッドの上にまで置かれている。箱は全て丁寧に包装されており、一目でプレゼントだと分かった。


 これは、もしかして、いやでも……。


 どうしたらいいのか分からなくて、私は毛布を握りながらじっと誰かが来てくれるのを待った。然程待たずに中年の使用人の女性が入室してくれたのは助かった。



「! ……お嬢様、お目覚めでしたか。お伺いが遅くなりまして、申し訳ございません。おはようございます、ご気分はいかがでしょう?」

「大丈夫よ、おはようございます。ええ、気分は悪くありません」



 どこか見覚えのあるその使用人にベッドの周りにあるプレゼントのことを聞こうとすると、彼女はたくさんのプレゼントを器用に避けて近くまで来てくれた。



「ナディアお嬢様、私のことを覚えていらっしゃいますでしょうか。お嬢様が公爵家にいらっしゃる際には、必ず私がお世話させていただいたのですが」

「え、ええ、お久しぶりね、ヘーゼル。貴女は親切だったから、もちろん覚えています」

「ああ……」

「ヘーゼル……?」



 ヘーゼルはベッドの横にしゃがみ込み、口を押さえて震えていた。何故か泣き出してしまった彼女に狼狽えながら、体調が悪いのかと聞くけれどそうではないと言う。


 ヘーゼルはおそらく父よりいくらか年上の人で、昔からずっとこのカエルム公爵家に仕えてくれている人だ。私がまだ小さい頃はさすがに父が祖父母に私の顔を見せに来ていて、義母の機嫌が悪くなるからと徐々に頻度は減っていったもののその時は必ず彼女がいたのを覚えている。あの時の私は、義母よりよっぽど優しい彼女のことが大好きだった。


 少しして、ヘーゼルは涙を拭き咳払いをしてさっと立ち上がった。目元は赤いが、もう笑顔だ。さすがは公爵家の使用人だと感心する程に、美しい姿勢だった。



「お騒がせいたしました、お嬢様。さあ、ではお着替えをいたしましょう。大旦那様と大奥様がたくさんのドレスを買ってくださったのですよ」

「……このプレゼントは、やはりそうでしたか」

「ええ、お嬢様を吃驚させるのだと張り切っておいででしたわ。我々使用人もお手伝いいたしましたが、お二人がプレゼントをお嬢様の周りに置いたのです。もちろん、ドレスだけではございません。靴やアクセサリー、香水や鞄、流行りの本に化粧品などもたくさん」



 ヘーゼルが楽しそうに話しているのをぼんやりと聞きながら、私は部屋の中を見回した。可愛らしい、女の子の部屋だ。けれど、私の部屋よりも格式高い調度品が置かれている。……ここは、実母が使っていた部屋だ。子どもの頃、何度か入ったことがある。そこで私はここがカエルム公爵領の屋敷ではなく、王都にあるカエルム公爵家のタウンハウスであることに気が付いた。


 もう年を召した祖父母は領地の屋敷で暮らしていた筈だったから、てっきりそちらに移動したとばかり思っていたのだけれど違ったらしい。



「……ナディアお嬢様、どうかされましたか?」

「あ、いいえ。……いいえ」

「お嬢様?」

「あのね、ヘーゼル。わたくし、これからどうしたらいいのかしらって、たくさん考えないといけなくて、それなのに頭が回らなくて困って……。そう、困っているの」



 本当に何の考えも無しに出てきてしまったから、ここからどうするかもどうなるかもあまり考えてはいなかった。きっと義母は激怒しているだろう。父はそれに困り果てていて、オリビアは泣いているかもしれない。全てを捨てる覚悟で出てきたのに、では次に何をしたらいいのかも思いつかない。


 弱音なんて、ただ弱みになるだけだから言うものではないのだ。しかも使用人相手にこんなことを聞かせてしまうなんて、貴族としてはあり得ない行動だった。けれどヘーゼルの優しい声を聞いてしまったら、子どもの頃に戻ったみたいで抑えられなかったのだ。


 そんな情けない私の手に、ヘーゼルはそっと触れてくれた。



「お嬢様は、今少しお疲れなのですわ。ですから回復なさいましたら、よい考えが浮かぶことでしょう。焦らずともいいのです。大旦那様たちが、きっとよいようにしてくれますから」

「そう、かしら……」

「ええ、そうでございます。さあさ、お顔を洗ってお着替えをいたしましょう。朝食までは少し時間がございますから、お茶とすぐに食べられるフルーツをご用意しますね。ああ、プレゼントの中身も確認しなければいけませんわ。大旦那様と大奥様がどちらのプレゼントがより喜ばれるのか競っていらっしゃいましたから」

「……そう」

「はい、そうですわ。ではご準備いたしますね」



 ヘーゼルがにこりと微笑んでくれたからか不思議と随分安心ができて、微笑み返すことができた。


 ヘーゼルが洗顔の準備を整えてくれている間に、一番近くにあった小さなプレゼントを開けてみる。するするとリボンを解くと、中には小さな青い宝石のペンダントが入っていた。キラキラとしていて当たり前のように高価そうなそれは、きっと私のことだけを考えて贈られたものだ。妹のついでではなく揃いのものでもなく、私だけの為に。


 私だけの為の贈り物は本当に久しぶりだ。子どもの頃は公爵家からのプレゼントが送られきていたのだが、オリビアが羨ましがるから断れと義母に言われ、その旨の手紙を書かされたことを思い出して少し笑ってしまう。あの時はまだ義母を慕っていたし、純粋にオリビアが可哀想だと思って言われるがままに書いたのだ。……あの手紙を、祖父母はどんな思いで受け取ったのだろう。



「あら、綺麗なペンダントですわね、お嬢様!」

「ええ、とても素敵ね」

「そちらは大奥様のお選びになったものですわ。……あの、お嬢様。よければ大旦那様のプレゼントもご覧になっていただけますか? 大奥様のものしか見ていないと知られたら、きっと拗ねてしまわれるので……」

「ふふ、そうかもしれませんね。では、どれがそうなのかしら?」

「こちらの白色のリボンの箱は大旦那様からですわ」



 渡された小さな箱を開くと、そこには繊細な細工を施されているけれどかなり大ぶりな髪飾りが入っており、私は顔を上げてヘーゼルを見た。彼女が絶妙な顔をしているのは、その髪飾りがあんまりにも素晴らしい出来ものであるからだろう。美術館に飾られていてもおかしくなさそうな一品なのだ。



「……多少、今の流行りではないようですが、ええと、パーティーなどには映えるかと」

「ふふふ、そうね、わたくしもそう思います。それに、とても綺麗だわ」

「そ、そうですわね、よろしかったですわ。さあ、朝のご準備をいたしましょうね」

「はい」



 朝の支度をし、果物を摘みながら残りのプレゼントも開けた。全ての箱を開ける前に朝食に呼ばれてしまったので部屋の中がプレゼントと開けた箱と包装紙とリボンとでひどく散らかっていたけれど、それらはあとから入室してきた若い使用人たちに任せることになった。片付けは彼女たちの仕事の内だろうけれど、なんとなく申し訳なさを感じたのはここが自室でないことと自身がこの家の人間ではないからだろう。


 深呼吸をして食堂に向かう。カエルム家のタウンハウスは広く食堂も三つあるが、通されたのは家人が使う用の部屋だった。入室前に深呼吸をして、いくつかの会話パターンを頭の中に浮かべる。開けてもらった扉をくぐる前には、お腹に力を込めてから足を前に出した。



「おは――」

「おはよう、ナディア! 誕生日おめでとう!」

「おめでとう、ナディア。昨日はよく眠れたかしら、プレゼントはどうだった? たくさんあって驚いたでしょう?」

「え、あっ、は、はい……。おはようございます、お爺様、お婆様……」



 食堂に入った瞬間に祖父母が私の目の前に迫ってきたので、とても驚いた。記憶の中よりも僅かに皺が増えたような気がする二人は、けれど昔のままに賑やかな笑顔で私を迎えてくれたのだ。


 しかしそんな賑やかな二人を、執事が咳払いで窘める。



「食事の用意が整っております。どうぞ皆様、お席におつきください」

「何だ、煩いな」

「大旦那様?」

「おお、うちの執事は怖いのう」



 じろりと執事が睨みつけると、祖父はわざとらしく肩を竦めた。……フェレス伯爵家では使用人たちがこのように主人とコミュニケーションをとることはなかった。義母が家のこと全ての権限を持っており、皆、彼女の機嫌を損ねることを恐れていたからだろう。



「貴方、いい加減になさって」

「え!? 何、儂だけが悪いの!?」

「さ、ナディア、こちらへどうぞ。貴女が昔好きだったふわふわのパンケーキを用意させたのよ。メイプルシロップもたっぷりあるわ。でもあれから好きなものが変わってしょっぱいお料理がいいのなら、クロックムッシュやトーストやヨーグルトもあるから好きなものを食べてね。ジャムもいっぱいあるわ」

「パ、パンケーキは今でも好きですわ、ありがとうございます」



 口を挟むことができない程の歓迎ぶりにほんの少したじろいでしまうけれど、それでも嬉しいことには変わりなかった。食卓には祖母が言ったように大量の食事が用意されており、美味しそうな香りが漂っている。しかし先に謝罪と説明をしなくてはいけないだろう。そう思って口を開こうとする私の背を、祖母がぐいぐいと押した。



「大切なお話はご飯のあとよ。まずは美味しいご飯を食べてゆっくりしましょう、ね?」

「……はい、お婆様」

「いい子ね。ああ、そのドレスもとても似合っているわ。既製品もたまには悪くないですね。でもすぐにオーダーメイドを作らせますからね」

「えっ」

「では、冷めないうちにいただきましょうね」



 義母のいない食卓は、とてもゆったりとしていた。いや、それ以前に祖父母と食事をするなんて久しぶりで、それもとても嬉しかった。……今思えば、おかしなことだ。義母の両親は既に亡くなっているが、オリビアは彼らが亡くなるまで何度も義母と会いに行っていたのに私だけが祖父母に会いに行くことを禁止をされていたのだから。


 祖父は賑やかで楽しい人で、祖母はそんな祖父に時々鋭い言葉を放っている。険悪な雰囲気というわけではなく、ぽんぽんとリズミカルな会話が続いていた。二人の話すペースが早くて返事を返すのもやっとだけれど、それでも楽しい食事だった。オリビアが朝は絶対クロワッサンとゆで卵だと決めてから、朝食にパンケーキや甘いものが出たことはなかったからそれも嬉しかった。そのほかにもサラダやオムレツ、酸味のあるオレンジジュースなども出てどれもとても美味しい。全部、私が子どもの頃に好んで食べていた味だった。


 食事が終わってからも暫くその場でとりとめのない談笑が続いたが、いつの間にか一旦退出していた執事が戻ってきて祖父に耳打ちをする。祖父はそれに頷くと私に向かってにこりと微笑んだ。



「ナディア、お客人が到着したようだから談話室に移動しよう」

「は、はい……」



 カエルム家に来た客人との席にどうして私が呼ばれるのかは分からなかったが、祖父に言われるがまま三人で移動をした。そしてその意味はすぐに分かった。談話室にはアルキュミア夫妻がいたのだ。



「改めて、お誕生日おめでとうございます、ナディアお嬢様。本当にようございました」

「おめでとうございます、ナディア嬢。我が家の花が美しく咲きましたので、こちらを」

「ありがとうございます、夫人、男爵も」



 二人は私に会いに来てくれたのだ。アルキュミア夫人の目元が潤んでいるように見えるのは、きっと指摘してはいけないことだろう。私も涙腺が緩みそうになるのを一生懸命に堪えながら、男爵から小さなブーケを受け取った。ブーケは真っ白なガーベラが主体で、とても可愛いい。すかさずヘーゼルがやってきて小声で「お部屋に飾っておきますね」と言ってくれた。やはり公爵家の使用人は動きが違うのだと感心もしながら、私は祖父母に促されるまま席につく。



「さて、ナディア。我々は一連の話を昨日の内にアルキュミア夫人から聞いているんだ。……今までよく耐えた。そしてこれまで何もできなかったこの不甲斐ない儂を、どうか許してほしい」

「あたくしもです、ナディア。本当にごめんなさい」

「そんな、お爺様お婆様、止めてください。お二人から謝罪を受けるようなことなどありませんわ」

「いいや、これはけじめだ、ナディア。その上で、これまでとこれからのことを話そう」

「……はい」



 そして、話し合いが始まった。


 まずは、これまでのこと。アルキュミア夫人が持っていた情報はオリビアが学院に通う前のものだったので、そのあとに義母がどのようなことをしていたのかを聞かれそれを答えた。話す度に言葉につかえそうになったけれど、祖父母もアルキュミア夫妻も静かに聞いてくれ、話しやすいように質問もしてくれたので何とか話しきることができた。


 全てを聞いたあと、祖母は眉間に皺を寄せ目を細めながら「あの女狐、本当に無駄に優秀だこと……」と、ぽそりと零した。その言葉にも表情にも驚いたけれど、すぐに祖父が口を開く。



「お前の様子がおかしかったのは、我々だって気付いていたんだよ。だが、調査が上手くできなかった。現フェレス伯爵夫人はかなりのやり手でな。こっそりと公爵家の息のかかった者を使用人に紛れ込まそうとしたこともあったんだが、全員弾かれた。その上、脅迫状まがいの手紙も何通か送られてきてな……」

「脅迫状ですか……!?」

「そうよ、あれは脅迫状でした。当たり障りのない時節の挨拶と綺麗な文言に隠して、ナディアに危害を加えられたくなかったら大人しくしておけと書かれてあったわ。アルキュミア夫人も彼女に脅されていたようです。まったく、何て女なのかしら……」

「だが、それでも彼女は後妻だ、しかも出身は子爵家。できることはそう多くないと、我々も甘く見ていた。しかしナディア、お前は十八歳になったのに予定していた結婚をしなかっただろう。さすがに焦ったが、お前はもう学院を卒業してしまったから更に接触が難しくなった。抗議もしたが、フェレス伯爵は夫人のいいなりだし家のことに決定権を持たない。結局は彼女に上手く躱されてしまった。アラウダ侯爵家にも探りを入れたが、彼女はそちらにも手を回していた。本っ当に頭の回る奴だと敵ながら賞賛を贈りたい気分だったよ」

「貴方?」

「いやいや、うん、それでだな!」



 祖母が冷ややかな目で祖父を睨みつけると、祖父は慌てて話を元に戻した。……それにしても、自分の身の回りのことなのに知らないことが多くある。どこか別の人の話を聞いているような感じもするが、あの義母であればやれるのだろうと妙な納得もしてしまった。



「だが今年は誕生日だと押し切って会いに行こうと思っていたのだよ。伯爵家が大っぴらに公爵家を蔑ろにすることはできないだろうからな。何通りかの計画を考えていたが、お前が自分でこちらに来てくれて本当によかった。アルキュミア夫人の証言もあるから、これで我々も正式に動き出せる」



 にこりと笑った祖父はいつも通りの祖父であったのに、どこかぞっとしてしまうのは何故だろう。しかしその姿に頼もしさを感じてしまったのも事実だ。私では義母に太刀打ちできないことは明らかで、祖父たちが味方になってくれるならこれ以上ないことだった。



「だが、ナディア。その前に一つだけ、確認をしておかなけばならないことがある」

「はい、何でしょう」

「フェレス夫人は、あまりにもやり過ぎた。公爵家の血を引く者への非道な仕打ちは、全てこの公爵家への侮辱だ。彼女には我々も手加減はできない。だから彼女の件はお前の意見は聞いてはやれない。しかし、お前はそれ以外でこれからどうしたい?」

「……それ以外で、どうしたいかですか?」

「ああ、まあ単純に言うと伯爵家に戻りたいのか、それとも伯爵家とは縁を切りたいのかだな」



 私はぎゅうと手を握った。答えはもう決まっていた。



「叶うなら、わたくしはもう二度とあの家に戻りたくはありません」



 あの家には多分、義母が嫁いで来た時点で私の居場所はなかった。それを理解するのに時間はかかったし、本来それでも長子として生まれた以上はあの家でやっていかなければならないのかもしれない。……でも、私はきっとあの家では幸せにはなれない。母が願ってくれた幸せを、私も見てみたかった。


 子どもの頃にアルキュミア夫人のように職業婦人として働くことを夢見たこともあった。そうやって自分の足で生きていきながら、幸せというものを探すのもいいだろう。しかし家庭教師などの職は、紹介が必要だ。それを祖父母に頼みたくて、私は頭を下げた。



「お爺様お婆様、ですから――」

「よし、よかった! アルキュミア卿、書類を!」

「は、ここに」



 私の言葉は、祖父の声にかき消されてしまった。どうしたのかと驚いていると、アルキュミア男爵がさっと数枚の書類だしてテーブルの上に置く。そして何故か、執事がペンを私に渡してきた。



「さあ、ナディア、ここに名前を書きなさい。今書きなさい、すぐに書きなさい!」

「え、えっ?」

「ここ、ここだから! ほら、ペンを持つ!」

「は、はい!」



 祖父の勢いにおされ、私は書類にサインを書いた。するとその書類をまたアルキュミア男爵が受け取り、暫く眺めたかと思うとさっと立ち上がった。



「では、私はこれで。妻をよろしくお願いいたします」

「ああ、勿論だ。こちらこそ頼んだよ、馬車は用意してあるから」

「承知いたしました、必ず」



 それだけ言って、アルキュミア男爵は足早に出て行ってしまった。あんまりにも素早い行動に、ぽかんとしてしまう。……あの書類は何だったのだろう。何も確認しないまま書いてしまったけれど、本当に何だったのだろう。


 疑問のままに皆を見回すと、祖父母はにこにこと笑っているけれどアルキュミア夫人がほんの少し苦い顔をしている。



「いやあ、よかったよかった。これでひと安心だ」

「あの、お爺様? さっきの書類は一体……?」

「うん、あれな。養子縁組の書類」

「……養子縁組の書類」

「アルキュミア卿は法務部門に所属しているから、直接持っていってくれたんだ。だから養子の件は、すぐに成立する。これからも儂たちはお爺様とお婆様だが、法律上は両親となる。儂はもう爵位を息子に譲ったが、ナディアがカエルム公爵家の娘になることに変わりはないからね」



 一瞬祖父が何を言っているのか分からなくなって、アルキュミア夫人を見る。祖父母はやはりとてもにこにことしていたが、夫人は彼女には珍しく唇を引き結んで何とも言えない表情をしていた。



「私は、一応は申し上げたのですよ。お嬢様にきちんと説明をして了承をなさってからがよいと、一応は……」

「それもそうかと思ったんだがな、何事もスピード感が大事だから」

「そうです、とても大切ですからね」



 あっはっはと豪快に笑う祖父と優雅に口元を隠しながら微笑む祖母に、私と夫人は似たような顔をして黙るしかなかった。


 とはいえ、問題はない。ない……と、思う。むしろ願ってもみないことだ。打算的な見方をすれば、今後は伯爵家よりも格式高い公爵家の人間として生きていくことができる。……ただその分、責任も重くなる。いや、そもそもこのことを叔父は知っているのだろうか。叔父は私の実母の弟にあたり、現在は祖父から公爵の地位を譲られて働いている。このタウンハウスだって本来は叔父のものであるのに、何故叔父も叔父家族もいないのだろうか。


 いろいろなことが浮かんでは消え、思考が纏まらない。そのままでちらりともう一度祖父に視線をやると、祖父もこちらを見て微笑んでいた。



「もう心配はしなくていい。急ぎ足になってしまったから驚いただろうが、説明は今からきちんとする。その上で、嫌だと思うことがあるならその時に言ってくれ。この場で言えなくても、あとから言ってくれてもいい」

「そんな、助けていただいたのにもかからず、そのようなことを言う筈は……」

「違う、ナディア」

「え?」

「本来、この件はもっと早くに介入すべきだった。できなかったというのは言い訳だ。不必要な苦しみを長引かせたしまったのはそのせいだ。……だからこそせめて、少しくらいは我儘を言ってほしい。我々の罪滅ぼしに付き合ってほしいんだ」



 そう寂しそうに笑う祖父に私はどう答えていいか分からず、そして何も言えずにただ頷くことしかできなかった。そして私が頷いたのを見た祖父は、何故かぱっと立ち上がる。



「それでだな、ナディア! これから旅行に行こうと思うんだ!」

「は、はあ、よろしいと思いますわ。どちらに?」



 急ではあるが、祖父母は旅行好きだ。よく旅行先から絵手紙が送られてきていた。ただそれもいつの間にか奪われたり、捨てられたりしていつも手元には残らなかった。それでも各地の素晴らしい景色が描かれた絵手紙は、私の心の拠り所の一つでもあったのだ。


 こんな時にとは思うが、祖父が旅行に行くこと自体は不思議ではない。むしろ二人でどこに行くのだろう、お土産話を今回は直接聞けるかもしれない、なんて考えてしまっている自分がいる。



「聞いて驚きなさい。行先は隣国、砂漠と火の国・アルドル王国だ!」

「そうですか、ご無事をお祈りしております。楽しんできてくださいね」

「何を言っている、ナディア」

「はい?」

「話の流れからして、お前も行くに決まっているだろうが」

「え!?」



 思ったよりも大きな声が出たので、慌てて口を塞ぐ。すると今度は祖母が呆れたように笑った。



「え、ではありませんよ、ナディア。貴女は法律上、あたくしたちの子ども。子どもを旅行に連れて行かない親なんていません」

「で、ですが、わたくしは成人も済んでおりますし……」

「関係ないわ。それにそうよ、ナディアの成人祝いもできていなかったのですもの、丁度いいわ。あちらには素晴らしい織物がたくさんありますから、いろいろと買い揃えましょうね」

「それはいいな!」



 ……いいのかしら。きっとフェレス伯爵家は今頃すごい騒ぎになっているだろうに、渦中の私が祖父母と旅行に行くなんて。


 そんな私の背を、アルキュミア夫人がそっと撫でた。



「確かに急ではございますが隣国はよいところです、楽しんでいらっしゃいませね」

「夫人……」

「遊ぶことも、時には学びになります。経験は積んでおいて損にはなりませんわ」



 アルキュミア夫人はそう言って笑ったが、それは彼女にしては珍しく少しばかり悪戯な笑顔だった。



「おお、夫人も一緒に行くか?」

「いいえ、大旦那様。私は夫の手伝いがございますので」

「そうか、でも休みが取れたら二人でいつでも来なさいよ。暫くはあっちにいるつもりだし、あっちには儂の友人がおるから部屋なんていくらでも取ってもらうからね」

「ありがとうございます。機会があれば、是非」

「うん、そうしなさい」



 このあとも雑談は続いたが、私はどこかぼんやりとそれを聞き流していた。昨日と今日で、あまりにも多くのことが起こり過ぎている。おそらくこのあとも、もっといろいろなことが起こるのだろう。けれど、悪いことじゃない。だって、こんなにもわくわくしているから。



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