10,昨夜の返事の撤回と変わっていくこと
楽しくて嬉しくてほんの少し寂しくて、そんなふわふわとした気分のままで部屋に戻るとアメナはとても驚いていた。送ってくれたハサン様に「何を飲ませたんですか!?」と言いがかりをつけるものだから困ったけれど、誤解を解くとそれはそれで「何で早く帰って来ないんです!」と叱られてしまった。ハサン様に謝罪とお礼を言って帰ってもらったあとも、ずっとぷりぷりと怒っているものだから何だか面白くなってくるくらいだ。
水をもらい、寝る支度をしてもらって私はベッドに横になった。一緒にベッドに潜り込んできたシュネーが少し元気がないように見えたので撫でてみるけれど、ふすんと息を吐いてそっぽを向かれてしまった。もう眠たいらしい。
「あのね、アメナ。わたくし多分、明日の朝起きられないと思うんです」
チョコレートに入っていたアルコールはきっとほんの少しだったろうけれど、自分のことはよく分かっている。この足元がおぼつかない感じであれば、きっと明日は起きられないのだ。驚かせてしまわないようにそう伝えると、アメナは心配そうにううんと唸った。
「それは結構ですが、本当にお医者様を呼ばないで大丈夫なんですか?」
「ええ、大丈夫。気分は悪くないし、お水もいっぱい飲んだもの」
「あたしたちはずっと控えておりますから、何かあればすぐにお呼びくださいね」
「あら、ちゃんと休んでね」
「それこそ大丈夫です。交代で休んでおりますから」
「それならいいわ、おやすみなさい」
「はい、おやすみなさいませ」
ぱちりとランプの明かりが消える。あちらでは秘石を使った明かりは高級品だが、こちらではそうではなかったなあと久しぶりに自国のことを考えながら、私は眠気に身を任せた。
───
わっふ、という声と共に、体がぐんと重くなる。これは、きっとシュネーが上に乗っている。まだ眠いのだけれど、小さく呻きながらなんとか起き上がってみるとやはりシュネーが上に乗っていた。
「……シュネー、重いわ」
「わふ」
「もう……」
よしよしと両手で撫でると、シュネーは気持ちよさそうに目を細めた。窓の外は随分陽が高い。
「アメナ、今は何時かしら」
ベッドから声をかけると、パタパタと珍しく足音を立ててアメナがやって来てくれた。
「ナディア様、よかった、おはようございます。今は十四時前ですが、お加減はいかかですか?」
「何ともないわ、大丈夫です」
「はあぁ、よかったぁ……。ずっと寢てらしたから、心配したんですよ」
「ふふ、大丈夫って言ったのに」
「それでも心配だったんです。何か軽い食べ物をお持ちしましょうか、それとも閣下をお呼びして一緒に食べられますか?」
「ハサン様だって、さすがにもう昼食は済まされているでしょう。飲み物と何か果物があれば欲しいわ」
「かしこまりました」
起きる支度をして、甘いハーブティーと小さく切られた果物を口に含む。砂漠の多いアウローラ王国であるが、最近では秘術の応用で多くの果物の栽培に成功しているらしい。もう少し時間があればそれらの視察もしてみたかったけれど、それはいつかの楽しみに取っておこうと思う。自国で自立をして自分の足でこの国に来られるようになったその時に、楽しみを取っておくのだ。
そんなことを思い描きながらぼんやりとしていると、扉の方が騒がしくなった。アメナと誰かが口論をしているようだった。
「閣下っ、閣下と言えどさすがに無作法ですよ!」
「……どうしたの、え?」
アメナが閣下と呼ぶのは、ハサン様だけだ。驚いて立ち上がると、アメナを押しのけるようにしてハサン様が部屋に入ってきていた。一緒に入ってきたイグニスが、するんと人々をすり抜けてシュネーに挨拶をしている。
「ナディア、起きたのなら話がある。少し付き合ってくれないか」
「は、はあ……」
「ナディア様、こういう時は怒っていいんですからね!?」
「アメナ、落ち着いて。って、あの、ハサン様……っ?」
興奮するアメナを宥めようとすると、いきなりハサン様に手を掴まれた。痛みはないが、その乱暴な素振りに少し驚く。ハサン様は難しい顔をして私を見下ろしたあと、シュネーを呼んだ。
「シュネー、お前は遠慮してくれ。イグニスも残すから一緒に遊んでいるといい」
「ちょ、ちょっと閣下!」
ぐいと手を引かれて、私はそのまま部屋から連れ出された。シュネーは私に付いて来ようとしていたが、イグニスに邪魔をされてすぐに諦めてじっとこちらを見ていた。シュネーは使徒だ。使徒と話者は離れすぎることはできないが、一定時間多少の距離なら可能だ。可能な距離や時間は使徒と話者によって変わるが、私たちなら一時間程度王宮内くらいなら離れていられるだろう。いざとなれば理など無視して私の傍に来ることもできるから、シュネーはとりあずはハサン様の言うことを聞くことにしたようだ。
ハサン様に抗議をしていたアメナは、いつの間にかやって来ていたナーシルに止められている。一体何なのだろうとハサン様を見ても、前を向く彼の表情からは何も読み取れなかった。
ハサン様に連れて来られた先は、王宮に招かれた翌日に訪れた室内植物庭園だった。庭園内にはいくつか椅子やテーブルが置いてありくつろげる場所もあるが、それらを無視してどんどん奥に入っていく。どこまで行くのだろうと思っていると、ハサン様は美しく整えられた低木の辺りでやっと止まった。
止まったはいいが、ハサン様は何か言いたげにこちらを見るだけで黙ったままだ。手も掴まれたままで、何というか、この状況がよく分からなくて純粋に困る。しかし一緒になって黙っている訳にも行かないので、私は意を決して口を開いた。
「あの、ハサン様?」
「……」
「えっと……」
「……行かないでくれ」
「え?」
「どこにも行かず、この地に留まってくれ。君と食事ができなくなるなど、耐えられない……」
あまりにも辛そうに吐き出された言葉に、私はひどく胸が痛んだ。噓偽りはないのだろう、けれど。
「まあっ、昨日は応援してくださるって言ったのに」
私はあえて明るくそう言った。だって駄目だ、寂しさを共有してしまったら縋ってしまう。別れを惜しんでくれるのは嬉しいが、それに頼って生きてはいけない。
「ナディア、私は本気だ」
「……ありがとうございます。そう言っていただけるのは、とても嬉しいです。でもほんの三か月前に戻るだけですもの。きっとすぐにわたくしのことなんて忘れてしまいますわ」
「そんな筈がないだろう!」
突然の大声に目が丸くなる。ハサン様はそんな私を見て、小さく「すまない」と言ってから話を続けた。
「……頼むから、どうしたら行かないでいてくれるのか、教えてほしい」
「それは、ですが……。いずれは帰らなければいけないのですから……」
「違う、ずっとだ。……私の妻として、この地で生きてほしいんだ」
「……え?」
何か、変な言葉が聞こえたような気がする。いやまさか、そんな訳がない。では今私は何を言われたのだろう。というか、今は一体どういう時間なのだろう。何故私はハサン様とこんな所にいるのだろう。今更ながらに混乱してきて、掴まれたままの手を引くがびくともしなかった。
「え、ええと、何か、すみません。聞き間違いを、あの、どうしたのかしら聞き取れなくて、ちょっと……」
「聞き間違いじゃない、結婚をしてくれと言っている」
「……冗談にしては、笑えないですね」
「冗談じゃない、真剣に聞いてくれ」
「っ、何で急にそうなるんです!?」
たまらずに、叫んでしまった。こんなこと、淑女としてはあり得ない。けれどそうせずにはいられなかった。妻になんて、結婚なんて、そんなことを急に言われても困る。
「……急じゃない」
「急です! だって昨日は――」
「急じゃない! 私だって、君に昨日あんなことを言われて驚いた!」
はっとしてハサン様を見上げると、彼はひどく辛そうな顔をしていた。それは昨夜、私の願望が見せたと思っていたものと同じだった。
「……君の国の、婚約や結婚に関する考え方や文化を、昨夜あのあとカエルム卿に教わった。本人の同意を得る前に家に許可を求める必要があるだなんて、知らなかったんだ」
「……」
「この国ではそもそも、何度も二人きりで出かけるのは一定の同意があると見做される」
「……一定の同意?」
「付き合っている、というのは分かるか? 結婚や婚約の前に、交流というか交際をする期間のことなんだが……」
「ええと、多分。え……待ってください、それって」
「私は君と、既にそういう関係だと思っていた」
ハサン様の言葉が耳から沁みて、頭が沸騰してしまうのではないかと心配になるくらい熱くなる。そんなの、そんなの誰も教えてくれなかった。そんなこと知らない。知らなかったのに!
感情が抑えられないままで、私は叫んだ。淑女とか貴族とか、もうどうでもよかった。
「そ、な……。兄妹のようだって仰ったじゃないですか!」
「それを言いだしたのは私ではない!」
「でも妹分だって言いました!」
「言ったが、だが……」
ハサン様は掴んでいたままの私の手をそっと両手で握りなおして、少し身を屈めた。顔が近くなってどきりとする。単純なもので、羞恥からくる混乱と怒りはそれだけですぐに萎んでしまった。
「だが、もうあの時とは違う。君を妹だなんて思えない。……愛しているんだ」
「でもそんなこと、一度も……」
「会ってそこまで時間が経っていないのに、好きだの愛してるだのと語るのは軽薄そうだろう。君にそう思われたくなかった。けれどそうだな、言えばよかった」
ハサン様はもう一度小さく「すまない」と謝ってくれた。違うのに、私が無知なのが悪かったのであって、ハサン様が謝らなければいけないことなどないのに。たったそれだけも言えないで、私は俯いた。
「……最初はあんなにおどおどとしていたのに、徐々に緊張を解いていってくれているのが分かって嬉しかった。苦労も多かっただだろうに、この国の文化を学ぼうとする姿勢も受け入れようとする寛容さも素晴らしいと思った。何より、私との会話で笑ってくれる君が好きだ。あの時間が失われるなんて、考えたくもない。私の傍にいてくれ、ナディア」
息が止まってしまうかもしれない。そのくらいには心臓が煩くて、耳が熱くてくらくらする。そのせいで顔は上げられないけれど、ちらりと見えたハサン様の目元が赤いのは気のせいではないのだろう。そんなふうに想ってくれていたなんて、それこそ一つも知らなかった。
嬉しくてどきどきして、けれど冷静な自分が首を横に振っている。私はゆっくり息を吸った。
「……お気持ちは、嬉しいです。けれど、お受けできません」
「……何故?」
「ハサン様は、王弟閣下でございます。お相手はもっと精査されるべきです。何より私はこの国の人間ではありません」
「それを言うなら君は公爵令嬢だろう、精査の必要すらない。王族の結婚相手は自国民でなければいけないなんて法律も慣習もない」
「公爵令嬢なんて名ばかりです。それに見合ったコネクションだって持ち得ません。何より逃げて庇護を受けているだけのわたくしが、貴方とつり合う筈なんてないのです……」
「……昨日も思ったが私は君が言う程、立派な男ではない」
ハサン様はそう苦笑して、私の目をじっと見た。いつの間にか合っていた視線が、外せない。
「私には、国王という絶対的な庇護者がいた。確かに母は身投げして母方の親戚もそう頼れず、周りから心無い言葉や妨害も多く受けた。けれど兄者がずっと私の後ろ盾になってくれていたんだ。国の頂点が、身内として味方でいてくれたから私はここまでやってこれた。だが君は、一番傍にいた身内が敵だったんだろう。私と君とでは環境が違った、逃げるのも頼るのも悪じゃない。君は君に出来ることをやっていた、ずっと一人で戦ってきたんだろう。それがどれほど辛かったのか想像することしかできないが、長年それに耐えきった君を尊敬する」
もう、泣いてしまいそうだった。きっと私は、祖父母に頼って逃げ出したことを誰かに正当化してほしかったのだ。間違ってはいなかった、それで正しかったと絶対的な味方以外の誰かに言ってほしかった。そしてそれを今自覚して、恥ずかしくて、けれどやっぱり嬉しかった。
「……私と、どうしても結婚したくないというのなら、それでも構わない。してくれたら嬉しいが、ナディアが私を兄としてしか見れないのならそれを受け入れる。だがそれでもグラキエスに帰らずに、アウローラに留まってほしい。君をそんな目に遭わせた人間たちがいる国に帰したくない。今後のことは、どうにかいいようにするから……」
「……どうしてそこまで?」
「そうだな……。惚れた弱みというやつじゃないか?」
ハサン様がいつものように柔らかく笑いながら何でもないふうにそう言うから、私はそろそろ胸が痛かった。
「……ハサン様は、ジュマナのような美人で何でも言い合える人が好きなのだと思っていました」
「とんでもないことを言うのは止めてくれ、奴は既婚者だ! 子どもも二人いる!」
「あら」
「あら、ではなくてだな……。はあ、確かにああいうはっきりとものを言う気の強い女性はこの国ではモテる。が、私の好みではない」
「……では、どのような方がお好みですの?」
「ナディアが好きだ」
私はぎゅうと唇を噛んで、もう一度俯いた。心臓が煩くて、でもどうやって答えたらいいのか分からない。頭も耳も頬も全部熱くて、溶けてしまいそうだった。
「……私の勘違いでなければ、もしかするといい返事がもらえるんだろうか?」
「お、お爺様とお婆様に、お話ししないと……」
「夫妻には、君が頷くならと許可を受けている」
「……」
「君は昨日、強くなりたいと言っていたな。私は君を弱いとは思わないが、そうなりたいのならそれはこの国でだってできる筈だ。私と一緒に、この国で強くなっていけばいい。それに、君をここで帰してしまったら、私はこの先ずっとこのことを後悔して腑抜けになってしまう」
「ハサン様が……?」
「そうだ」
ぱっと顔を上げると、ハサン様は真剣な顔をして私を見ていた。
「ナディア、頼むから頷いてくれ」
「……はい」
考えるより先に返事が出てしまって、「あ」と口を塞ごうとした時にはもう私はハサン様の腕の中だった。逞しい腕に抱かれて、少し苦しくてけれどとても幸せだった。
「ああ、この世の幸福の全てを手に入れた気分だ」
「……大袈裟です。でも、わたくしも嬉しい」
昨日のアルコールが残っているのか、おかしくなってしまったのか、やっぱり考える前に言葉が出ていってしまう。けれど事実だからまあ、いいのだろう。もうどうにでもなってしまえとハサン様の胸に頬をつけると、きゅうっと可愛らしい音が聞こえてきた。……ハサン様のお腹からだ。
「……君が、一緒に食べてくれないから」
「まあ、ふふふ。では少し遅いですが、お昼ご飯にしましょう」
今度こそ顔を真っ赤にしたハサン様がどうしようもなく可愛くて、私は笑うのを止められなかった。
───
ハサン様に求婚をされてから三ヶ月程が立ち、私がアウローラ王国に来てから半年くらいになっただろう。ハサン様との結婚の話は、あれからとんとん拍子で進んでいった。とんとん拍子というか駆け足というか、おそらくそれ以上の速度で進んだ。
グラキエス王国では王侯貴族の結婚となると様々な折り合いを付けなければならないことが多く、婚約期間も最短で二年は必ず必要になってくる。子どもの頃から婚約をしている貴族子女もいるが、それは親や祖父母の代からの契約が絡んでくるのでその場合は生まれてからお互いが成人するまでが婚約期間だ。けれど、アウローラ王国ではそうではない。
アウローラ王国でも家が取り決めた結婚はあるが、それでも子どもの頃からずっと婚約者がいるということはないそうだ。成人間近でやっと探し始め、家の利益と本人たちの相性を見て決めるらしい。そして婚約期間はほぼなく、あったとしても最長で三ヶ月程度でそれ以上長引くようなら縁がなかったと結婚の話自体が流れてしまうらしい。国王は「本人たちも両家も了承しているのに、婚約なんてまどろっこしい時間がどうしてそんなに必要なんだ」と不思議そうにしていた。
文化の違いに驚きつつも、私はハサン様に告白されたその日の夜にはもう籍を入れてしまっていた。さすがに早過ぎるとは思う。けれど祖父母だけでなく国王夫妻に「今すぐ籍入れないとややこしくなるから」と急かされた上に、ハサン様に「嫌なのか……?」と不安そうな顔をさせてしまったので焦ってサインをしてしまったのだ。何だか養子の書類を書いた時と、状況が似ていたように思う。
急かされたのは、私への縁談が多かったことが原因だそうだ。アウローラ王国では水や氷を操れる使徒を持つ人は少なく、それ故に自家に引き込みたいと考える家門は多いらしい。更に国王と懇意にしている隣国の貴族夫妻の孫ということで元々私にはいくつか釣書が送られてきていたようだが、生誕祭で顔を出したことによってその数がかなり増えたようだ。……縁談が来ていたことを私が知らなかったのは、私とハサン様がそういう仲だろうと思っていた国王が全て断っていたかららしい。
そしてもう一つが叔父の存在だ。祖父曰く、叔父も私の親権がほしかったらしい。成人をしている身で親権とはと疑問に思うが、つまり叔父も私を自分の娘として公爵家に迎え入れるつもりでいてくれたというのだ。
母の弟である叔父とは祖父母よりも直接会った回数は少なくぼんやりと覚えている程度なのだが、どうやら叔父も私のことをずっと気にかけてくれていたそうだ。私がアルキュミア夫人の手を借りて伯爵家から逃げ出す前に、叔父と祖父母はもう私を養子として公爵家に取り戻す算段をしていたようで、どちらが養父になるのかで少しもめていたらしい。この旅行も、叔父が文句を言って来たら面倒だからという意味があったそうだ。
そこまで聞いて、私はいろいろと諦めた。おそらく叔父は、私がこの国で勝手に籍を入れたことを怒るだろう。相手は現役の公爵だ、きっと私を養子に入れたあとのこともそれなりに考えてくれていたのだろうと思うと申し訳なくなる。しかしそれはもう祖父母と叔父の間で解決してもらうしかない。だってもうサインをしてしまったのだ。後戻りはできなかったし、する気もなかった。サインを書き終わったあとに見たハサン様が本当に嬉しそうで、この笑顔を守らなけばと強く決意したから。
そんな訳で、私は告白を受けたあの日から既にハサン様の妻として彼の屋敷に住んでいる。王宮のすぐ隣に建てられている大きな屋敷は、豪奢な王宮とは違って優しげな雰囲気でとてもよく落ち着くのだ。国王夫妻や王子や王女たちも休憩だけをしに来ることがあるくらいで、そのくらいゆっくりできる屋敷だった。
祖父母は、どうやら私と一緒にアウローラ王国に残ることにしたらしい。私の為にそうしているなら申し訳ないからいつでも帰国していいと言うと、祖父は「やだ! あっちの国王も儂のことまだ働かそうとするんだもん! 同じ働くならこっちで指導員してる方がましだし、まだまだシャーロットとナディアとこっちで遊びたい! ひ孫も抱っこする!」と子どものように駄々をこねたので目線を外しながらも少し笑ってしまった。祖母は「あちらではもう長く暮らしたもの、今度はこちらで暮らすのもいいわ」と優雅に微笑んだ。そんな二人は王都の郊外に屋敷を構えたが、王宮かハサン様の屋敷のどちらかに泊まることが多く、今でも毎日会っている。
籍は既に入れてしまったから私とハサン様は夫婦なのだが、結婚式は入籍から一年後にする予定だ。何故か国王夫妻が張り切っていて、パレードまですることになっている。王弟と隣国の公爵令嬢との結婚式なんだから当然だという体で、どんどん積み重なっていく結婚式費用を見てハサン様はたまに眉間に皺を寄せていた。私も始めは豪華すぎて気が引けていたのだけれど、マリアム様を筆頭に王女たちや祖母が婚礼衣装について楽しそうに言い合っているのを見ていると徐々に楽しみに思うようになってきていた。ちなみに子どもは結婚式のあと、ということになっている。
ハサン様は元から優しかったが、籍を入れてからは更に優しくなった。いや、それでは少し語弊があるかもしれない。愛を直接的に伝えてくれるようになった、といった方が正しい。事ある毎に「可愛い」と言ってくれたり、「愛している」とも言ってくれる。
以前までも迷子になるから足元が悪いからと、よく手を繋いでいたが最近では一緒にいる時はほとんどいつも肩か腰を抱かれている。座っている時なんて私を膝の上に乗せたがるので、それにはとても困っているのだ。人前でさえそうなので嬉しいよりも恥ずかしくてどうにかなりそうなのに、控えてくださいと頼んでも「すまない」と言ってキスしてこようとするから本当に困っている。……それでも強く拒否ができないのは、これこそ惚れた弱みなのだと実感していた。そんな私に祖母とマリアム様が手綱は早く握った方がいいと忠告をしてくれたので、よく分からないが頑張ろうとは思っている。
そうやって旅行者ではなくハサン様の妻になった私は、何故か彼の補佐をするようになっていた。補佐といっても簡単な書類整理などをナーシルに教わりながら始めたのだが、ゆくゆくは交渉の場などにも一緒に出てほしいと言われており現在必死に勉強中である。何かできることがあればとは思っていたが、まさか王弟閣下の補佐をさせてもらえるとは思わなかった。昔の私なら失敗が怖いからと断っただろうけど、恐れるだけでは何にもならない。そう前向きになれたのは、きっとハサン様のおかげだ。ハサン様と一緒なら何でもできると思えるのだ。
そういえば、シュネーとイグニスは本当に仲がよくなった。寝る時は必ずくっついているし、片方が遊びに誘えばすぐに嬉しそうに付いていく。イグニスが秘術を使って悪戯をするのをシュネーが真似するのは困ったが、初日の険悪さが嘘のように微笑ましかった。
アウローラ王国に来てから、私はどんどん幸福になっているような気がする。いや、始まりは母の手紙だったのかもしれない。こんなに順調でいいのだろうかと疑う気持ちもあるが、怯えるよりも楽しんでいようとも思う。ただ、これからの数日はそうはいかないだろう。……私とハサン様は、結婚をグラキエス国王に報告すべくグラキエス王国にやってきていたのだ。
隣国の王族と、一応公爵令嬢との結婚だ。本来であれば繊細な国交の下に組まれるべき縁組みだっただろう。けれどまあ、あちらの国王と前公爵である祖父が推した結婚だ。断るという判断はそもそもなかったのだから、もう堂々としているほかない。祖父母もハサン様も一緒なのだから大丈夫だ。こちらでは使徒たちが常時出ていると目を引くので姿を消してもらっているが、それでもシュネーが傍にいるのも感じる。私はぎゅうとお腹に力を込めて、久しぶりに乗った馬車から降りた。