1,我慢の終わりと実母からの手紙
いつも、自分だけが我慢をしていれば上手くいくのだと思っていた。
「お姉様のドレス、可愛いですね! わたしも同じものがいいなあ……」
私が新しいドレスを仕立てれば、妹はほとんどいつもこう言った。
「……オリビア、姉妹であってもお茶会に同じドレスを着ていくのはよろしくないのよ。貴女がこれを気に入ったのなら、これは貴女が着るといいわ」
「本当!? 嬉しい、ありがとうお姉様!」
けれど私が我慢をすれば愛らしい妹は笑っていたし、使用人たちも父もほっとした顔をしていた。……義母も、怖い顔はしなかった。
「ねえ、ナディア。貴女の家庭教師なのだけれど、オリビアに譲ってくれないかしら。あの子ったら貴女のことを尊敬しているから、同じように学びたいのですって。貴女には別の教師を用意するから」
口角だけ上げた義母は、いつもこうやって優しげな口調であるのに冷たい目をしている。それでもこれはまだ怖い顔ではなかった。
「ええ、分かりました、お義母様」
「……物分かりがよくて助かるわ。さすがお姉様ね?」
当時私を教えてくれていた家庭教師は、私の実母の生家である公爵家からの紹介で来てくれていた人だった。厳しい人ではあったけれど勉強の合間に私を気遣ってくれる優しい人で、とても信頼をしていたから本当は譲りたくはなかった。でも、そんなことは言えない。大人しく言うことを聞いてさえいれば、義母は口角を上げてくれる。瞳の奥が冷えていても、それが苛立ちとなって表面に出てこないだけで十分だった。
「お姉様の所にいらっしゃる使徒様はとても綺麗で、よくお姉様に寄り添っていらっしゃいますね。わたしの所に来てくれる使徒様も綺麗だけれど、わたしが近寄りすぎるとすぐにどこかに行ってしまうのに……」
“使徒様”というのは、この世界の自然事象の全てを司るとされている不思議なもののことだ。火を吹くものや水を操るもの、風を吹かせるものなど様々な能力を持った使徒がこの世界には存在する。生き物ではなく、けれど無機物でもなく、意思を持っていた。そんな彼らは動物のような体を作り我々の前に現れ、時に手を貸してくれる。この世界の国々のほとんどは使徒の手助けによって作られた。
しかしこの世界の全ての人が使徒と意思疎通できる訳ではない。使徒は気まぐれで、そしてそんな使徒と意思疎通ができる人のことを話者と呼ぶ。とはいえ、その話者でさえ、意思疎通ができるのはたった一体の使徒だけだ。そして大体の国の貴族や重要人物になるような人は話者で、権威ある人の傍にはいつも美しい使徒がいる。
この国の貴族は半数以上が話者だ。私と妹も話者であり、彼らは気まぐれに私たちに近寄ってくる。私の使徒は水や氷を操ることができ、とても大きなふわふわの白い犬のような美しい姿をしていた。本当の犬のようにお手をしたり撫でるのを要求してくるので、子どもの頃は夜に自室でこっそりと遊んだものだ。
それに対して、妹の使徒は少し神経質な猫のような形をしていた。白い細身の体に綺麗な藍色の瞳が印象的だけれど、妹にじゃれることはない。戯れに水を操っている所を見せてはくれるもののそれ以上は妹に近寄る気はないようで、すぐに消えることが多かった。
使徒は基本的に気まぐれで、いきなりに現れたかと思うとやはりいきなりに消えてしまうのだ。ただ私の使徒は子どもの頃からよく私の傍に現れていたのに対し、妹の使徒はあまり姿を見せなかった。
「使徒様もいろいろな考えを持っていらっしゃるらしいから、オリビアの使徒様は恥ずかしがり屋さんなのかもしれないわ」
「そうなのかなあ……」
妹がしょんぼりとしてしまったので、私は内心とても慌てた。すぐ傍で針仕事をしている義母に何を言われるか分かったものではかったからだ。急いで慰めようと口を開きかけたけれど、それは当たり前のように遮られた。
「あら、ナディア、それは自慢なのかしら。妹が悲しんでいるのに、慰めもしないで意地の悪い子ね。そんなことを言って妹を虐めるのはお止めなさい、下品ですよ」
「いいえ、お義母様、そのようなつもりは……。でも、そう聞こえたのならごめんなさい、オリビア」
「そんな、お姉様は悪くありません!」
「まあ、オリビアはなんていい子なのかしら。……ナディア、そのつもりがなくても人を傷つけることはあります。以後気をつけなさい」
「はい、お義母様」
義母は厳しい顔で私を睨みつけた。しかし、目だけはとても楽しそうだ。私は、彼女のこの顔が怖かった。叱ったり嫌味を言う時の顔が、昔からひどく怖かった。
その日の内に、私は使徒に暫く出てこないでほしいと頼み込んだ。使徒は悲しそうに尻尾を垂れて消え、それから見ていない。いつだって呼べば来てくれた大切な友人のようなものだったのに、私は使徒よりも自分が恐怖を感じない方を取ったのだ。
しかし、あれはあれでよかったのかもしれない。この国で使徒は高貴と権威の象徴であり、尊ぶべき存在だ。友人だなんて、おこがましかったのだ。
「あー……、ナディア、あのさ。何と言ったらいいのか、ええと、君の婚約者のアラウダ侯爵家のデーヴィド君のことなんだけど……」
「はい、何でしょう、お父様」
「オリビアが、彼と話がしたいと言っていてね。ほら、未来のお義兄様と仲良くなりたいと……。だから、今度から彼と会う時はできるだけオリビアを同席させてあげてくれないかな?」
ぼそぼそと話すお父様は、きっとこれを伝えてくるように義母に言いつけられたのだろう。父は穏やかで優しい人で、争いごとを好まない。義母は少しばかり気が強く、自身の意見が通らないと口早に詰め寄ってくるからそれが恐ろしいのだ。気持ちは分かる、だって私も怖かった。だから私は、父を安心させる為ににこりと笑うのだ。
「ええ、もちろんですわ、お父様。可愛い妹の頼みですもの。……でもお父様、オリビアの婚約の話はまだ出ないのですか? あの子はあんなに可愛いのに、お話がないなんておかしいわ」
「いや、まあね。話はいくつかあるんだが、ゾーイが首を縦に振らないんだよ。もっといい縁談がくるって言ってね」
「……お義母様はオリビアが可愛いからそう言うのですわ。あの子だったら、きっとよい縁談がすぐに舞い込んできますよ」
「そうだね」
この時の違和感に、きっと私は気付いていた。気付いていたのに、知らないふりをした。だって父も本当に何も知らないみたいで、だからきっと私の勘違いだって思っていた。そう信じていたかった。でも、そうではなかった。この時の私は、既に判断を間違えていたのだ。
―――
私は二十年前、カエルム伯爵家の長子として生を受けた。しかし私が生まれた次の日、私を産んだ実母は亡くなった。元々無理のあった妊娠出産だったらしい。産まないという選択肢もあった中、実母は私を産むことを選びそして死んだ。
当時まだ爵位を継いでいなかった父は、父の両親に言われすぐに次の妻を迎えた。それというのも、父があまり強い人でなかったからだ。父は一人息子で芸術に精通しており優しくおおらかに生きていたが、強くないとはつまり弱いということだ。そんな人間が貴族社会でやっていくには、援助が必要だった。しかも父の両親、私から見れば祖父母にあたる人たちは高齢で、もう爵位を父に譲ろうとしていたところだったから尚更だ。
私の実母は公爵家の人間で教養も権力もコネクションもあり、生きてきた頃は彼女が次期伯爵家を引っ張っていくと誰もが思っていたらしい。しかし実母はもういない。父の再婚はすぐに組まれ、実母の喪が明けてからすぐの結婚となったが公爵家側も事情が事情の為に何も言わなかったそうだ。
私の継母にあたる義母は、子爵家の出身だ。しかしその子爵家は莫大な富を持っており、義母自身も優秀で後妻としては完璧すぎる縁組みだった。父はたまに「どうしてゾーイが後妻としてうちに来てくれたのか、未だに不思議なんだよ」と言うが、確かにそうだった。義母は初婚であったし望めばもっとよい縁談があった筈だったのに、わざわざ父に嫁いだのだ。そして私が生まれた二年後に妹を産んだ。頼りない夫を支え先妻の子どもを育てながら子どもを産んだ彼女は、素晴らしい淑女であると当時の社交界でかなりの称賛を集めたらしい。そんな妻を持った父はどうにか爵位を継ぎ、なんとか貴族社会で生きている。
生まれてすぐに実母を失っていた私は幼い頃、義母のことを実母だと思っていた。だから臆面なく我儘を言ったり甘えたりもしていた。けれど今思えば、義母からすればたまったものではなかったのだろう。「貴女はお姉様なのだから、きちんとしなさい」「妹と同じようにはしませんよ、貴女は跡取り娘なんですから」と言葉を選んではくれていたものの、義母は明らかに私と妹を区別していた。しかしそれも仕方のないことだ。先妻の娘など煩わしかっただろうし、実家の格もあちらの方が上となると心労も大きかっただろう。
ある程度のことが分かる年になってからは、あの頃の自分が恥ずかしくて、そして悲しかった。義母が私を冷たい目で見る理由も理解できた。義母は、私が邪魔なのだ。そしてそれはどうしようもないことで、私に解決できるものでもなければ義母が悪いということでもなかった。
私は少なからず、義母に同情をした。十歳の時に相次いで亡くなった祖父母が彼女に宛てた手紙を見てしまってからは特にだ。父の書斎に本を借りに入った時、難しそうだが装丁が美しい歴史書を捲っていると古びた手紙が落ちてきた。その手紙には、私の実母の生家である公爵家に申し訳が立たないから子どもなど産むなと書かれてあった。日付は、妹が生まれる半年前のものだった。私にも妹にも優しかった祖父母は、妹のことをおろすように義母に手紙を書いていたのだ。悲しくて恐ろしくて、その日は眠れなかった。
それから私は、せめて義母が心穏やかに過ごせるように心掛けた。頼りない父にはしっかり者の義母は必要だったし、継母とはいえ一度は本当の母だと慕った人だ。私を見る目が冷たくても、暴力を振るわれたことも食事を抜かれたことも教育に手を抜かれたこともない。妹との扱いが違うのは、私が彼女の実子でないのだから当たり前だ。少し私が我慢をして、義母が安心して生きていけるならそれは素晴らしいことだと思えた。
救いだったのは腹違いの妹であるオリビアがとても優しいよい子で、私のことを慕ってくれたことだろう。オリビアは事あるごとに私の後ろを付いて回り、私の真似をしたがった。人のものがよく見えることが多いらしく、私のものを欲しがることもあったがそれでも可愛い子だった。私たちはとても仲のよい姉妹だと評判で、これからもこの関係性は続いていくのだと思っていた。……その筈だった。
―――
私が見落とした違和感と間違えた判断は、十八歳の頃から明らかな脅威を振るうようになってきた。
「ナディア、オリビアは今日はいないのか?」
「ええ、デーヴィド様。あの子は今日は学友の皆さんと新しくできた花鳥園に行っていますわ」
私の婚約者であるデーヴィド・アラウダが、こうやってオリビアのことをとても気にかけるようになったのだ。一応私と会う為に伯爵家を訪れている筈の彼は、出迎えたのが私一人だと分かるとあからさまに眉間に皺を寄せた。
「何でわざわざ僕が来る日に行かせたんだ。君まさか、わざとオリビアを外出させたのか?」
「……オリビアは以前から、この日に花鳥園に行く約束をしていたそうですわ。わざとなんて」
「ああ、あの子が前に観たがっていた画集を持ってきたのにとんだ無駄足だった。悪いけど今日は帰るよ。用事を思い出してね」
私はきゅ、と、喉が閉まるのを感じたけれど抗議もせずに「そうですか」と頷いた。私と同い年の彼は「君とは学院で会えるから」と言って、そそくさと帰っていく。貴族学院はもうすぐ卒業であるから、最終学年の私たちはもうほとんど登校なんてしていないのにだ。使用人たちがデーヴィドを見送る私を気遣わしげに見ていたから、私は彼らを安心させるように微笑んで部屋に戻った。こういったことは一度ではなかった。
オリビアは十五歳を超えたあたりから、とても美しくなった。元々可愛らしい子だったけれど、成長と共に女性としての魅力が増したのだと思う。両親の容姿のよいところを引き継いだ彼女は華やかで明るく、自慢の妹だ。デーヴィドが私とオリビアを見比べて、彼女の方を称賛するのも分かるくらいには美人な妹だった。
その日の夕食時にデーヴィドがすぐに帰ったという話が出て、私はどきりとした。父は城に詰めて仕事をしなければならない日だったので、食卓には義母とオリビアそして私しかいない。
「え、デーヴィド様があの画集を持ってきてくださっていたの? それは申し訳ないことをしました……」
「そうね、オリビア。きっとデーヴィド様も貴女に会いたかったのよ。失礼ですから、今度からきちんと家にいるようになさいね」
「でもお母様、デーヴィド様はお姉様の婚約者なのですから、わたしが必ずいなくても……」
「ナディアとデーヴィド様の交流を円滑にする為にもオリビアが必要だということです。そうよね、ナディア」
「え、ええ……」
「ほら、ナディアもこう言っているのだから、お願いね。ナディアもデーヴィド様が来られる際にはきちんとオリビアに伝えるように。デーヴィド様に申し訳ないでしょう?」
「はい、お義母様。……では、お願いね、オリビア」
「お姉様がそう仰るなら、勿論任せてください! わたしがお二人の愛の御使いになってみせますわ!」
背筋にぞっとしたものが這ったけれど、私はやはり知らないふりをした。それ以外には何もできなかった。オリビアは何故かやる気になってにこにこと食事を続けていたし、義母はうっそりと笑いながらワインを傾けていた。
……でも、大丈夫だとこの時はまだ思っていた。だって、この伯爵家の後継ぎは私なのだ。貴族学院を卒業すれば、私はデーヴィドと結婚をしてまずは領地に向かう予定でそこには義母もオリビアもいないのだから。今は父が王城の芸術品の管理を行う仕事を任されていることもあって、家族全員が王都のタウンハウスで暮らしている。だから領地は親戚に任せているけれど、次期伯爵の勉強を兼ねて私たちは暫らくはあちらで過ごすことになっている。
貴族の結婚は政略的なものだから愛ではなく尊敬と尊重、もしくは利害で成り立てばいい。デーヴィドはアラウダ侯爵家の生まれだが、三男で私と結婚する以外に爵位を持つことはできないのだ。しかし、そんなふうに慢心をしていたのがいけなかったらしい。
デーヴィドはオリビアが毎回必ずお茶会に参加するようになって、とても喜んでいた。オリビアへの贈り物はいつも凝ったものを考えていて、私へは彼女に贈らなかったものを義務感を持って渡してきた。オリビアは私の持ち物を無条件でよいものだと思ってしまうらしく「デーヴィド様はお姉様のことをよく考えていらっしゃるのね」などと本心から言っていたが、明らかに質の落ちたものを渡されている私は苦笑いをするしかなかった。
そんなあからさまなアプローチを受けていても、初めオリビアはデーヴィドのことを本当の兄のように慕っていた。当時の彼女はまだ子どもだったのだ。オリビアは学院内でもそんな調子だったらしく、その無邪気な友好を好意だと勘違いを起こした学友たちに言い寄られてもいた。中には婚約者がいる人まで熱を上げてしまうようになり、その苦情が姉である私のところにまで来たが、私は結局オリビアに苦言を呈すことはできなかった。学院からの注意に義母が激怒していたからだ。
「どうしてあたしの可愛いオリビアが、こんなことを言われなくてはならないの!? オリビアのような愛らしい子がそこらへんの有象無象など相手にする筈がないでしょう、優しさをはき違えた上にあろうことか文句を言ってくるなんて図々しい!」
「お、落ち着いてくれ、ゾーイ。私だってオリビアがわざとそんなことをしたなんて思っていない。でもやはり、問題になっているのだからあの子にも淑女の距離感を教えてあげないと……」
「あの子はあれでいいんです! 何? 距離感を間違えたあの子が悪いって仰るの!?」
「そうではないけど……」
「けど、何よ! はっきりなさいな!」
私もオリビアも別の部屋にいたのに、その怒声は聞こえてきた。屋敷内に響き渡るような声だった。オリビアは責任を感じたらしく暫くはしおらしくなっていたが、何が悪いのか理解していなかったからか結局すぐに元通りだった。結果学院内には敵を作ってしまったけれど、オリビアには第三王女という強力な友人がおり彼女がいじめられるようなことはなかった。
オリビアは、どんどん綺麗になっていった。でも、大丈夫。卒業とほぼ同時に結婚をして、離れるのだから大丈夫。私はまだ、オリビアの優しい姉でいられる。そう思っていた。
「結婚の延期、ですか?」
「ああ、フェレス夫人の提案だったが僕もまだ王都で学ぶことがある。急いで結婚してフェレス領に行かずにもっと準備をするべきだと思ってね。僕の両親にはもう伝えてあるから」
私はまた、何も言えずに頷いた。珍しくオリビアがいない日に来たかと思ったら、デーヴィド様はそれだけ言ってお茶も飲まずに帰っていった。
さすがの私でも、このあたりでそろそろ危機感を持っていた。しかしもう、手遅れだった。私にできることなんて、一つもなかった。父の目があんまりにもおどおどとしていたのが、私の非力の象徴のようだった。父は義母に逆らえない。私もだ。
結婚の延期をオリビアは不思議がりながら、けれど少しだけ喜んでいた。
「お姉様の結婚は喜ばしいことですが、でも離れ離れになるのが寂しくて……。こんなことを言ってはいけないのは分かっているんですけど、まだ一緒に暮らせるのが嬉しいです」
「……ええ、わたくしもよ、オリビア」
この時、私はきっと笑ってはいなかった。けれど口角を上げることくらいはできた。これも教育の賜物なのだ。私は、私の生まれに感謝をしなければいけなかった。飢えるでもなく暴力を振るわれるでもなく、質の高い生活を送れている。腹違いの可愛い妹は私のことを慕ってくれている。だから、私は不幸ではない。
そう、信じようと必死だった。あの日までは。
「ねえ、ナディア。貴女って、日に日に彼女に似てくるわね」
父が城に詰めている日の夜、珍しく私は義母の部屋に呼ばれた。義母は私が部屋に入ることを嫌がるから、本当に久しぶりのことだった。
「彼女、ですか?」
「貴女のお母様、カエルム公爵家のニア様。……彼女とあたしは貴族学院で同級生だったのよ」
「そうだったのですか」
「ええ、とても忌々しい方だったわ」
「え……?」
何を言われたのか、理解をしたくなかった。耳の奥できぃんと高い音が鳴っている。
「あたしもね、さすがに大人げないと思ったのよ。だから子どもの頃の貴女に危害を加えることはしなかったでしょう? でもね、そこまで似てくるっていうのなら話は違ってくるわよね?」
義母はとても美しく微笑んだ。人払いがされていた部屋には、私たちのほかには誰もいない。
「ニア様はね、いつもあたしの上を軽々と超えていく人だったわ。自慢ではないけれど、あたしだって学生時代から優秀だったのよ。でも彼女はいつもいつも一番で、あたしは二番。子爵家のあたしがのし上がるには努力するくらいしかなかったのに、その努力をあざ笑うみたいにずっと一番なの」
「……」
「邪魔だったわ、本当に。彼女さえいなければって何度思ったかしら。逆恨みだと思う? でも本当にそう思ったのよ、邪魔だって。生まれた時から何でも持っている癖に、持たないあたしの邪魔ばかりして……」
心臓がばくばくと鳴っていたけれど、身じろぐことすらできない。私は、いつも何もできない。
「ニア様が伯爵家に嫁がれたのは意外だったけれど、もっと意外だったのは貴女を産んでさっさと死んだことよね。どうにかして彼女の幸せを潰したかったのに、もうできなくなっちゃった」
義母は優雅に紅茶を飲んだ。その美しい所作を一生懸命に真似をした時期もあった。
「だから貴女を苦しめることにしたの。まあ今となってはそれはついでで、一番の目的はオリビアを幸せにすることだけれどね? ほら、誰かの幸せは誰かの不幸の上に成り立つものでしょう。貴女は可愛い妹の為に踏み台になって頂戴な。優しいお姉様なら、それくらいしてくれるわよね?」
楽しそうに無邪気に、義母は笑った。子どもの頃、オリビアにだけ向けられるその笑顔を何度羨ましいと思ったかしれない。それなのにやっと向けられた笑顔は、私への憎しみに満ちていた。
「ああでも、意外なことはもう一つあったわ。貴女は顔形がニア様にそっくりなのに、性格がまったく似ていないのだもの。むしろ真逆だわ、おかしくって。ね、いつもみたいに縮こまって怯えていなさいな。そうしたらこれ以上酷いことにはならないわ。オリビアにデーヴィド様とこの家を譲ってくれたら、ちゃんとお金持ちの家に嫁がせてあげる。お年を召した方の後妻になるかもしれないけれど、いいわよね。あたしだって後妻だったけれど、可愛い娘も産めて今は幸せよ。幸せは、自分で勝ち取るものだわ。自分以外の何かを犠牲にしてもね」
この日、私はどうやって自分の部屋に戻ったのか覚えていない。気がついたら朝で、昨夜のあれは悪い夢だったのではないかとも僅かに思った。けれど、あれは現実だった。
この日を境に、義母はもう遠慮などせずオリビアとデーヴィドを二人きりにさせるようになった。初めの内は困惑をしていたオリビアだったけれど、彼女も義母に逆らうような子ではなかったし彼女自身徐々にデーヴィドとの逢瀬を楽しむようになっていた。おそらく、オリビアにだけ特別に優しいデーヴィドに恋をし始めたのだ。私はそれをぼんやりと眺めていた。
父もこの状況がおかしいとは思っているみたいだったけれど、相変わらずおろおろとするばかりで何もできはしなかった。私と同じだ。私は父によく似たのだと思う。
それからしばらく、私はぼんやりと生きていた。一応暫定的な跡取りとして父の仕事を手伝ってはいたものの、所詮は手伝いの域をでない。私が伯爵家を継げなくなるのはもう義母の中では決定事項らしく、領地へ行く必要もなければ学院も卒業してしまったから特に勉強をする必要もない。とても暇だったけれど、考えようによっては穏やかな日々だった。義母はとても機嫌がよかったし、私も私に対して苛立ちを隠しもしないデーヴィドの相手をしなくてよくなった。それだけで、とても気分が楽だった。
そうやってぼんやりと日々を過ごしていると、私のもとに以前オリビアに譲った家庭教師であるアルキュミア男爵夫人が訪ねて来てくれた。彼女はオリビアが学院に入る前まで家庭教師をしてくれていたが、あの子の入学と共にこの屋敷に通うのを止めたからとても懐かしかった。
アルキュミア夫人は両親と妹がいない時を見計らって来てくれたらしく、気を使わないで済むのも助かった。家族が出払っているので使用人は少なかったけれど、その分気心の知れた使用人たちだけで迎えることができた。何だか、子どもの頃の何も心配をしていなかったあの時に戻れたような気分だった。
「ナディアお嬢様、お久しぶりでございます」
「ええ、お久しぶりです、アルキュミア夫人。お元気そうで何よりですわ」
「本日は、こちらをお渡ししたく参りました」
「あら、何かしら」
アルキュミア夫人は小さな美しい小箱と二通の手紙を差し出してきた。受け取りながら、これは絶対に隠しておかなければならないと私は小さく頷いた。きっとオリビアは小箱を羨ましがるだろうし、手紙は義母が隠してしまうだろう。義母は昔から私が大切にしているものをやんわりと取り上げることがある。機嫌がいいとはいえ、気を抜くべきではなかった。
「明日は、お嬢様の二十歳のお誕生日ですので。小箱と白の手紙は私からのプレゼントでございます」
「ありがとうございます、夫人。あら、ではこちらの青色の手紙は?」
「……貴女の、お母様からお預かりしたものでございます」
「え?」
「ナディアお嬢様の実母である、ニア様のお手紙でございます。……お渡しするのが遅くなり、大変申し訳ございませんでした」
「ま、待ってください、夫人。謝罪される必要などありません。……ですが、これはどういう?」
「全ては、私の手紙に書き記しておりますわ。私はあまり長居をしない方がよろしいでしょう。重ね重ね申し訳ないのですが、本日はこれで失礼をいたします。お見送りは結構。私は、ここには来ておりませんので」
それだけ言って立ち会がったアルキュミア夫人を、本当は引き留めたかった。実母の手紙とは何なのか、すぐに説明をしてほしかった。けれど夫人と会ったのがバレれば、義母に手紙の存在に気付かれてしまう。夫人は数年この屋敷に通っていたので、この屋敷の異常さも知っている。だからこその行動だ。
私はアルキュミア夫人の言葉にゆっくりと頷いた。夫人は悲しそうな目で私を見て、美しい所作で膝を折りすぐに屋敷から出ていってしまった。使用人たちは慎重に目配せをしたあとに私に向かって「本日は、誰もお通ししておりません」と言ってくれ、退室してくれた。誰もいなくなった部屋で私は手紙をじっと見つめた。何か、とても怖いことが起きる気がした。いつもの私なら恐怖に負けてどこかにしまい込んでしまうのに、でもこれは読まなくてはならないのだと、そう強く思った。
震える手で、まずは白い手紙を開いた。アルキュミア夫人の几帳面な字が綺麗に並んでいて、僅かな懐かしさを感じる。そこには、夫人と私の実母の関係性が書かれてあった。
アルキュミア夫人は男爵家に嫁いだが、元は私の実母の生家であるカエルム公爵家の傍流の子爵家の出身だったらしい。つまり、私の実母と夫人はかなり遠いが親戚にあたるのだそうだ。だからこそ、夫人は私の家庭教師に任命されたらしい。そして実母が死ぬ前に、この手紙を預かっていたのだそうだ。私が成人を迎えたら渡してくれと言われていたらしいが、十八歳の頃はとてもではないがこの屋敷に近づくことができなかったとも書かれていた。公爵家に現状を伝えようとしたこともあったが義母に妨害をされてできなかったと、そしてそれを謝罪する内容だった。
初耳のことばかりだが、納得はいく。そしてやはり謝罪を受けることはできないと思った。義母は意図的に私をカエルム公爵家と引き離そうとしていたし、私も義母が怖くて無理に祖父母や叔父叔母に会おうとはしなかった。たまに会っても当たり障りのないことしか言えず、現状を訴えるなんて考えもしていなかった。アルキュミア夫人と実母の関わりを知らないでいたのも、私の罪だ。調べようと思えばきっと調べられただろうに、義母が嫌な顔をするからと怠けたからだ。夫人は何も悪くはない。
そして私は、青色の手紙を開いた。
===
こんにちは、ナディア
わたくしは、ニア・フェレス。これから貴女を産む人間です。貴女からしたら、産んだ人間になるのね。この手紙は、死期を告げられた直後から何度も書き直したもので、やっと今回満足のいく内容になったので清書をしました。貴女が十八歳で成人を迎えた頃に渡すように伝えてあったけれど、きちんとその通りになっているかしら。なっていたらいいなと思います。
貴女は、わたくしのことをどれだけ知っているのかしら。誰かに何か聞いたかしら、それとも何も知らないのかしら。どちらでも構わないけれど、今貴女が読んでいる文字こそがきっと一番にわたくしを表しているわ。
わたくしは我も気も強く、だからこそ貴女のお父様と結婚をしました。あの人って大人しくて何でも言うことを聞くでしょう。悪人ではないけれど、とても頼りない人。でもとても優しい人。そんな人だから、わたくしがきゃんきゃんと騒いでも大抵のことは何でも許してくれたわ。本人がどう思っているかは知らないけれど、わたくしはあの人のそういうところが気に入ったの。あの人と、この伯爵家を盛り上げていくのだと思っていた。でも、そうはならなかった。貴女にも悪いと思っているわ、ごめんなさい。
謝ったばかりだけれど、貴女を産む決断をしたことは後悔をしていないの。貴女を妊娠したと知った時のあの喜びは、なにものにも代えがたかったわ。わたくしは貴族らしく冷静で利己的な考え方ができる人間なのだと信じていたのに、全てがひっくり返るくらいには嬉しかった。そもそも産まないという選択肢は初めからなかったのよ。だから後悔は一つもない。ただ、貴女の生きるこれからが心配だった。
わたくしの実家は公爵家だもの。滅多なことにはならないと信じているけれど、でも、絶対なんてこの世にはないわ。貴女のお父様は優しいけれど優柔不断だし争いごとも苦手だから、もし後妻に強く出られたらどうにもできなくなる可能性も高いもの。後妻を迎えないという判断もしないと思うわ。というか、できない。あの人はきっと、一人きりでは伯爵として生きてはいけないもの。……あの人が父親の自覚を持って貴女を守ってくれると信じたいけれど、最悪の想定はしておくべきであるとは考えているわ。
もし貴女が最悪の状況に陥っているのだったら、すぐにカエルム公爵家に行きなさい。わたくしの弟の所でもいいし、両親のところでもいいわ。最悪の状況になる前に彼らが助けてくれるとは思うけれど、もし遠慮をしているのならそれは不要です。貴女は伯爵家の子どもである前に、公爵家の血を引く者。もし不当な目に遭っているのなら、公爵家の者として全てを蹴散らしなさい。序列を理解しない者に貴族やそれに連なる資格などないのです。
貴女がどんなふうに成長しているのか、ずっと想像をしているの。でも何度考えても、貴女はわたくしではなくお父様に似てしまうのよ。優しくて、でも自分の意見を言うのが苦手で押し黙ってしまうような大人しい子。貴女がわたくしの想像通りの子であるなら、逃げ出すこともできないで怯えて暮らしていてもおかしくはないと思ったの。もし想像が外れて、わたくしと同じくらいかそれ以上に気が強く育ったのだったらあまり心配はしないのだけど、わたくしの勘って当たるのよね。
何で、この手紙を成人の日まで待ってもらったか分かるかしら。貴女が嫌な目に遭っていると考えたのなら、もっと早くにこの手紙を渡していてもいいと思わない? わたくしも悩みました。でも、成人まで待ってもらうことにしたの。だって、子どもの貴女に人生の選択を迫りたくはなかったから。子どもの世界は親が全てだわ。貴女が経験も知識もない子どもであったなら、それはわたくしからの強要になるもの。でも成人をした貴女なら、自分で自分の人生を選べると思うの。
さっきは逃げ出しなさいと書いたけれど、逃げないで流れに身を任せるという生き方もあるわ。貴女がそれを選ぶならそれでも構わないの。だって貴女の人生は貴女だけのもので、わたくしが決めることじゃないから。わたくしは親として貴女の幸せを望むけれど、貴女の幸せは貴女にしか分からないから。
書いていて自分で自分が情けなくて笑ってしまうの。なにせ、これらは全てわたくしのエゴだもの。貴女を産むのも貴女の幸せを望むのもこの手紙も、全部エゴだわ。わたくしのエゴに巻き込んでしまって、本当にごめんなさい。傍にいて守ってあげられたらと思うけれど、この手紙を貴女が読んでいるということはわたくしはもうこの世にはいないのでしょう。貴女を産んでも生きていられたのなら、この手紙は破り捨てている筈だから。
わたくしの勘が外れて、貴女が幸せであるとことを祈っているわ。でももし勘が当たっていたのなら、何度も言うけれどカエルム公爵家に行ってほしい。いっそのこと、カエルム公爵家でなくてもいいから誰かに助けを求めてほしい。それをしないのであっても、貴女を幸せにする道を選んでほしい。
どうか、わたくしの愛する可愛いナディア。貴女のこれからが幸せに満ちていますように、強く強く願っています。
さようなら、ニア・フェレスより
===
私は暫く呆然としながら、青い手紙をじっと眺めた。いろいろな感情が押し寄せて、でも意外なことに涙はでなかった。たくさんのことを考えないといけないのに、頭は真っ白で一切働いてくれない。ゆっくりと深呼吸をするのがやっとで、意味もなくアルキュミア夫人がくれた美しい細工の小箱を開いた。
美しい小箱の中には、風の使徒の秘術が詰められた秘石が入っていた。秘石とは高価であるがその使徒と話せない者でも特定の秘術を使えるようにする為のもので、この場合は瞬間的に長距離の移動を可能にするものだった。
「ああ……」
アルキュミア夫人の意図を完全に理解した私は素早く立ち上がり、急いで手紙を書いた。手紙というべきでない程に乱雑に書いた文字たちの宛先は、父だ。私は、生まれてから今までの全てを捨てる。それを伝えなければいけなかった。
出て行くこと、もうここには戻らないこと、不出来な娘であったことへの謝罪を認めて、一番に信用している女性の使用人を呼んでそれを託した。彼女は何かを察したように静かに手紙を受け取ると、またすぐに部屋から出て行ってくれた。
秘石の使い方は知っている。高価で貴族であっても滅多に使用することはないが、数回は使ったことがあるし貴族学院でも習ったのだ。ポケットに手紙と小箱を無理矢理に押し込むと、私はぎゅうと秘石を握った。カエルム家の祖父母に会いたい。ただそれだけをじっと強く願うと、ふわりと足元に風が舞い、そして――。
読んでいただき、ありがとうございます。
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24/5/15「友だち以上恋人未満の魔法使いたち~竜王陛下もカースト上位女子も私の人生の邪魔はしないでください!~」が発売されます。お手に取っていただけると幸いです、よろしくお願いいたします。