イマジンの時代錯誤
「なんて儚い人生だったんだ。こんなことなら早く死んでおくべきだったんだ。」
築何十年も経つボロアパートの一室で、一人の男が呟いた。彼以外には住人はおらず、来年には取り壊しが決定されていた。
「おい、いるのは分かってるんだぞ。早く金を返せ。」
貫抜に南京錠だけがついた、とても頼りないドアが振動している。この怒号も彼にとっては日常だった。
「何故、こんな人生になってしまったんだろう。俺はこんな時代に生まれてくるべきではなかったんだ。生まれてくる時代さえ間違わなければ今頃両手に花で優雅に過ごせていたはずなんだ。くそ、こんな世の中に最期くらい何か復讐をしてやりたい。でも、俺にはもう何もない。残っているのはこの大量の本だけ。」
「くそ。明日はドアをぶっ壊すからな。そのあとお前の内臓を全部売っ払ってやる。」
ドアを叩く音が止んだ。先ほどまでとは打って変わって静寂が部屋に訪れた。
「内臓を売るだって。ふん、内蔵なんて、売れないくらいに酒でも呑みまくってボロボロにしてやりたいが、酒を買う金すらないのが残念だ。」
彼は周りに散乱していた本の中から一冊を手に取った。それに目を通しながら今までの人生を振り返った。
「思えば本当にいいことのない人生だったな。高校、大学受験には落ち、社会に出たあと親友だと思っていた奴の借金の保証人になったら、その友人には蒸発されるし、人生で唯一できた彼女は100股しているし、会社はクビになるし、気がつけばもう30を過ぎているし、あぁ、よく今まで生きてきたよ。こんな苦難の連続でよく今まで生きたと自分で自分を褒めてあげたいよ。…ん?」
手に取った本を、目を凝らして見ることなくパラパラとめくっていると、茶色く古びた紙のしおりが挟んであるページで止まった。
「んー?しおりなんて挟んだ覚えはないな。と言うよりも読んだこともない本だ。買ったまま読まずにそのままだったのだろう。古本屋で買ったんだったかな。きっと買い取った時に、よく中身を確認せずに店主がおいたんだろうな。」
男はなんとなしにそのページに目を通した。見慣れない文字が記述されていたが、文字がわからない人の為だろうか、図や絵が多くあり、直接視覚に訴えてくるような構成になっていた。
「ふぅん。」
男は最初のページに戻り、本を読み始めた。その本は大人のための絵本のようで、スラスラと読めて、読者を惹きつけるような力があった。
男は時間を忘れて熱心に読んだ。読み進めるうちに、彼の目は新しいおもちゃを見つけた時の子供のように好奇心溢れる目になっていった。
読み終わる頃には、窓から差し込む夕陽が部屋を赤く染め上げて、男の黒い影が赤い部屋に映し出され、部屋は不気味な雰囲気に包まれていた。
「デーモンか…。」
この本には、デーモンに魂を売ることで願いが叶うような内容が書かれていた。普通の大人であれば、到底信じないような話だが、今日死ぬと決めた男の精神は普通ではなかった。男は確かにこの本から何かを感じ取ったのだ。
「デーモンに人間の魂を渡すことで、願いを一つ叶えてくれるといったところか。いいじゃないか。ただ死んでいくのはつまらないと思っていたところなんだ。俺の魂でこの世に復讐できるなら、最高だ。魂の純度で願いの大小が決まるのか…。うーん、俺の魂は純度が高いのか?」
男は徐にデーモンの呼び出し方のページを開いた。
「デーモンの呼び出し方なんて言うからなにか生贄やレアな材料が必要なのかと思ったけど、いるのは呼び出しのための陣形と一滴の血と鏡だけなのか。鏡は…、うん、洗面所の鏡でいいか。」
男はすぐに作業に取り掛かった。陣形はかなり複雑で、夜中まで作業が続いた。
「どうっ…せ、来月には解体する部屋だ。もう誰も文句も言わないだろう。」
そう言いながら、部屋の地面に一生懸命描き続けた。
部屋はいくつかの蝋燭の灯りで、ベルベットのように赤暗く染まっていた。その中で陣を描く音だけが静かに鳴り響いていた。
「こんなものでいいのか…?我ながら、絵を描くのも下手で嫌になるよ。不細工な陣だとでてこないことはないよな…。」
男は不安になりながらも洗面所から鏡を外して持ってきた。
「これを陣の真ん中に寝かせて…」
作業手順を確認するように独り言を呟く。作業は最後の行程にさしかかった。
「後は鏡に血を一滴垂らして、自分の影を鏡に写すっと。血を一滴出すのか…。ちょっと痛そうだな。」
男は言いながら微笑んだ。今日死ぬことを決意した人間の言葉じゃないないぞと、自らの皮肉にふと笑ってしまったのだった。もっともそれは不安と恐怖と期待と興奮が入り混じり、精神が崩壊しそうな中で、自分を守るための自己防衛の微笑みかもしれなかった。
「いっ…。ふぅ。よし、これを垂らしてっと。」
血が垂れた鏡に影をうつす。ここまできたらあとは…。
男は考えた、デーモンに何を願おうか。借金取りに一生不幸が訪れるように?いや小さすぎる。もっと大きな願い事。そうだ、死ぬ前にこの世界の支配者にしてもらうのはどうだろう。魂を引き渡すのを少し待ってもらうのだ。そして毎日、両手に花でパーティを…、いや違うな。そうだ、全ての人間が俺と同じ目にあえばいいんだ。いや…、永遠に続く苦しみを味合わせるってのもいいな。たとえば全ての男が一生尿路結石になるってのも面白そうだな。そしてその苦しみで自殺しようとしても、死ねない体にしてやるのはどうだ。
男の妄想はどんどんと膨らんでいった。
その時、突然鏡がピシッと音を立てて割れた。そして今まで自分と同じように動いていた影が急に動かなくなり、徐々に浮かび上がってきた。
「おお、ついにきたか。デーモンよ…。」
影が一気に立ち上がり顔の下半分に大きな赤い口がバカァ…と音を立てるように現れた。口の中では黒く鋭く尖った牙が生えていた。耳であろう影がどんどん鋭く斜め上に伸び、影の背丈は男の2倍ほどに膨れあがった。手足の爪は鋭く、髪の毛のようなものはツンツンに逆立っている。
「これが悪魔呼び出しの最後の行程だな…。」
いざデーモンの影を目の前にすると体がすくみ、本当にこのデーモンを目覚めさせても良いのかと内なる自分が自分に訴えた。そして、少しだけあった生への未練が、本当に魂を渡してもいいのか、今ならまだ間に合うんじゃないか、そんな考えを一瞬のうちに頭に駆け巡らせた。
だが、男の決心はすぐに決まった。その決心は、もはや、やけくそと呼んでも差し支えのないものだった。
「何を今更怯えているんだ。もう既に決心したはずだ。よし…、言うぞ。」
男は叫んだ。
「目覚めよデーモン、そして我が願いを叶えるのだ!」
影に一気に色がつき、真っ赤な口は口角を存分に上げて、恐ろしい程に吊り上がった大きく黄色い目が開き、全身がブワッと総毛立った。
そして、デーモンは赤く大きな口をさらに大きく開けて第一声を放った
「誰だ!こんな忙しい時に俺を呼んだのは!お前ら人間が全員地獄行きのせいで俺たちデーモンはもう何日も休みなしで働いているんだぞ!もうこれ以上魂を増やさないでくれ。クソ、まだ俺たちを召喚する本が地上にあったなんて。あぁ、天使たちの悪戯だな。あいつら、自分達が暇だからって…。魂なんて見るだけで吐き気がする。おい、俺は帰らせてもらうぞ。地獄では魂の大行列ができているんだ。お前も死ぬ気なら審判までの待ち時間を覚悟するんだな。あの待ち時間だけで既に地獄だ、地獄でいいから早く行かせてくれと懇願するようになるぜ…。」
そう言い残し、デーモンは消えた。
その年、男はめでたく彼女ができた。