第2話 衝撃! 南海に散るヒーロー? 赤熱化は三倍の奇跡を生む?!
明朝。
執念の結晶である、丹念に取り分けられた苺の種子……つまり、外周部の粒々のみが集められた器が、春告の手元にはあった。
『厳命』と力強い筆跡で書かれたメモ用紙には、
「今度からは粒を残らず除去すること」
薺のこだわりが明記してあった。
「良かったの。食べてくれて」
「いや、いじめでしょ、これ」
「あの子も陰湿だからのぉ」
薺の『返答』にケラケラと此花が笑っていると、
「ただいま〜」
声は一つに、足音が二種類、玄関の方から一直線に居間に向かって歩いてくる。
「おかえりぃ。お疲れ!」
ピシッと右手を挙げて此花が出迎えたのは、対照的な二人の乙女だ。
安桜草香と唐守ふきの。唐守は春告と同じようにガイアギアを有するオペレーターであり、安桜は唐守をサポートするナビゲーターである。
「お疲れさま。朝飯、すぐ用意するから」
二人の帰還を待っていた春告は、冷蔵庫から生野菜のサラダを取り出し、一人分の食パンをトースターに入れた。同時に味噌汁を暖め直しながら、ベーコンエッグの調理に入る。
このアパートの住人は、朝食の和食派と洋食派が混在しており、どちらかが折れるという選択肢は存在していなかった。
それこそ、春告が来るまで、朝食の準備を巡って拳が拳を呼ぶ殺伐とした空気が漂っていたらしく、冗談抜きで夕食の残りのピザが飛び交ったという。
特に唐守ふきのの暴れっぷりは尋常ではなく、深夜パトロールという勤めの疲れもあって、元々が肉体派の彼女が拳に訴えるのが常道だった。
その唐守ふきの、帰ってくるなりTシャツを脱ぎ捨て、短パンを蹴り跳ばし、下着姿で椅子の上に胡座かき……薺は別としてこの館内で、最も正しく女性として発育している彼女には、情操が著しく欠如していた。
最初にそんな姿に直面した春告は、彼女の胸の谷間やら、豊満すぎて左右につぶれた尻肉などにいちいち反応したものだが、同時に固く引き締まった二の腕やふくらはぎ、六つに分かれた腹筋なども丸見えで……おまけに相手に恥じらいが一切ないことから、色々と冷めた。
こういう人種だ。
見切りをつけてしまえば、精巧な美術品が動いているとでも思えば、目のやり場に困る以前に、相手を凝視するような事もなくなった。
そんな唐守と一緒にいる安桜草香は……そんなことを本人に言えば、トイレに入る直前にトイレットペーパーを全部隠されたり、夏場なのに風呂の設定温度をマックスにされたり、部屋にこっそり蚊の羽音の音源を仕込んで寝苦しい夜を更に寝苦しくする等の陰湿かつ効果的な仕返しを実行されること確実なのだが……同僚に全部持っていかれたんじゃないだろうかと思うほど、色々と、細い。
骨と皮、と言ってしまうと貧相なイメージになってしまうのだが、それでも儚いというプラス印象を喚起させられるのは、彼女の身体のパーツがいちいち小ぶりに出来ているからだろう。
黙っていれば、お人形さんみたいで可愛い……ただし基本無口な彼女は、黙ったままで蹴りを入れてくるから……動かなければ、お人形さんみたいで可愛い部類だ。
「どうだった、今日の首尾は?」
あっけらかんと、此花が訪ねれば、
「まぁ、上々。いつものコンビニ連中けちらして、廃屋の暴行現場を二件押さえて、買春現場に踏み込んで……酔っぱらいを三人川に投げ込んで、あと児童虐待の現行犯を半殺しにしたくらい」
「それはそれは。お疲れさまです」
春告のシャインダークが宇宙の平和を守るとしたら、ふきののガイアギアは、夜の街の悪を叩く、地域密着型ヒーローだ。
特に法では叩きにくい、家庭内暴力などを精力的に撲滅に回り……その苛烈なやり口から警察に指名手配を食らっているほどだが、少なくとも日本の警察には、彼女たちを止める力はない。
「ハルがシャインダークなら、さしずめオレは夜王ってとこ?」
前振り伏線飛び越えて、いきなり本題が浮上する。
「ふきのは撮ってないよ」
「差別なっ!」
「だって、ふきのを撮ったら、ロケ地から身元割れまくりじゃん」
「そこは、あれだ! モザイクと音声変換でごまかして」
「あんた。モザイク職人の苦労を知らないからそう言うけど……」
徹夜明けでフルスロットルなふきのに合わせて、此花の口も回る回る。螺旋を描いてどんどん話題がずれていく二人を無視して、草香は黙々と食パンの耳をちぎって目玉焼きの半熟黄身を浸して食べる作業に没頭している。
「あ〜、ハル」
ふきの用のどんぶり飯を用意していた春告に、珍しく草香が話しかけた。
「次は、Iで」
「何の話?」
「人文字」
一方的にそれだけ告げると、草香は黄身を吸い尽くしたベーコンエッグを食パンに挟んで……そのまま会話を打ち切った。
Vの次がI……ビクトリーとでも続けろと言いたいのか?
食事に没頭すると聴覚を閉鎖してしまう草香に確認する術はなく、とりあえず彼の動画はそれなりに、住民たちに受け入れられているらしいことを知る。
「あ、ハル。今日は赤道方面によろしく」
今の今まで騒いでいた此花が、不意打ちで春告に矛先を向けた。
「赤道? わざわざ?」
大気圏内で二酸化炭素を収集するだけなら、別に国内でも問題ないはずである。
「うん。衛星写真に、気になる影があるんだよねぇ」
(魔のトライアングルにでも飛ばされるんだろうか)
此花ならあり得ないとは言い切れず、春告の胸に不安の雲が急速に膨らんでいった。
心配は杞憂に終わり、春告は常夏の熱帯地域、赤道直下の紺碧の海上へと、その身を飛ばしていた。
魔術的に『飛ぶ』とは、ウィルゲムのコントローラーである『カドゥケウス』を通して、各鉱石に蓄えられている数億年の知識をフル活用した結果、『斥力発生』もしくは『重力波制御』、『ミノ○スキー粒子(未知)が立方格子を形成して電気的な斥力で疑似重力制御』の、いずれかの方式で成るのが普通だと説明されていた。発現の分岐点は、用いる鉱石の種類と、その並べ方で多様なバリエーションがあり、実際に飛んでいる春告でも、一体自分がどういった原理で空に浮いているのかは説明できない。
ただ、『飛ぶ』と念じた。
その念を受けて、十粒のウィルゲムが応じた。
それが魔術と呼ばれる機構の肝であり、ウィルゲムに認められた者しか力を発現できないからこそ、条件さえ整えば『誰でも』利用可能という科学の定義とは隔絶している。
宝石に気に入られた特定の人物が用いることができる超常の現象。
母なる星、『GAIA』の結晶として生まれ、幾度もの氷河期や温暖期を経て、何度かの小惑星の落下を聞き、動く大陸に乗って時には遙かな地下から地上へと旅を続けて人の手に渡る宝石たち。
ウィルゲムとは、俗に言うパワーストーンの中でも、特に強いWILL(意志)を持ったGEM(宝石)の事を指す。
夢野此花曰く、
「人間と石の関係は、人間が『ゴッド』を想像する遙か昔から続いておる。
人間と猿の分化が、モノリスになくても、石という道具の利用にあるのは明白。
そんな時代から、人間は石を頼り、石に助けられ、その声に耳を傾け、その意志を尊重して、生活の全てを石に依存して、その意志に導かれてきた。
この星に、『GAIA』なる超常の意志があるのかどうかは知らん。
けれど神話が生まれるよりもずっと前から、人間は石の力を熟知して、活用してきたから発展できたことに、異論は認めぬ。
魔術とは、文字通り『悪魔の術』。
けれど、『悪魔』という概念は、キリスト教という『作品』の『裏設定』に過ぎぬ。
彼らが魔術と呼んだのは、あくまで彼らの『世界設定』から外れた技であったからじゃ。
そして民間療法として古くから語り継がれてきた魔女たちの技は……ゴッドではなく大地母神たるGAIAを根底にしたアニミズムだったからこそ、異端と見なされ排斥されたのよ。
石を媒介し、石に頼り、石に認められることこそが、人間を人間たらしめ、今の生活を導いた、正統な神の御技であったことを忘れての。
地球創世の太古より成り、無数の知恵をその身に宿したウィルゲム以上の知嚢なんて、この地球には存在せぬ。
だから、自信を持て、ハル。
そなたは、GAIAの意志に認められた、発現者なのじゃから……」
ガイア理論なる、地球を一個の生命体とみなす考え方があることは、春告も言葉だけは知っていた。けれどもそれは、複雑すぎる自然機構が現在の環境設定で均衡を保っている奇跡を、生物のもつ『恒常性』になぞらえたシステム論であって、GAIAなる意志を認めたわけではない。
此花も、その点については、ウィルゲム固有の意志は認めても、地球そのものの意志との接続については明言しなかった。
「GAIAねぇ」
今、春告の眼前には海があり、空がある。水と、そして酸素と二酸化炭素と窒素が満ち、それぞれは誰に頼まれたのかも分からないまま循環して、現状維持という奇跡を当たり前のように続けている。
そのシステムが、あたかも一個の生物であるかのように美しいことに、春告も異論はない。
そして生物の由来を、宇宙からの飛来物に求めていた従来の学説と反対に、地球固有の発生であると仮定したことにも、理屈ではなく感情で納得できる。
けれど、だからと言って、GAIAという生命体が意志を持ち、ウィルゲムという結晶を通して人間に助力してきたとする此花の論説には、いまいち首肯しかねていた。
もちろん、今現在春告が空を飛んでいる理屈を、それ以外の何かで置換することも、彼には無理なのだけれど。
「ここら、だよな」
GPSで現在の座標を確認しながら、春告は周囲の観察に意識を向けた。
洋上は強い貿易風の煽りをうけて波打ち、見渡す限り蒼き海が煌めいている。直上より降り注ぐ太陽光に温められ、勢いよく上昇しているであろう水蒸気の流れにのって天を突くほどに成長した入道雲の群も、彼の脳裏にあった南洋のイメージ通りに、白く、気高く、雄々しい。
「此花、一応目標空域に到着したけど?」
春告のガイアギアが見ている光景は、遙か日本にあるアパートでもモニターされていて、必要があれば薺や此花のツッコミが容赦なく襲ってくる。
「待て、今付近の人工衛星にハッキングしておる」
いっそ、自分が高度一万メートルまで上昇しようかとも考えたが、その遙か上空にある静止衛星から送られてきた画像による指示の方が、早く春告の耳に届く。
「そこから風下に移動して……問題の物は、海洋を漂っているはずじゃ」
漂っている?
此花が情報を隠しているのはいつもの事なので、余計な質問は挟まずに春告は現場に直行した。
目指す方角には、先ほど感嘆した入道雲の列塔が高々と空を占めている。
春告は海洋に漂っているという何かを見つけるために、高度を低く、海面を舐めるように風を切った。飛び魚かイルカでも一緒に飛んでくれようかというほどの低空飛行に、残念ながら追随してくれるモノはいない。
「?」
やがて、異景が視界に滑り込む。
入道雲を門として、果たしてその向こうの世界は、まるで異海であるかのように、まがまがしくも闇一色に染まっていたのだ。
それが、延々と遙か彼方まで続いている雲のせいだと気づいた春告は、影色濃い灰色の海原のそこかしこに、竜巻と見紛う気流の柱が散乱しているのを見た。それらも近づくにつれて輪郭がハッキリと見えてきて、竜巻にしては穏やかなその動きの根元に、人工物であろう白き物体が浮かんでいる。
「ヘリコプター?」
入道雲直下のスコールのカーテンを抜けて、自らも雲海の影の領域に入り込み、最寄りの蒸気源の異形を観察する。
全体が白く塗装された巨大な船だった。帆柱の代わりに三本の塔が立ち並び、外周にフィンを巻き付けたその柱が、ゆっくりと回転している。
春告がヘリコプターと呼んだのは、その塔の形状が、歴史の教科書などで見た、レオナルド・ダ・ヴィンチの描いた螺旋形状の空飛ぶ機構の設計図に、酷似していたからだ。
その緩やかに回転しているレオナルド塔(仮)の塔頂からは、春告が竜巻と見間違えた、霧が勢いよく立ち上がっている。その霧の柱は途切れることなく真上の雲に直結しており、どうやらこの船舶が、上空の雲の製造装置の役割を果たしているらしいと想像した。
船舶には、人の姿がない。
「春告、念のため、降りてみ」
「もし、誰か中にいたら?」
「全力で逃げい」
人事だと思って、と心中でため息をつきながら、春告は慎重にレオナルド塔(仮)に近づいていった。
予想以上に、大きい。
樹齢何百年という巨木を思わせる存在感で、十メートルを超える塔が、ドリルを連想させる螺旋状に取り巻いているフィンをゆっくりと回転させながら、空に霧を吐いている。
船上に降り立った春告からは、人間が操作するのに必要な設備が見つからなかった。五十メートルを越えるだろう全長の甲板を歩いて、メンテナンス用であろうハッチをようやく見つける。
「不法侵入に、なるよなぁ」
「とっとと、入れ」
鍵はかかっていなかった。不用心だと思いながら、光のない船内に滑り込む。真っ暗な船内に、開かれたハッチからの光だけが輝いている。明らかに、人の存在を無視した設計だった。塔が回っている音だけが船体に阻まれてこもっていて、時折水の流れる音が、微かに足下から伝わってくる。
「海水を汲み上げておるの」
「何のために?」
「そりゃ、雲を作るためじゃろ。ハル、今度は雲の上じゃ」
入ったばっかなのに! と憤っても意味がない。春告はメンテナンスハッチを丁寧に閉めると、塔の回転に巻き込まれないように気をつけながら、霧の柱に沿うように空を登っていく。
直上の雲は、粒が細かかった。
(パウダースノウ?)
直感の感想が、それに近い。
ベタつくような重さのない小さな水滴が、空をミッチリと埋めていて、それが想像以上に濃い影を海上に落としている。
雲海は、薄かった。
(眩しっ!)
赤道直下の強光を跳ね返して、雲上は爆発しているかと思うほど輝いていた。目が眩む光圧に、頭部のバイザーが自動的に遮光モードに移行する。雲そのものが発光しているかと思うほどの輝きは、予想通り地平線の彼方まで続いていた。グルリと四方を見回せば、雲海の終端に、もれなく入道雲の山脈が立ちはだかっている。まるで、盆地だった。入道雲に周囲を取り巻かれた、沸騰するように白熱している雲原。
宇宙から見たら、さぞかし強烈な光を放っているであろう雲海を飛び回りながら、これほどの存在にも関わらず、今まで気にならなかったことに違和感を覚えた。
「これ、なんなの? どこかの国の実験か何か?」
「国家単位じゃない。かといって国連でもない。あらゆる法を無視した、極めて悪質な個人的実験じゃよ」
「個人的?」
此花の口調は断定的で、しかも怒気が含まれていた。
(裏事情を知っている?)
「新手のソーラーレイとか?」
「風に流される軍事兵器って有用か?」
「軍事衛星の盗撮防止とか」
「敷設が海上限定じゃろ」
「わざと雲を作って、畑に雨を降らせるっていうの、中国で実用してなかったっけ?」
「これは逆じゃ……この雲は、雨を降らせない雲での」
此花が、やたらと諸性能に詳しい理由を、春告は一瞬考えてみた。
「ひょっとして、此花が作ったとか?」
「わしは初期設計しただけじゃ!」
図星だった。
「で、一体全体、なにが目的なわけ?」
珍しく、春告は強気になって畳みかけた。この先あるかないかという自分のターンに、酔っていたのかもしれない。
「ハルのくせに生意気な!
口動かす暇があったら、もっかい雲の下に潜って、あの船を二三隻、強奪してこい!」
……此花の図星は逆鱗であることを、春告は自分の鼓膜を痛めて実感した。
此花曰く、これほどの巨大建造物を運ぶには、今の春告の装備では出力に乏しいらしい。
海上に出た春告が一番最初に指示されたのは、カドゥケウスという魔術発生機構にはめ込まれているウィルゲムの交換だった。
春告のガイアギアの発現には、十粒のウィルゲムを必要とする。
雲製造船(仮)に降り立って、一度変身を解いた春告は、自信の胸元にペンダントのように下がっているカドゥケウスを持ち上げた。
春告のそれは、いわゆるペンタグラム、五芒星を描いている。正五角形の各辺に、三角形を五個付け足した、その五頂点と五交点には、十粒の宝石が輝いていた。
固有の意志を持つウィルゲムと、そのウィルゲムの力を繋げる回路であるパスによって構成されたカドゥケウス。
ウィルゲムの一つ一つには固有の仕事が与えられ、全体で春告の『願い』を、現実に干渉する『力』に変える。
春告のそれは、その形状から、セーマンパスと呼ばれる規格のものだった。基本外の五点が力の発現を受け持ち、中の正五角形が力の制御を担当する回路らしい。
春告は言われるままに、ノイズを除去する瑪瑙と、様々なエフェクタを担当する琥珀で出来たウィルゲムを外して、同時に最終的な力の発生を受け持つ日長石のウィルゲムを、一つから三つに増やした。そうすることで雑念が増え、細かい調整も不可能になるが、春告と雲製造船(仮)を浮上させるのに十分な出力が得られるらしい。
「で、どうするの、この船?」
回路に新たなウィルゲムを組み込んで、春告は念じることで一瞬でガイアギアを発現させる。
「とりあえず、北極へ持ってけ」
「北極!」
とんでもない事を言われた。
直線で行っても六千キロ超。
正確な排水量は知らないけど、百トンは下らないだろう船舶を二つも受け持って、六千キロ。
「なんのために」
春告が生身で持ち上げるわけではないとは言え、その力の発生源が春告にあることは明白である。オペレーターの志気が如実に出力に反映される魔術は、主に精神的疲労が大きい。これだけの物を長距離運搬するためには、それなりに志気を高揚させるだけの理由が欲しかった。
燃える心は天でも突き破るが、萎えた心じゃ箸も持てない。それが、春告が変身しているガイアギアの特徴なのだ。
「大ヒントをやろう。雨の降らない雲の下、どうなると思う?」
「そんなの……曇るだけじゃないの?」
「じゃから、曇りの日だと、下はどうなるかと聞いとる!」
当然の受け答えに逆ギレされた。一体此花はなにを企んで、こんな大仰な物を設計したというのか。
雲。影。日光を遮るもの……世界の色彩を乏しくさせ、植物の光合成を邪魔して、地上の気温上昇を妨げ……「寒くなる?」
「ビンゴじゃ!」
此花は、海水噴霧によって作られた雲が、その太陽光反射能の大きさによって、下界を寒冷化させるのだと説明した。
「なんのために?」
「地球温暖化が問題だったから、工学的に冷やす方法を考案しただけじゃよ」
「それを、どうして、北極に持っていく必要があるわけ? それに、そういう目的なら、別に邪道でも邪悪でもない、利他的で有益な実験に聞こえるけど?」
「あのな。氷が溶けてるのは極地。こんな暖かいところ冷やしても、北極の氷が溶けるのは終わらんのよ。
それに、こんなところで勝手に海を冷やしたりしてみ。
エルニーニョやラニーニャみたいに、どんな要因がテレコネクションを引き起こすか、分かったもんじゃない。インド洋が冷えると、日本が暑くなったりするのが、地球じゃからな」
なんとなく、本当になんとなくだが、春告にも此花の焦りは分かる。
「でも、本当に、勝手に移動させて良い物なわけ?」
「くどい! 日が暮れる前に日本に帰ってこ!」
半日で北半球を往復させる無茶を平気で命じるのが此花クオリティ。
とりあえず、犯罪行為ながら意義は確かにありそうだと、春告は自分を納得させることにする。
「ところで、これも、ニカニカ動画にアップするわけ?」
「そなたが無様な仕事しなけりゃの」
一体どんな無茶なシナリオをでっち上げるつもりだか。一抹の不安はあるが、監督に口答えできないのが役者の立場である。
春告は手近な二隻に力を向けると、自分と船が空を飛ぶ様をイメージした。
「ところで、これだけ派手な物を飛ばせると、さすがに目撃者が出るんじゃない?」
「別に、パパラッチされたところで、身元判明しないじゃろ?」
正義の味方で魔法使いにしては、あり得ない開き直りっぷりだ。
「わしはな、わしだけの味方で魔女じゃ。エコじゃなくてエゴじゃ。悪いか?」
良いか悪いかはともかくとして、此花の性格は身に染みて思い知らされている。春告は有無を言わず、黙々と力の発現を念じようとして、刹那、悪寒を覚えた。
理屈ではない。
名状しがたい恐怖心が、背後から春告を覆いつくさんと迫ってくる。
(敵?)
明確でない感覚に、春告の無意識は敵対するものを嗅ぎ取った。
「薺、索敵!」
瞬時にモニターに、南方から高速で迫る光点が映し出される。
(なにか、くる!)
その速度は、船舶などではない。
と言って、この海域は航空路にも指定されていないはずで、戦闘機にしては、逆に遅すぎる。
「春告! 全力で逃げい!」
『一目散推奨』
(二人とも、勝手なこと言って)
今まさに、二つの船舶が浮かび上がったばかりである。
春告の意識は自分の姿勢を維持させることで精一杯で、逃げ出すにしろ、まずは二隻の雲製造船(仮)を着水させなければならない。
光点は、その間に射程範囲に侵入する。
(だったら!)
覚悟を決める春告の鼓膜を、此花の怒号がひっぱたいた。
「逃げろって言ってんじゃろ、この唐変木!
今のそちのウィルゲム配置じゃ、その相手には勝てん!」
『接敵』
春告が船を着水させるのと、相手を肉眼で確認したのが、同時。
「まさか……あれも、ガイアギア?」
青と赤の二色に彩られた、人間大のメタリックなボディが、高速で宙を滑っている。
どこか既視感を覚えるそのシルエットは、メカメカしく四角。「トランスフ○ーム」のかけ声と同時に、コンテナ運搬車に今にも変形しそうなディテールだ。
「お前が来ることは予想していたぞ、此花」
(州知事だっ!)
正確に言うならば、『日本版』州知事の声が、此花の名を、上空のメタリックボディから放つ。
「……お前、此花か? ひょっとして貴様、少女の容姿に飽きて、性転換したのではあるまいな?」
「んなわけあるかっ!」
春告のヘルメット内に、此花の怒号が轟く。
「耳元で怒鳴るなよ!」
春告も負けじと声を荒げる。基本外部との接触を想定していなかった春告のガイアギアには、外部スピーカーがない。それでも『念じ』れば、相手に声は届けられるはずだ。
だが、春告は、スーツの中に引きこもる道を選んだ。
相手が勝手な勘違いをしているのを、わざわざご丁寧に解消してあげる義理はない。
「沈黙を選ぶか。まぁ良い。
その船は私有財産でな。ま、有り余る財を処理した程度の価値しかないのだが、黙って持っていくというのであれば、国際指名手配をかけるまでだぞ、此花」
上空のガイアギアは、あくまで春告を此花と見ようとしている。
その、男子小学生が図工の時間に作った粘土細工に宿った龍神様によく似た声に、ともすれば親近感を覚えてしまう春告だったが、それでも、首筋の後ろが、いやに冷めて、緊張を主張する。
「アーノルドのくせに生意気な」
此花の鼻息が荒い。
「昔の知り合い、というか、共同研究者っていったところ?」
春告の推理に、
「おおむね正解じゃ。というか、何でわしの指示を無視した! いいから、とっとと逃げい!」
図星を刺された此花が吠える。
いっそ此花との通信回線もシャットアウトしようかと思う春告だったが、そうすれば今度は日本に帰れなくなるだろう。
(でも、今はこっちの出力は通常の三倍になっているんだ)
それをすべて加速に投入すれば、亜光速は嘘でも音速の壁くらいは越えられる。確かに目の前のアーノルドから逃げ出すことも可能かもしれない。
けれど、春告の胸の奥にある闘争本能は、その三倍の出力を持って、目の前の相手と対峙することを、強く願っていた。
それは、通常の春告の思考とはかけ離れている。
しかし、この、胸の奥から沸き上がる衝撃は、男子としては間違いなく正解の感情だった。
女としては、ここは逃げろと言っている。
男としては、ここは戦ってみたいと思っている。
脳の違いか、経験の差か。とにかくも埋めようがない性別の壁を感じながら、春告はアーノルドの挙動から目を逸らさなかった。
このまま、睨み合ってはいられない。
先手を取られたら、対応できるか分からない。
だから、
「先手、必勝!」
瞬間、春告の直下の海水が爆ぜた。
背後の大気膨張を受けた春告のガイアギアが、弾丸さながらの速度を得てアーノルドに直行する。
「この、うつけがぁ!」
だが、読まれていた。
春告の突進に合わせて、アーノルドの右腕が春告のヘルメット左を強打!
すべての突進エネルギーをはじき返され、春告は前進以上の速度で海面に叩きつけられた。
巨大な水柱が立ち上がる中、アスファルトのように強固になった水面をぶち破った春告は、粘つく海水に翻弄されながら、さらに深海へ突き進む。
「いってぇ……」
防御フィールドを展開していたはずも、全ての衝撃を肩代わりするには至らなかった。
宇宙空間でも活動可能なガイアギアが、海中で動作不能に陥ることはなく、海水の抵抗によって徐々に速度を落としながら、しかし一瞬の痛みを凌いだ春告は、なぜか笑いがこみ上げていた。
自分が壊れたのではないかと思う。
しかし、胸中は清々しい。
自分は、あの時点で最良のバランスを選択したと思う。
三倍の出力を、二対一の比率で攻撃と防御に回し、可能な限り奇襲した……だが、跳ね返された。
圧倒的な存在感で、アーノルドは春告に立ち塞がったのだ。
それは、本来なら恐怖すべきだろう。
万能すら期待していたガイアギアを持ってして、無様なまでに負けたのだ。
だが、笑いが止まらない。
ドキドキが加速する。
男として、対等以上の敵を得たことを、遺伝子レベルが喜んでいる。
「やばい、楽しんでる」
自分にそんな感情が眠っていたなんて。
負けたことが悔しいと思いながら、再度挑んでみたいと思わせる好敵手に、細胞が活性する。
ガイアギアは、破損していない。
また、やれる。
だったら、
「今度は、全力だ」
防御を捨てる。
すべてを攻撃に回す。
失敗したら、今度こそガイアギアが砕かれるかもしれない。
このまま、熱帯の海に沈むかもしれない。
「だが、それが良い」
理性が特攻を蛮行と呼ぶ。
感情は特攻を勇と讃える。
時に自暴自棄すら賞賛する男の部分が、眠っていた牡の本能が、春告の腹の奥から突き上がる。
「バカなこと考えとるんじゃない!」
此花が割り込んでくる。
『逃亡、最優先』
薺のテロップが、最大フォントで太文字で、春告の網膜を埋め尽くす。
しかし、だめだ。
バカなことをやろうとしている。
それを女が反対する。
その事を、格好良いと思ってしまっている『男』を自覚する。
女なんかの言いなりになるな。
勝負なんて、やってみなけりゃ分からねぇ。
根拠のない自信に、男のロマンが止まらない。
そして、春告のワクワクを反映したかのごとく、カドゥケウスが描く五芒星が輝き始めた。
十粒のウィルゲムが担当するは、春告の『念』のインプットから、雑念を省き、純粋な願いを増幅し、対象を特定し、力に変換して、その力に方向を与えて、最終的に出力する、一連の処理。
その内、直前に変更したのは、雑念を除去するノイズゲートと、繊細に力を制御するエフェクタだ。
今、カドゥケウスは、春告の中に渦巻く様々な感情をすべて力として受け止めて、それをまっすぐに、力に還元して光り輝く。
アウトプットを担当するのは、太陽の光を閉じこめたが如き、黄色い半透明の日長石。
五芒星の下部三点を占めるサンストーンが、限界まで輝き、春告の欲望を肯定する。
「駄目で、もともと!」
無謀は、無謀だからこそ楽しいと、春告は実感として今、学んだ。
此花は怒るだろう。
薺は泣いてくれるだろうか。
分からない。分からないけど、逃げたくない。
だから、全力で挑もう。
負けて、生きていたら、逃げよう。
それが、春告の最大譲歩。
夢野此花と言えども、春告のカドゥケウスに干渉することは、その特性上不可能だ。
今、この瞬間を生き、現実に干渉するのは、春告しかいない。
それが、一人だと言うこと。
全てを選択し、責任を持ち、痛みを全て受け止めるということ。
春告には、どちらが正しいのかは分からない。
此花がやろうとしたのは、確かに窃盗だろう。
アーノルドがやっている実験は、私費とは言っても、全地球的に影響を及ぼす危険があるのだろう。
双方に譲れない願いがあり、今すぐに判断は下せない。
ただ、此花とは数ヶ月を過ごした。アーノルドとは初対面だ。
それ故に、春告は、アーノルドと対峙する。
人間なんて、そんなものだと、春告は短絡した。
何よりも直感で、ガイアギアはこのために作られたのだと、悟った。
そして頭の中で誰かが、「男なら闘え」とけしかけ、「応」と頷いてしまった自分を、自然だと信じた。
故に。
春告の熱意は。
海中に伝播し、赤熱したシャインダークの熱量は、急速に海水温度を上昇させた。
海中の熱膨張が、海面を煮立たせた。
不自然な霧が発生し、アーノルドを含む一帯が濃い『白』に埋め尽くされる。
「来るか、少年!」
その霧から、アーノルドは、男の熱意を感じ取った。
逃げるための目眩ましではなく、押さえられない武者震いゆえの熱量だと看破した。
これは、『女』の仕業ではない。
『男』だけが共感できる潔さだ。
アーノルドは、先の突進を、全力で退けた。
次に来るであろう無謀もまた、彼は全力で受け止める覚悟を決めた。
これは、決まっていた邂逅だ。
夢野此花がアーノルドたちと袂を分かって尚、同じ道を歩んでいたら、その道は必ず交差するように出来ていた。
アーノルドが独断専行で人工雲による地球冷却実験を強行したのは、それが此花を呼び寄せると分かっていたからだ。
仲間には止められた。
「男には、負けると分かっていても、挑まなければならない戦いがあるのだよ」
アーノルドは胸を張って、仲間の忠告を拒絶した。
故に、これは、彼の望んだ闘い。
「俺は、人間の力で、金の暴力で、思い通りに気候に介入しようとしているぞ、此花。環境汚染の魔女たる貴様なら、自分の境界を脅かす俺を、止めて見せるがいいっ!」
霧が増す。
海面が泡立つ。
全力を右拳に集中する。
アーノルドにとって、これは分の悪い賭けだった。
夢野此花のガイアギアは、最終論文を元に構成された、いわば完成形だ。
ウィルゲムを軸に発現する魔術システムは、夢野此花と狭依天都の二人の魔女によって編まれており、アーノルドを含む五人に供されたカドゥケウスは、あくまで試作段階のものだった。
故に、アーノルドのガイアギアは、五粒のウィルゲムで構成されている。
もちろん、その性質上、ウィルゲムの数だけが勝敗を左右するとは言えない。
「ウィルゲムの数の差が、戦力の決定的な差ではないことを……証明できればいいのだがな」
ただ、右拳のみを強化させる、一点強化型ガイアギア。
それがアーノルドの望んだ姿であり、苦笑しながらもそれを形にしてくれたのは、かつての仲間であった夢野此花だった。
「そもそも、貴様の発した夢だろうに」
アーノルドには分かっている。
過去を責めても意味などない。
すべてはあるようにしか流れず、どんな不条理も、流れに従った結果でしかない。
此花が『新罪』を抜けたのは、ある意味確定された未来だったのであって、ほかの六人にはどんな落ち度もなかったのだ。
此花は、彼女の意志の導くままに、組織を抜けて野に籠もった。
そして今、独自の規範に従って、ガイアギアを運用して、地球気候に介入を始めようとしている。
「かつての自分の過ちを、無かったことにしようというのか! 東洋の魔女よ!」
叫びに返事はない。
アーノルドに出来るのは、此花の代行者であろう、白銀のガイアギアを迎え打つのみ。
「一人ですべてを成そうとする、その思い上がりを、自分の見込んだ少年の傷ついた身体で、後悔するが良いわ!」
全力同士のガイアギアの激突が、果たして相手を五体満足で生き残らせるかどうか分からない。
だが、全力同士であればこそ、決するのは運のみ。
勝利の女神のきまぐれだけが、アーノルドと白銀のガイアギアの生死を決める。
それは、一瞬。
一度の激突。
空気が、煮える。
サウナの如く熱した水蒸気が、視界を白く埋め尽くす。
その霧を、一筋の閃光が、斬り咲いて、来た。
「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」
「ぬぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」
少年と大人の男が、同時に咆哮を発す。
赤熱化した白銀のガイアギアが、通常の三倍の出力全てを放出して、己を砲弾と化して迫る。
アーノルドは、それを捉えた。
瞬時に拳は応じて、インパクトの瞬間に確かに相手の頭を打った。
力は拮抗せずに爆発する。
何かが弾け、両者の激突の空中に無数の破片をまき散らした。
それが己の拳の装甲だと気づいた時には、アーノルドの視界に白銀のガイアギアはいない。
足下の海面が暴発し、立ち上がった巨大な水柱が、高速で海面に突入した物体を知らしめる。
白銀のガイアギアは、沈んだ。
自分は、まだ、浮いている。
だが、その右腕は、装甲がことごとく吹き飛び、裂傷から滲み出た血が、筋となって流れ落ちていた。痛みは鈍い。骨が折れた可能性がある。
胸元をみれば、五角形を描いているカドゥケウスの一端のウィルゲムに亀裂が生じてた。
それは、力の配分を担当していたウィルゲム。生命維持すら最低限にして出力に回した結果、激突のフィードバックに耐えきれずにショートしたのだろう。
これがもし、力の出力を司るウィルゲムであったなら、海に沈んでいたのはアーノルドだった。
「これでは、救出にもいけぬか」
吹き上がった水柱が、重力に引かれて大粒の雨と化し、海面を叩き続けている。その奥に沈んでいるであろう白銀のガイアギアを見ることは叶わない。
「次があれば、浮いているのはお主かも知れぬな」
アーノルドは海域を離脱した。
傷ついたウィルゲムで、いつまでも力の顕現が継続する保証はない。
「叶うなら、再戦を願おう、少年!」
その『願い』が、白銀のガイアギアに届くことを、アーノルドは自身のカドゥケウスに期するのだった。
遮るもののない黄昏が、世界を茜色に染めていた。
汚れのない大気は本来の解像度を取り戻し、曇り一つない大空というスクリーンに、夜色と橙の滑らかなグラデーションを投影する。
小島の浜辺に打ち上げられた春告が、目覚めて一番はじめに目にしたのが、血のように赤々と輝く太陽だった。
朱墨をバケツいっぱいぶち撒けたように、世界全てを、紅で塗り潰さんとする、容赦のない夕焼け。
それは人工粉塵に散乱されない、澄んだ南洋であるからこそ、『生』に近い生命の父の光だった。
「生き……てる?」
首を振る。
手を握る。
春告の右手は彼の意志通りに動き、その瞳は、ガイアギアに包まれた白銀の腕が、強烈な陽光を受けて紅く輝くのを見た。
気を失っていたのに、カドゥケウスはガイアギアを発現させ続けたらしい。
此花の設定した安全装置だろうか?
それとも、ノイズゲートを取り外したことで、本来なら雑念として漉し取られる生存本能を、カドゥケウスが『命令』として受諾したからか?
どちらにせよ、春告は生き残った。
笑いがこみ上げてきた。
同時に痛みが全身に走った。
悔しさはない。
充足だけが、全身に満ちている。
なぜ?
論理的ではあり得ない感情だった。
(決まっているだろ? 初めて、我を貫き通したからさ)
脳裏の知らない誰かが、きわめてシンプルに答えをくれた。
夕日を反射した世界は、ただ赤々と、あるがままに煌めいている。
誰もいない砂浜で、春告はただ朗々と、胸の奥の衝動のままに笑い続けた。
全力でぶつかって、全力で負けた。
しかし、激突の瞬間に砕け散った破片は、自分のガイアギアでは無かったらしい。
海面に叩きつけられた衝撃も、海流に揉まれた荷重も、春告のガイアギアは主もないままに粛々と受け止めてくれた。
「次は勝てるかなぁ」
笑いの衝動が消えた春告は、自然と、再戦を期待する。
それが、決して此花には受け入れられないだろうと思うのに。
「あ、連絡しなきゃ」
全身に疲労がある。
様々な痛みが、神経網を駆け巡る。
だが、その全てを心地よいと、感じる自分がいた。
これが、貫き通した結果だ。
受け止めるべき責任だ。
己のエゴだ。
だから、全てを受け入れた。
たとえ此花の怒声で、今度こそ鼓膜がぶち破られようとも。
春告は満足とともに、立ち上がった。
胸元のカドゥケウスは、闇色を深くしつつある空に反して、太陽の力を吸収したかのごとく、力強い輝きを放っていた。
「ただ……いま?」
痛む身体を休み休み飛ばして、春告がアパートに帰りついたのは、既に深夜だった。
此花の部屋以外、全ての明かりが消えている。
出迎えを期待していたわけじゃない。
それでも、此花の罵倒くらいは聞けるだろうと思っていた。
しかし、現実にアパートは、静まり返っている。
確かに春告は、命令を無視して、負けた。
それは責められるべきだし、春告もどんな罵倒も受け止める覚悟だった。
なのに、アパートの照明が消えている。
春告の帰還を無視するかの如く。
「え……と」
対処できなかった。
拒絶されたと思った。
一瞬立ちすくむも、しかし踵を返したところで、今の春告が帰れる場所はない。
ここにしか、今の春告の居場所はないのだ。
「とりあえず、ご飯どうしたんだろ?」
赤道直下まで飛び、死んだも同然の戦闘をやらかして、春告が一番最初に心配したのが、夕食の準備だった。
彼にとっては、全員の食生活を支えているという自負が、このアパートで存在を主張できる唯一の拠り所と言えた。
真っ先に台所に立ち、シンクに洗い物が無いことを確かめ、冷蔵庫の中身とゴミ箱をチェックして、どうやら今夜は、菓子パンとカップラーメンとアイスクリームで飢えを凌いだらしいことだけ確かめた。
が、では、これからどうするというのだ。
このアパート内で、ほとんど唯一と言ってもいい不文律が、『プライベートへの絶対不可侵』である。
たとえ夢野此花であっても、自室に籠もったら外から呼びかけることはタブーとされているのだ。
薺の場合も、食事と生活必需品を置いていく時以外は声をかけることは許されず、ましてや返事を期待するなど言語道断という扱いである。
つまり、今、自室で何か作業をしている此花に話しかけることは、自らこのアパートでの生存権を破棄するに等しい愚挙であり、しかし何よりこの仕打ちは、一人南洋で男を示した春告に対して、冷酷なまでの罰だった。
(どうしよう)
といっても、今の春告に出来ることはない。
かといって、このまま此花に謝ることもせずに、堂々と自室に帰って寝てしまうのも、気が引ける。
負い目は感じているのだ。
だからこそ、此花に罵倒されたいのだ。
二度の激突のショックか、アパートとの通信回線が故障してしまって以来、半日も此花の声を聞いていない。
だからこそ、生存を主張したかった。
ゆえに、無謀を叱ってほしかった。
彼女は怒っているに違いない。
半日という長い時間が、彼女の中で怒りを励起、縮退させ、明日の朝日が昇った時に、春告という存在をイレーズするかもしれないと思うと……
(その時は、前の世界に帰るしかないのか)
戦闘の高揚も、生きて戻れた喜びも、全てが一瞬で剥がれ落ちた。
あれほど全身を満たしていた充足は、オセロを返すが如く漆黒の感情に変身し、此花と薺の指示に従わなかった春告を責め立てる。
春告は疲れきった肢体を居間のソファに沈ませた。
とりあえず、起きていよう。
ひょっとしたら此花が、飲み物を取りに降りてくるかも知れない。
一言でいいから、謝っておいた方がいいのだ。
雄としての本能が、雌に対してどうしなければいけないのか、切々と訴えていた。
クーラーの消えた居間で、真夏の長い長い夜が、始まろうとしていた。