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『そ、そうだったの』

『……うん。いやでも、うーん……』


 傍で寄り添うだけなのも、もちろん悪くはない。

 悪くはないんだけれど、と教科書の内容を思い出していたおれの脳裏に、ふと閃くものがあった。


『ああ、そうだ! 分銅よりも、その分銅を掴むピンセットの方がいいな。それなら、いつでも分銅の美結さんを捕まえられるしね』

『ぐっ……!』

『み、美結さん? さっきからどうしたの、本当に大丈夫?』

『…………』

『今度は、急に黙りこんで……。なんだか顔色もよくなさそうだし、やっぱり横になった方がいい。おれが、すぐに運んであげるから!』

『! だだ、大丈夫ですから!!』


 おれが両腕を差し伸べると、美結さんが驚愕の表情で叫んでくる。けど、おれは構わずに彼女を抱えあげた。


『ひいいっ』


 悲鳴をあげる美結さんとの距離が一気に近づいて、鼻腔をくすぐる彼女の、匂い。

 それに惑わされそうになって、おれはゆっくりとかぶりを振った。


『……美結さんの大丈夫は、たまに強がりのときがあるから信じられないな』

『ちょ、ちょっと……! 昔は、すぐにコロッと騙され――じゃなくて、信じてくれたじゃないの!』


 おれは嘆息して、美結さんをじっと見つめる。

 確かに、幼い頃のおれはきみの嘘でも何でも妄信的に信じていたとは思うけれど。


『……おれはもう、何も考えていなかった8歳の子供じゃないんだよ?』

『そ、そんなの……っ』


 美結さんが、その続きを言いたそうに唇を動かす。でも、それ以上音にはならなくて。

 おれは、もう一度息を吐いた。


『だから、嘘をつかれると――なんとなく気づけるようになったし、ちょっとは傷つくんだ。その相手が美結さんだと、なおさら……ね』

『! ご、ごめん……。そんなつもりじゃなくて』


 慌てたように、美結さんが謝ってくる。


 胸元で握られた、彼女の手。

 彼女が嘘をつくとき、決まって同じ仕草をしていた。昔から彼女をよく観察していたおかげで気づいたそれは無意識の癖らしくて、おれが指摘しても美結さんに心当たりはないようだった。


 その仕草は出ていないみたいだから、今の彼女は嘘をついてはいない。

 平気なら――、それでいいんだけれど。


『本当に、大丈夫だから』

『じゃあ、どうして急に黙ったりしたの?』

『う……、そ、それは』

『それは?』


 おれが首を傾げながら覗きこむと、観念したように美結さんが引き結んでいた口をゆっくりと開き始めた。


『わ、笑わないでよ? 自分でも、よくわからないんだから』

『うん』

『たまに……、ごくたまになんだけど……ね? き、きみと話をしていると……、その、自分でもどうしていいかわからなくなるときがあるの。た、ただ、それだけだから……!』


 小声で、美結さんが告げてきた内容。

 え、それって……と、おれはあることに気がついて『美結さん』と名前を呼ぶ。


『そうなるのは、おれのときだけなの?』

『そ、そうよ! きみと話をしているときだけ! だから別に病気とか、そ、そんな変なことじゃないでしょ?』


 『……たぶん』と、視線が逸らされた先でそう続けられる。


 え、やっぱりそれって――

 えっと、えっと。


 もしかして僕と――じゃない、おれと話をしているときは、特別に意識してくれているってこと?

 ほんとに? と疑いそうになるけど、今の美結さんのうつむいた横顔がすべてを物語っているようで。


 思わずおれは、クスッと漏らしてしまった。


 すると美結さんが、『わ、笑わないでって言ったのに!』って怒ってくるけど、その表情すらかわいくて仕方がない。


『いや……、ごめん。美結さんがかわいすぎるから、つい嬉しくなっちゃって』

『は、はへ?』


 あ。かわいい、て口に出しちゃった。

 でも、美結さんにも非はあると思うんだけどなあ? 今の表情も声も含めて全部ずるいよ、もう。


 顔を真っ赤にした美結さんを腕に抱えたまま、おれは部屋の端にあるソファーに移動していく。


『……ねえ、美結さん』

『なななな、なんでしょうか』


 名前を呼べば、上ずった声が返ってくる。

 おれは、美結さんをソファーに下ろすと、固まったままの彼女の髪をそっと撫でた。


 ビクッと彼女の両肩が跳ねて、ソファーの端へ逃げるように移動していく。彼女の手が、ソファーのそばに置いてあったぬいぐるみをつかんだ。


 ぽっかりと空いた場所に座って目だけを横に向ければ、両腕に抱きしめられたぬいぐるみ、そして見開かれた薄紫の瞳とぶつかった。


 思わず、微笑が漏れてしまう。


 ――ちゃんと、きみの視界に入れてくれているんだ。今のおれを、ちゃんと。


 たまらなくなったおれは、ソファーの背もたれに手をつきながら彼女に近づいていく。ひ、と彼女から小さな悲鳴があがった。


『ちょ、ちょっと待って、秋斗くん……!』

『なに?』

『こ、こういうのは、何というか、越えてはいけない一線みたいな、もっとこうじっくりもったりのっそり、じゃ、じゃなくて、えとあの……め、目が、怖いんですけど……』

『そうかな? 自分ではわからないけど、もしそうだとしたら――美結さんのせいだ』

『わ、私!?』


 そう。

 きみが――、おれをこんな風にしたんだ。


『……おれはもう、何も出来なかった8歳の子供でもないんだよ?』

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