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「離さない、から」

「秋斗、くん?」

「やっと、つかまえたんだ。この手の届く距離に、やっと」

「なにを言って……」

「きみは――、きみは僕の婚約者なんだから!!」


 婚、約者……? 違う、違う、違う!


 私の中でずっと抑えこんでいたものにひびが入って壊れるような――、そんな音がした。


「私は……! 私は、あなたの婚約者なんかじゃない!! まだ正式に受けた覚えもないのに、一方的に決めつけて、勝手なことを言わないで!!」

「!!」


 二つの藍色の瞳が、これ以上ないほどに見開かれた。手首をつかんでいる力が、徐々に弱まっていく。


 私から顔をそむけ、なにかを発しようとした唇が何度もかみしめられる。グッと自分の胸元をにぎりしめながら、彼はゆっくりと口をひらいた。


「そう、だったね……。美結さんにそんな気がないのは――、最初から知っていたよ。きみはだれにでも優しいから、おれがそれに甘えて先走って押しつけている。迷惑かけているだけなんだって……、わかっていた。けど……っ」


 うめくような、苦しげでかすれた声が耳をうつ。


「ごめん、美結さん」


 私にむけられた、さびしげな微笑。

 秋斗くんが、駆け出していく。徐々に小さくなっていく背中を、私はただ茫然と見送るだけしかできなくて。


「……秋斗くん!」


 ようやく我にかえって名前を呼んだときには、もう既に彼の姿は視界のどこにも見当たらなかった。


「うそ……」


 愕然となりながら、私はつぶやく。


 いつかはっきりと伝えないと、とは思っていた。思ってはいたけれど、あんなにきつく言うつもりも、彼を傷つけるつもりもなかった、のに……


「随分と威勢よく言いきったじゃねえか、おまえ。クククッ」

「……サリュー」


 からかうような声がかけられ、私はその主を一瞥してからうつむいた。


「おまえらの関係なんて、オレの知ったこっちゃねえけど。いいのかよ、追わなくて」

「だって私には、追う理由が見つかりません。あんなに秋斗くんを傷つけてしまって、なんて声をかけていいかもわからないし……」

「理由なんて必要かよ。おまえが追いたければ、追えばいいじゃねえか。簡単な話だろ?」

「…………」


 そんな私の都合だけで、本当にいいんだろうか。追いかけたとして、また傷つけることになってしまったら――


 考えがどんどん深みにはまっていって無言が続く私に、サリューは大きく嘆息した。


「おまえさ。あいつがここ最近、まともに寝ていなかったのを知っているか?」

「……え?」


 寝ていなかった? どういうこと?

 私が眉をよせれば、サリューはひょいと肩をすくめた。


「ま、おまえがここに来たのは昨日のことだし、知らないのも無理はねえだろうけど。それに半分くらいは、オレの勝手な推測だしな」


 ガシガシとたてがみをかきむしりながら、サリューは続ける。


「どれくらい前だったかはっきりとは覚えてねえが、婚約者に会ってくるって言って出ていったかと思えば、アキのやつ何事もなかったように戻ってきやがった。昼間は普段と変わらない様子だったから気にもとめていなかったが、ここでの仕事が終わってすぐに一人でどっかに行くようになったのは、たぶんそれからだな。ナイツの仕事も、やけに遠出のやつばかり引き受けるようになったのも、それからだ。帰ってきている様子もなかったようだし、その間何かをしていたんだろうよ。『やっと見つけたんだ』アキはそう言っていた。今考えてみれば、ずっと探していたんじゃねえか? おまえのこと」

「!」

「つっても、今朝はやけにスッキリした顔をしていやがったし、ようやく眠れたのか安心したのかしらねえけど、どっちにしろおまえが絡んでいるのは間違いないんじゃねえの?」


 昨日、秋斗くんが電池がきれたように眠ってしまったのは――、お酒のせいだけじゃなかったんだ。


 今朝、といえば。ふと、クローゼットのことを思い出した。


「ねえ、サリュー。トゥラールって、なんだか知りません?」

「トゥラール? トゥラールなら、ここから南にある町の名前だ」


 クローゼットの扉の内側にはられていた、紙。その一番上に書かれてあって、横線で消されていたカタカナの名前のひとつ。それが、トゥラールだった。


 私は記憶を掘り起こしながら、トゥラールの下にあった文字を思い出す。


「じゃあ……、ナックドットは?」

「トゥラールの先にある港町」

「シュロノ、メイラは?」

「隣国の中心都市だな」

「そう、なんだ……」


 それから覚えている範囲でサリューにたずねてみたけど、すべてこの世界に実在するものばかりのようだった。


 わかってしまった、かもしれない。


 あの紙に書かれていたのはたぶんこの世界にある国や町、その土地とかの名称なんじゃないだろうか?

 それを一つさがし終わるごとに、横線で消していっていたとしたら? 消されていた数ははっきりとは覚えていないけど、決して少ない数ではなかった。それを、ずっと? 私を――、さがして?


 さっきも、そうだった。私はどうしていいかわからずに逃げていたのに、秋斗くんは違った。私の行動は、きっと意味不明なものにうつったに違いないのに、疑いもせずに、ただ、さがしてくれていた。


 無意識に、私は胸元で手を強くにぎっていたようだった。


「おまえ、案外地理にくわしいんだな。人は見かけによらないって、よく言ったもんだぜ」

「社会は苦手なんですけど、ね」

「シャカイ?」

「あ、こっちの話です」


 微笑してから、私はペコと頭をさげた。


「いろいろ、ありがとうございました。私、急ぐのでこれで……!」

「とっとと行っちまえ、邪魔だからよ。ああ、やっと静かになるぜ」


 シッシ、と邪険に右手をふりながら、サリューは木の根元に再び背をもたれかける。「ありがとう」ともう一度つぶやいてから、私は秋斗くんが去っていった方へと駆け出した。

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